主よ信じます 2013.3.17

主よ信じます 
 
 「主よ、信じます。あなたがこの世に来たるべきキリスト、神の御子である
と信じております」<ヨハネ11:27>
 
 主の足に香油を塗り、自分の髪の毛でふいたマリヤの姉、マルタの信仰告白
です。ラザロが死んで4日もたち、さすがに復活など信じられないという状況
の中でマルタはイエスによってこの素晴らしい信仰告白をさせられたのです。
 聖霊によらなければ誰も「イエスは主である」ということが出来ない<1コ
リント12:3>
 と聖書に書いているように、イエス様が告白させてくださるのですね。ハレ
ルヤ!
 
 ラザロの復活の記事では、私たちに対する深い愛と、サタンに対する怒りと、
父なる神を信じるイエス様のゆるがない信仰が、あの十字架への道を敢然と進
ませたんだと、胸に突き刺さるかのように感じさせられます。
 このラザロを甦らせた時のイエス様の心の状態が<ヨハネ12:27、28>を見
るとよくわかります。
 「今わたしは心が騒いでいる。私はなんといおうか。父よ、この時からわた
しをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。父
よ、御名があがめられますように」すると天から声があった。「わたしはすでに
栄光をあらわした。そしてさらにそれをあらわすであろう」
 
 ラザロの奇跡、そして更に本物の奇跡が起こるのです。父の業を行うと言わ
れる主は「たとえ私を信じなくてもわたしの業を信じるがよい」<ヨハネ10:
38>といわれます。(塵から創られたラザロのアダムの血を継ぐ肉体と、聖霊(神
の霊)によって創られた血を持つイエス様とでは復活の意味が全然違います)
 
 この父の業を行ったイエス様の凄い信仰を見てみたいと思います。
 これは私たちが同じように、いえこれ以上のことをするといって下さったイ
エス様の、わたしたちに教えてくださった私達の所有すべきイエス様の信仰な
のです。
 
①「石をとりのけなさい」・・・信仰による宣言をしました。(心の扉を開けな
さい)
②「信じるなら神の栄光をみるであろうと・・・」石をとりのけた・・・イエ
ス様の告白です。(これによって心は開かれました。私達の心の中も墓のなかの
ようなものでした)
③目を天に向け感謝しました・・・既に得たりと、信仰により受け取り感謝し
ました(私達の魂もイエス様が刈り取ってくださり父に感謝するのです)
④人々に信じさせるため・・・父の御心と同じ祈り(父の願いはイエス様の願
いです)
⑤大声で「出てきなさい」・・・大声で力いっぱい呼んでくださる(私たちも葬
られたままの姿で出てきました。しかも、新しい命を受けて、)
⑥「彼をほどいてやって帰らせなさい」・・・イエス様の栄光を見ます。祈りは
きかれました。(わたしたちも主の栄光を、この地上での御子の権威をみます。)
 そしてこのあとさらに、主の栄光を、イエス様の十字架と復活を、わたした
ちは見るのです。  <ヨハネ11:39~44参照>
 
 「わたしと父とは一つである」<ヨハネ10:30> 父もイエス様も同一者で
あってイエス様は神です。
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# by mitiru-takae | 2013-03-23 14:44 | 満ちる | Comments(0)

新しい創造 2013.3.10

新しい創造  
 
 見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。
 さきの事はおぼえられることなく、
 心に思い起こすことはない。 <イザヤ65:17>
 
 神様はもう一度天と地を創造すると言われます。まったく新しい、天と地をです。
 私達の犯した罪も、生まれた時から持って生まれた罪も、その結果出来上がった今の私と、この世界のことも、全て忘れて、思い起こすことさえない、といわれます。
 
 新しい天と地では、わたしたちも、
 「見よ神の幕屋が人と共に在り、神が人と共に在り、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人とともにいまして…<黙示録21:3>」
 先のものは過ぎ去り罪に縛られた結果である、死も、悲しみも、叫びも、痛みもないものとされると告げられているのです。
 
 私達の体の細胞は60兆といわれています。高分子にいたっては300兆、一滴の血液の中には水、水素、ヘモグロビン分子があり、ヘモグロビン分子の中には2376もの原子があると、まるで私の体の中に小宇宙をみるようです。この星たちは、私達の体中をはしりまわっているのです。たえまなく、休むことなしにです。
 驚くべき創造をされた神様はこの小宇宙なる私たちをご自分に似せてつくられました。そして人間を創造の冠としてすべてを支配するようにといわれたのです。人間をみただけでこんなにすごいのですから、この宇宙はどんなでしょう、想像を絶します。
 
 神は彼らを祝福して言われた。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また、海の魚と、空の鳥と、地に動く全ての生き物とを治めよ」<創世記1:28>
 
 今、私達はじぶんの体でさえ自分で治められません。心も、現代では治めることの出来ない人たちがたくさんいるのです。この世を支配するサタンの鎖にしばられているからです。
 そして罪というサタンの鎖は、縛られている人間自身の手で、この素晴らしい自然にまで、及ぶようになりました。すべてサタンによってもたらされた罪の結果なのです。
 
 しかし、主はこられます。報いをたずさえて。信じるものには喜びです。
 私たちはまったく新しい栄光の天と地に住む権利と、そのためにこの世で戦っていかねばならない戦いのための権威と力をいただいています。
 私たちは戦えます。サタンに立ち向かっていけます。
 日々新しい天地を魂の中にいただいて、天国の前味をかみしめ、イエス様と共に立つのです。
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# by mitiru-takae | 2013-03-12 23:05 | 満ちる | Comments(0)

私に聞け! 2013.3.3

私に聞け! 
 
 新改訳ヨブ記から、エリフの言葉に注目したいと思います。
 エリフはヨブに対して怒りを燃やしていました。
 「ヨブが神よりもむしろ自分自身を義としたからです<ヨブ32:2>」
 また、ヨブの友にも怒っていました。しかし、若いエリフは遠慮して自分の意見を言わなかったと言っています。
 ところが、突然エリフは口を開くのです。
 「わたしには言葉があふれており、一つの霊が私を圧迫している。私の腹を<ヨブ32:18>」
 神様の霊がエリフを揺り動かしているのです。お腹の底から神の言葉が今にも飛び出しそうなのです。いいえ、飛び出してきたのです。
 「今、わたしの腹は抜け口のないぶどう酒のようだ。新しいぶどう酒の皮袋のように、今にも張り裂けようとしている<ヨブ32:19>」
 まさしく聖霊様の働きです。エリフのなかに主イエス様を見るようです。パウロがいうように「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです<ガラテヤ2:20>」という今の私たちの時代の奇跡を、まだ十字架のイエス様を知らないときにすでにエリフを通して知らしめてくださっています。
 イエス様の贖いについても「神は彼をあわれんで仰せられる。『彼を救って、黄泉の穴に下っていかないようにせよ。わたしは身代金を得た』<ヨブ33:24>」というように、贖いのためのイエス様の命を既に得た・・・と言っているようです。
 ヨブが神様の前で「わたしは義(ただ)しい」というとき、あの王の礼服を着ずに婚礼の席にすわった人を思い出します。わたしたちが義とされるのは王の礼服、イエス・キリストを着ることによる(これはイエス・キリストの信仰です)のです。これ以上のとりなしは世界中どこにもありません。
 いよいよエリフは声を張り上げます。
 「人の魂を黄泉の穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。
  耳を貸せ。ヨブ。私に聞け。
  黙れ。私が語ろう。
  もし、言い分があるならば、私に言い返せ。
  言ってみよ。
  あなたの正しいことを示してほしいからだ。
  そうでなければ私に聞け。
  黙れ。あなたに知恵を教えよう<ヨブ33:30~33>」
 このあとエリフは語り続けます。そして語り終えるとヨブは何ひとつ返答する間もなく、神様が語り始めるのです。嵐のなかから・・・!
 救いはもうすぐです。
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# by mitiru-takae | 2013-03-09 21:46 | 満ちる | Comments(0)

私を動かす力 2013.2.24

私を動かす力    
 
 力(原動力、エネルギー)は内側から爆発するもの!外からの力は本人を居るべき場所から跳ね除け、砕いてしまいます。
 イエス様は「私の業は父が行っている業だ。私は私の力では何もすることが出来ない」とおっしゃっています。私たちも聖霊様により私達の内に働くイエス様の力により動かされる、これが一番です。
 
「よくよくあなたがたに言っておく。私を信じるものは、また私のしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。私が父のみもとに行くからである。」 <ヨハネ14:12>
 
 イエス様は父のみもとにいかれました。十字架にかかり、死にて葬られ、三日目によみがえり、40日人々と共に居て、天に上げられ神の右に座したのです。
 このことにより、私たちはイエス様のなさったことと同じことをすることが出来る、いやもっと大きなわざをするのだと言われるのです。どうしてそのようなことが起こりうるでしょうか。
 私達の心の中に起こってくる聖霊様の力が内側から爆発するからです。世が見ようとも、知ろうともしない真理の御霊(助け主)は、父なる神様が贈ってくださったもの、それは私たちと共におり、私達の内にいて、私達の知っているもので…、それはイエス様だとわかる…というのです。
 これこそ聖霊様なのです。
 
「しかし、助け主、すなわち、父が私の名(イエス・キリスト)によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」 <ヨハネ14:25>
 
 聖霊様により私たちは神様からの啓示を受けることが出来、ここでようやくキリスト者(クリスチャン)として一人立ちできるのだと、そのように思えます。イエス様が死んでよみがえって私の中に生きていて下さると、この地上で起こりえないことが、今、起こるのです。起こってくるのです。
 
「わたしは最早、あなたがたに多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼(サタン)は、私に対して、何の力もない。」 <ヨハネ14:30>
 
「立て、さあ、ここから出かけていこう!」 <ヨハネ14:31下>
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# by mitiru-takae | 2013-02-25 21:34 | 満ちる | Comments(0)

回心 2013.2.17

回心    
 
 時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ
<マルコ1:15>
 
 神様の時は一人ひとりにそれも私自身の時を切り裂いて入り込んでくる、そのような感じでやってきます。
 神の国(天国)は自分の手で触れるくらいすぐそこにある、振り向けばそこにある、そんな感じです。
 「悔い改める」はメタノイア(ギリシャ語で転回の意味)、回心だよ!悔いて改めるではなく、イエス様のほうに心を転回させるんだ!と、これまた父はよく言っていましたねえ・・・。
 
 キリスト教(プロテスタント)でいう最初の回心は、日本の仏教や禅宗でいう悟りとは、ちょっと違うような気がします。なぜならまず神様の方へ心の標準を合わせるということが回心と思えるからです。
 ですから、振り向けばそこにあり、手が届く、イエス様に標準を合わせたとたん魂に天国が飛び込んでくる。そのような始めの回心が聖霊さまの押し出すようなお導きにより、起こってくるのだと思えるからです。
 神の国が近づいたので回心するのではなく、回心してイエス様に標準を合わせるので、そこに天国があるのです。
 これこそが福音です。
 そして、神様の時は絶妙で一人の人の転換のときを確実に示してくるのですね。苦しみの最中か、悲しみの時か、幸せの中でか、決して同じ様では来ません。
 
 その後もまた二度、三度目の回心をするともいいます。
 しかしこれは回心という言葉よりも、私は聖霊様による体験、新しく生まれる、また内在のイエス様を知る、というように一度イエス様に向き直った魂が、神様の啓示によりさらに聖められ、成長していく過程でのイエス様体験というものではないかと思います。
 これが言わば悟りと言う感じだと思います。
 パウロが言いました。栄光から栄光へと、キリストの似姿にかえられていく・・・。
 ゆっくりの人もあれば、ものすごい体験をする人も、何度も言いますが人それぞれなのです。
 
 一度向き直ったまま眠っている人もいるかもしれません。が、出来れば私はイエス様の共働者として、日々サタンと戦い、イエス様の証人として、毎日新しい命で生きるものでありたいと願いつつ、生かされています。

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# by mitiru-takae | 2013-02-19 22:53 | 満ちる | Comments(0)