私を動かす力 2013.2.24

私を動かす力    
 
 力(原動力、エネルギー)は内側から爆発するもの!外からの力は本人を居るべき場所から跳ね除け、砕いてしまいます。
 イエス様は「私の業は父が行っている業だ。私は私の力では何もすることが出来ない」とおっしゃっています。私たちも聖霊様により私達の内に働くイエス様の力により動かされる、これが一番です。
 
「よくよくあなたがたに言っておく。私を信じるものは、また私のしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。私が父のみもとに行くからである。」 <ヨハネ14:12>
 
 イエス様は父のみもとにいかれました。十字架にかかり、死にて葬られ、三日目によみがえり、40日人々と共に居て、天に上げられ神の右に座したのです。
 このことにより、私たちはイエス様のなさったことと同じことをすることが出来る、いやもっと大きなわざをするのだと言われるのです。どうしてそのようなことが起こりうるでしょうか。
 私達の心の中に起こってくる聖霊様の力が内側から爆発するからです。世が見ようとも、知ろうともしない真理の御霊(助け主)は、父なる神様が贈ってくださったもの、それは私たちと共におり、私達の内にいて、私達の知っているもので…、それはイエス様だとわかる…というのです。
 これこそ聖霊様なのです。
 
「しかし、助け主、すなわち、父が私の名(イエス・キリスト)によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」 <ヨハネ14:25>
 
 聖霊様により私たちは神様からの啓示を受けることが出来、ここでようやくキリスト者(クリスチャン)として一人立ちできるのだと、そのように思えます。イエス様が死んでよみがえって私の中に生きていて下さると、この地上で起こりえないことが、今、起こるのです。起こってくるのです。
 
「わたしは最早、あなたがたに多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼(サタン)は、私に対して、何の力もない。」 <ヨハネ14:30>
 
「立て、さあ、ここから出かけていこう!」 <ヨハネ14:31下>
[PR]
# by mitiru-takae | 2013-02-25 21:34 | 満ちる | Comments(0)

回心 2013.2.17

回心    
 
 時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ
<マルコ1:15>
 
 神様の時は一人ひとりにそれも私自身の時を切り裂いて入り込んでくる、そのような感じでやってきます。
 神の国(天国)は自分の手で触れるくらいすぐそこにある、振り向けばそこにある、そんな感じです。
 「悔い改める」はメタノイア(ギリシャ語で転回の意味)、回心だよ!悔いて改めるではなく、イエス様のほうに心を転回させるんだ!と、これまた父はよく言っていましたねえ・・・。
 
 キリスト教(プロテスタント)でいう最初の回心は、日本の仏教や禅宗でいう悟りとは、ちょっと違うような気がします。なぜならまず神様の方へ心の標準を合わせるということが回心と思えるからです。
 ですから、振り向けばそこにあり、手が届く、イエス様に標準を合わせたとたん魂に天国が飛び込んでくる。そのような始めの回心が聖霊さまの押し出すようなお導きにより、起こってくるのだと思えるからです。
 神の国が近づいたので回心するのではなく、回心してイエス様に標準を合わせるので、そこに天国があるのです。
 これこそが福音です。
 そして、神様の時は絶妙で一人の人の転換のときを確実に示してくるのですね。苦しみの最中か、悲しみの時か、幸せの中でか、決して同じ様では来ません。
 
 その後もまた二度、三度目の回心をするともいいます。
 しかしこれは回心という言葉よりも、私は聖霊様による体験、新しく生まれる、また内在のイエス様を知る、というように一度イエス様に向き直った魂が、神様の啓示によりさらに聖められ、成長していく過程でのイエス様体験というものではないかと思います。
 これが言わば悟りと言う感じだと思います。
 パウロが言いました。栄光から栄光へと、キリストの似姿にかえられていく・・・。
 ゆっくりの人もあれば、ものすごい体験をする人も、何度も言いますが人それぞれなのです。
 
 一度向き直ったまま眠っている人もいるかもしれません。が、出来れば私はイエス様の共働者として、日々サタンと戦い、イエス様の証人として、毎日新しい命で生きるものでありたいと願いつつ、生かされています。

[PR]
# by mitiru-takae | 2013-02-19 22:53 | 満ちる | Comments(0)

モーションはエモーションを生む 2013.2.10

モーションはエモーションを生む  

「何かの動作をすると、それに伴い感情が起こってくる。感情がうまれてくる」

 父の集会でよく聞いた話です。楽しくなくても、別に笑わなくてもいいような時に、なお笑うということが如何に私たちにとって益なことか。最近は脳科学の発展によりこの笑いについても色々とわかってきているようですが、聖書は何千年も前から、笑いについて語っています。

 笑い(喜び)には三種類あると思います。

 一番目、とにかく人は素直であれば、楽しい時には笑うのです。これが普通のことです。嬉しいことが起こると楽しい、笑える、です。しかし誰でもいつも楽しいわけではありません。

「主は我らのために大いなる事をなされたので、我らは喜んだ」<詩篇126:3>

 二番目、「モーションはエモーションを生む」ということです。
 たとえ今楽しくもなく、嬉しくもない時にでも、笑うまねをしていると可笑しくなって本当に笑い出してしまう。
 「泣きまねをしていると、悲しくなってくる。よく俳優は、やっているでしょう」とかつて父がよく言ってましたね。
楽しいという感情は脳を集中させるのにとても良いらしい、だから「楽しい」と脳に思わせるだけでいいとも言います。ようするに脳を騙すのですねェ!嬉しくも楽しくもないのに「楽しい」と思わせるわけです。勉強するときにお勧めです。その方法は、「口角を上げる」です。割り箸を噛む、また手が空いていれば指で抑えて上げる…(笑)。これはもう毎日鏡を見ながらでもやりたいことです。実行しなければわかりません。

「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いを叶えられる。」<詩篇37:4>

 喜びをなせ。ですから自らすすんで喜びをつくります。これは素晴らしい成功の秘訣です。喜びをなせば、私の心にある願いが叶うというのですから、やってみない手はないでしょう。笑うまねをするというモーションは喜びのエモーションを生むのです。

 そして三番目、聖霊様からくる劇的な喜び(笑い)です。
 これだけはどんな状況下でも、苦しみ、悲しみ、そのど真ん中にいるときでさえもやって来る至上の喜びです。
 内側から起こってくる喜びに笑わずにはおれない、笑いを無理やりとめても唇が緩み口角が上がり、手で押さえても笑い出すのです。湧き上がってくる喜びにともなう笑いです。
 私が初めてこの笑いを頂いた時は、はじめ何がなんだか、さっぱりわからない、わけもなく口がほころんで、笑っていたのです。なんだろう?と不思議だったのです。喜びのわけがわかったのは、止まらない喜びの中で思い出していた「祈り」の叶えられていたことを,知ったというか「あっ、そうか!」とわかった時でした。

「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」<ピリピ人への手紙4:4>
[PR]
# by mitiru-takae | 2013-02-12 22:38 | 満ちる | Comments(0)

日々剥脱 2013.2.3

日々剥脱  

日岡だよりに今掲載している釘宮牧師の剥脱の日記は、本気で読み応えがあります。内容については、教会にプリントがありますし、教会のHPからでも見られます。
この剥脱と言うことばが、釘宮牧師らしい使い方で「本当だなあ…」と思うのです。
肉の部分を少しずつ剥がしていく、いいえ、ペンキを落とすように私の周りについた汚れを、主に剥がしていただくのです。
心の中のもやもやしたもの、不平、不満、自分で気づいているものはまだしも、気づかないストレスなるもので落ち込む心・・・。
自分では善悪も計りがたいようなまったく自己中心の思いであったとしても、一つ一つを、人それぞれの与えられた方法で剥がしていく、剥がしてもらう。その作業が日々の剥脱ということのようで、いいな!と思っているのです。
例えば、このように文章に書くということ。だから日記がいいのです。外に向かって出す「おしゃべり」となると相手のいることなので聞いてくださる方がいればいいのですが、なかなか思うようにはいかないでしょう。
その点、日記は思いつくままに一言一言を文字にして行くと、今まで自分のなかで混沌としていたものが少しずつ見えてきますし、整理も出来ます。
自分の頭のなかから切り離していけるので結構客観的に見えてきて、いらないものを剥がしやすいし、剥がれていく・・・。
そんなこんなで「剥脱の日記」なのかしらと勝手に納得して喜んでいる私です。

剥ぎ取るわけではないですが、聖書の中で、古き人を脱ぎ捨てる・・・と書いているところがあります。
一度捨てたらもう拾わない、日々古びていく人を又脱ぎ捨てる、そして、それも又拾わない。
捨てるごとに私たちは、新しい着物をイエス様に着せてもらうのです。
毎日新しい真っ白な衣、嬉しいですね。
一度新しくなった時、二度と汚さなければいいのですけれど、人間なかなかそうはいないようです。
イエス様の栄光の似姿に向かって毎日を勝ち取って行く、そのようなたゆまない底力を聖霊様によりすでに頂いている私たちですから、たとえ転んで泥がついても立ち上がりましょう。
イエス様は、毎日新しい衣を用意してくださるはずです。そう信じます。

あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである
                    <コロサイ3:9、10>
[PR]
# by mitiru-takae | 2013-02-05 21:28 | 満ちる | Comments(0)

私は強い 2013.1.27

私は強い 

私の恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる <Ⅱコリント12:9>
なぜなら、私が弱い時にこそ、わたしは強いからである <2:10>

パウロは自分の体験のことを、この言葉の前に書いていますが、すごい体験です。
体のままか、体を離れてか、とにかく第三の天にまで引き上げられた―――と言うのです。パラダイスに引き上げられ、口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉を聞いた…とも言っています。
これは本当のことなので、実は誇ろうとすればいくらでも誇れる、今で言えば聖霊体験といわれるような特別な霊的回心体験というものです。人間的、肉的にいくら求めても悟りえない、神様から来るものですね。
また、いくら言われても体験のないものには想像がつかないものです。だからこそ私は求め続けますが(笑)。
しかし、これがないと信仰がない、解ってないということはないのです、そんなことはありません。
イエス様が私たちに示してくださる啓示は人それぞれ、10人いれば10人違います。導かれる方法も様々です。
パウロは多分、人間的にも全てにおいて出来のよい人だったんですね。
「高慢にならないために肉体に一つのとげが与えられた <12:7>」
そして三度も自分を打つサタンの使いを離れさせてくれるように祈りました。その時に答えてくださったイエス様の答えが、冒頭に書いたみことばです。

実際、弱い時に私は強くなれるのでしょうか。
こういうことがあります。信仰も強いけれど、この世での生き方も強く何でもこなせる。パウロのような人かもしれませんが、この人が何かで、たとえば病気や他のアクシデントで自分では何も出来なくなった場合、本当に信仰が試されるかもしれません。今まで信仰であらゆることを乗り越え、勝利してきたと思っていたのに、その信仰が突然消えてしまったかのようにないのです。
それは、今まで信仰でやってきたと思っていたことは間違いで、人間的な能力でこなしてきていたわけです。実は大きな勘違いをしていた、信仰ではなかったのです。
この非常事態、この時、
「わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救いは神からくる。<詩篇62:1>」
としか言いようのない無力な自分を見せられるのです。
ここに救いがあります。このどうしようもなくみじめな自分を知る時初めて神様の力が自分に働くことを知ることが出来るからです。
まるで魂の死んだ状態の私が、イエス様の生きた命と一つになって共に生きると言うことがおきるのです。
私が弱い時にこそ、イエス様の命がわかります、力がわかるのですね。
弱さを恐れることはありません。私は主にあって強いのです。どんな時にでもです。極端にいえば私がどのように無様な姿をさらしていてもです。
私の本当の命と力はキリストの中にあるからです。
[PR]
# by mitiru-takae | 2013-01-29 21:15 | 満ちる | Comments(0)