No.313 罪のはじめ 2018.10.28

罪のはじめ

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。<創世記3:6>

 私たちが生まれたときから持っている罪の性質、それを原罪と言います。
 天使であったサタンが堕落したのも、はじめは素晴らしい存在であった人間が罪人になってしまったということも、本質的には同じような気がします。
 原罪とは、いったい何時から生まれたのでしょう。

 聖書の一番はじめに書かれている創世記で、人間が罪を犯した時のことを記しています。
 はじめの人アダムとエバは、神様に食べることを禁じられた「善悪を知る木の実」をサタンにそそのかされて食べてしまいました。多くの人が良く知っているお話です。
 神様との約束を守れなかった二人は、神様が自分たちを探しているのを見て、返事をするどころか、その声や歩く足音におびえ、かくれてしまいました。

主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。<創世記3:9>

 アダムが犯した罪は、子孫である全人類に広がりました。神から離れたことによって、人類には死や、苦しみが入ってきました。
 この罪から救われるためには、主イエス・キリストを自分の救い主と信じることのほかは方法がありません。

 二人がエデンの園を追い出されたとき(それでもなお神は人を愛し続けてくださっていますが)、エデンの園の入り口にはケルビムときらめく剣の炎を置いて人間が入ることができないようにされました。
 サタンは天の国の会議(ヨブ記1:6)や、エデンの園に、どうやってはいってくるのでしょうか。神様が許しているのでしょうが、これも不思議です。

さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。<ヨハネ黙示録12:7、8>

 さて、この黙示録に書かれている天の戦いが、いつあったのか、実際のことはわかりませんが、神が私たちの世界を創る前のことであったろうと思います。

 聖書の初め、創世記の1章1節と、2節の間に、神とサタンとの戦いがあったとおもわれます。反抗しないはずの天使(サタン)が神に反逆したとき、天地の世界に罪が生じたのです。

 私たち人類を、まんまと神から引き離し、神と人との間に深い溝を作ってしまったサタンこそ、「罪を犯させる強い意志」という存在そのものであると思います。神様とは正反対の存在です。

 何度も言いますが、「神から離れてしまった私たちの罪」を解決するにはたった一つの方法しかありません。イエス・キリストを受入れ、信じることです。

罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。<ローマ6:23>

 イエス様を信じるということは、死から命に移されることです。

 先週の「満ちる」で、義人牧師の橋頭堡(きょうとうほ)の話をしましたが、命に移されてもなお、日々、心の中から誘惑するサタンと戦っていく必要に迫られます。

 心に潜むサタンに対抗するとき、私たちの唯一の味方であるイエス様が勝つ力を下さいます。主に贖われ、死から命に移され、原罪からは解放されましたが、毎日のサタンとの戦いには、主のみ言葉と、告白が大切です。
 何もできない時には……笑いましょう!賛美しましょう!(笑)

 私たちの心のうちに住んでくださるイエス様がイキイキと、そしてありありと、いつも私たちの手を取って共に歩んでくださいます。ハレルヤ! (た)
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# by mitiru-takae | 2018-10-31 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.312 義人牧師の「告白の力」をもう一度読もう 2018.10.21

義人牧師の「告白の力」をもう一度読もう

そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。<ローマ7:17>

 10月14日(日)の午後、4回目の新約聖書の学習会をしたときのこと、「贖われている私たちに罪はあるのか」という話がもちあがりました。

 確かに「私たちは贖われた罪びと」です。
 では私たちは贖われてもなお、罪を背負って生きているものなのかという疑問が起こります。確かに罪を犯させる苦い根が私のうちにあり、日々、自分でわかる罪、知らないで犯す罪などを犯しています。

もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。<ローマ8:10>

 私たちの体の部分は罪で死んでいるが、霊の部分は、神の義によって罪ないものとして生きているのです。

 ここで思い出したいのは、義人牧師の霊、心(魂)、肉を表した三層図です。c0265111_14315869.jpg

 創世記のエバがサタンに誘惑されたときのことを、「告白の力」(釘宮義人著)の中で、こう言っています。
 「イメージをもって感覚に訴え、そこに生じる欲求を満足させる言葉を投げかける、サタンの常套手段です。こうして人の心に悪い言葉が住みつき、その心に葛藤が起こります。パウロがローマ7:15~24で語る問題・・・・」
 サタンは、私たちをうまく騙す方法をよく知っているのです。

 「こうして人の心に悪い言葉が住みつき」と言っていますがこれこそが義人牧師が言う橋頭堡(きょうとうほ)です。敵の陣地に自分の軍事基地を作り、そこから敵を攻めるという戦術です。

 サタンはこのようにして私たちの心の中に出城をつくり、神様からのお心がわからなくなるように心の中をかき乱します。この時私たちの心の一番底には神の霊が確かにあるのです。にもかかわらず、私たちはサタンの誘いのままに、日ごとの罪を犯し続けています。

 このことをパウロはローマ人への手紙でこう言っています。

すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である<ローマ7:19、20>。

 「神から来る善はしないで、本当はしたくない、肉の思い(サタンの陣地からの指令)から来ることをしている」とパウロ自身が言っています。私たちも全くその通りです。

 私たちは、罪を犯すべくサタンの橋頭堡を心の中に持ったままで、霊においては完全に主のものとされています。主に義と認められているということです。

 義とされていながらも私たちは、罪と悪に染まった日々を送り続けていくのでしょうか。それではサタンの側に取り込まれてしまいます。

 私たちは外からの攻撃よりも、この内側から攻撃してくるサタンに、日々、対抗しなければなりません。
サタンに対抗していくためには、心の中を神の霊で、満たしていただかなくてはなりません。神の霊こそが、私たちを生かす力なのです。

肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。<ローマ7:6、7>

 先日来、私は毎晩、罪(私が負うべき負債)を神の側の勘定に入れていただき、完全に毎日決算していただくように、「決算します」「(罪過の)負債をあなたの勘定に移してください」と告白しましょうと、薦めています。

 日々新しく生まれ変わり栄光から栄光へと変えられていくために、日々、負債を下ろして身軽になりましょうか(笑) (た)







# by mitiru-takae | 2018-10-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.311 台風一過/秋の聖会(主の食卓と晩餐) 2018.10.14

台風一過

 去る9月30日(主日)は、大分県に台風直撃ということで、礼拝を休ませていただきました。
 高齢の方々、また遠方から来られる方が結構いらっしゃいますので、それぞれご自宅での礼拝とさせていただいたのです。
 教会堂も兄弟姉妹方のところにも、何ごとも被害がなく感謝でした。

 その朝、LINEでキリストの福音大分教会のグループをつくっていたことを思い出し、このLINEで礼拝をすることができればと、導かれました。
 その時グループに参加していたメンバーは8名くらいです。
 この時の経験が功を奏しその後、癒しのため時間を決めて皆で祈っていた祈りも、朝の早天祈祷会も、学習会も、とにかく、教会に関すること、特に祈りについて共有することができるようになりました。

 文字が苦手な人はスタンプを使用してもよいので、できるだけ、簡単に操作ができるような方法を取り、この方法で互いに祈りあっていければと考えています。

 もちろん、人前では言えないこと、辛いことなど、牧師の方に個人的にLINE、またはメールにて今まで通り連絡してくだされば幸いです。
 主に満々感謝。(た)

  
秋の聖会(主の食卓と晩餐)

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。<ヨハネ黙示録3:20>

 今まで「信徒一泊セミナー」と題していた、故釘宮義人牧師のための「牧師、思いっきり語ろう会」を、「春の聖会」また「秋の聖会」と今年から名を改め、引き続き行っています。

 義人牧師が2012年の10月5日天へ帰って行った6年前と、今年は曜日と日付が同じという事で感無量。
 ほとんどメンバーも変わらないこの聖会が、名前を変えてもなお、義人牧師の信仰を引き継ぐかのように続いていることにびっくりもし、また、喜んでいます。

 今回は特に命のパンであるイエス様のお体を食べる、血を飲むという聖餐について考えてみたいと思いました。

 私たちは、イエス様を信じたときから、イエス様の食卓についています。
 それはダビデの食卓につくことを許されたヨナタンの子供メピボセテのようです。しかしそれだけではありません。
 イエス様が最後の過越の食事をなさった時、聖餐式をするように定めました。この聖餐は主の食卓につく私たちにとって、さらにいのちの食事をいただくということになります。

 過越の食事は、イスラエルの民がエジプトから解放された事を記念するものですが、エジプトを出る最後の夜、イスラエルの民が子羊の血によって命を守られたことを思い返し感謝するものです。
 この時の子羊と同じようにイエス様の死と、流された血潮によって、私たちの罪が赦されるという究極の贖いのわざがなされました。
 
 私たちは、主の食卓で共にイエス・キリストという一つのパンを食し交わります。主の食卓は、主の教会です。

 私たちの魂の中には、イエス・キリストの肉と血潮が新しい命として生きています。
 毎日聖餐式をしたいと言っていた故義人牧師を思い出しますが、私たちは毎日、いえ、いつも主イエス様の命に満たされ続けたいと願います。
 主の食卓はイエス様の側にいること、主の晩餐はイエス様の命をいただくこと、私はそう思っています。

 信仰はイエス様のように、強く優しく楽しみながら、私のうちに住んでくださるイエス様を頼り、一歩一歩を歩んでいくことだと思います。
ハレルヤ!(た)
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# by mitiru-takae | 2018-10-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.310 必要なものは一つ 2018.10.7

必要なものは一つ

また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。<マルコ6:7~9>

 「今、私たちがイエス様と共に過ごせたら、どんなに幸せだろうか」と、いつも思います。

 でも、実際人間イエス様が目の前にいらっしゃったら、どんな気持ちで御顔を拝することができるでしょうか。
今日のみ言葉にあるように、直接イエス様の訓練を弟子たちのように、喜んで受けることができるのかと少々疑ってしまいます。

 私たちの今の人生行路の歩みは、それ自体が神様からの訓練だとも取れます。

いったい、父に訓練されない子があるだろうか。<へブル12:7>

 訓練ですから、それに必要な学びも、リタイヤできる道も、ちゃんと備えられているわけです。
 そして何よりもその訓練に耐え得る力と、勝利のためのアドバイザーも用意してくださっています。

 至れり尽くせりの主の訓練ですから、簡単かと思いきや、なかなか、私たちの心の弱さを知らされてしまうばかりでどうやって前に進むのかわからなくなってしまいます。

 病をいやし、悪霊を追い出す、この宣教に十二弟子たちがでていくとき、マタイ、ルカの福音書と違ってマルコでは、「杖一本のほか」何も持たずに行けといわれています。
 マルコは、ペテロの話を聞き、忠実にこの福音書を書いたようです。ペテロにとって、この杖は重要なものであったに違いありません。
 
 ある姉妹が、ガンの治療のため入院しました。
 大きな病に直面しての闘病生活というのは、病に冒された「からだ」だけではなく、その人の心も病と戦わねばなりません。
 病は、体を冒すだけでなく、心をも蝕んでいくのです。

 N姉妹もガンと闘っています。
 今の医療は、一昔前のガンの治療のようではなく色々な方法があって生存率も上がり、寛解する方が増えています。
 とはいっても「されどガン」です。どのような治療をしようと、副作用との戦いも出てきます。これを乗り越えるのは大変です。
 
 私たちは、色々と想像します。「もし自分がガンになったら・・・」と。
 しかし、実際病気になったとき、私たちを闘病に立ち上がらせてくれるのは、なんといってもその人の持つ生きる力、心の強さ(柔軟さとでもいおうか)にかかっています。

 パウロのように、私たちの人生を戦い抜くためには、支え、導き手が必要です。私が迷うことなく、勝利の人生を歩むことができるように、神様はイエス・キリストをこの世に送ってくださいました。

「わたしは道であり、真理であり、命である。<ヨハネ14:6>

 特に病の只中にいる時、私たちの心(魂)を根底から、守り、支え、導いてくださるお方は、私にとっての一本の杖、イエス・キリストの他いません。

 私たちの病が癒されるのは、癒し主なる主が癒すからです。
 医師が治すのでもなく、私たちの力でもなく、ただ、すべての状況、環境、私の心に働きかけて最善の治療をしてくださるイエス・キリストの愛によって治るのです。

 私たちも、イエス様と言う「一本の杖」をしっかり握って歩んで行けば、たとえ怖くても前に進める力を得るでしょう。(た)
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# by mitiru-takae | 2018-10-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.309 神から盗み続けていませんか? 2018.9.30

神から盗み続けていませんか?

 父(前牧師)の死後、中止していた早天祈祷会が、再開というか新たに第二期早天祈祷会として始まったのは2014年9月29日のことでした。
 そして昨日の2018年9月29日で4周年を迎えました。

 その直前、9月26日に早天祈祷会(以後略して早天と書きます)ではマラキ書の最終章を読みました。
ヨブ記から始まった私たちの早天で初めて、旧約聖書(創世記からマラキ書)を全部読み終わったのです。
 4周年記念日と重なり、感無量という気がしました。

 そのマラキ書に学んだことを、皆さんと是非共同の財産にしたいと思います。

人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。<マラキ3:8>

 私の父もかつてそうであったように、私も献金について大きな声を上げることはほとんどありません。
 しかし9月25日の早天で、このマラキ書3章を読んだときの心に響く素晴らしさを神に感謝しています。

 神様は「私たちに、どれだけのものをくださっているか、また私たちはそれを毎日毎日どれだけ湯水のように消費しているか」ということを自分に問いかけてみます。
 「そして感謝は?」と問うてみると、献金でさえユダヤ人のように正確には収入の十分の一を献金していないと気づいてしまいます。神様はこのことを盗んでいると言うのです。厳しいですね。

わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。<マラキ 3:10>

 十分の一献金(返金)を実行して恵みに溢れた経験をし、またし続けている方はたくさんいます。相良佐枝子姉は生前いつもこのことを声を大にして言っていました。
 「天が開くのよ…!」「ゆすり入れるほどに祝福が来るのよ…!」等々。

 さて、今日は献金のお勧めというより、「神様にとって、私たちがささげるもので一番のものはいったい何でしょう」ということです。
 献金はその一部にしかすぎません。
 
天に積めない、この世の宝(お金)でさえ、ささげることで溢れる恵みを注いでくれる神様ですから、十一献金はできるだけした方が良いですね。

 しかし、私たちがするべき、イエス様に喜ばれる第一のものは、感謝の供え物です。
 私たちの気休めや、自分が喜ぶためではなく、イエス様(神様)がお喜びになるささげものをしたいと思います。

 パウロは「信仰によって義と認められた」と言いました。この「認められた」(ローマ4:3 みなされた【新改訳】)という言葉は勘定に入れるという意味があります。
 つまり今まで私たちの罪は負債の勘定に入っていたのです。

 イエス・キリストを信じる信仰(イエス・キリストの信仰)によって義とされるとき、この罪という負債が、資産勘定(イエス・キリストの側)に入れられてしまい、もはや負債はなくなってしまっているという状態なのです。
 商人が毎日帳簿を付けるように、私たちも毎日この負債の勘定をイエス様の勘定に入れるということを、寝る前の祈りによってやっていきたいと思うのです。

 イエス様が喜ばれるささげもの、それは「砕かれた魂の悔い改めの祈り、神をほめたたえる、賛美のささげもの」です。
 今日一日の負債を明日まで残すことなく、今日一日で終わらせましょう。
 毎日決算しましょう。(た)
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# by mitiru-takae | 2018-09-30 23:04 | 満ちる | Comments(0)