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No.442 心も姿も変貌 2021.4.18

心も姿も変貌

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。<第二コリント3:18>

 心や魂の変貌というと肯定できるが、体の変貌というとそうはならない。
 心は目に見えず、体は目に見えるからである。

 自分の癒しの祈りも自分で祈ることは勿論だが、兄弟姉妹などに祈ってもらうことはさらに信仰を増してもらえるものである。
 ヤコブ書ではこう言っている。

あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。<ヤコブ5:14>

 確かに、実際目に見えていることよりも、見えていないところを祈るほうが信じやすいともいえる。
 不信仰のようではあるが、霊的という言葉を使うとき、何かわからないが受け入れてしまうのは、「霊的」という言葉が目に見えないことがらであるからだ。
 かといって、私にとって信じるということは見えるとか見えないという問題ではない。
 しかし、トマスではないが人は目で見ると信じやすい。

 主の栄光を鏡に映すように見つつという文言にひかれてしまうのは、霊なる主の働きが、私たちの目の前におぼろげであっても確かに実体として見て取れるということである。
 イエス様の本質が、目の前に映し出されているからだ。

 2人、もしくは3人で証言するとき、聖書ではこれを確かな証人による証明とするのである。
 見ることは素晴らしいが、聞くことも同じように素晴らしい。
 一人で聞けば空耳ということもあるだろうが、複数の人が一時に聞けば、それは確かである。
 ペンテコステでの状況は、まさにこれであろう。
 多くの人が、聖霊に満たされた弟子たちを見、また聞いたのだ。
 この日、すごいことが起こったのだと想像できる。

 イエス様の変貌を見たことは、ペテロたちを勇気づける生涯忘れ得ない出来事になったであろう。

六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。<マタイ17:1、2>

 これを見た時のペテロたちの驚きが伝わってくるようだ。

わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。<第二ペテロ1:16>

 この日、イエス様の変貌のお姿の目撃者となったペテロは、自身が逆さ十字架に架けられたときも、目の前で輝くイエス様のお姿を見ていたに違いない。

イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。<第二ペテロ1:17、18>

 イエス様のお姿を目で見、天の父なる神の声を聞いたペテロは、この時確かに神の証人とされたのだ。
 聖書に書かれている通りに、神の証人として選ばれたのである。
 私たちも、「イエス・キリストは生ける神の子、救い主である」ということの、選ばれた証人として生きていきたいと思う。

 私のうちに働く主の霊によって、私たちは今、生きているこの地においても栄光から栄光へと、神の本質の似姿に近づいていくのだ。
 そして確かに、心(魂)と共に姿まで着々と変えていただいているのである
 ハレルヤ!(た)
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# by mitiru-takae | 2021-04-18 15:16 | 満ちる | Comments(0)

No.441 信仰、希望、愛 2021.4.11

信仰、希望、愛

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。<Ⅰコリント13:13>

 釘宮義人牧師の最後の礼拝メッセージに残された聖書箇所である。
 信仰、希望、愛というと、とても美しくクリスチャンらしい響きだ。
 しかし、この言葉が美しいのは、どこか他人事だからである。

 反対に、肉片が飛び散るような鞭打ちや、残酷な見せしめの十字架刑を思うと、キリスト教とはなんと血なまぐさい残酷な宗教なのかと、眉を顰めたくもなる。
 ところが、眉をひそめ、聞きたくもなく、想像するのも恐ろしい、この十字架の刑によってイエス様が死ななければ、アダム以来の人間の罪は消えないばかりか、私たち自身がこの刑を受けて死ななければならないところだったのである。
 信仰も、希望も、愛も、この地上に実現しなかったかもしれないのだ。

 イエス様の贖いのわざが、私たちの上に実現し、同時に、このみことばが、成就するのである。
 この3つの言葉はすべて、イエス・キリストが持っているものであって、そのうえ、この言葉は私たちに対して持っているイエス・キリストの思いそのものである。

 アダムとエバが失ってしまった神のイノチを、私たちが取り戻すことが出来るように、イエス・キリストの思いが私たちを支え、助け、励ます。
 イエス・キリストの信仰、イエス・キリストの希望、イエス・キリストの愛が、私の魂の中に生き、動き、存在するのである。

 釘宮義人牧師は言った。
 「信仰、希望、愛、この中で皆さんは何ができますか。何が一番大切だと思いますか。」
 みんな「シーン」となった。
 「あなた、信仰ありますか」
 「あなた、愛がありますか」
 さらに「シーン」となる。
 ここで私たちはいかに「はい」と言えないかということがわかる。
 「『はい、私には信仰があります。私には愛があります。』と言えない私たちですが、希望は持てるでしょう。」
 釘宮義人牧師のこの言葉に、少しほっとしたのは私だけではないはずだ。

 確かに私は希望を持つことができる。
 又、だれでも、今は出来なくても、今は目の前になくても、家庭のことも、仕事のことも、自分の健康のことも、祈って信じて待てば手に入る、また実現すると希望を持ち続けることが出来るだろう。

 持ち続けることが大切なのだ、告白しよう。
 みことばは言う。

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。<ヘブル11:1>

 私たちの希望は、イエス様の希望である。
 また、私に対してイエス様が抱いている希望がある。
 これは決して揺らぐことのないキリスト者として完成する希望だ。
 ハレルヤ!

 私たちの信仰は、イエス様の信仰である。
 イエス様の救いの信仰は、私たちを必ず救いに至らせ、悪しきものの支配から解放する。
 私に確信をもたらしてくださるのは、今も生きて働くイエス・キリストの信仰である。

 私たちの愛は、イエス様の愛である。

そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。<ローマ5:5>

 神の愛によって、私たちの希望は生み出されるのだ。(た)
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# by mitiru-takae | 2021-04-11 14:09 | 満ちる | Comments(0)

No.440 祝イースター 私たちも復活! 2021.4.4

祝 イースター
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すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。<第一コリント15:3~5>


私たちも復活!

すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。
<ローマ5:19> 

 アダムとエバが初めて、神様の命令に背いたとき、彼らの意志の力がサタンの支配下となり、感情を制する力を失ってしまった。それは彼らの霊の死であった。(釘宮義人著「告白の力」参照)

 少し短くまとめて書いたのだが、最近ここを読んで感動した。
 というのも、イエス様がどうして十字架という、神に呪われる最悪の道を選ぶことができたのか、と考えながら読んでいたからである。

 もちろん神ならば、何でもできるのであるし、そのために、人間として生まれてくださったわけであるから、当然と言えば当然、また、それが神様のご計画であるのだからイエス様は神様のご意志に従ったのだ、ということである。

 だが父の著書を読んで、イエス様が完全な人間であるということに改めて気づき驚いたのだ。
 始めに創られたアダムの中には、神の息が生きていたのだが、意志の力はそのなかにあったのだ。

 「神の意志の力」はイエス様の中に生きている。
 イエス様の従順は、完全に、神様の意志そのものであった。
 このイエス様の従順によって、御子を信じる者が義とされるのである。
 
 アダム以来サタンに支配されたままの人間であれば、神の言葉に対しての従順という自制はきかないのである。
 父の言う、感情を制御する力を失っている状態ということである。

 そういえばよく、父は言っていた。
 御霊の実が9つあるが、私たちはまず、最後の自制ができれば、あとの実も実行できる。
 霊的な死を蹴散らして、御霊の実をすべていただこう。
 そのためにいつも告白しよう。
 サタンに支配されていたものを、すべて取り返そう。


しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。<ガラテヤ5:22、23>

 私たちがイエス様のように神に従順であるということは、私の中で神の意志が生きているということだ。
 自制は神の力だ。

 毎日がイースター!
 神の意志の力を取り戻そう!(た)
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# by mitiru-takae | 2021-04-04 16:08 | 満ちる | Comments(0)

No.439 ダビデの子にホサナ 2021.3.28

ダビデの子にホサナ

そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、「ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。<マルコ11:9、10>

 今日(3月28日)は棕櫚の日曜日である。
 受難週の始まりの日、イエス様がロバの子に乗ってエルサレム入城した日のことである。
 迎えた人々は皆、大きな声で「ホサナ(神を称賛することば)」と叫び続けた。
 イエス様を、地上の王、それもこのイスラエルを、ローマから解放して、人々の暮らしを闇から光へと変えてくださる王と期待していたからだ。

 イエス様がお生まれになったとき、東の国から来た博士たちが来て言った言葉を聞いて、当時のユダヤの王であったヘロデ大王は不安に駆られた。

「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。<マタイ2:2、3>

 王様や貴族、祭司、律法学者たちなど、エルサレムの上流階級の人々は皆、不安を感じたのだろう。
 聖書の中で示している王が来られるのに、喜ばずに不安を感じるというのは、今の自分たちの権限や財産などが奪われはしないかと心配だ、と言うことであろう。

 しかし、民衆にとっては、新しい王が、素晴らしい自分たちにとって良き王であるというのであれば、不安どころか、嬉しいはずだ。
 「ホサナ、ホサナ」と、喜び絶叫して迎えるのは当然である。

 かつてまだ釘宮義人牧師が健在のころ、大きな声で「ホサナ、ホサナ」と、皆で棕櫚の葉(らしきもの)をもって教会の玄関から入場したことがある。
 それほど形式が素晴らしいとは思わないが、もっと大喜びして教会の中に入ってくればよかったかな、などと思いだして懐かしい。

 イエス様にとっては、十字架への道だが、それは神様の偉大なご計画だ。
 私たちにとっては自分の罪が神様によって贖い取られる一大事の時に突入する日だ。
 棕櫚の日曜日とは、おどり上がって叫びたいほどの感謝と喜びの日であり、また命を捨ててくださったイエス様を思い感涙する日でもある。
 イエス様にとっては、後戻りできないエルサレム入城の日なのだ。

門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。
門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。〔セラ〕<詩篇24:7~10>

 エルサレムの神殿に向かう凱旋の王の姿である。
 私たちの主イエス様が再び来られるときは、私の王の王、主の主は、すべての悪しきものに打ち勝った万軍の王である。

 再び来られるイエス様のお姿を、十字架にかけられる前に見せてくださった。
 皆が待ち望むイエス様のお姿だ。
 ダビデの若枝と呼ばれる、王なるイエス様。

わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。<ヨハネ黙示22:16>

 今、世界中の人々が、コロナ禍の中、もう一年以上も不自由を感じながら生きている。
 しかし、私たちは失望しない。私たちには希望がある。

 わたしたちの心の中に、私の王として入ってこられる主イエス様を、おどり上がって喜び叫びお迎えしよう。
 わたしたちの感謝の祈りの渦を高く上げよう。(た)
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# by mitiru-takae | 2021-03-28 14:33 | 満ちる | Comments(0)

No.438 お父さん似/わたしの教会 2021.3.21

お父さん似

私を見る者は、私をお遣わしになった方を見るのである。<ヨハネ12:45>

 子供がお父さん似だねと言われたり、お母さん似だねと言われたりするとき、言われた子供と両親との関係が、言われた本人の心の内で明らかになる。
 ありがとうと言えるのはとても幸せなことだ。
 ごく普通のことだとは思うけれど、この普通はとても凄い。
 宝物である。

 イエス様は最高にお父さん似だ。
 イエス様を見ていると、お父さんがよくわかる。
 言動のすべてがそうだが、愛と義が心の中から溢れ出ている。ああ、神様ってこんなお方なんだ、とわかってしまう。

 私は誰に似ている?
 あなたは?(た)


わたしの教会

そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。<マタイ16:15、16>

 ペテロの素晴らしい答えは、天の父によるものだ。
 御霊に感じて返事をしたペテロにイエス様は言った。

そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。<マタイ16:18、19>

 ペテロとは大きな岩のことである。
 大きな地震が来ても、動かされない、大きな岩盤のことだ。
 ペテロをペテロと成し得るのは、イエス様ご自身である。
 あなたも「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白するならば、イエス様という大きな岩のような決して動かされることのない土台の上に、召し集められる。
 悪しき者がどんなに揺さぶったとしても、びくともしない、イエス様の教会である。

 イエス様に繋がる者には天国の鍵が与えられている。
 この鍵は何を開くのだろうか。

 ここでペテロに言ったイエス様の預言は、もうすぐ成就するのである。

 イエス様の大祭司の務めが果たし終えるこの時、聖所の幕は上から真二つに裂け、私たちは、至聖所にて神にまみえ、祈り求め、ほめたたえる。

 今もうそれは起こっているのだ。

 私たちがイエス様の教会で祈り求めるならば、その祈りは天の御国にすぐ届けられる。
 私たちがイエス様の教会で賛美するならば、その賛美の香りは、そのまま天の御国へと届くのだ。

わたしの祈を、み前にささげる薫香のようにみなし、わたしのあげる手を、夕べの供え物のようにみなしてください。<詩篇141:2>

 イエス様は、ペテロに、弟子たちに、そして私たちにまで、天国の鍵を渡すために、大祭司の務めを果たしてくださった。

 それは私たちの罪のためにこの世に来てくださり、十字架にかかって死なれ、三日目に死と黄泉に打ち勝ち、よみがえって天に昇り、私たちの救いを完成してくださったというキリストの福音のことである。(た)
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# by mitiru-takae | 2021-03-21 15:11 | 満ちる | Comments(0)