No.284 バプテスマおめでとうございます 2018.4.8

バプテスマおめでとうございます

すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。<使徒2:38>

 イースター礼拝の中で、平井姉妹のバプテスマ式が行われました。

 一年ほど前にご主人を天に送ったばかりの姉妹ですが、死を身近に感じ、いわゆる終活をしなければと思ったらしいのです。その第一番に「バプテスマを受けたい」という選択肢があったことを、心から嬉しく思い感謝しています。

 長いこと教会の礼拝に出席していますし、仲の良い姉妹の自宅で行われている家庭集会にも参加する、信仰を求めることに熱心な姉妹です。
 「信仰の友」たちの祈りもあって、姉妹はめでたくバプテスマを受けることとなりました。主は素晴らしい。

 姉妹のご主人が生前入院しておられたときに、「お祈りに来てほしい」という連絡がありました。そこで、病床におじゃまして、お祈りをさせていただきました。
 この時ご主人は私の顔を見て、なんとなく微笑んでくださっているようにお見受けしました。

 ご主人の心が次第に神様の方に近づいていたんだなと感じさせられましたし、病の苦しみの中にあっても、ご夫婦お二人の病室でのお姿は、私の目には平安そのものに見えていました。

 ご主人の「死」をきっかけに、天の御国を思う心が大きくなっていったのでしょう、姉妹の心の中でバプテスマを受け、神の家族の一員となるという夢が、具現化してきたのですね。
 
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。<ローマ6:4>  
 
 バプテスマを受けるとは、私たちがイエス様と一つになるということです。

 バプテスマには、「古い私が死んでしまう」という意味もあります。今までの罪に支配されていた私は、イエス様と共に一度死んでしまい、そして新しい人として復活のイエス様と共に私たちも復活するということです。
 古い罪人はもういません。死んでしまいました。

 新しい命に生きるということは、私の中に生きてくださるイエス様の命が私と共に生きてくださるということです。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。<第2コリント5:17>

 ですから、イエス様を信じてバプテスマを受けた人は新しく生まれ変わった人なのです。

わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。<ガラテヤ2:19>

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。<ガラテヤ2:20>

 私たちは、ただ勧められるままになんとなくバプテスマを受けるわけではありません。そこには素晴らしい神様のご計画があり、私たちを救うイエス様の愛と信仰があります。私たちのイエス様と一つになりたいという希望がイエス様によって本当に叶えられるのですね。

 バプテスマを受ける方々が、姉妹に引き続き続々と出てきますようにお祈りしています。(た)
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# by mitiru-takae | 2018-04-30 20:46 | 満ちる | Comments(0)

No.283 祝イースター/十字架への道 2018.4.1

祝 イースター

もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。<ヨハネ14:9>

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 イエス様が十字架にかかり死なれてから初めての日曜日、私たちは再びイエス様を見ます。
 私を永遠に生かすことのできる「道なる主、真理なる主、命なる主」を見ることができるのです。
 復活のイエス様は、私たちを勝利に導くお方であり、私たちの帰る場所を示してくださった唯一のお方です。

そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。<ヨハネ14:3>

 この世でイエス様の死ほど貴いものはありません。またイエス様の復活ほど力強いものはありません。(た)


十字架への道

しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。<ヨハネ16:7>

 イエス様が十字架の死に向かっていくとき、そのことをいくら聞いても納得出来ないのが、イエス様に一番近くいるはずの弟子たちです。

 まして、「去っていく」というイエス様のお言葉は、決して受け入れたくないお言葉でもあります。

 毎日そばで暮らし、話を聞き、「このお方こそ本物の王であり、メシヤにちがいない」と確信していたであろうイエス様が、こともあろうに人々から、笑いものにされ、見世物にされ、死の苦しみを受けるのですから、尋常な心では見ておれません。 
 しかし、イエス様の生きる場所は十字架の向こうにありました。十字架を避けてはイエス様の復活の命どころか、私たちの命さえもなかったわけです。

 私たちは自分の永遠の命を得るために、なんと楽をしていることでしょう。 
 栄光あるお方が(私たちには到底できませんが)その栄光を捨てて、私の代わりに笑いものになってくださったのです。また、見世物になってくださったのです。そして死の苦しみを味わってくださったのです。

 なんと私たちは、幸せでしょう。
 あなたは、人々に笑われたとき、イエス様を思い出すことができるでしょうか。
 あなたは、人々に見世物のように扱われたとき、イエス様を思い出せるでしょうか。

 そして、あなたが、一人で死と向き合うほどの苦しさを覚えたとき、苦しみの中で、イエス様を思い出して「助けてください」と祈り願うことができるでしょうか。

 その時、私たちは、決して思い出すだけではないのです。
 あの苦しみを勝利に変えたイエス様が、今は私と共にいてくださる、私の苦しみの中に、私に降りかかる災難の中に、私のつらさを一番理解してくださるお方として生きて働いてくださっているのを知ることができるのです。

その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。<ヨハネ20:19>

 復活のイエス様は、人を恐れて戸を閉じているときも、怖くて心がふるえているときも、私たちの只中に入ってきて「安かれ」といってくださいます。
 イエス様の十字架への道は、私を平安へ導く勝利の道なのです。(た)
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# by mitiru-takae | 2018-04-30 17:20 | 満ちる | Comments(0)

No.282 ホサナ 2018.3.25

ホサナ

そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。<マタイ21:9>

今日は棕櫚(しゅろ)の日曜日。
 イエス様をメシヤと受け入れることができない、パリサイ人や他の律法学者たちとは正反対に、民衆はその素直な心で、イエス様をエルサレムの町に迎え入れました。

シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。<ゼカリヤ9:9>

 この時、まさにゼカリヤによって言われた預言が成就しました。
 イエス様はロバの子に乗って、民衆が大声で「ホサナ、ホサナ」と叫ぶ中、棕櫚の枝を踏みしめながらエルサレムの黄金の門を通って行かれました。

 今日、私たちの心に入場してくださるイエス様のために、大きな声で「ハレルヤ、ハレルヤ」と叫び、迎え入れましょう。

 「ホサナ」という言葉は、本来の意味(ヘブライ語で「救い給え」の意)というよりも、ほとんど、私たちが日ごろ使う言葉で「ハレルヤ」と言うのと変わらないと思います。
 神をほめたたえる言葉として教会で使われる言葉ですね。
 
 ところがこの民衆の同じ口で、この後イエス様がとらえられた後「十字架につけよ!」と叫ぶわけですから、民衆の心理というものはあまり信用ができません。
 私たちはいつも、自分の口を聖霊様に清め続けていただく必要があります。思わず周りにつられて、悪口を言ったり、人を攻めたりしてしまいます。
 皆がある人の悪口を言っている中で、反対論を述べるのには、ちょっと勇気がいるものです。しかし、み言葉を見るとペテロがこう言っています。

悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。<ペテロ第一3:9>

 今日の棕櫚の日曜日、ホサナ、ハレルヤと、神のみをほめたたえて過ごしましょう。教会の中だけではなく家に帰っても実践できれば幸いです。

 聖書が昔から告げていうメシヤの到来は、ユダヤ人の希望でした。
 パウロがローマで、ユダヤ人たちに告げたメッセージは、皆が待ち望んでいたメシヤ、救い主キリストのことでありました。(しかしユダヤの宗教家たちはイエス様を否定するどころか、自分たちの方が民衆を騙し、イエス様を十字架につけたのです。)

こういうわけで、あなたがたに会って語り合いたいと願っていた。事実、わたしは、イスラエルのいだいている希望のゆえに、この鎖につながれているのである」。<使徒28:20>

 十字架刑でイエス様ご自身が死んだあとは弟子たちをも迫害してしまう。
 そのような人間の傲慢、高慢が、昔も今も、自分の上に人をつくらないどころか神(創造主)までも地上に引き下ろしてしまったのです。

 しかし、このような逆境とおもわれる荒波の中でパウロたちは、全世界に向かって神の国とイエス・キリストを伝えていくわけです。

ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた。<使徒 28:15>

 彼らをどこにいても勇気づけ、元気を与え続けてくださったのは、あの小さなロバの子に乗って、子供たちに笑顔を惜しまなかった愛の主イエス・キリストなのです。ホサナ! (た)
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# by mitiru-takae | 2018-03-31 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.281 主も彼らと共に働き/風が吹くとき 2018.3.18

主も彼らと共に働き

そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。<マルコ16:15>
弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕<マルコ16:20>

 「リバイバルミッション2018」の働きにより、私たちの教会にチャペルコンサートと題して、若い現役大学生しかもクリスチャンのDUO B→Zのお二人、そしてメッセンジャーとして平岡修治先生をお迎えすることができました。
 ヴァイオリン、ピアノの演奏、平岡修治先生のほとばしり出るようなメッセージと、素晴らしい時間を過ごすことができました。DUO B→ZのCDや、平岡先生の天に帰られた小さな魂(先生の長男)の証などの書籍があります。
 全世界に出ていく「リバイバルミッション」の働きを心から感謝し、祈りをもってお支えしていきたいと思います。

 主のみ言葉を実践するときは、いつも主が共に働いてくださっています。働きが大きい小さいは関係ありません。
 私たち一人ひとりの小さな宣教の働きを、主は喜んでくださいます。
 イエス・キリストの福音を伝えるときは、イエス様と共に一歩一歩あゆんでいるときです。そして私たちは、たまにイエス様に負ぶって歩いていただいているときもあるんですね。
 それは聖書に書かれたイエス様のお言葉が、確かなもの、真実なものであるとイエス様ご自身が私たちに示してくださるためです。(た)

風が吹くとき

風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。 <伝道の書1:6>
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。<伝道の書1:14>

 自然は単調で、同じことを繰り返すものだと、また、無駄な努力は、風を追うようなものだと、伝道の書は語ります。

 風がとらえどころのないことは言うまでもありませんが、困るのは暴風など、人間社会に被害をもたらすようなひどい風や竜巻などです。
 また、パウロも経験した、多くの船乗りや釣り人たちが経験する向かい風のように、行く手を遮ろうとする風です。
 
 よく人生は航路にたとえられますが、なかなか順風満帆ばかりとは言えません。
 しかし、嵐や、向かい風なるものが、どうして人生の中で起こってくるのでしょうか。誰も望んではいないと思う「嵐の夜」とでも言いたい事態に遭遇するものですね。それどころか順風の時でさえ、私たちは怠惰な心になってしまったり、神を忘れてしまうという、大きなサタンからの暴風に巻き込まれてしまいます。

 どんな時でも、イエス様に感謝を忘れない人生行路でありたいものです。

 先週日曜日は「3.11東日本大震災」のあった日から7年目を数える日でした。日本人の誰もが、地震の怖さ、津波の怖さ、原発の怖さを実感した災害でした。最近は噴火もあちこちで起きていますし、自然災害の脅威からは、逃げ出すことができません。
 順風の時には全く分からなかった、人を通しての神の愛を知る機会がやってきます。人の心の中に語りかけてくる神の元気が、私たちを立ち上がらせてくださるのです。
 全ての望みが絶たれたか・・・と思うとき、パウロは言いました。

だが、この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。<使徒27:22>
だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。
<使徒27:25> (た)
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# by mitiru-takae | 2018-03-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.280 昔も今も永遠に 2018.3.11

昔も今も永遠に

しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
<イザヤ53:10>

 供え物というと、日本人は仏壇の上に置く、お菓子や果物を思い浮かべる。神道では地鎮祭の時などよく見かける、米や野菜である。
 いかに平和に見えることか。それにつけてもユダヤ教の生贄は、牛や、羊、鳥の切り裂いた血、肉である。

 遠く、インカやマヤの敗戦国の人質の心臓をささげるなど、残酷にしかみえない生贄などは、日本人から見ればとても野蛮で、見るにも聞くにも堪えられない、そのような感じだ。

 そうしてみるとキリスト教はとても平和な穏やかな人道的宗教のように見えるが、実は旧約聖書を見る限り、そのようには思えないのである。
 ただ、イエス・キリストがその残酷な生贄を一手に引き受けてくださったので、私たちは平安でいられるというわけだ。

 私たちはこの生きた生贄を捧げることが一番の残酷と思っているが、何よりもひどいのは創造主である神と断絶しているという現実だ。
 何故って、神との平和がありさえすれば、一切の生贄は必要ないものであるし、自分の子供を奴隷として売ったり、捧げたりする必要がないのだ。一番つらいのは、人間がサタンの奴隷となって生きていることだ。

われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
<イザヤ53:6>

 私たちは自分の罪をイエス様の上に置き、私の身代わりとしたのだ。以前聖幕の学びをしたとき、生贄の動物を伴ってとばりに入り、犯した罪をすべてその動物に移し、屠って捧げるということを学んだ。
 この屠られた動物こそ、私の罪の身代わりのイエス様であった。
 このように、モーセの時代も、イザヤの時代も、いえ、世界が作られる前から私たちのために救い主が来られることが決まっていた。

これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。(新共同訳)
<テトス1:2>

エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。(新共同訳)<ミカ5:1>

 イスラエルの希望であった約束のメシヤは、今や私たち人類すべての統治者、救い主として、私の希望となっている。

このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。(新共同訳)<使徒3:21>

 手に鎖をかけられたままのパウロが、自分を永遠の命に入れてくださった救い主イエス・キリストをユダヤ人の希望、異邦人の希望と認め、そのお方が、甦っただけでなく、私のうちに生きているということを証ししている。

 パウロが伝えたかったイエス様は、今生きているイエス様であって、過去にいただけのものではない。ましてや十字架で死んでしまったままのイエス様ではない。
 私たちの心の中に、十字架にかかったままのイエス様をいつまでも見るのではなく、私の罪と共に一度死に、死と黄泉に打ち勝ち、甦り、私もともに携えて永遠におられる方である勝利者であること、このことを心に刻み信じ続けていきたいと思う。

 昔いまし、今いまし、やがて来られるお方、王の王、主の主、イエス様を心から喜び、叫ぼう!
 ハレルヤ! (た) 
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# by mitiru-takae | 2018-03-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)