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No.327 (大分ローカルギャザリングから)世界で一番美しいのは誰/オーナーですか、テナントですか/見ざる、言わざる、聞かざる 2019.2.3

(大分ローカルギャザリングから)
世界で一番美しいのは誰

 白雪姫のお話を皆さんはよく知っていると思います。
 かわいい白雪姫が「自分は美人だ」とか、「あの人よりも綺麗になりたい」なんて言っているところは確か、なかったと思います。
 7人の小人たちと、毎日仲良く暮らしていました。
 「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰・・・」
 と言ったのは白雪姫の美しさをねたんで、何度も何度も鏡に声をかけた白雪姫の継母である女王様でした。
 白雪姫はイエス様を信じていたでしょうか、お話なので分かりませんが、少なくとも、自分を大きくしている女王のようにではなかったでしょう。

 先号につづいてヨアンナ師のお話ですが、「美しいという字は羊が大きいのです」と言いました。羊とはイエス様のことです。

 そして「自分を大きくすると、臭いのです」といって笑いました。
 確かに。漢字は本当によくできています。ビックリしますね。
 これも日本人のために神様があらかじめ用意されていた文字でしょうか。
 主が働かれるとすべてが美しいのです。
 そして主のなさることは、今も昔も神秘に満ちています。

神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。<伝道の書3:11>
 

オーナーですか、テナントですか

 イエス様は確かに私たちの心の中に住んでくださっているのですが、ともすれば、オーナーとしてではなく、テナントとして入っていただいている人が多いのです。
 それで私たちはいつでも都合のいいときだけイエス様にご登場願うのですね。つまり、自分が主権を握っているのです。
 しかし、本当はイエス様はいつでも私の心のオーナーです。いつでも、どこでも、とこしえにイエス様が主権者です。

 信頼できる、完全にゆだねても大丈夫なお方なのです。私たちはイエス様を、まるでテナント扱いをしている時が多いのです。

 デミアン師は、自分の働きを委ねますといって、明け渡したつもりでいたそうですが、その時、神様は、沈黙されていたのだそうです。

 それは3か月もつづき、気が狂いそうなくらいの苦しみであったといいます。しかし、その時、友人に大切な本を貸し、それを破って捨てられたという夢を見せられたそうです。
 自分のものをそんな風に扱われたら誰だって、腹が立ちます。

 そこで神様にオーナーとして委ねているか、テナントのように扱っているかを問われたそうです。(神がオーナーなら、その扱いはすべてをお委ねでき、安心です)
 この心がギャザリングの働きの始まりとなったそうです。

 もともと永遠の命をくださったのはイエス様ですから、このお方こそ、私の命のオーナーなのですね。

あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。<ヨハネ17:2>


見ざる、言わざる、聞かざる
 
 日光東照宮という絢爛豪華な徳川家康が祀られた神社に、3匹のお猿さんの見事な彫り物がありますね。

 見なくてよいものを見ず、聞かなくてよいものを聞かず、いらぬおしゃべりをしないと、よい彫り物だと位にしか思っていませんでしたが、これは耶蘇教(キリスト教)に対してのことを言っているのだそうです。

 大分がそうであったように、ここにも大勢いたであろう殉教者のことを思います。また、迫害した人々の救いと解放を祈ります。(た)
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# by mitiru-takae | 2019-02-28 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.326 神様に怒って文句を言うお話 (大分ギャザリングから) 2019.1.27

神様に怒って文句を言うお話
(大分ギャザリングから)

 ギャザリングも終わり、ちょっとほっとしていると、風邪をひきこんでしまいました。
 「あー、なんてこと、追い出しましょう。祝福のほかはいらないのに・・・」

 でも、風邪のウイルスは結構しつこいですね。
 幸い、インフルエンザではありませんでした。

 「これは神様が守ってくださったのよね」
 と、喜びましたが、あれっ、ちょっと待てよ・・・・・。
 
 讃美歌532番を開いてみますと、禍(まが)も幸だと歌っています。両親が大好きな讃美歌でした。

 これを歌うたびに、父は「禍も、幸なんだよ」といっていましたが、何故、禍も幸なのでしょう。風邪も幸ですか?

3. ひるとなく、よるとなく、
  主はともに ましませば、
  いやされぬ やまいなく、
  さちならぬ 禍(まが)もなし。
  (くりかえし)

 今回の大分ローカルギャザリングでヨアンナ師が、子供たちへのお話の中でこのようなことを話してくださいました。

 「何かが、うまくいってる時は、神様のおっしゃることも信じやすいかもしれない。」
 「でも、こんなときはどう?神様に怒ったりしませんか?」
 「『神様を信じているのに、どうしてこんなことが起こるの』というようなことが起こった時などです。」

 「例えば、朝から、目覚ましが鳴らない、車のエンジンがかからない、遅刻をする、頼んだサンドイッチが注文したものと違っていた、電話に出たとたんバッテリーがきれた、マッサージ機のスイッチが切れている・・・・・・」などなど、ありそうなお話を楽しくしてくださいました。

 「神様がどうしてこんなことを許された(もちろん悪魔に対して)のか聞いてみました…。」
すべてのことには一つ一つそうなったわけがあったのです。

 「神様は、状況がいいときにも悪いときにも、私を信頼しなさいといいました。」
 それは、私たちには、わからないことが多いからです。
 つまり、神様は、すべてのことを知っています。今から何が起こるか。どうなるのか…などです。

 神様はとても良いお方ですから、私たちをいつも守ってくださっています。
 すべては神様のご計画、その御手の中にあるから安心なんです。

 確かに病気はつらいし、困ったことが起こってくると、逃げ出したくなったり、人を恨んだりしてしまいます。

 でも私たちは子供のころはよくわからなかったかもしれませんが、長い人生を振り返ってみると、私たちが神様と一番近かった時は、私たちがとても苦しかった時の方が多いようです。

あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、あなたの地は「配偶ある者」ととなえられる。主はあなたを喜ばれ、あなたの地は配偶を得るからである。
若い者が処女をめとるように
あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように
あなたの神はあなたを喜ばれる。 <イザヤ62:4、5>

 私たちは配偶のあるものであって、見捨てられることはありません。
 神はいつも私たちを花嫁のように喜んでくださり、いつも共にいてくださるお方です。
 私たちは配偶なるイエス様といつも一緒なのです。嬉しいですね。(た)
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# by mitiru-takae | 2019-01-31 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.325 わたしを楽しんでくださる主 2019.1.20

わたしを楽しんでくださる主

 「2019年第一回大分ローカルギャザリング」が、無事に恵みのうちに終わりました。
 たくさんの喜びの絆によるご奉仕が、一つ一つあげることができないほどありました。心から感謝します、ありがとうございました。

 70数名の神の家族が集まってくださり、子供たちの賛美と、祈りとダンスなども交え、本当にうれしい、楽しいギャザリングでした。
 ヨアンナ師の、子供たちへのお話では、私たち大人でさえ、神様のご計画の素晴らしさを知らず、思い通りにならないことに文句を言ってしまうという、思わず悔い改めさせられることもありました。

 「主に贖われた者たちは、帰ってくる~」と賛美しながら始まった、今回の大分ローカルギャザリングの中で、特に私が嬉しかったこの聖書の箇所をここに取り上げてみました。

あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、あなたの地は「配偶ある者」ととなえられる。主はあなたを喜ばれ、あなたの地は配偶を得るからである。<イザヤ62:4>
若い者が処女をめとるように
あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように
あなたの神はあなたを喜ばれる(あなたを喜びとされる【新共同訳】)。<イザヤ62:5>

 神様が一番喜んでくださることは、私たちが神様のもとに帰ってくることではないでしょうか。
 イスラエルの民しかり、放蕩息子しかり、そして、私たちもしかり、私たちが、主のもとに帰るとき、主は「あなたは私の喜び、楽しみだ」と言ってくださるのです。
 私たちを喜び楽しんでくださる主を私も喜び、主と共にいることを楽しみます。

 ギャザリングの翌日、永野先生が、「キリストの福音大分教会は詩編133:1のお言葉そのものですね」と言ってくださいました。
 これはホントに神様がこの教会を、喜んでくださって、イエス様のお体なる一人一人を見て楽しんでくださっているんだ、という思いに浸されます。
 神様の喜びをダビデは手に取るように知っていたのですね。

見よ、兄弟が和合して共におるのは
いかに麗しく楽しいことであろう。
それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。
またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。<詩篇133:1~3>

 もう一つの喜びがあります。
 先生方の預言や幻で、ここに(教会、しいて言えば恵みの座、この大分の地)命の水が湧き出る泉があるということです。
 「永遠の命に至る生きた水が川々となって腹から流れ出て、この地を覆い、あふれて流れ出すんだ」という故釘宮義人牧師(この日1月14日は義人牧師の誕生日でした)の言葉を思い出しました。
 そして、いつもこの恵みの座を潤す聖霊の水が、だんだんと増えていき、満ち満ちているのを私はいつも見させていただいていたことを思い出しました。
 ここに、橋本牧師の「剣の舞」を見ることとなり、その剣を(すでに幻を絵にかいたものがありました)私が恵みの座に突き刺すということになりました。幻の成就です(神を恐れます)。
 その時、藤江先生、石原先生の奥様のお二人が共に同じ幻を見ていました。
 剣を刺した途端、命の水が間欠泉のように高く噴き出したというのです。

 預言の絵はミカエルが剣を刺した途端、下にある心臓から、マグマ(イエス・キリストの血潮)が噴出したというものでした。この二つの幻と、私たちの行動が、ここで一つとなりました。
これは次のギャザリングにつながっていきます。ハレルヤ!(た)
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# by mitiru-takae | 2019-01-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.324 暗黒の中から叫ぶ祈り 2019.1.13

暗黒の中から叫ぶ祈り

そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。すると海の荒れるのがやんだ。
そこで人々は大いに主を恐れ、犠牲を主にささげて、誓願を立てた。
主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。<ヨナ1:15~17>

 ピノキオというお話を聞いたことがあると思います。
 旧約聖書に書かれているヨナ書にでてくるお話によく似ているところがあります。

 それは大きな魚にのまれて、その魚のおなかの中で過ごすというところです。
 ピノキオ(ピノッキオの冒険【イタリアの作家・カルロ・コッローディの児童文学】)のお話は、このヨナ書の一部を参考にしたのでしょうか。

 キリスト教的にも、色々な教えが含まれていたり、社会風刺がちょっときついとか、結構私たちが知っているより、大人向けのお話かもしれません。
 それにしても嘘をつくと鼻がのびるなどとても面白いお話で、原作を読んでみたいなとも思ってしまいますネ。

 ヨナ書はイエス様がお生まれになるまだ前の時代のものです。「3日間お魚のおなかの中にいた」というのも、なんだか、イエス様の死んで黄泉に下った期間と同じですし、イエス様自身、このヨナについて言及していますね。

すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。<マタイ12:39>

 イエス様は私たちの罪のために、十字架にかかり、黄泉に下り、死と黄泉に打ち勝ってよみがえられました。
 そして天に上り、父なる神のすべての権威をもち、聖霊様を私たち一人一人に送って下さったのです。
 これ以上の私たちに与えられるしるしはこの世にはありません。

 私たち人間の救いのために、この世のすべてのものが、神によって用意されました。

 私たちが生きているうちには、戦争や、貧困、病気や悲しみ、色々なつらいことも介入してきただろうと思いますが、しかし、私たちの勝利は約束されています。

 ヨナは魚のおなかの中で祈っています。

ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、
言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた<ヨナ2:1、2>

わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。<ヨナ2:7>

しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」。
主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。<ヨナ2:9、10>

 ヨナもおなかの中で、へとへとに弱りはて、黄泉の腹というくらいですから、大変な罪責の思いや、魂の暗黒を体験していたのだと思います。
 でもここで、ヨナは「救いは主にある」と告白するに至るわけです。

 祈り、それは、「悩みのうちから主を呼ぶ、黄泉の腹から主に叫ぶ」です。

 そして自分の弱さを知る中で、主を覚えて祈ると、祈りは主に至り、それは聖とされていき、聖なる宮に達する―――と、いうのです。

 ヨナは感謝し、礼拝します。
 主との約束を果たすと誓います。
 それは私たちも同じです。
 すると、魚の口は開いて、光の世界に出るのです。(た)
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# by mitiru-takae | 2019-01-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.323 新年おめでとうございます 2019.1.6

新年おめでとうございます

【2019年指標聖句】
あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。<ローマ12:1>

 主の恵みの年2019年を心から感謝いたします。

 新しい年が主に喜ばれる毎日となります様に、期待を胸に膨らませ、一日一日を大切に生きていきたいと思います。

 指標聖句はいつも不思議と何かのきっかけであたえられます。
 今年の指標聖句は、結構早くから考えてはいたのですが、人間的に探すと、みことばは素晴らしい言葉が多すぎて、これを選ぶのは大変難しいものです。

 皆さんも経験があると思いますが、何かのために自分で考え、探していると、毎日、「あ、これもいい、このお言葉は素晴らしい」と、きりがないのです。(笑)
 
 しかし、主に与えられるみことばは、動くことがありません。
 感謝して今年一年、私たちがささげるまことの礼拝を、このお言葉(ローマ12:1)に従って捧げて行きたいと願っています。

 私たちの希望はいつも主の御手の中にあります。

 礼拝ももちろんそうですし、教会にいるときだけでなく、ご家庭に帰ってからも、職場においても、私たちが生きているその所のすべてが、主のご計画の中で、動いているのです。
 
 イエス様の側に立つものとして、神が選ばれた聖徒の一人一人が、この地上で生きていくとき、神のご計画から一人も漏れることはありません。
 選ばれた、と言うとき、私たちの魂は神のものと変えられているからです。

あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。<ローマ12:2>

 世に調子を合わせるな(新改訳)と言われてもなかなか難しいものです。

 しかし、心が神の側のものと変えられるならば、私たちにとって世は調子を合わせるほどの価値のあるものではなくなります。
 私たちが自分で心を新たにすることは難しいでしょうが、神にできないことはないのです。

 救いは神から来ます。イエス・キリストのほかに救いはありません。

 この大いなる恵みと憐れみに、私たちはどれだけお返しすることができるでしょうか。
 それは神が喜ばれるものでなければ、わたしの身勝手な信仰の表れとなるでしょう。

 お返し、それは私たちの心からなる賛美です。神をほめたたえる以上の神にお返しできるものは、この世にはありません。
 主をほめたたえます。
 
 私たちの日々の生き方をパウロはこの後12章で語ってくれていますが、これらの教えの基本となるのは、神への礼拝です。
 それは、いつも神の側(がわ)に帰ることでもあります。

 アブラハム、イサク、ヤコブたちが行く先々で、祭壇を築いたように、私たちも神を礼拝することを、信仰の基本としていきましょう。
 旧約の時代はいけにえとして祭壇に動物をささげていましたが、今の私たちには私と共にわたしの中で、生き動き存在する私の救い主イエス様の命があります。
 この命は神がご自身を「生きた供え物」とされたものです。

 実際には教会の礼拝の中で、いろいろな集会の中で、私たちの体をささげていくことですが、このことを可能にできるのは、私のうちにある「生きた供え物」としてのイエス様が、私をささげることができるものに変えてくださるからです。
ハレルヤ!(た)
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# by mitiru-takae | 2019-01-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)