人からではなく さてエリヤはそこを去って行って、シャパテの子エリシャに会った。彼は十二くびきの牛を前に行かせ、自分は十二番目のくびきと共にいて耕していた。エリヤは彼のかたわらを通り過ぎて外套を彼の上にかけた。 エリシャは牛を捨て、エリヤのあとに走ってきて言った、「わたしの父母に口づけさせてください。そして後あなたに従いましょう」。エリヤは彼に言った、「行ってきなさい。わたしはあなたに何をしましたか」。<列王記上19:19、20> 神が願うのは、私たち人間が自らの意志で神に従うことである。また、命令するのは、従えば神が働くことの裏付けでもあるからだ。 神ほど、裏切らない真実なお方は、この世に存在しない。 自分が今、何を考え、何をしているのか、目的は?と、ふと立ち止まって考えてみることが必要な時がある。 惰性で動く毎日が、私たちの進む方向をわからなくしてしまう。 例えば、サタンは巧妙な手口で、人々を分断していく。 排他的なのはもはや宗教だけではなく、政治、経済、いやいや、私たちの生活の場そのものを差別と、あらゆる特権意識で分断してしまっている。 相手の考え方を、それは間違いだと気づかせるためにと、自分の考え方の正当性を主張する。 これを同じ問題の答えとして互いが言い争っていくならば、もはやそこに答えは見いだせない。 どちらも、それぞれはしっかりした考えをもっているのだが、相手を受け入れることが一切できなくなってしまっている。 普通の人たち(大部分の人たち)はというと、何の抵抗もなく、周囲の人や動向に従ってしまう。 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。<詩篇23:1> 羊には、羊飼いが必要だ。 しかし、いつも羊飼いが羊を背負って運ぶわけでは無い。 羊も、草を食べるために自分の足で歩くのである。 もちろん、歩くのは自分だが、草のある所へ導くのは羊飼いの仕事である。 エリヤは自分の姿をエリシャに現わし、預言者の外套を彼の上にかけた。 この時、エリシャは自分が何をすべきか、わかったのである。 エリシャや、多くの聖書の中の人々が、今の自分の持っている物、場所、状態の全てを捨てて、神に従っている。 神が何を求めているかを知るからだ。 私たちにも、同じような時がある。 「行ってきなさい。わたしはあなたに何をしましたか」とエリヤがエリシャに言ったとき、「このことは私の意志ではなく、神の意志であるのだ」と言っているようだ。 エリヤによって示された言葉は、エリヤの意志ではなく神の御心の顕れであった。 さて、先のサタンにより、バラバラに引き裂かれてしまった私たちの思いは、いったいどこからこうなってしまったのであろうか。 最近の情報過多の複産物であろう、迷いや、疑心暗鬼は、私たちを更なる分断と破壊へと導いていく。 今こそ、誰が間違っていて、誰が本物であるとか、誰かに任せてしまえば簡単だという、サタンの思惑から、まず一歩引きさがろう。 そして、二歩、三歩と神の方向へ前進していこう。 私たちの体を殺しても、魂を殺すことのできない者でなく、死んでも生かすことのできるお方が、私たちの王であり、主である。 このお方を信じついて行こう。 人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、<ガラテヤ1:1> ついつい人の意見に惑わされる私たちだが、ちょっと立ち止まることで(詩篇の「セラ」を思い出そう)神の声を聞くことの準備が出来そうだ。 人からではなく、神からの声に耳を傾けてみよう。(た) #
by mitiru-takae
| 2021-08-29 15:21
| 満ちる
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祈るチャンス 万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。<ペテロ4:7> 「今こそ祈るときだ」と身構えて祈るときもある。 気が付けば必死に祈っていた、ということもある。 いつも思い出した時即座に祈る。 また、時間を決めて祈る。 離れている人たちと、それぞれのところで同じ時間に目的をもって祈る。 祈りの要請を受けた時、また誰かのために、特に時間を割いて執り成しの祈りをするということもある。 祈りは心の叫びである。 叫びは神に帰る手段でもある。 まず主の御前に私たちの心をおいて、魂の雄叫びを注ぎだそう。 時には踊りだしたいほどの歓喜の祈りを、一人ではもったいないとさえ思う時もある。 涙で溢れかえった感謝の祈りもある。 こうして、祈りについて書き出してみると、私たちは知らず知らずのうちに、神のみ前で、「どのようにして祈ればいいのか」などと考える余地もなく、祈りの戦士として働いている。 私たちの信仰人生に祈りは必要不可欠なものである。 祈りは私たちの霊の呼吸である。 時々、深呼吸をするように、私たちは聖霊の力を必要とするここぞという時がある。 主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。<イザヤ30:15> まず、神に立ち返ろう。 様々な御前での祈りがあるが、嵐のような祈りの後に、私たちは自分を取り戻すことが出来る。 神の平安に満たされたとき、私たちは初めて落ち着くことが出来るであろう。 信頼が沸き起こってくるであろう。 この時聞こえる神の声は、魂に突き刺さるほどの「細き静かな声」であり、力に満ちた、私を救うことのできる唯一のお方、イエス・キリストの声である。 私たちが神に帰ろうと一念発起する時、もしくは帰らねばならない魂の土壇場を経験するとき、それは神からのチャンスであり、恵みをいただくときである。 このチャンスを逃さないようにしたい。 今の時代、私たちはこのようなチャンスの時を迎えている。 私は人前で政治についてはあまり話さない。 ともすれば不満をぶちまける結果になるからだ。 話しかけては、いやいや・・・と思い留まることしばしばである。 今の世界で、また周りで起きていることを、神が知らないはずはない。 忍耐をもって、心を確かにして、心を清めていただき、聖霊によって本物を見極め、努めて祈っていきたい。 「そのチャンスを今いただいているのだから、しっかり祈るのだ」 と、自分に言い聞かせる。 そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。 それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。 これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。<テモテ2:1~3> 世界と、日本のリーダーの方々のために、また、色々なところで先頭に立って働く方々に感謝をもって、心から祈っていこう。 主の祝福と、真の平和のために。○た #
by mitiru-takae
| 2021-08-22 12:02
| 満ちる
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信仰の重り というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。<ヘブル4:12> 私たちが、自分の心に従うと、時々大変なことになる。 誰かが「今日は顔色悪いね、大丈夫?気を付けてね」と、親切心で言ってくれたとする。 とたんに、「私は顔色悪いらしい、どうしたのかな」と思っているうちに、本当に気分が悪くなってくる。 心が明るくなるような言葉を掛け合いたいものだ。 ところが、元気なお年寄りに「お元気ですね」というのはタブーである。 自分はきついのだけれども、頑張って元気にふるまっていると、周りの人に認めてもらいたいのだ。 これはお年寄りに限らず、だれしも同じであるが、誰もわかってくれないと、本当は元気なのに段々きつくなってくる。 しかし、ちょっと声をかけてくれると、口では悪いと言いながらも、心は元気になってくるものだ。 このように私たちの心はちょっとしたことでコロコロ変わる。 大和ことばでは、人の心はコロコロ変わるので「こころ」というらしい。 私たちにはこのような人の心を推し量ることはとても難しいが、神の言葉は人間の心のすべてを見極めることが出来るのである。 古代日本では、言霊(ことだま)といわれ言葉の中に不思議な力が宿っていると信じられていた。 発した言葉はその通りの結果をもたらすというものである。 聖書的に言えば、まず言葉があり、そして心が従うのである。 言葉は霊である。 言葉は神である。 言葉は人となり、私たちと共にいてくださる。 言葉は生きている。 私たちはいつも、生きた神の言葉を告白し続けよう。 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。<ヘブル4:14> 人の心は得てして感情に左右される。 しかし、私たちの心がいつも、コロコロところがったとしても、元の状態に戻ることが出来る、起き上がりこぼしのようでありたいものだ。 起き上がりこぼしと言えば、昔はキューピーのようなセルロイド(材質は違うと思うが今でもあるだろう)で作った、動くとオルゴールの音がする可愛い玩具があった。 赤ちゃんがどんなに動かしても、元に戻ってしまうなつかしい赤ちゃん用の玩具である。 私たちの心の底にある信仰の重りが、いつも私たちの心の重心をイエス・キリストに戻す働きをしてくれる。 いくら心が揺れ動いたとしても、船舶の錨のようにイエス様の信仰が私たちの信仰を不動のものとしてくださっている。 わたしたちの告白する信仰をかたく守ってくださるのは、今も生きて働いてくださるイエス・キリストである。 余談であるがもろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスというお言葉に感激した。 在天する神のところに行くまでに、もろもろの天がある、ということは想像がつくが、果たしてそこには色々な世界や、住んでいる人(?)がいるはずである。 わたしは行ったことがないし、そういう霊的な経験もしたことがないのでわからないが、イエス様は、黄泉に下っただけではなかった。 大祭司としての働きのためにもろもろの天をとおって神のところへ行ったことになる。 通り過ぎたのか、立ち寄ったのかはわからないが、この地上にいるときもイエス様は、町々、村々をとおって行かれた。 その時と同じように、そこに住む人々(?)と語り合ったに違いない。 地上でも、天でも、天に行く途中でも、イエス・キリストがなさる事は昨日も今日もこれからも変わらない。(た) #
by mitiru-takae
| 2021-08-15 17:26
| 満ちる
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