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No.484 神様が喜ぶ視線 2022.2.6

神様が喜ぶ視線

主の言葉がまたわたしに臨んで言う、「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「あめんどうの枝を見ます」。
主はわたしに言われた、「あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っているのだ」。<エレミヤ書1:11、12>

 イスラエルでアーモンドの花が咲き始める2月ごろになると、ユダヤ暦のカレンダーには、よくこのみことばが載っています。
 たぶん何年か前のこの季節に、満ちるでも取り上げたお言葉だったはずです。

 今は色々な訳を見ることが出来ますが、今日は新共同訳(1987年版 旧約聖書続編つき)を見ることにしました。
 この聖書は父が使っていたものですが、出版されてすぐ買い求めたらしく、裏表紙の父のサインを見ると、1987.9.19と書かれています。
 上記のエレミヤの聖書箇所に、父のメモがありました。
 二世代にわたって同じ聖書を読むのは、横に走り書きしたメモなどがあり、故人の写真を見るようで、嬉しいし懐かしいものです。

 さて、「あなたの見たとおりだ」とある12節ですが、「よくぞ見たものだ(新改訳改定第三版)」という訳もあると知り、神様のエレミヤへの返事に、改めてゾクッとしました。
 神様が喜んでおられるその気持ちが伝わってくるようです。
 「エレミヤよ、よくぞ見てくれた。そうだそうだ、そここそ、私が見張り続けているところだ、いや、いつ自分の計画を実行しようかと・・・。」

 神様が見張り続けているところ、私たちに気付いてほしいと思っているところ、その意味を知ってほしいと願っているところに的中したエレミヤの視線に、神様はどれだけ喜んだでしょうか。
 私たちも、友人などが自分と同じところを見ていると気が付いたときは、嬉しくて、つい肩をたたきあってしまうほどです。

だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。<マタイ24:42>

 共感する、また同じビジョンを見ることは素晴らしいものです。
 信仰のことであればなおさらです。
 神様にしてみればこれほど嬉しいことはないでしょう。
 人間を創られたときの神様の人間に対する期待がよくわかります。

 さて、父のメモに戻りますが、「アーモンドの枝が見えます。」のところに赤い線が引いています。そしてその上のほうに「幻であると思う」と書いていました。
 そのあとの「煮えたぎる鍋が見えます」と言うところにも赤で線を引いています。ドキッとしました。

 アーモンドも煮えたぎる鍋も、ともに神がエレミヤに見せた幻だと思います。
 神様からの幻、また意思をはっきりと見るものは幸いです。

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。<ピリピ2:13>

 神様は御自身のものと、私たちのビジョンと思いを一つにして実現してくださるお方なのです。
 神様といつも同じものを見ているというのは、とても平安があります。
 私たちの目、口、心の思いがいつも神に喜ばれるためには、霊の目をいつもさましておくことです。

 自分にとって目をさましておくということは、具体的にどうすればよいのでしょうか、お一人お一人が祈って神様に聞いてみましょう。
 心が、神様に向いていると、目も同じ方向を向きます。
 目を無理やりにでも神様に向けると、心も神様のほうに向くはずです。

 「もう少し、聖書のお話を父と沢山したかったなあ」
 今はもう出来ないことをつぶやいていますが、聖書を書かせたお方である神様ご自身が答えてくださるに違いありません。

 神様が用意してくださる、神様と同じ幻を、神様の側に立って見ていたいですね。
 (ビジョンとは:①理想像、未来像、展望、見通し。②幻、幻影)(た)
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# by mitiru-takae | 2022-02-06 07:04 | 満ちる | Comments(0)

No.483 見えないところに真実がある 2022.1.30

見えないところに真実がある

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。<第二コリント4:18>

 「形あるものは壊れる」とよくいわれます。
 ガラス製のグラスや、瀬戸物の茶碗など、割れて当たり前くらいに思っていないと、気に入っていたものが割れると、残念でたまりません。
 しかし、たとえ壊れてしまっても、壊れたものの背後にある大切な思い出や、言葉は忘れられません。
 物も大切ですが、ものに対する思いや愛情はもっと大切なものです。

 世の中のすべての見えている物は、かけがえのない、素晴らしいものです。
 何百年たっても壊れない建造物があります。
 何千年たっても、少しも輝きを失わない宝石もあります。
 ところが、私たち自身の命がなくなると、これらのものが、どんなに素晴らしいものであっても、世に存在しない私にとっては、何もないのと同じです。
 全てのものはなくなってしまうのです。
 この世に生きているときに一生懸命貯めた財産も貴金属も、私たちにとっては、この世に生きている時だけのものにすぎないからです。

 イエス様が、「見えないものに目を注ぎなさい」と言われた、見えないものとは一体何でしょうか。
 この世でも地位、名誉、権威など、見えないものがあります。
 親切心であっても、サタンに利用されやすいものです。
 イエス様が「目を注ぎなさい」と言われたものとは、この地上のものでしょうか。

 今私たちが持っている「天国の宝」こそ、天に持っていけるものであり、また、この地上でも持っていられるものです。
 これは目に見えません。
 でも、永遠に私の所有物なのです。
 そして管理は、常にイエス様がしてくださっています。
 泥棒も、盗むことが出来ないのです。
 腐ってしまうこともありません。
 素晴らしいですね。

 この天国の宝に、目を注ぎましょう。
 肉の目には見えないのですが、イエス様を信じている私たちには、聖霊様という強い味方がいますので、見ることが出来るのです。
 確かに、霊の目で見させてくださいます。
 どんなにすれば霊の目で見えるのか、天の宝に心を注いでみましょう。
 み言葉がいつも言ってくださっているように、私たちに与えられている宝が見えてきます。

わたしを愛する者に宝を得させ、
またその倉を満ちさせる。<箴言8:21>

 私たちが日々生きているのも、神様の大いなるご計画によってです。
 この地上で生きる私たちにさえ、大きな恵みによって天国の宝をくださいます。
 また、天に帰ることが出来るのも、私たちへの憐みと愛による、大きな救いのご計画です。
 罪の一切ない人間イエス様によって完成された神様のご計画なのです。

そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。<マタイ24:2>

 エルサレムと神殿がやがてローマから破壊されるとご存じのイエス様でした。
 神殿の積まれた石を見るとき、イエス様には、エルサレムのこれからの姿が見えています。
 イエス様の見ているものを、私たちも見せていただきたい。
 崩されるだけでなく、イエス様の十字架の死だけでなく、サタンに打ち勝った復活と、昇天のイエス様を見、やがて来られる再臨のイエス様を見ることが出来ますように、目をイエス様から離さないでおきましょう。

 イエス様がいつ私たちを迎えに来てくださってもよいように、いつも準備しておくことが大切です。
 マラナタ!(た)
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(目に見えないもの)です

















# by mitiru-takae | 2022-01-29 21:32 | 満ちる | Comments(0)

No.482 オーライ、オーライ 2022.1.23

オーライ、オーライ

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。<ヘブル12:2>

 子供のころ、大分から鶴崎に行くときに乗るバスには女性の車掌さんが乗っていました。
 国道197号線を走っていくと、途中日豊本線の無人踏切にぶつかります。
 それがちょうど、今の私どもの教会の近くの197号線上なのです。
 そこに差し掛かると、車掌さんはいったんバスを降りて、笛を吹きながら「ピッピー、オーライ、オーライ」と、踏切を渡るバスを誘導していました。
 その姿が子供の私の目にはえらくカッコよく見えていたものです。

 今のバスは、運転手さんがすべてのことをやっています。
 コンビニの店員さんといい、バスの運転手さんといい、色々な仕事を一人でこなすのはとても大変そうに見えますが、機械や器具を使いこなしたりすること等、訓練されているのでしょう。

 私たちが、家で電子レンジを使って調理するときなど、ほんとにできるのだろうか、生のままではないだろうか、などと心配して、何度も扉を開けてみたりはしません。
 車の運転も、エンジンをかけても車のエンジンは?タイヤは?はたして動くのだろうかなどとは考えません。
 それは、どんな器具であろうと、使えるとわかっている物を使うからです。

 車掌さんの「ピッピー、オーライ」も、運転手さんと車掌さんの間に信頼関係が成り立っているので、踏切を渡れるのです。
 「オーライ」と言ったのに、電車(当時は汽車です)や、他の車が飛び込んでくれば大変な事故になります。
 
 私たちにとって安心してついて行くことが出来るのはイエス様だけです。

そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。<使徒5:31>

 わたしたちに「ピッピー、オーライ」と、正しい道を示してくださるお方、安心してついていけるお方、目的地に向かって最善の道を教えてくださるお方、それがイエス様です。
 寄り道をしたり、大きく迂回しすぎたり、途中でイエス様を見失ったりと、私たちには色々なことが起こります。
 けれどもそのためにイエス様は導き手として、救い主として働くために、神の右に挙げられたのです。
 十字架の死を通して、また復活の命を目の当たりにして、私たちが自分の罪に気付き、イエス様に従えるように、「オーライ」の声をかけてくださっています。

 私たちと神様の間の信頼関係がより密接になるのは、もちろんイエス様によって私たちの罪が赦されることです。
 すでに神様の御前に進み出ることが赦されている、贖われた私たちが、ともすれば、わき道にそれる原因は、毎日のちょっとした罪の解決が出来てないからです。
 
イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。<ヨハネ13:10>

 毎日汚れる私たちの足を、イエス様は洗ってくださいます。

ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。<ヨハネ13:8>

 洗っていただかないと、あなたは私と何の関係もなくなると、イエス様は言われます。
 信頼関係を保つために、毎日、イエス様の前に、汚れた足を差し出して洗っていただきましょう。
 また、私たちの神の家族を思い、とりなし祈りながら足を洗いあうことです。
 「オーライ、オーライ」の信頼の仲ですから。(た)
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# by mitiru-takae | 2022-01-23 11:52 | 満ちる | Comments(0)

No.481 見よ、すべてが新しくなった/福音を誇りとする 2022.1.16

【釘宮義人生誕100年記念号】
見よ、すべてが新しくなった

見よ、わたしは新しい事をなす。<イザヤ43:19>

 私たちは神様の宣言を聞いたのです。
 それはやがて起こるのだと言いました。
 私たちが知らない、解らないと言っている間にも、着々とその時は迫っていました。
 そしてそれは起こりました。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。<第二コリント5:18>

 全てが新しくなりました。
 イエス・キリストが来られたからです。
 私たちはイエス・キリストの信仰によって新しくされました。

イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。<ヨハネ3:3>

 新しく生まれなければ、神の国を見ることが出来ません。
 神様は、私たちを神の国に招くために、イエス様をこの世に送ってくださったのです。
 それは初めからの神様のご計画でしたが、ついにそれがかなったのです。
 そしてすべてが新しくなる時が来ました。
 古いものを捨てて、新しいものに着替えます。
 私たちはイエス・キリストを着たのです。(た)

 
福音を誇りとする

わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。<ローマ1:16、17>

 今日は、故釘宮義人牧師の生誕100年記念礼拝の日です。

 「義人」の名前にプレッシャーを感じていたころもあったと思いますが、名前は自分でつけるものではありません。
 素晴らしい神様からのプレゼントなのです。
 すごいじゃないですか、義人なんて名前、それに決して名前負けなどしていません。

 私たちは皆、イエス様に贖われ、信じる者の特権である神様に義(正しい)と言っていただける者なのです。
 実際の私たちのからだや、この世的な肉の心は、神様の前に正しいとされるような聖いものではありませんが、私たちの心の奥にある神からいただいている霊は、イエス様の聖い衣に包まれて、天の父なる神と繋がっています。

 神様は霊なるお方です。私たちも霊とまことをもって礼拝するように、聖書の中で示してくださっています。
 私たちをイエス様の贖いによって新しく生まれ変わらせてくださった天の父なる神様は、この世ではイエス様と共に生きなさいと言われます。
 この世にいる間に、信仰から信仰へと、私たちの霊は成長し、変えられ、肉の心までも段々と変えられていきます。

 父は、天に帰る何年か前ごろから自分は「凡聖だ」と言っていました。
 「少し傲慢に聞こえるけれども、老人の言うことだからまあ、いいかなあ」
 などと、私たちは眉をひそめて笑っていましたが、そうではありませんでした。
 私たちも、自分でそう言えるくらい、霊性を高めていただき、天に駆け上がることが出来れば、こんな素晴らしいことはありません。

 私たちの中に生きてくださるイエス様により、私たちは聖くなれるのです。
 大きな声で、「私の中に生きてくださっている義人(イエス様)によって、私も「信仰によって義人へと生かされ成長しつづけています」と宣言できます。
 それは傲慢ではなく、「キリスト我がうちに在りて生くるなり」のお言葉が生きているということなのです。
 この福音を私の誇りとします。(た)
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# by mitiru-takae | 2022-01-16 14:24 | 満ちる | Comments(0)

No.480 神ご自身の宣言を聞く 2022.1.9  

釘宮義人生誕100周年記念日にむけて
神ご自身の宣言を聞く

「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、
また、いにしえのことを考えてはならない。
見よ、わたしは新しい事をなす。
やがてそれは起る、
あなたがたはそれを知らないのか。
わたしは荒野に道を設け、
さばくに川を流れさせる。
<イザヤ43:18、19>

 私の父は面白い人でした。
 いわゆるハウツー(How to)ものの本が大好きでよく読んでいました。
 そして自分からも、神様が示してくださっている「どうすれば、これができるのか」と言うことを、聖書を通して教えてくれていたのです。
 クリスチャンとしての生き方の「正攻法」というより、神に愛されるための「成功法」を説いてくれていたのです。

 父が面白いのは、この成功法を説きながらも、すべてのものがダメになったとしても恐れない、全く教えてもらったことが出来ない、という時でも、神の全能の力によってあなたは何でもできるという霊的に高い境地を示してくれる人だったということです。

 父を表面だけみれば、「笑い」「心に命令する」といった、方法論ばかり言う牧師、と思われたりしそうですが、実は非常に霊的な人でした。

 特に若いころは、神の「愛」を説くよりも先に「義認」を迫る人でもありましたので、すごく厳しいと思われていたようです。
 しかし、この「義認」も、理屈ばかり難しいことを言うのではなく、「自分の罪を心の底から知り、悔い改めてイエス・キリストの贖いによる神の愛を聖霊によって知らされる体験」を迫っていたのです。

 自分が体験したイエス・キリストの十字架の愛を、みんなにも体験してほしかったのだと思います。

 神様が「見よ、私は新しいことをなす。」と言う時、この新しいことを、必ず私たちは見ることが出来るという神の約束の宣言を聞いているのです。
 正攻法でいえば、そのお言葉を信じ、みことばを告白し続けるということになるでしょうか。

 私たちは神の宣言を聞いているのですから、これは必ず成就することだと受けとります。
 そして「はい、わかりました」と答えます。
 この答えは分からなくても、「わかりました」と答えるのです。

 ヨシュア記に、ヨルダン川を渡るときの奇跡のお話があります。

こうして民はヨルダンを渡ろうとして天幕をいで立ち、祭司たちは契約の箱をかき、民に先立って行ったが、箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、――ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが、――上から流れくだる水はとどまって、(中略)塩の海の方に流れくだる水は全くせきとめられたので、民はエリコに向かって渡った。すべてのイスラエルが、かわいた地を渡って行く間、主の契約の箱をかく祭司たちは、ヨルダンの中のかわいた地に立っていた。そしてついに民はみなヨルダンを渡り終った。
<ヨシュア:3:14~17>

 もし、恐れて、足を水の上に降ろすことをしなかったならば、いつまでたってもこのヨルダン川を渡ることはできなかったでしょう。

 子供のように「わかりました」と、そのままの神のお言葉に従う時、周りから見れば、何の理屈も教理もないように見えるかもしれませんが(恐れるな)、実はこれこそが聖霊のお導きを受ける成功法となるのです。

 父は今月14日(2022年1月14日)で、生誕100年を迎えます。
 100年生きることは大変です。父は90才で天に帰りましたが、それでも、長生きさせていただいたと思います。
 この生誕100周年を記念して、短い文章ですが小冊子を作ることにしました。
 これを書いたころの父の文章が私は大好きです。

 是非、皆さまに、父釘宮義人の生きた証の一つとしてお手元においていただきたいと、心から願っております。満々感謝! (た)
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# by mitiru-takae | 2022-01-09 15:51 | 満ちる | Comments(0)