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No.381 天においてあなたがたの受ける報いは大きい 2020.2.16

天においてあなたがたの受ける報いは大きい

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。<マタイ5:10~12>

 心が貧しい人、悲しんでいる人、柔和な人、義に飢え乾いている人たちは、抑圧から解放されたい、そして幸せになりたいと、切に求める心を持った人々である。
 この人たちは、イエス様を知り、イエス様に求めた時点で、主イエスにある祝福をすべていただく事ができる。
 天国は彼らのものである。

 すべてのものはイエス・キリストにあるもの、イエス・キリストそのものである。
 また、あわれみ、心の聖さ、平和をもって行動できる人、この人は心のうちにイエス・キリストが生きている人である。
 イエス様を信じる人のすべてが、これらを与えられるし、受け取ることができるであろう。

 マタイ3章3節から9節までの7つの幸せは、イエス様を信じることにより与えられる幸せ「天国は彼らのものである」という初めの言葉に集約されている。

 マタイ5章10節は、初めと同じ様に「天国は彼らのものである」で結ばれているが、内容は「義のために迫害されてきた人たち」と書かれている。
 そして11、12節では「イエス様を信じて、イエス様のために迫害をもいとわない」という信仰の在り方が、まるでテストのように私に迫ってくるのだ。

 つまり、10節で、すべての人々に向かって言われた言葉が、11、12節では急に私に向かって迫ってくるのである。
 イエス様が向き直って弟子たちに語り掛けるのである。
 私に語り掛けてくるのである。

 この時、弟子たちは「わかった。私はイエス様に死んでもついていきます」と、固く思ったに違いない、しかし、現実はどうだったであろう。
 彼らは逃げ出したのだ。
 イエス様の死を受け止めることができなかったのだ。

 しかしその後、イエス様の死と復活、ご聖霊の満たしによって、一時は逃げ出した弟子たちも、宣教という立場で起こる自分たちへの迫害、又その恐れを克服していったのである。

 どんなに小さなことでも、迫害が自分に向いたならば、私たちは、恐れてしまう。
 最近の日本では、イエス・キリストを、信じることによってうける迫害はほとんどないであろう。
 しかし、違う形で迫害はやってくる。

 日本の文化や風習に従わないことも(仏壇を拝まない、神社に参拝しないなど)個人の宗教の自由はあるのだけれど、大きな会社などの組織の中では理解を得られないことが多い。
 人と違うことをしていると、ご近所になんとなくのけ者扱いされる。
 魂が緩んだような平和の中で、私たちはサタンの餌食となりやすい。

 直接キリストによる迫害ではないが、どうしても逃げることができない、最も私たちを煩わせるのが病による「恐れ」である。

 サタンの支配下では、私たちは病気を逃れることはできない。
 罪ある人間として生まれたからには「死」を免れることはできない。

 しかし、私たちに向かってイエス様は言ってくださる。
 「天国はあなた方のものである。喜び喜べ!」
 「この世の支配者がもたらす、病や、死や、恐れを受けてもなお、わたしを求め、私の名を呼ぶあなた方には天において最高に大きな報いがある。」
 私たちはいま生きているここを「天」としたい。ハレルヤ!(た)
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# by mitiru-takae | 2020-02-18 17:24 | 満ちる | Comments(0)

No.380 主イエスの宣言 2020.2.9

主イエスの宣言

イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。<マタイ4:19、20>

 2月5日(水)FGイエス・キリスト別府教会にて、大分プレギャザリングが開かれた。
 そこに他の2作と共に、最新作の「神の宣言」なる絵を持って行き、披露させていただいた。
 マタイ3章17節の、イエス様の受洗の場面である。

「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」【新改訳】

 ヨハネが聞いた、イエス様に対する神の宣言である。ヨハネはこれを待っていたのだ。
 
 ヨハネの、道を整える役割が終わるのは、この神の宣言する神のひとり子なるイエス様(救い主)が、来た時だ。
 ヨハネの人生のすべてが、今現在の私たちのためでもあった。

 この絵を、大分ギャザリングの朝一番のディサーメントの時に先生方にお見せした。ところがデミアン師が何かおっしゃっている。自分の着ているシャツのポケットを指していた。
 「このシャツのポケットの模様と同じだ」というのだ。
 よく見ると、白地に薄い細い線で描かれた刺繍のような模様がまさに、羽を広げた同じ形の鳥の姿であったので、皆で感嘆の声を上げた。

 これはほんの小さな、私たちを喜ばしてくださる神の恵みの現れだが、この日、他県から来てくださっている先生方が非常に驚いたことがもう一つあった。

 それは、いま世界中を騒がしている新型コロナウィルスの発生の地、中国の武漢市と大分市が姉妹都市であるということであった。

 このコロナウィルスの出現は、とにかく不思議。普通のインフルエンザよりは弱く、SARSよりも死亡率は少ない。
 しかし、増殖がとにかく速い。潜伏期間が長いというのも広がる原因の一つかもしれない。
 特に中国の旧正月の大みそかに、親族がみな集まる大切な時、そのタイミングでこのことが起こったのだ。

 今回のコロナウィルスの原因は蛇だと言われている。
 コロナは王冠の意味だが、この王冠を被ったようなウィルスが、中国の中で、また世界中で戦いを挑んでくるのだ。
 まるで黙示録12章の、今生まれようとする子供を食い尽くそうと待ち構えている竜を目の前にするような恐れが襲う。
 家の戸の向こう側にある恐れは、中国のクリスチャンたちにとって、かつての迫害よりも怖いものだそうだ。
 
 しかし、私たちはこの戦いを霊的戦いと知り、天使ミカエルが勝利することを知らねばならない。
必ず、私たちは勝利するものとなる。
 デミアン師が言ったのは、「どうして我々は勝利するのか、それはキリストの血潮、血潮に覆われた過ぎ越しは安全である」からだというのだ。
 できれば毎日聖餐式を行うと良い。
 それは形式的なものではなく、「私は主の者だ」と宣言するものである。

 私たちにとっては、「たとえ死んでもよい、死を恐れない」という、ダニエルやダニエルの三人の友のように神への信頼、信仰をもって主に従うという、実践を迫られることとなるわけだ。

 さて、ペテロたちのイエスへの従順である。
 「がむしゃらに、怖いけど我慢して従う」ではない。
 「家族がいるから、仕事があるから」と、迷っていたわけでもない。

 「私に従ってきなさい」という声を聴き、「人間をとる漁師にしてあげよう(するのだ)」というイエス様の宣言なる強いお言葉によって、引き出されたに違いない。
 神の宣言は、聞く私たちを揺り動かし、引き出す力を持っている。(た)
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《神の宣言》



















































# by mitiru-takae | 2020-02-11 15:12 | 満ちる | Comments(0)

No.379 啐啄(そったく)同時 2020.2.2

啐啄(そったく)同時

この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。<マタイ4:17>

 「啐啄同時(禅語)」というのは、「またとない好機のこと」と、辞書を引くと出てくる。
 私が禅語について詳しいわけではない。
 ただ、父義人はキリスト教にも通じるような、禅宗の悟りについてよく話していた。
 この言葉もその一つである。

 鶏のひなが今にも生まれようとするとき、卵の殻の中から殻をつつき、音を立てる。これを「啐」という。「啄」はこの雛が生まれ出るのを助けるため親が外から殻をつつくことを言う。
 禅宗では、今まさに悟りを得ようとしている弟子に対して、師匠がすかさず教示を与えて、悟りを助けるということなのだ。

 良い教師またコーチに出会うことは、スポーツ界においてもそうだろうが、その人の才能をとことん伸ばして貰える可能性が高い。

 イエス様は私たちの最高のコーチだ。
 最高の師匠だ。
 
 暗闇の部屋の中から、私たちの叫ぶ魂の声を、いち早く察して、戸口に来てくださる。

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。<ヨハネ黙示録3:20>

 小坂忠師の作曲した歌の中に「ノック」というのがある。
 この曲を聴くといつもヨハネ黙示録のこのみ言葉を思い出す。
 イエス様は、私の魂の戸口まで来て、「ノック」してくださっているのだ。
 私の心が、イエス様に向きなおろうとするとき、すかさず、「ノック」してくださる。

 また、戸の外に立つイエス様の絵画がたくさんある。
 調べてみると、「世の光【ウィリアム・ハント画】」など、なじみ深い絵がいくつも出てくる。

 その絵はどれを見ても、イエス様がドアをノックしているのだが、ドアノブが外についていないのだ。
 中にいる人が戸を開けない限り、イエス様はそこに入っていくことができない。

 チャンスはいつもあるし、あった。
 私とイエス様の出会いも、みんなのイエス様との出会いも、この時、この一瞬で決まった。
 それは私たちがドアを開いたときである。

 まだ出会ってない方々はぜひ出会ってほしい。
 あなたの思いのドアを開けて、イエス様に。

 さて、すでにイエス様に出会っている私達であるが、ともすれば神の側に背を向けているときもある。
 「共に食事をしたい」というイエス様の声を聴かないふりをするときもあったりする。

 こんな時、私たちは天の国から遠くに離れてしまっている。
 まるで放蕩息子のように、欲に任せて、好きなことばかりしている。
 また、自分を責めて、自分を愛することができない。
 苦痛に耐え切れず、砂漠のようなところで、うずくまっている。

 「悔い改めよ」という神の言葉は、「帰っておいで」という神の言葉。
 「天の国が近づいた」という言葉は、「イエス様が近づいた」ということである。

 いつも近くにいるイエス様が、私が向き直った時、ドアノブを開けるとき、顔と顔が向き合うくらい目の前まで来てくださるということだ。
 その時、「悟り」以上の、悟りをもたらしてくださる「悟りそのもの」であるお方を知ることができる。
 最高の律法(愛)なるイエス・キリストである。(た)
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# by mitiru-takae | 2020-02-04 23:15 | 満ちる | Comments(0)

No.378 もしあなたがクリスチャンであるなら 2020.1.26

もしあなたがクリスチャンであるなら

さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。<マタイ4:1~3>

 「あなたはクリスチャンなんだから、隣人を愛さなければいけないのでは。今日は、教会の日曜礼拝に行くよりこの人を助けるために、あなたの時間をさくべきだとおもいます。」と、家族か、会社の同僚に言われたとき、あなたは一体どうするだろうか。

 昔、まだ釘宮家の子供たちが、小学生くらいのころ、必ず日曜日に行われる運動会に、親が朝から見に行くなどということはまずなかった、というよりも、お昼のお弁当は、日曜礼拝の後、母が急いで持っていくという始末であった。
 それも、早めに終わってほしいなと思う時に限って、父はいつもより長い説教をするのである。

 ただ、そのことを、他の信者さんに同じようにせよとは言わなかった。中には言いたい人もあったようであるが(笑)。

 牧師なら、伝道者なら、信仰の筋を通すべきであるかもしれない。
 また、自分の信条を簡単に崩してしまうのは信仰者として、他の求道者の方々に対して少し恥ずかしい。何より神様の前に顔を上げて出られない。

 こんなことを父が思っていたかどうかはわからないが、一本筋を通した生き方というのは他人からしてみると、少し律法的に見えたり、頑固のようにも見える。
 信仰によって生きる真実の生き方とは、一体どこが違うのであろうか。

イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。<マタイ4:4>

 父が一貫して通した生き方は、時には頑固であったかもしれない。
 時には、自分の思いを制するために執拗なまでも押し通したことであったかもしれない。
 しかし、そこに「神に従って生きよ」という、神の言葉が父に語りかけられていたとするならば、なんとしてでも神に従たがわざるを得なかったであろう。
 
 私たちもそうである。
 時どき迷うこともある、その選択は、誰にも教えてもらえないときもある。相談する信仰の友もいないときがある。
 一家の家長であるご主人、又一人で子供を育てなければならないひとり親、一人暮らしの方、会社の社長、など、すべての頂点に立つ人々は、特に重要な選択を迫られる。

 他人に聞いては思うようにならないと腹をたてたり、悪い結果が出ると、その人の責任にしたくなる――、というように、私たちはいつもどこか自分自身に対しても、他の人に対しても、自信もなければ信頼も薄い。

 神様の前に静まって、心の底に語り掛けてくる細き小さな声を聴くことをお勧めしたい。
 砂をかむようであっても、聖書を読むことをお勧めする。

 人の思いは、さばいたり中傷したりと、自分と考えの違う他人に対しては、とても冷たいものである。
 
人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。<箴言29:25>

 イエス様に倣って歩んでいこう。
 わたしたちにとって、まるで荒野のような状況の中にある時も、イエス様はいつも私たちより先に進んで、荒野の中に逃れる場所を用意してくださっている。
 今、たとえ荒野の真っただ中にいても、イエス様の居られる場所にいこう。

 荒野で「あなたクリスチャンなんだから―-」とサタンの試みにあうならば、「わたしはクリスチャンなので、神の口から出る一つ一つのことば(レーマ)をいただいて生きています」と告白しよう。(た)
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# by mitiru-takae | 2020-01-29 19:36 | 満ちる | Comments(0)

No.377 イエスと洗礼者ヨハネ 2020.1.19

イエスと洗礼者ヨハネ

そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。
ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。
しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。<マタイ3:13~15>

 若いころ、よくわからなかった聖書個所の一つ、マタイ3:15のみことばだ。
 今考えると、「正しいこと」の意味がよくわかっていなかったんだなと思う。

 世間一般の常識で、正しいことと言われるすべての事が、私たちクリスチャンにとってふさわしいとは思えない。
 人間にとっての正しいことは時によって差別や、分裂を引き起こす。
 そこでイエス様のお言葉がわからなくなってしまう。

 インターリニアギリシャ語聖書を見てみると、「正しいこと」の箇所は「義、正しいこと」と記されている。
 聖書の中で「義」という言葉は、パウロが言う「義と認められた」「義とされた」という「義」であるし、「義人」とも出てくる。

 私たちにとって何が「義」に値することであろうか。
 私たちが義なる行いをすること――それは到底できることではない。
 また、私が何かをしたからと言ってそれを神は義とは認めてくださらない。

 イエス様が洗礼者ヨハネに言った一言「われわれ」。
 これこそがキーワードである。
 わたしたちを、信仰の同志としてまたある時は兄弟として、「われわれはこうしよう」と言ってくれる、イエス様が共にいることで、私たちは正しいことがなんであるか、知ることができる。

 神の側にとっての義が、私たちにとっても義である。
 神の御心に添って生きることが、わたしを義と認めてもらえる唯一の方法である。
 今日もイエス様が私に「われわれにふさわしいことだね」と言ってくださることを喜びとして、本物の「義」を求めていこう。

イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。
また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。<マタイ3:16、17>

 イエスとヨハネの二人を喜ぶように、神は天を開いた。
 神の御霊はイエスめがけて下ってきた。
 イエスはこれをしっかりと見た。
 天からの声は、ヨハネに語り掛けた。
 神は洗礼者ヨハネの行いを「義」としたのだ。
 「義(ただ)しいことを成し遂げるのはあなたがたにとって最もふさわしいことである」と言っているかの如く思える。

 マタイの福音書では、このように、天からの声は、洗礼者ヨハネに語ったように書いている。
 神の言葉は、万人に響いてくるのであろうが、時に私たちは「神が私に語り掛けている」と感じるものである。
 この言葉こそ、「レーマ」という個人に語り掛ける神の言葉だ。

「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。<マタイ4:4>

 このような神の言葉を「レーマ」として受け取ると、私たちは万人がではなく、一人一人が直接神の言葉で生かされる。
 イエス様と共にいることで、洗礼者ヨハネと同じ体験をすることができるだろう。
 「これは私の愛する子」という神の証しをレーマで受けとりたい。(た)
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# by mitiru-takae | 2020-01-21 15:00 | 満ちる | Comments(0)