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No.437 空模様と時のしるし 2021.3.14

空模様と時のしるし

パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。
イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、
また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。<マタイ16:1~3>

 最近は日本の四季の変化も乱れがち?というのもおかしいが、私的には春と、特に秋が短くなったような気がする。
 秋と冬の空を見るのは楽しい。
 雲がとても美しいからである。

 私は大好きな空の雲を見て歩く事が多いのであるが、時々、「地震雲?」と思えるような雲も見かける。
 こういう雲はなかなか消えないようだ。

 最近は人工衛星によって雲の動きなど色々な事がよくわかるので、テレビやスマホなどで、天気予報を見たり調べたりすることが多い。
 それでも、空模様とりわけ、夕焼けや朝焼けを見て、今日、明日の天気を予想するというのは、昔から今に至ってもあまり変わらないものだ。

 イエス様はパリサイ人達の教えを「パン種(悪い教え)」と言って、警戒するようにと、弟子たちに言われた。
 この教えがひとたび私たちの心の中に入ってくると、まるでパン種のように増え広がり、その人の心をとらえてしまうからであろう。

 私たちは天の国の祝福の種をいただきたい。

 この頭の良い、恐るべき律法学者たちではあるが、イエス様との問答では勝つことがない。
 今回も、イエス様は彼らを軽くあしらって、置き去りにして、立ち去ったのである。

 「ヨナのしるし(ヨナ書参照)」とは、まさしくイエス様の事である。
 十字架にかかり、死んで、死と黄泉に打ち勝ち、3日後によみがえるイエス様をあらわしたものである。
 この一大絵巻の中に登場する、パリサイ人たちは、自分たちがかかわっていることのしるしだと、気付いてか、気付かずにか、次の句を出す前に、イエス様は去って行かれたのであった。

いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。
そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。
天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。<マタイ24:32>

 マタイ24章の一部を挙げたが、ここに書かれていることは、まるで、今の私たちが生きている時代のようである。

 主が来られる日は近い。
 多くの情報が飛び交う今、私たちは本当の神様からのしるしを見分ける力をいただいて、しっかりと、イエス様と共に生きていこう。

 昼も夜も、時間もない混沌とした世界に、神様は光を作ってくださった。
 それは、私たちが見て時がわかるようにである。
 人間が創られる以前に神は光を創ってくださった。

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。<創世記1:3~5>

 神のご計画のすべてを見ることができなくても、必要なところは「しるし」として私たち一人一人に見せてくださる。
 はじめはイエス様のお言葉がわからなかったニコデモさん(ヨハネ福音書3:1~10参照)がびっくりするくらい、私たちは神様の御心を知るものとなりましょう。(た)
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# by mitiru-takae | 2021-03-14 14:29 | 満ちる | Comments(0)

No.436 信仰による命がけの計画 2021.3.7

信仰による命がけの計画

モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。<エステル4:13、14>

 人が人としてあるべき姿で生きていけない、自由のかけらもない日常を強いられる人たちがいる中、私たちが今の自由を当然のように享受出来ていることは、神の恵みのほかに何も見いだすことができない。
 最近の世界のニュースを見ていると、人間が貪欲というサタンの罠にかかるとこの当たり前が、どんなにもろくて崩れやすいものであるかがよくわかる。
 
 「あなたは日本にいる故、自分は迫害や暴力、戦争や飢餓から逃れることができると安心しているのか、いやそうではないだろう。」
 「あなたが今生きているのは、このような時の為ではないのか。」
 モルデカイがエステルに言った言葉が、結構重くのしかかる。どこか、逃げたいような言葉である。

 自分の身に降りかからないものはすべて他人事である。
 だからと言って、神は、皆に「行って自分も命を捨てて戦え」「飢えている人々がいるのにあなたは食事をするのか。」などとは言わないであろう。

 誰にでも、神にいただいた人生がある。
 与えられている場所は大切なものだ。
 マザーテレサが言ったように、遠くに出かけて行くよりも、あなたは、あなたの近くにいる隣人を愛してほしいというだろう。
 エステルはまさしく彼女の家族である、ユダヤ民族のために命を懸けたのである。

 視点を変えて、イエス様の言われることに目を向けてみよう。

『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。<マタイ5:43、44>

 私たちの本当の敵は、人間ではなくサタンである。
 サタンと戦えるのは神、そして仕える天使たちである。
 そして、神とともに私たちが戦うことができるのは、主イエス・キリストがうちに生きているからである。

 私たちはその悪しき者に騙され支配されないように、私たちの家族、友、そして隣人のために、また、全世界の人々のためにも対抗し、神の側のものであるという意思   表示をしっかりし、戦っていかなければならない。
 決戦はいつも今である。
 執り成しの祈りは、戦いだ。
 イエス様なしではできない。
 エステル記では、神ということばは出てこない。しかし、神のご計画がエステルやモルデカイを支えてくださっていたことは明白だ。

 私はまだ死ぬほどの戦いをしたことはない。
 いつも主に助けられていたのだろうし、戦わねばならないときに、エステルのような覚悟ができていなかったのかもしれない。

そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、
「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。<エステル4:15、16>

 地上の悪の法律に背いたとしても、神の御心があれば助かる。
 燃え盛る炉の中で助けられたダニエルの三人の友人たち、そしてライオンの穴から助けられたダニエル自身のように、である。
 神の義はすべてにおいて勝利するのである。
 信じよう!

 エステルとモルデカイが命を懸けることができたのは、神の成すご計画が、信じる者を救うものであると、信じる信仰によってだ。
 私たちも主イエス様の信仰によって人生の勝利を信じることができる。(た)
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# by mitiru-takae | 2021-03-07 16:53 | 満ちる | Comments(0)

No.435 荒野に水が湧く時 2021.2.28

荒野に水が湧く時

群衆は、口のきけなかった人が物を言い、手や足が不自由だった人がいやされ、盲人が見えるようになったのを見て驚き、そしてイスラエルの神をほめたたえた。<マタイ15:31>

その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。<イザヤ35:6>

 イスラエルの神をほめたたえたのは異邦の人々であろう。
 彼らが驚き、ほめたたえずにいられなかったのは、イスラエルの神の驚くばかりの力(権威)を見たからだ。
 彼らが今まで知っていた神は、ただのうわさに過ぎなかった知らない神であった。
 私たちもそうだが、人のうわさは面白いが、真実とは思えない。
 心の中で眉を顰めるものだ。

 特に、色々な奇跡の話は手をたたいてほめるか、羨むか、また、パリサイ人達のように「ベルゼブルによって悪霊を追い払っているのだ」と言いかねない。
 たとえ信じて「素晴らしい」と声を上げたにしても、まさか自分に同じことが起こるなどとは思いもしない。
 このように不信仰極まりないのが私たちである。

 と言っても、魂の素直な人たちは、本当に小さな奇跡であっても、大喜びするであろう。
 イエス様にしてみれば、重い病気も軽い風邪も、同じなのであるが、私たちは自分で勝手に「これは癒される、これは無理だろう」と決めつけてしまう。

 父(釘宮義人師)が、かつてよく言ったものだ。
 「小さな信仰をたくさん積み上げて、信仰を大きくしていただこう。小さな怪我や、痛み、風邪など、祈って癒しを受け取ろう。そして祈りが叶ったならばそれは一つの成功として積み重ねていく。この成功をたくさん増やしていけば、私たちの信仰の数が増してくる。」

 預言者イザヤは必ずこのような日が来ると信じていた。
 神がイザヤに語ったからである。
 「預言者とは辛いものだ、国がどん底状態にあるときでも、未来の希望を神が語れと言えば言わねばならないし、またこれと反対のこともあるわけだ。」
 とは、父のよく語った言葉である。

 み言葉は、すべて神の霊によって言葉に書かれたものである。
 イザヤの語った預言は、今、直接私たちが神に聞いている言葉なのだと言える。

 私たちはみ言葉に希望を持つ。そしてまた期待する。
 必ず荒野に水が湧き出でる時が来る。
 そして湧き水は川々となって流れ出すだろう。
 その時、私たちの不自由な体は踊りだし、人々は真実を語るようになる。
 そして私たちは神の言葉を掲げて、喜び走り出すのである。
 神の言葉は川々のように全世界に広がっていくのだ。

その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。<詩篇19:4上>

 イエス様の奇跡を目の当たりにした人々の驚きの様が、神を知り、信じるに至る大きな契機になったことは確かであろうと思う。

 私たちも知ろう。
 主の奇跡が起こるということ。
 目の前で、足の不自由な人が踊り、走り出し、言葉を発することができなかった人が喜び歌いだすのを。

 イエス様の祝福は、すべての人に満足を与え、有り余る喜びと平安で満たしてくださる。

 人生の嵐の中、また、砂漠のただ中でパンと水に渇ききった時、必ずイエス様は、「かわいそうだ」と言って飲ませ、食べさせてくださる。
 それは実にイエス様ご自身のおからだと血潮だ。
 それをいただいて私たちはイエス様と一つになるのである。
 ハレルヤ!(た)
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# by mitiru-takae | 2021-02-28 15:30 | 満ちる | Comments(0)

No.434 小犬は主人と同じパンを食す 2021.2.21

小犬は主人と同じパンを食す

イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。<マタイ15:26~28> 

 カナンの女が、娘の癒しについてイエス様に懇願した時の話である。
 イエス様は、彼女が叫び続けているにもかかわらず、この時、一言もお答えにならなかった。
 イエス様は意地悪をしていたのであろうか。
 私たちも、必死で祈り求め、答えを求めているにもかかわらず、何一つ新しい発想も与えられず、痛みは治らず、状況は悪化の一途をたどる、といった経験を一度はしたことがあると思う。

 応えてもらえない。
 求めに応じた答えをもらえない。
 つまり、自分の思いや望み、渇望が満たされないということがある。
 これはどういうことであろうか。
 よく父(義人牧師)は、「時々イエス様は、知らん顔をする」といったものだ。私も、これは試しであると思っている。
 ただ、すべてのことについてご計画を持っているイエス様が、私たちにとっての最善をなさっているということだけは確信を持つべきである。
 
 私が初めて、イエス様に祈って問題を解決していただいた時も、一旦は「自分で祈って解決せよ」という言葉に落胆したものだが、結果は素晴らしいものだった。
 自分で予期しない解決法が準備されていたからである。

 弟子たちは叫びながらついてくる彼女を「追い払ってください」と、イエス様にお願いしている。
 たとえ、イエス様が意地悪のように答えてくれない場合でも、私たちは、彼女のように叫び続ける必要がある。
 また、いつでもイエス様のお言葉に応答できる準備をしておくことだ。

 弟子に頼まれ、やっと口を開いたイエス様だったが、話しかけた言葉は、なんと実に冷たいお言葉であったのだ。
 しかし、このイエス様のお言葉への彼女の応答は素晴らしいものである。

 初めは「主よ、ダビデの子よ」と叫ぶ声に、イエス様はちょっと試してみたのかもしれない。
 異邦人だけれども、「ダビデの若枝」としての救い主を知っている。
 私がイエス様ならば、これは一寸嬉しいかもしれない。そこで再度踏み込んでみる。

 彼女は、イエス様に近寄り、拝して再度懇願した。
 イエス様はイスラエルの優位性を彼女に示し、イスラエルを主人とし、異邦人はその主人の家の小犬だと位置づけた。
 彼女の願い、求めが中途半端であったならば、またここであきらめてしまったならば、この話はここで終わりである。

 賢いというのはこのような人の事であろうか。
 まず、イエス様のお言葉を肯定する。
 確かに私は小犬(異邦人)である、と認めたうえで、主人が床に落としたものは貰うと断言したのである。
 
 「ただお言葉を下さい」<マタイ8:5~13>といった百卒長の信仰をほめた時と同じように、イエス様は彼女の信仰を見上げたものだとほめた。
 
「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。<マタイ8:13>

 百卒長の僕の時と同様に、彼女の娘はその時に癒された。

 異邦人として、イエス様の御前で、また、先に選ばれたイスラエルの民の前で、心砕かれたものとしてイエス様の前に進み出るならば、たとえそれがパンくずであろうとも、私たちはどちらも同じパンを食べる神に愛されている者なのである。(た)
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# by mitiru-takae | 2021-02-21 16:11 | 満ちる | Comments(0)

No.433 命の木に帰ろう 2021.2.14

命の木に帰ろう

律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。<ローマ8:3>

 偽善者パリサイ人たちの律法の行いは、まさに肉の律法を生かすことによって、本物を無にしてしまっていた。
 大きな罪の法則に縛られてしまっていた彼らを救う方法があるとすればただ一つ、イエスを信じることである。
 もちろん、私たちもしかりである。

 私たち人間は、アダムとエバ以来、自分の思いを優先し、神の御霊による命の木(法則)から離れてしまったのだ。
 神は命の木へと人間を戻すことができるであろうか。
 神は義(ただ)しいお方であり、人の罪をそのままで赦すことができないのである。
 しかし、神は愛なるお方である。
 なんとしても人間の罪を赦したいのだ。
 人間の犯した罪は、人間をもって贖うしか、救う方法がない。人間にはこの愛と義のジレンマを解決することはできないだろう。
 しかし、神にはできた。
 イエス・キリストを完全な人間として、私たちの罪の犠牲としたのだ。ハレルヤ!

「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。
イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。<マタイ15:2、3>

 日本人は世界一手洗い習慣が身についている民族ではないかと思う。
 私たちの国には、自然水にしても水道水にしても、きれいな水がいつも身近にある。
 食前に、手を洗うことも、いつもきれいな水を飲み、水分補給できることも、お風呂に毎日入れることも、神様からの大いなる恵みである。
 今のようなコロナ禍の中、衛生的に、感染防止のためにというのならば、実際、手洗いはとても必要なことである。

 もしかすると、本当に弟子たちはいつも手を洗わないで食べていたのかもしれない。
 あの5000人の人々に食べ物を与えた時も、手を洗う水の余裕はなかったかもしれない。

 しかし、イエス様にとって洗うといえば、それは私たちの魂のことである。
 私たちに必要なことはこれだ。
 イエスの周りに集まった人々や、弟子たちにとっては偽善者のような儀式としての手洗いなど、無用の長物であったであろう、それよりも心の手洗いをすることのほうが大問題であったのではないか。
 パリサイ人たちの手洗いの儀式は、イエス様にしてみれば大笑いのネタに過ぎず、中はウジだらけの墓の外ばかり磨き上げるのと少しも変わらないものであったろう。

口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。<マタイ15:11>

 日本でも「口は禍の元」と言うことわざがある。
 確かに手を洗わないで食事をしたとしても、菌やウィルスに感染して困るのは他人ではなく自分だ。
 しかしこれを自己責任と、他人を責めてしまえば、人を傷つけてしまうことになる。

 何より大切なことは、口から出るものが神に喜ばれるものでありたいということである。
 それは、心の中が神の喜びで満たされていることでもある。

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。<ローマ8:2>

 パリサイ人らが守る、自分に都合の良いものに変えた律法は、死と罪で、がんじがらめにされている。
 命の御霊の法則は、罪と死を打ち砕き、私たちを神の命で生かし、完全な贖い(自由)を果たすのである。(た)
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# by mitiru-takae | 2021-02-14 15:43 | 満ちる | Comments(0)