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信徒一泊セミナー 2013.10.20

信徒一泊セミナー

 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。<ヨハネの黙示録 3章 20節 >
 
 セミナーという集会名は義人牧師の時のそのままなので、少しおもはゆい感はいなめません。しかし、第一回目は賛美集会、第二回目の夜の集会では聖書学習会さながら、朗読、聴く、実行と、一人ひとりが聖霊様による啓示を受け取れた様に思います。第三回目は次の日午前の集会で、黙示録一章を学ぶことが出来ました。
 まず、第一回目の集会は、賛美集会の名のごとく、全員が賛美と祈りに満たされました。この時司会をしたG姉妹は、多分、今迄で一番燃えに燃えた賛美であったろうと思います。聖霊様が姉妹に素晴らしい賛美と祈りを通して、集会を導く力を与えられたように思います。
 姉妹の顔は賛美の喜びの涙でグシャグシャ、しかし、天使のように輝いていました。この賛美の後の祈りも、これまた、すごいとしか言いようのない聖霊様に満たされ、お酒に酔っているのかと思われるくらいの異言の祈りが続いたのです。霊歌と、時として起こる笑いが響きわたったのです。
 この時、自分の心にある全ての物をイエス様の前に注ぎだした、そのような感じでした。魂が、心が、内なる思いが、いちどきに解放されたようであり、特に、一人を皆で囲んでの祈りは全員に及び、大いなる恵みと祝福が皆を覆った時でありました。
 この感激に続いて、夜はこれまた、個人個人にとって、よき、聖霊様との知恵と知識の交わりとなり、時間の許される時でないとできない、長い聖書の一斉朗読にはじまりました。
 そして、み言葉による個人への問題提起と解決、また、自分に対する聖霊様による指摘の証、まさか、こんなところにあったとは・・・という、思いもよらぬ御言葉との出会いに感激したり、様々な形でイエス様と交わることができました。
 私たちの心の中にイエス様を迎え入れたとき、十字架による贖いの血潮と、イエス様の復活のお体が私の魂の中で永遠の命と平安を満たしてくださいます。イエス様の真に豊かな食卓に共につくことが出来る喜びを得ることが出来るのです。
 
 これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。 <ヨハネの黙示録22章 20節>
 
 第三回目は、私の魂の中に起こる大変革を黙示録第一章を通して期待させられました。盗人のようにやって来る終わりの主の勝利の時を、今すぐにでも味わいたいと、最後はまた祈りと笑いの止まらない集会となりました。ハレルヤ!
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# by mitiru-takae | 2013-11-30 23:05 | 満ちる | Comments(0)

今日、なすべきこと 2013.10.13

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 「今日、あなたの癒しを告白してください」という見出しに引かれて、又々、オズボーンの告白の力を開いてしまいますが、今日という言葉に目が釘付けになるのです。私たちの今日は私たちのために主が下さったものです。今日を逃したら二度とやってこない機会があるかもしれません。
 この主からいただいた大いなる機会、以前「特別な時」といいましたが、その時は私たち自身には、理解出来なくても、最善の時が神様によって計画され、用意されているのです。
 その中に、生かされている私が今日なすべきこと、それは、沢山あります。忙しいくらいです。もしかすると、頭痛かもしれないし、嬉しくないことかもしれない、とても疲れることかもしれないのです。しかし、喜んで働けます。喜んで実行します。未来に希望があって、主が必ず報いてくださるものだからです。
 「いいえ、私には出来ません」。たとえそのように思えても、主のなさることですから、「はい、主にあって私は出来ます」との告白があれば、み言葉が、押し出してくださるでしょう。私たちには、一人ひとりに主から託された「私の今日」があります。
 先日、ナイトdeライトというクリスチャンの音楽グループのライブが、大分でありました。体に響いてくるエレキギターや、ドラムの音に、始めは「心臓にわるいかな?」とか思い、なかなか立てなかったのですが、自分でもおかしいくらい写真を撮るわ、手を打つわで、同調してしまいました。そのライブの終わりも間近かの時だったか、楽器だけの演奏が暫らく続いたのです。そのとき私は、ああ、これは「異言」の祈りと同じだな、と思ったのです。イエス様と直結した時なのです。
 どんな場所でも、どんな時でも、いつの間にか祈っていることがよくあります。大祭司が至聖所で神と語る時のように、また、モーセのように、顔覆いなしで、私たちはイエス様と語り合えるのです。
 
 「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」<Ⅱコリント6:2>
 
 私たちが今日という与えられた時の中で、出来ること、それは単純です。
 自分の居る場所で、主を賛美し、祈り、主からの、恵み、祝福、癒し、平安などを受け取り、生きること。歌の好きな人は歌うその中で主を褒め称え、読書の好きな人は沢山本を読み、そこに共におられる主に感謝でき、出かけるのが好きな人は、出かけていって、その場所で、主のために生かされている喜びを表せばいいのだと、声を大にして、喜びを告白すればいいのだと思っています。
 人間って、素晴らしい! 神様を褒め称える方法を、こんなにも沢山知っているではないかと、今日はイエス様の前で、少しだけ鼻を高くしています。
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# by mitiru-takae | 2013-10-21 09:54 | 満ちる | Comments(0)

義認、聖化、栄化 2013.10.6

義認、聖化、栄化
 
 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。 <イザヤ書40:31>
 天国では、きっと「自由なクリスチャン」を謳歌しているんだろうなあと、ほくそえみながら父を思う。この召天一周年を迎え、時の経ったことを改めて思います。今は足も疲れず、仰向けに寝ても丸まった背中は痛まず、ただ主を賛美していることでしょう。
 最近は「そうか、父は死んだんだなあ」と思うようになってきました。文集の最後のページの二人の写真を見ながら、「もう戻ってこない肉」に少しばかり寂しさを感じています。
 父の信仰の2本柱として、信仰による義認、生きている内住のイエス・キリスト、があげられると思います。父の「信仰によってのみ義(正しい、罪を認めない)とされる」という信仰は、徹底したものでした。何があっても私は神に義とされて生きている、という生き方がそのまま見えていました。また、たとえ自分がイエス様から外れかかってもイエス様は決して私を離れず見捨てない、だから大丈夫!という自分の内から外れることのないイエス様を、心から信頼して生きていたと思います。
 それにしても、義認、聖化、栄化と変えられていくんだといつも言っていた父の聖化の部分をちょっとだけ眉をひそめて苦笑いしていたことがありました。「凡聖」のことです。
 自分の口で自分を聖いなどと、よくも言えたものだと、今だからいえますが(笑)、当時は、ヒンシュクものだと、90歳の老人だからこそ許せるよ、というくらいに高飛車に見ていたくらいです(反省)。
 しかし、そういわざるを得ない、そうとしか言いようのない己の霊性に目覚めていたであろう父の「凡聖(平凡だが聖い)」を、今やっと理解することができるのです。肉がなくなって、初めて本当に見えてきた父の霊性、人格がまことに聖化されているものだとわかってきたからです。
 天国では、今、イエス様の臨在の中で栄化されていってるんだなと、もしかすると、こんどは「凡栄」などと言っているのではないかな、とか考えていますと、喜んでいる父の顔が目に浮かび、思わず笑ってしまいます。
 私たちも肉の部分を取り除くと霊の姿が見えてくるのだと思えます。周りの人々に接する時、出来る限りこの目で見ている肉の部分を透かして、その人の霊性、人格そのものを見せていただけるように、自分の霊の目をイエス様によって訓練していただき成長させていただきたいですね。聖霊様によってそれは確かに可能なことです。
 何を見ても、誰を見ても、みな一つの思い、みな一つの愛で結ばれていて、一瞬にしてみんなの心がわかる。イエス様のお心の中に居ることがわかる、そのような栄光のキリストの体の中で生きている、これこそ天国であり、私たちはその前味を知ることさえ出来る素晴らしい特権をいただいています。「凡聖」の父を思いだし、私もそれを目指して行こうと、父の「凡聖」を感謝しています。
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# by mitiru-takae | 2013-10-21 09:51 | 満ちる | Comments(0)

光の子らしく歩きなさい 2013.9.29

光の子らしく歩きなさい 
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 あなたがたは以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい<エペソ5:8>
 
 一人で独立伝道を始めた父が、いま教会堂の立っている地へ引越してきたのはもう53年くらい前になるでしょうか。細々と下請けのタイプ屋を始めようと、まんまと主のご計画にはまってしまったのですが、はからずも、事業主としてある程度の成功を収めた事は、主のご計画が確かなものとしてこの世に示されたものだと感ぜずにはおれません。

 「自分の口は自分で満たす」的なパウロ流の生き方は、社会生活を営むものにとって、大きな力となり勇気づけられるものとなり得ます。
 わたしたちは所謂世捨て人「仙人」ではありません。世の中で、世の人々の中で、光の子らしく輝くものであるべきです。今ある自分の環境は主が下さったものです。主が私のために置いてくださっている所有地なのです。父はこれを「コート」といいました。テニスコートの「コート」ですね。
 
 光の子らしく生きるということは、「誰にでも好かれるいい人」になることではありません。「主に愛されている人」と自他共に認めずにはおれない、羨ましいくらいの神様にエコヒイキされた生き方、「光の子」としての存在を世に示しながら生きる生き方なのだと思えるのです。
 先々週の「満ちる」でも書きましたが、そのコートがいかに泥んこまみれのコートであったとしても、光の子として、天国のプリンス、プリンセスとして輝いて生きるとき、人間としてこの世に生まれさせてくださった神様に感謝せずにはいられなくなります。
 信仰によって事業を営むということは、この泥んこまみれのコートのように、ドロドロした商売根性をむき出しにしてくる、ライバル会社との攻防をも信仰によって突破するという、まさに、闇の中で光り輝く「光の子」としての生き方であり、私にとっても、まことに学ぶべきものが多くあったのです。
 
 「人として人の中で光の子として輝く」ための出発に際して、父は「人間誕生」という文章を書いています。
 「世間の人と同じコートで受肉して生きる」
 この時の父の決心は、紛れもなく神様のお導きでありご計画であったのだと、教会堂を見ながら感慨にふけります。「事業を生かす信仰」という冊子もこのころ書いたものです。もし、この時父が主のご意志に従っていなければ、今の会堂は建っていません。
 
 主イエス・キリストの福音がこの世の中で伝えられ、み言葉が光り輝くために、私たちもこの世の中で光の子として光り輝こうではありませんか。主に従う時、必ず主が私たちを輝かせてくださいます。
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# by mitiru-takae | 2013-10-04 12:01 | 満ちる | Comments(0)

神の密命組織 2013.9.22

神の密命組織
 
 パウロのローマへの宣教の熱望はただならぬものがあったように思います。

 先週の聖書学習会で、ローマ人への手紙を読み進んで16章まできたとき、「ああ、この人のおかげで、私たちはイエス様を知ることが出来たんだなあ」と、ふと2000年前が、今のことのように思えてくるのです。主の愛によって、人々を愛し、共に力を尽くしたい(ローマ人への手紙15:30参照)人として、働き人は、こぞってパウロの下に集まってきたのではないでしょうか。それも、有能な婦人が多いのにもびっくりいたします。
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 そして、パウロの手紙に出てくる、フィベ執事や、プリスキラとアクラご夫妻、テモテ先生やテトス先生、パウロの手紙を筆記したというテルテオさん、家主のガイオ氏、公務員のエラストさんとそのご兄弟のクワルトさん、等々。この人たちの名前を見ていると、生き生きとした当時の人間模様が見えてきて、本当に近しく感じられます。

 「とうとうこの日本のこの教会にまでパウロ先生の手紙が来たんだ」「パウロ先生は、今どうしてんだ?まだ捕らえられているのか」などと言いたくなるくらいですね。
 御言葉をこのような、捉え方ができるようになったのも私たちの聖書学習会のおかげです。どのように難しい論法を使って書いてあったとしても、私たちに伝えたかったパウロの思いはイエス様一筋です。
 
 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
 <ローマ人への手紙1: 17 >

 
 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。<ローマ人への手紙14:8 >
 
 私たちはイエス様の精鋭部隊の一員なのです。有能なエージェントなのです。主のために生き、主のために死ぬものでありたいのです。今日も主よりの密命を受けて魂の救いのために戦うのです。戦いの準備をするのです。フィベのように、プリスキラのように、テモテのように。またエパフラスやバルナバのように。
 
 私たちの聖書学習会の、この名をそのまま受け取って勉強会だと思うのには、少し語弊があります。勉強会ではないのです(変える気はないのですが(笑))。
 御言葉によって主のお心を探り知る、聞く。また、霊も肉も共に聖霊による交わりの喜びを共有する、祈る、賛美するといった具合に、なかなか奥の深い集会なのです。
 と、いってもちっとも重くありません。誰でも参加できる、楽しい集会なのです。一度おいでください。
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# by mitiru-takae | 2013-09-28 23:36 | 満ちる | Comments(0)