No.308 大分ローカルギャザリングを終わって 2018.9.23

大分ローカルギャザリングを終わって

 9月17日(月・祝)大分ローカルギャザリングを終えました。
 この日与えられたゼカリヤ書を通しての預言にはちょっとびっくりさせられました。
 オイコスチャーチの藤江先生が立って語ってくださった預言はこうです。
 「私たちが散歩をすると、その町の人々が救われます」
 つまり、私たちが歩くだけで、人々が救われるということです。そんなことがあり得るだろうか…という夢のような預言でした。

 実は、先生がおはなしした後に私はゼカリヤ書5章の話を少ししていたのですが、そのあとオイコスチャーチの皆さんが、5章から続けて8章まで読んだとき、びっくりしたのが次のみ言葉だったわけです(そんなことであっただろうと思います)。

万軍の主は、こう仰せられる、その日には、もろもろの国ことばの民の中から十人の者が、ひとりのユダヤ人の衣のすそをつかまえて、『あなたがたと一緒に行こう。神があなたがたと共にいますことを聞いたから』と言う」。<ゼカリヤ8:23>

 「ハレルヤ。外国語を話す私たちが一人のユダヤ人の袖を固くつかみます・・・・
が、次に霊的イスラエルの民である私たちクリスチャンの袖を未信者の人々がつかみ、『私たちもあなた方と一緒に行きたい。それは「神があなた方とともにおられる」と聞いたからだ』と言う、リバイバルが来るということです。信じます」【藤江由美子先生の話】

 つまり、藤江先生の預言の答えとも言うべきみことばをゼカリヤ書が教えてくれたわけです。
 「神が共にいる人」と一緒に居たいと、未信者の方々が言って、袖をつかみに来るというわけですから、私たちクリスチャンが歩くだけでも、その町が救われていくと言うわけです。恐るべし・・・・。

 これは橋本先生のお話の中でも、パウロやペテロたちの影を踏んだだけでも人々が癒されていったと言うお話と同じく、まさにこのような奇跡が起こる日が来るんだといって喜びました。

 あちこちでギャザリングのような集い(日本ではジーザスレインズジャパン、また、北アメリカギャザリングは、IHOPマイクビクルと合同でカンザスシティで開かれる・・・など新しいニュースも入ってきています)が始まっていき、次はこれらが皆一つに結ばれる時が来ます。もう既にそれは始まっていて、もうすぐ「結集」の時が来るのでしょう。一つになって初めて、「キリストの花嫁」となるのです。
 橋本先生は大きな声で「花嫁は一人です」と言っておられましたね。

 このギャザリングと銘打ってから何回目になるのでしょう。
 それまでの3教会合同聖会も長いこと続いていたわけですが、これが今のギャザリングにシフトしていく過程も、今振り返ってみれば、神様のご計画が着々と進んでいたのだと不思議にさえ思えます。

 自分の所属する教会の中だけでなく、同じ思いを持つ教会との交わりの中で、私たち一人一人の魂が整えられ、私たちの魂の中で命を吹き返した新しい霊について行くことができるように訓練されていったのでしょう。

 律法にがんじがらめになっていたクリスチャンが、聖霊様にふれられ、聖霊様について行くとき、本当に自由にされます。
 ギャザリングでは、毎回違った聖霊様のお導きを経験します。その中で私たちは、集会そのものの本当の自由、聖霊様による自由な礼拝を、体験出来て行っていると思います。
 神の家族が一つのところに集まる、礼拝するという時、同じように私たちが人を愛するという時、それは私の行為(神の戒めを守る)というよりも、主イエスと共に生かされるという行いであると知るのです。

 信仰の行いとは、私たちが何かをする、できるというのではなく、聖霊様自身(イエス様自身)の行為の中に私たちが入れてもらっているということのように感じます。

 これからも皆で集い、神の家族の愛を、つまり神の愛を見せていただこうと期待しています。(た)
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# by mitiru-takae | 2018-09-30 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.307 神を礼拝する 2018.9.16

神を礼拝する

日の出る所から没する所まで、国々のうちにわが名はあがめられている。また、どこでも香と清いささげ物が、わが名のためにささげられる。これはわが名が国々のうちにあがめられているからであると、万軍の主は言われる。<マラキ1:11>

 9月10日(月)に別府FG教会でギャザリングのミーティングが行われました。

 この日、ユダヤ暦で新年を迎えましたので、皆で「あけましておめでとうございます」の挨拶から始まりました。ちなみに5779年が明けたのです。

 去る8月9、10日の二日間、愛知県にある「華人の家」という中華系の教会でローカルギャザリングが行われました。
 日本から140名、中国系100名、韓国から31名、北韓(北朝鮮)から6名、カナダから6名と、計283名もの神の家族が集まったそうです。【HAZAH10月号参照】

 私たちが集まる大きな聖会では、癒し、奇跡、悔い改め、解放、喜び、賛美など、色々な体験をしたり、また期待したりします。
 そんな中でギャザリングの集いというのはやはり一味違うところがあります。
 この集会の賛美や、預言、お話の中で、癒しも奇跡も起こっているのですが、それを当然のようにとらえ、特に表に出したりしないというか、それ以上に「聖霊様と親しく過ごせることが嬉しい」といった感じが大きいのです。

 デミアン先生方率いる集まりのようでそうでない、本当に聖霊様の導きに沿って始まっていく集会です。しかし、「集会というより『家族の楽しい時間』のようだ」と、先生自身は語っています。
 また、先生は、「私たちの体・感情・魂は、霊について行かねばなりません。聖霊様が何を語っているかに注意しましょう。この時、聖霊様があなたに語っていることを、しっかりと分かち合いましょう。」【HAZAH10月号より】とも語っています。
 聖霊様のお導きが一番なのですね。
 果たして私たちは聖霊様について行けているのでしょうか?思いのすべてを聖霊様に向けてみようではありませんか。

 私たちの教会でも、祈祷会、聖書学習会、聖会などすべての集まりの中で、聖霊様のお導きを求め、そこにいるお互いの感じたこと、思いついたことを語り合い、その中から教えられ、啓示していただいたことなどを共有できたりして、とても恵まれています。

 毎回そうですが、今回9月17日(日・祝)のローカルギャザリングも、主イエス様が私たちに、何をしようとされているのか、期待に胸が膨らみます。

 私たちにとって大切なことは、私のうちに生きて働くイエス様(聖霊様)の証をいつも心の中に持たせていただくことですね。
 天の父を「アバ父よ」と呼びあえる「神に砕かれた従順な心をもった人たちの教会」、また、神の家族の証が毎日毎日ぞくぞくとあふれ出て、「喜びも悲しみも共に分かちあえる教会」、これが私たちの教会のコンセプトであると思います。

 私たちはことごとに神を礼拝していく真の礼拝者として、この地上におかれています。
 いつも神をあがめ、礼拝する事は、神の主権を認め、神の全能の力を認めることです。
 そして、その御手に寄りかかって、信頼して行くことでしょう。

 私たちがどれほど神を頼り切ったとしても、神は倒れるお方ではありません。また、神の御手はどれほど遠くに延ばしても、世界中の求める人々に多くの御手を伸ばし尽くしたとしても、切れることも、尽きることもないお方です。

またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。<マラキ3:1>

 真の礼拝をささげる者の心の中に、主イエス様は即、喜びをもって応え、来てくださるお方です。満々感謝!(た)
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# by mitiru-takae | 2018-09-30 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.306 天国のはなし(2) 2018.9.9

天国のはなし(2)

イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。<使徒1:10、11>

 弟子たちと共に上空を見上げてイエス様のお姿をいつまでも見送っていたのは、私たちの姿でもありましょう。

 イエス様は上空に消えたのではなく、私たちと永遠に共に住むために、天に帰られたのですから、「なぜ天を仰いで・・・」と言われても仕方がありません。

 神様の愛を知りました。
 イエス様の十字架の贖いのわけもわかりました。
 でもどうしても、完全な救いは死んで天国に帰ってからだったり、新しい天国における霊の体で生きて初めて全てのことわかるように思えたりします。

 しかし本当に、完全な天国の命と体は死ななければ与えられないのでしょうか。
 今は肉体をもって生きていますが、実は魂の奥底(霊)で、私たちは既に死なない命を実現していただいているのです。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。<Ⅱコリント5:17>

 このみ言葉は神様が啓示してくださった奥義です。

 私が生まれてからずっと持っている霊は、イエス様を知った時から、新しく天国人としての霊に変えられているはずです。
 この世の人と同じではありません。み言葉が確かに「全てが新しくなった」と言っているからです。
 この地上を離れるとき、私たちは何の抵抗もなく、天に帰ることができるのはそのためだと思います。

わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。 <ヨハネ14:2~3>
 
 イエス様が天にお帰りになるわけは、この場所を創るためです。
 そしてこの場所は、イエス様が私たちと共にいる場所(住まい)です。

また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。<ルカ17:21>

 私たちはこの世に生きていても、死んでも、すでに天国人です。
実は、私たちは、イエス様を信じて新しく作り変えられた時、魂の中に天国を持つものとなったのです。イエス様が共に住んでくださる場所を、一人一人が持っているのです。

 私たちはいつも心の中に天国を持っています。それはいつも父なる神の場所とつながっています。
 なぜなら、イエス様が神様と私たちをつなぐ道(架け橋)であるからです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。<ヨハネ14:6>

 「天国ってどんなところ?」と聞かれたら、何と答えればいいでしょうか。

 私はこう答えます。「イエス様が私と共にいてくださる場所です」。
 天に帰っても地上においても同じです。アーメン! (た)
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# by mitiru-takae | 2018-09-30 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.305 天国のはなし(1) 2018.9.2

天国のはなし(1)
 
 木曜日の学習会で、「天国にいったら父ちゃんに会えるんやなあ」というE姉妹の切実な言葉から、天国の話になりました。

 大好きだった人、愛する子供、妻、夫・・・というように、みんなと天国で会うのを楽しみにしていますという方は多いのではないでしょうか。

 そこで思い出すのがグレイスチャペル安曇野の須佐二三子先生の天国に行った話です。

 天国は、全世界のどんなところよりも素晴らしいところで・・・金色に光り輝き・・・クリスタルガラスのような虹・・・・ダイヤモンドのように色々な色に輝く水のような・・・【「突然の死に遭遇し、天国を見、生かされた」より】

 先生は第3版くらいまでこの本を出していると思いますが、天国の中のどこにも、知っている人にあったということは書いていません。様々な色の、それも赤ちゃんの頭ほどもあるような宝石がたくさん輝いているところのようでした。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。<イザヤ43:4>【新改訳】

 私たち一人一人が天国で光り輝いていた宝石のように、神様がとても大事にしてくださっている素晴らしい「宝物」なのですね。
 そして、神様にとっては私たちは、天国にいるときも地上にいるときも、同じように素晴らしい価値ある尊いものなのです。

 グレイスチャペルの須佐先生のお話に戻りますが、先生の冊子「天国では」の中で、気になることを言っていました。

 よくこういう事を言われたり質問されます。
「天国で、会いましょう」、「天国で、先祖(両親)が見守っている」、「天国で、だれと会われましたか?」(須佐二三子著【天国では】参照)

 しかし、先生は天国では誰とも会っていませんでした。
 ただ三位一体なる主の真ん中で、愛に包まれていた思いだったそうです。

 これを聞くと、今の私たちは「そんな寂しいことを」とか、「えー、会いたいですよね」とか思ってしまうのです。しかし、須佐先生はそんな懐かしい人たちには会っていないのですね。天国では必要のないことなのでしょう。

イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。 <ルカ20:34,35>

 果たして天国には人間がだれもいないのでしょうか?両親はいないのでしょうか。「あのお世話になった方に会いたかったのに」という願いは聞かれないのでしょうか?天国では私たちの想像を絶する御霊の体がありそうです。

すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。<Ⅰコリント15:49>

 さあ、そこで私たちの霊の母国である「天国」はどこにあるの?という疑問も浮かんでくると思います。
 わたしたちが臨死体験でもしないかぎり、生きたままでは天国を見ることは不可能なのでしょうか。

 イエス様は天国の話をたくさんしてくださいましたが、殆どがたとえ話です。
 しかし、そのお話の中で天国の場所について、イエス様は核心的なことを言って下さっています。

また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。<ルカ17:21>
ーつづくー(た)
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# by mitiru-takae | 2018-09-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.304 イエスに神の権威を見る 2018.8.26

イエスに神の権威を見る

イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。<マルコ4:40、41>

 「イエス様が共にいるので『あなたたちは怖がらなくてもいいのです。怖がる必要がないのです。信じてくださいね』」といくら口を酸っぱくして、自分の周りにいる人から言われたとしても、また私が講壇から言ったとしても、実際にはどうでしょう。
 人間には命の危険を知らせる「痛みや不安」という感覚があります。
 ですからこの不安がいらないと言っているわけではありませんね。
 
 ただ、この不安の真っただ中にいるとき、痛みで耐えかねるほどの苦しみにあっているときなど、まさに「その時」の中心にいるあなたに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とイエス様が言ってくださるのです。

 嵐が起こるであろうガリラヤ湖の只中に、あえて漕ぎ出したイエス様のお心は、ここにあると思います。
 漁師であるペテロたちにとっては、来るべき嵐は予測できるものです。
 しかしお言葉ですから、イエス様と共に漕ぎ出しました。
 逆に言えば、イエス様と一緒にいるので漕ぎ出せたわけです。
 イエス様があとから来ようと、舟の中で寝ていようと、「わたしを捨てず、離れない」事実を、漕ぎ出す時に知ることができるのです。

 しかし、イエス様の奇跡や、恵みの業は、漕ぎ出した時に体験できるものかもしれませんが、それを見るまではどうしてもつぶやいてしまいます。

「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」<マルコ4:38抜粋>

 この不信仰な言葉を吐く弟子たちですが、いわばイエス様に甘えているという心の様子が伺えてしまいます。
 駄々っ子の言葉ですね(笑)
 自分では解決のできない出来事に直面したとき、周りの頼りになる人に「助けてください」と言っていくものです。
 しかし弟子たちは、低姿勢で「助けてください」ではなく、「おぼれてもかまわないのですか」ですから、この弟子たちも強いというか、このお方に命を預けているのだから、救ってくれて当然という、ちょっと言いすぎかもしれませんが「素晴らしい信仰を持っている」ようにも見えます。

 ここでイエス様が「信じてほしい」と弟子たちに願っていたことは、まことにどうにもならない「大自然の驚異」をも難なく従わせることができるお方のことなんだと思うのです。
 
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。<マルコ4:41>

 ここの弟子たちの恐れは、「全能の神、すべてを従わせることができる神」に対しての畏れであり、このことを通してイエス・キリストの背後に全能の神の権威を垣間見たのでありましょう。

 普段は、イエス様がまるで沈黙しているように見える、眠っているようにも見える、そんな信仰の薄い私たちでも、嵐に直面したときすぐにイエス様を起こせるように、日ごろの魂をイエス様に直結させていたいですね。そのためにこの証を紹介したいと思います。(た)
   
日岡だよりNo.598より抜粋
最近、やや心境の乱れあり。しかし朝祷のあと、中野君に「なんで君この頃調子いいのか」ときくと、「山室軍平先生の本で教えられました。聖書を学ぶこと、祈ること、この二つを実行しはじめてからすっかり変りました。最近は、少々心が暗くなるような事がおこっても、神様!と言って帰ると何でもなくなります。」大いに感謝した。
【「神の息よ吹け」1974年7月号(「心に満つるより」改題・通巻第10号)「日々新生」より】
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# by mitiru-takae | 2018-08-31 23:03 | 満ちる | Comments(0)