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No.489 裏切ったあなたの為に 2022.3.13

裏切ったあなたの為に

時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。<マタイ26:14、15>

 ユダはイエス様を銀貨30枚(奴隷を売り買いする時の金額)で売り渡した。
 サタンがユダの心をそそのかし、ユダはイエス様を祭司長たちに引き渡そうと、機会を狙っていた。

 イエス様を漠然とした霊(?)ととらえている者にとっては、イエス様を裏切ることに対しては何の罪の呵責もない。
 しかし、私たちの心の中に住んでくださっている、生きたイエス様を知っている者は、ほんの少しの裏切りの心を抱いても、反省と後悔の念を簡単に振りきることは出来ない。

 イエス様を裏切る、ということは一体どういうことであろうか。
 これは神様からの信頼を裏切ることである。
 イエス様を全く自分と関係ないものとしてしまうことである。

だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。<マタイ6:24>

 確かに、イエス様を信じていると言いながら、他の宗教にも入信するなど到底できない。
 イエス様を信じていながら、お金儲けを第一にすることもそうである。
 私たちもどうかすると、イエス様そっちのけで、自分の仕事や快楽に没頭してしまうことが多い。

 それにしてもユダの場合は悲惨である。
 何しろ、イエス様を祭司長たちに売り渡したのであるから。
 ユダ自身、サタンがさせたことであるので、我に返った時、恐れ慌てふためいたことだろう。

 本当は私たちの何気なく犯す罪も、裏切りである、と言われればユダと変わらぬ罪のような気がする。

 どちらもサタンのそそのかしに負けた結果であるが、しかし、ユダは一つ大きな間違いをした。

 自分が赦してもらえる相手が、イエス様ご自身であるとは思っていなかったということである。
 祭司長たちにお金を戻して、赦してもらおうとしたことであった。

 この時にユダにはわからなかったこと、それは自分の罪のために、イエス様が十字架にかかろうとされていることである。
 
 ペテロはイエス様を「知らない」と三度も答えてしまった。
 ペテロもイエス様を裏切ったともいえるが、彼はイエス様に戻って来た。

 弟子たちも、逃げた者の数のほうが多かったであろうが、多分皆で声を掛け合い、かの二階座敷に集まり、祈り、イエス様の御約束の聖霊を待ったのである。

 失敗したことが悪いわけでは無い。
 裏切ったことが致命傷ではない。
 逃げ出したって、戻れないことはない。
 他人と争ったことが罪ではない。

 イエス様のところに駆け込んで、すべての罪を赦していただこう。
 イエス様の十字架の死と復活は、私たち自身の為である。
 
イエスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。<ヨハネ13:26>

 過ぎ越しのパンを葡萄酒に浸して、イエス様はユダに渡した。
 ユダが裏切ることのしるしであったとは思うが、ここに何故かイエス・キリストの愛が見えるような気がするのである。(た)
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# by mitiru-takae | 2022-03-12 22:40 | 満ちる | Comments(0)

No.488 小羊と永遠の香り 2022.3.6

小羊と永遠の香り

 3月2日から4月16日まではレント(受難節)である。
 プリムの祭りが3月17日、過ぎ越しの祭りは、4月15日~4月22日まで続く。
 この過ぎ越しの祭りにイエス様は十字架にかかるのである。

「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」。<マタイ26:2>

 思えばイエス様の公生涯は、過ぎ越しの祭りに始まり、過ぎ越しの祭りで終わる。(ヨハネ2:13、マタイ26:2)
 神の小羊としてこられたイエス様は、過ぎ越しの祭りと密接な関係がある。

エジプトの国のうちのういごは、位に座するパロのういごをはじめ、ひきうすの後にいる、はしためのういごに至るまで、みな死に、また家畜のういごもみな死ぬであろう。<出エジプト11:5>

 エジプトを襲った十の禍の最後である。
 何もしなければイスラエルの人々の全てのういごもみな死んでしまうのである。

 この時神は、「傷のない一歳の雄羊」を屠り、その血をイスラエルの人々の家の門柱と、かもいに塗るように言われた。
 殺すために来た天使は、血の付いた門の前を通り過ぎていき、柱やかもいに血を塗ったイスラエル人々のういごの命は助かるのである。

 この時に屠られた「傷のない一歳の雄羊」こそ、私たちの命の代わりに殺された小羊イエスなのである。
 
その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。
わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう
この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。<出エジプト12:13、14>

 イスラエルの祭りは、神のなさったことをことごとく思い出して神に感謝するためにあり、また、イエス様とも密接な関係があるのだ。

 ユダヤ教では、昨年の9月6日日没から「シュミータ(安息年)」にはいっている。
 耕作地を休ませ、債務を負った人々の免除を行うという。

 ヨベルの年は、7年×7回の次の年50年目である。今風に言えばまさに本物のグレートリセットの年である。(ヨベルの年について:レビ25章参照)

その五十年目はあなたがたにはヨベルの年である。種をまいてはならない。また自然に生えたものは刈り取ってはならない。手入れをしないで結んだぶどうの実は摘んではならない。<レビ25:11>

 神様の御手によって全世界のグレートリセットが起こるのはいつであろうか。
 私たちは、右、左と惑わされてはならない。
 神の時を見逃さないように、目をさましている必要がある。
 

ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。<マタイ26:7>
この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。<マタイ26:12>

 マリヤはイエス様の頭にナルドの香油を注いだ。
 この香りは、むち打ちの刑を通り抜け、十字架を通り、墓に入る。
 しかし、マリヤが霊的行いによって現してくれた神の国の香りは永遠にイエス様と共にあり、絶えることがない。(た)
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# by mitiru-takae | 2022-03-05 23:54 | 満ちる | Comments(0)

No.487 イエス様の右 2022.2.27

イエス様の右

人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。<マタイ25:31~33>

 羊とやぎの違いは、祝福されたものと、呪われたものである。
 その差は、イエス様を助け、世話をした人か、そうでない人かだ。
 ここでは、信じる者と、信じない者などの分け方はしていない。
 イエス様の御名前を知らない人々の中にも、祝福される人々がいる。

また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。<マタイ25:39、40>

 私たち人間には相手を見て対処の仕方を決めかねない、実にいやな一面がある。
 初めからイエス様とわかっていればよいことをしたかもしれない。
 わからなければ通り過ぎたかもしれない。
 いつも相手の後ろにイエス様がいらっしゃることを忘れずにいたい。
 
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。<マタイ7:21>

 患難期の7年が過ぎる時、イエス様が王として地上に来る。
 いつ来るかは誰も知らないが、必ず来る。
 その時生き残っている全国民を、イエス様が裁かれるという。祝福を受けるか、呪いを受けるかである。

 神様の祝福を受けるため私たちも祝福しよう。
 特に、イスラエルの人々のため祈り、祝福しよう。
 そうすれば、神様が私たちを祝福してくださる。
 イスラエルの人々は私たちが祝福をいただくための基として選ばれた。

わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
あなたをのろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからは、
あなたによって祝福される」。<創世記12:2、3>

 神様はイスラエルの父祖アブラム(アブラハム)を祝福の基とした。
 この契約は神様の側の一方的な契約であった。
 人間がたとえ神様との契約を忘れ果てても、神様は決して忘れることがないということだ。

 アブラハム(イスラエル)を呪うものは、神様に呪われる。
 アブラハム(イスラエル)を祝福する者は、神様から祝福されるのである。
 もっとも小さき者の一人(イエス様)にしたものは、神様の祝福を受ける。
 どんな小さい者でも、大きい者でも祝福しよう。あなたに、また私に祝福が神様から帰ってくるのだ。 

義のために迫害されてきた人たちは、幸いである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。<マタイ5:11、12抜粋>

 いつも、イエス様を思って、感謝して、イエス様と共に過ごすとき、私たちは祝福と、歓喜に満たされる。
 それどころか、私たちは御国の相続人なのである。
 
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。<マタイ25:34>(た)

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# by mitiru-takae | 2022-02-26 22:27 | 満ちる | Comments(0)

No.486 油を忘れずに/タラントは隠さないで 2022.2.20

油を忘れずに
(マタイ25:1~13参照)

ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。<マタイ25:8>

 十人のおとめがそれぞれ明かりをもって、花婿を出迎えに出ていった。
 花婿はイエス様であり、花嫁は教会である。
 この女たちは花嫁の友人か、世話役の人たちであったのだろうか。先の婚礼が携挙だとすると、この後にも残った者たちに起こる携挙があるといっているようでもある。

 花婿が帰ってくると、いよいよ祝宴が始まる。
 わざわざ、思慮深い女たちと、思慮の浅い女たちと分けているのには訳がありそうである。果たしてみんなは会場に入れるのであろうか。

 時間がたつにつれて、落ち着いていられなくなる、そんな胸が高鳴る時間設定である。多分思慮深い女たちは入れるのだろう、と言うのは大体想像がつくものだ。

夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。<マタイ25:6>

 この時、女たちは花婿があまりに遅れているので居眠りをしてしまっていた。
 クライマックスである。
 慌てふためいたのは、油を用意して持っていなかった女たちである。

 時間に余裕があったのに、どうして今の今まで、油の事を忘れていたのだろうか。彼女たちの明かりは消えかかっていたのである。

 ともしびが消えてしまったり、又今にも消えそうな女たちは、花婿に「私はあなた方を知らない」と言われてしまう。
 ともしびとは信仰の事であり、油は聖霊様の事である。

 イエス様は言われる。

だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。<マタイ25:13>
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タラントは隠さないで
(マタイ25:14~30参照)

また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。
すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。<マタイ25:14、15>


 神様が私たちに与えてくださっている宝は結構多くて高価だ。

 たとえ1タラントだとしても、6000日分の日当ほどの金額である。日当が1万円なら6000万円、2万円なら1億2000万円となる。

 こんな高額なものと思うかもしれないが、みんな、神様にいただいているのだ。正確には管理させていただいているのである。

 天の宝は有能なものには更に与えられ、価値が分からない、使うことも出来ずに隠してしまうものは、持っているものまで取り上げられてしまう。

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。<マタイ25:29>

 御国のために使うタラントは、使えば使うほど増えていくのである。
 あなたのタラントも、隠さないで恐れず使おう。(た)












# by mitiru-takae | 2022-02-19 22:43 | 満ちる | Comments(0)

No.485 神の霊によって祈れ 2022.2.13

神の霊によって祈れ

キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。<ガラテヤ5:24、25>

 私たちが御霊によって歩んでいないとするならば、それは、私たちの肉の思い(意識)が聖霊の働きを阻んでいるのである。

 父釘宮義人が、キリストの福音を説きだすと、まるで坂道を下る乳母車のようだった。止まらないのだ。
 そのような父の背中の向こうに見え隠れするお方がいる。手島郁郎先生(キリストの幕屋)である。

 私が手島先生を知ったのは小学校4、5年生の時なので、先生については何も知らないというのが本当だろう。

 ただ、みことばに食いつき、神癒伝道をさえ恐れず実行してきた父の、手島先生との出会いの時は、聖霊の働きを直に知らされたという意味で、信仰の分岐点だったのだろうと思う。
 父は手島先生の集会で初めて異言も与えられていた。

 世の中には、病気がいやされ、禍から逃れられるといって、様々な新興宗教が興ってくるようだ。
 そういう宗教はよく他人のために祈れ、世界の平和のために祈れ、と言う。
 一見、素晴らしいことのように思える。

 神様が聞いてくださる祈りは「義人の祈り」である。
 それはイエス・キリストによって果たされる祈りである。

 まことの神を知らず、自分の罪をも知らない者は、平気で、世界の平和を口にする。
 悪人だって、自分の身内の為なら平和を祈れる。
 人を愛することだってできるのだ。

 人間を支配する肉の思いについて、手島郁郎先生は著書「生命の光 第350号」の中でこう言っている。
「古(いにしえ)のインドの哲人たちも、この肉の心こそ、宇宙の実在の光をさえぎる壁であるから、この迷妄(マヤ)を砕けよ、と申しました。霊性をさえぎる肉の意識が迷妄(マヤ)なのであって、もしマヤの心が厚くては、神の光は内奥に照射してきません。
―――中略―――
この肉の性質を聖書では「罪」とよび、この罪から解放するものこそ、キリストの御霊の到来であります。〇〇教や△△教のように、自分の努力や精進では、なかなかマヤから醒めることは出来にくいものです。」
 私たちの罪の心をこじ開けて、光をもたらしてくださるキリストの福音によって、とりなして祈っていけるのである。
 イエス・キリストというお方の捧げた血潮によらなければ、私たちの祈りは神様の耳元へは届かないのである。

 戦争のうわさを聞く昨今、サタンの策略が世界を覆い、地球丸ごとが、真に患難時代の到来を思わせるような様相の只中である。

 私たち一人ひとりが、まず神との平和を願い、私たちの心の中の思いをもって神のみ前に進み出で、肉の心を注ぎだし、聖めていただこう。
 そして、聖霊の力を解放し、働いていただくのである。

 まことの平和を期待しよう。
 神の霊によって私たちは祈りの戦士として罪の支配の根源である悪しき者と戦っていく必要がある。
 いまこそ、神の偉大な力によって強くなる時だ。(た)
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# by mitiru-takae | 2022-02-13 08:30 | 満ちる | Comments(0)