No.279 私のメンターはイエス様 2018.3.4

私のメンターはイエス様

だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう(【新共同訳】そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。)
<Ⅰコリント12:31>

 先日久留米クライストチャーチの山下耕司先生ご夫妻がみえられた。
 廣田先生のご紹介だったので、アガペーチャペルで先生を囲んで時間を持つことになっていたのだが、急遽私どもの教会に集まることとなった。

 先生は父とも会ったことがあるらしく、私自身は先生ご夫妻のことを若い先生と思っていたので、少しほっとしながら親近感を覚えたのは否めませんね。

 今回先生が来られたのは、ベン・ウォン先生(著書に「メンターとして仕える」がある)によってはじめられた、コーチングの内容についての(ほんのさわりと言っていましたが)お勧めではなく説明でした。
 というのも、そもそもこのコーチングは相手に自分の方法などを押し付けるものではなく、教会としての本質(エッセンス)を皆で確認し合い、納得したうえで、これを土台として、この上にそれぞれの方法、材料、デザインで家を建てていくというものだからだ。

 先生は「コーチングとは『関係である』と気づきを与えられた」と言っていたが、まさしく教会とは、イエス様と、私たちの関係、イエス様の弟子としての聖徒同士の関係、その関係のすべてが神の愛の帯で繋がれている状態なのだと思う。つまりエクレシアという一言で語れるかと思う。
 内容についてはまたの機会にしたい。

 ただ、話を聞いていく中で、私のメンター(ティーチング、カウンセリング、コーチングの3つの聖徒を整えていく働きをする人)はイエス様であり、私はイエス様のメンティー(メンタリングを受ける人)であるということを気付かされたということだった。

 まことに当然と思えることではあるのだが、意外と気づいていない。またこのことは自分が教会、また教会外でメンターとして働けるかということを考えていく中で、自分の「仕えるという思い」をはっきりとさせられていくものだ。
 最近はいつも「皆さん一人一人が祭司である」ということを言っているが、本当に大切なことは一人一人が神と直接つながっているということです。

 山下先生曰く、
「牧師を介してイエス様とつながっているのではない」
 そういうわけで、皆さん、一人一人がメンターとして仕えていくことができるように、主にある訓練を積んでいく必要があるのかと思う。このことがメンターとしてのキャリアを積んでいくということであろうか。
 何も学校に行けとか、お金を積んで手に入れるということではない。私たちの真のメンターであるイエス様に真似てついて行くことだ。
 具体的にはいつも、「イエス様だったらどう考えるのか、どうするのか?」と一瞬一瞬の思いをイエス様に馳せ、考え、捧げていくことだ。

 「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。(新共同訳)」のお言葉は、パウロのメンターとしての力強い言葉である。しかしここに、イエス様の力強いメンターとしてのお言葉がパウロを窮地においても支えているということがわかるのである。パウロにとっても私たちにとっても、聖霊として私に働きかける神こそ真のコーチである。
 私たちが目的をもって前進したいと願うとき、私に働いてその願いを完成してくださるのは神である。この時神のコーチング(目的をもって前進しようと願う人を援助すること)は最高に発揮される。

 パウロの言う最高の道こそ、「今も私の中で生きて働いてくださるイエス様によって生きる」ということに他ならない。これ以上の関係はこの地上にない。 

イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
<ヨハネ11:25>

 私たちの最高のメンターであり、コーチであるイエス様に満々感謝! (た)
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# by mitiru-takae | 2018-03-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.278 きよい良心 2018.2.25

きよい良心

きよい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない。<テトス3:9>

 きよい良心は神様から頂いたギフトです。
 「ギフト(gift)」とは、「神様からの贈りもの」また「才能」という意味もあるそうです。高価なこの世にたった一つしかない私への神様からのプレゼントはイエス様です。(と勝手に解釈しています<笑>)

 神様が人をお創りになったとき、ご自身に似せて創ってくださいましたから、私たちはもともと、神の御心に沿う思いである良心をもって生まれてきました。

 それがいつの間にか、心が神様から離れるごとに、汚れてしまった状態になっています。これはもう良心とは言い難く、偽善、疑心に満ちた悪い心となってしまっています。

 私たちにとっての「一番の幸せ」はというと、ダビデが詩編で歌っているように、神様から「あなたは間違っているよ」とか、「あなたそれは嘘でしょう」とか言われない、神様に対して偽りのない人であることです。

主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。<詩篇32:2>

 神様に不義を負わせられないためにはどうすればいいのでしょう。もっと言えば、どうしてわたしたちの心が汚れてしまったままでは幸せになれないのでしょうか。

きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。<テトス1:15>

 どんなに勉強して偉くなったとしても、人々から素晴らしい人物だと言われても、神様が認めてくださらない限り、人は罪びとのままで、正しい人とは呼ばれないのです。

 イエス様を私の主、救い主と知って初めて、本当の知識を得ることができます。

主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。<箴言1:7>

なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。<ローマ10:10>
 
 イエス様を知って信じることこそ、私たちが清い良心を保ち続けることができる唯一の方法です。また私たちが持っている罪(汚れた心、自分では治しようがない生まれたときから持っている心のしみ)からの救いは、ほかにないのです。

 世の中には、良心によって素晴らしい善行をしたり生き方をする人も多いのです。しかし、私たちはその人たちの何分の一の真似もできず、思いはあっても、あきらめてしまいそうです。
しかし私たちが持つ良心とは、善行をするだけのものではありません。イエス様を信じている証しでもあるのです。

貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。<Ⅰコリント6:10、11>

 私たちは、イエス・キリストの名によって(神の霊によって)義とされるのです。

 神様からのギフトである「清い良心」を持ち続ける、保ち続けることができる、それはイエス・キリストを信じ続けるということなのですね。(た) 
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# by mitiru-takae | 2018-02-28 19:52 | 満ちる | Comments(0)

No.277 景教に影響された日本の宗教 2018.2.18

景教に影響された日本の宗教

 先日仏教について、えんじぇる田中先生より学ぶ時を与えられました。先生は浄土真宗のお寺のご子息として生まれ、仏教徒からキリスト教の牧師になった一寸風変わりな先生です。現在はアメリカに住んでおられます。

 今回中国のリバイバルの現場のお話と、仏教についてのお話をしてくださいました。
 少し先生のお話も交えて、父がよく言っていた親鸞の歎異抄の一節を紹介いたします。

【歎異抄第三章現代語訳  悪人こそが救われる 悪人正機】
善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。
(善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。)

【聖書】
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。<マタイ9:13>

〔人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕<マタイ18:11>

 面白いことに、仏教では涅槃に行くには何千億年という宇宙的時間を要します。特に女性は成仏できない不浄の者とされています。
 また、殺生してはいけません(これはモーセの十戒と同じですね、しかしその意味が全く違います)。お坊さんは雨の日は、虫を踏みそうなので外には出ないという話を田中先生よりお聞きました。
 なぜなら「今日私が踏んだナメクジは、もしかすると祖父の生まれ変わりであるかもしれないから」ということのようです。そしてもし自分が殺生すると人間界において、自分の修行の得にならないことと信じているからです。
 つまり仏教は因果応報という「自分中心の生き方」という世界なのです。

 ところがキリスト教は、「神を中心に生きる」ということです。神に生かされ神に従うという生き方なのですね。
 キリスト教には輪廻の思想はありません。
 どんな罪を犯したものであっても、悔い改めてイエス様を信じる者は天国に行くことができます。

 日々神に帰ることによって、私たちはますますイエス・キリストの似姿に作り変えられていていきます。
 神に生かされる世界は(歎異抄で言う「自力をすてて【現代語訳は,心をひるがえして】他力に帰すれば」)、つまり「自力によらず、神の力に帰る」世界です。

 このように、親鸞の教えは、聖書の教えに似ていますね。彼は聖書を読んだであろうと言われています。
 日本でまず最初に景教にふれて、持ち帰ったのは空海らしいですが、田中先生のお話だと、中国で見つかった石碑に書かれている中に景教のことを「真宗」とも呼ばれていると記されているらしく、また三位一体の神のことも書かれているんだそうです。そのレプリカが、日本の高野山にあるそうですから、見てみたいものです。

 しかし、キリスト教の福音は、イエス様の十字架と復活です。
 なぜ、悪人が救われるのか。なぜ、悪人を救うためにイエス様はこられたのでしょうか。
 それは簡単です。善人(義人)はいないからです。全ての人が罪びとなのです。救われる対象です。よいお方はイエス様だけです。

 罪びとが自分の罪を知ってこそ、イエス・キリストの福音の力が理解できるのであって、自分を善人と思っている人々には、わかりません。
 多分親鸞は他のお坊さんに比べると、ものぐさ坊主だったと思います(笑)。行いによっては、救われないと悟っていたに違いないからです。

 日本に入ってきた景教も、空海の教えも、親鸞の浄土真宗も、今では形だけを求める宗教となっていますが、キリスト教も同じ様相を呈しています。
 「私たちは信仰の奥義(イエス・キリスト)を求めて、主に喜ばれるものとなる」、楽しいクリスチャンとなりましょう。

 それは、宗教学者でも、宗教家でもなく、イエス・キリストにある信仰者とでも言いましょうか、子供の歌のように「イエス様が一番、十字架が誇り」の人なのです。(た) 
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# by mitiru-takae | 2018-02-28 19:48 | 満ちる | Comments(0)

No.276 その恵みはとこしえまで 2018.2.11

その恵みはとこしえまで

主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。<詩篇136:1>

 神様の恩寵は永遠に続きます。
 どのように苦しい時も、なかなか抜け出ることのできない試練の中にあっても、神様の恵みと慈しみは変わることがありません。

ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。<Ⅱローマ12:9>

 それどころか、その恵みはあなたに対して充分であり、完全です。

 私は不十分で、弱いように見えます。しかし私たちが、何もできないような弱い時、自分の弱さを認めて主により頼むならば、神の全能の力が、完全に私のうちに働き、神の絶対主権によって、すべてのことが成っていきます。私たちは神の権威に頼れば良いのです。

それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。<マタイ5:48>

 イエス様のお言葉は、必ず成就します。
 パウロが走る行程を主に信頼することによって走り抜けたように、自分の目の前に用意された主の道も、走れなくとも確実に忠実に歩んでいきたいものです。
 主のお言葉を信じて完全に向かって歩み続けるのです。

 先日のある先生のメッセージの中で、「エペソがいかに大きな都市であったか」ということを、写真を交えて聞かせていただきました。エペソはパウロが3年もいたところです。

 アルテミス神殿もあることから、ローマの小アジアにおける主要都市であり、また、宗教の中心にある都市でもありました。また、大きな「ツラノの講堂」という劇場のような施設もありました。
 エペソのような当時の大都会で、パウロの宣教に対する心は、さぞかし燃えたでありましょう。

 その後も旅は続きました。第3回伝道旅行を終え、パウロはさらなるローマに向けての神の道を走ることになります。
 しかしそれは、鎖で繋がれての大変な道のりでした。
 パウロは、弟子たちや預言者からどのように「行かないでください」と、止められても、歩みを止めることはありません。ついにエルサレムで殺されかかるという事態に会います。
  
 このような過酷なパウロの旅路は、私たちにはとてもついていけないほどの難しさと、それに伴う試練があります。
 しかし神様の導きは、確実で、真実です。

 確かに試練があります。
 辛い時があります。
 嫌な場所があります。

 しかしそこに働く神の全能の力と恵みは、私たちにとって、確かなものです。幽霊や、お化け、また人々の儲け話のように騙しごとではありません。

 「ちょっと、おこがましいことを言うがパウロと私の信仰は同じだ。」と、若いころから言っていた父(釘宮義人師)の声が聞こえてくるようですが、本当に、今も、2000年前の昔も、イエス・キリストの信仰は変わらないのです。

 パウロの中で、父の心の中で、パウロの言葉を借りていうならば最後にこの小さな私たちの中でさえ生きて働いていてくださる「イエス・キリストの信仰」は、「昔も今もとこしえに変わることがない」のです。
 
 主に感謝します。
 主は恵み深いお方です。
 主は永遠に変わることのない完全なお方です。(た)
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# by mitiru-takae | 2018-02-16 16:10 | 満ちる | Comments(0)

No.275 敵と味方 2018.2.4

敵と味方

もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。<ローマ8:31>

 パウロは、第3回目の伝道旅行を終りエルサレムに着き、ヤコブや教会の長老たちに会いました。そして、神が自分の働きを通して、異邦人の地でなさってくれたことなどを説明しました。
 皆はこれを聞いて神をほめたたえました。

 ところが、パウロの宣教の業を誤解したり、良く思っていない、アジヤら来たユダヤ人たちが、「パウロをやっつけろ」と群衆を扇動して騒ぎだしました。
 神殿で始まった騒ぎは、エルサレム全体を混乱状態にまで陥らせることになり、パウロは皆に捕えられ殺されそうになりました。

 この時、ローマの千卒長が、騒ぎを静めるためにパウロをとらえに来ました。パウロは二重の鎖につながれ、まさにアガポの預言どおりとなりました。

 「泣きっ面に蜂」という言葉がありますが、エルサレム全体がパウロに敵意を持っているとき、なおユダヤを支配していたローマの兵士に捕まってしまうなんて、まさに「泣きっ面に蜂」の状態のようです。

 しかし、主は、パウロを敵の手に渡すことによって、ご自身のパウロに対するご計画を進めます。そしてそれはまさに成就するのです。
 パウロをローマへと誘うのは神の御心でした。

その夜、主がパウロに臨んで言われた、「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」。<使徒23:11>  

 さて、そこで私たちの、またパウロの本当の敵はだれでしょうか。
 エルサレムにいる人々、律法学者たち、はたまたローマの兵士、総督、ユダヤの祭司長、ローマの皇帝でしょうか。

 イエス様の時もそうでした。弟子のユダが裏切り、パリサイ人、他の律法学者たち、祭司や、祭司長など、エルサレム中の人々に「殺せ」「十字架につけよ」と言われました。
 
 しかしイエス様は十字架の上でこのように言いました。
 「彼らをお許しください。何をしているかわかってないのです。」

わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。<マタイ6:12>

 私たちに罪を犯すものを、主はゆるしなさいと言います。私たちはイエス様の主の祈りにあるように、ゆるすことができます。なぜなら、彼らは私たちに向かってくる本当の敵ではないからです。

 しかし、ゆるすことが絶対にできない者がいます。
 私たちの本当の敵、サタン、その手下どもです。

 悪しきものにとらわれることなく、私たちを悪しき者の手から救い出し、完全に主の支配の中に入れていただくことが、私たちの勝利です。
 この勝利は、パウロにだって自分の力では得られません。
 まことの勝利者はイエス・キリストです。

 私たちの敵はだれなのか。
 私たちの味方は誰なのか。
 窮地のときにも、知恵を与えてくださり、試練と同時に逃れる道をも用意してくださるイエス様を、私の主、わたしの従うべき王の王として、信じていきましょう。

見よ、あなたにむかって怒る者はみな、はじて、あわてふためき、あなたと争う者は滅びて無に帰する。<イザヤ41:11>
 
 私たちは、自分の支持する王が、いかに素晴らしいお方であるかを知っているべきです。なぜならこのお方こそ全能の神、私の救い主だからです。
 このおかたが私たちの真の味方なのです。(た)
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# by mitiru-takae | 2018-02-14 14:49 | 満ちる | Comments(0)