【満ちる】No.606 聖霊の導きに信頼して歩む 2024.6.9

聖霊の導きに信頼して歩む

ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。
<創世記13:10~12>

 アブラム(アブラハム)とロトは、とても財産が増えていた。おかげで、土地は狭い。そのうえ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいたのである。
 そのことは、両者が共に同じ地域には住めないということを物語っている。自分たち以外の氏族との争いは避けようがないかもしれないが、ロトとアブラムの間で争いがあっては大変だ。ところがすでに、牧者の間では争いが起こってしまっていたのである。
 互いが分かれて住むのが一番の得策である。アブラムは誰がどこに住むかについて、ロトに先に選ばせた。

 ロトが選んだヨルダン川の低地のほうは、今二人がいるところからは東側になるのであるが、10節にあるように、素晴らしいところであった。
 「主の園のように、エジプトの地のように」隅々まで潤っていて、ロトは自分の目で見た時、とても満足したに違いない。
 とにかく二人は離れたので、一応この問題は解決であるが、ロトのほうは決して良い方向にはいかなかったのである。
 ロトが確かめたのは自分の目で見た土地の状況である。
 ここですでにサタンはほくそ笑んだに違いない。

 私たちも選択権を先に取ったとき、何を基準に選ぶかはとても大事であるが、人の目に見る豊かさと、神のとはまるで違うものである。人には今しか、見える範囲しかわからないのである。

 もちろん、この時点でアブラムもわかっていたわけでは無いだろう。しかし、先にロトに選ばせたのである。
 本来なら自分のほうが年も上であるだろうし、良い方をとってもおかしくはない。しかしよく聞く言葉に「損して得取れ」というのがある。確かに、「損することも厭わず、人の嫌う残りものをわざと取る」というのも一つの方法である。
 たとえ失敗しても、周りの人々は同情するかもしれないし、成功すれば人一倍の喝さいを受ける可能性もある。要するに精神的にも安全であるのだ。

 アブラムは、そんなことを考えたのであろうか。ソドムの人たちがいたので、可能性は無きにしも非ずであったと思う。
 ソドムの町の人たちは、主に対して悪い人々であったので。それも甚だしいと聖書に書いている。

ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。
<創世記13:13>

 ただ見た目で、判断は出来ないということだ。これは二人にとってもよい教訓であっただろう。神が良しとするところを選ぶべきであったのだ。
 このように自分で悪い方を選んで、あとで苦労するという時、ヨブの友人でないが、自業自得の罪の故起こったことだと考えてはならないということである。
 「選んだ人が悪かった…」ではなく、すべての選びには神の介入がある。

 イエス・キリストの系図に出てくる人たちを見てもわかるが、どのような人生であっても、それはみなイエス・キリストの誕生に向かっている。
 私たちの罪の救いの為の神のご計画が、すべての物語や、歴史を造っているのである。

 神のご計画(ことば)は天地が造られる前からあったものだ。造られたものがこれを変えることは出来ないのである。
 神のご計画のための、アブラムとの契約が、ロトにも、そして今の私たちにも、神の愛によって、変わることなく続いている。それは、イエス・キリストによる救い、解放、赦し、永遠の命のためである。
 アブラムは祭壇を造った。いわば氏族すべての人の罪のためである。

アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた。
<創世記13:18>

 信仰による譲歩や選択が、今の私たちには聖霊によって導かれている。
 私たちの内に生き、動き、存在するご聖霊の御導きが、どんなときにも、私たちの内に働くのである。いつもそれを信じて一歩一歩を歩んでいこう。(た)〔釘宮孝枝〕
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# by mitiru-takae | 2024-06-08 23:15 | 満ちる | Comments(0)

【おしらせ】2024.6.9

6/9の礼拝
聖歌 511番(総合版529番)
聖書 創世記14章
メッセージ  いと高き神に栄光あれ

今後の行事
・6/16 〔礼拝後〕食事会(お茶会)
・7/7 〔礼拝〕聖餐式、誕生祝福式





# by mitiru-takae | 2024-06-08 23:14 | おしらせ | Comments(0)

【満ちる】No.605 主を賛美すること/全ては宣教 2024.6.2

主を賛美すること

「立ちあがって永遠から永遠にいますあなたがたの神、主をほめなさい。あなたの尊いみ名はほむべきかな。これはすべての祝福とさんびを越えるものです」。
<ネヘミヤ9:5>
そして彼らに言った、「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。
<ネヘミヤ8:10>

 先週の礼拝の途中、玄関につるしている旗が風になびいているという司会者の言葉に、一人の姉妹が声をあげて歌いだした。
 
  喜びの旗ひるがえる
  ひるがえる、ひるがえる
  喜びの旗ひるがえる 心の砦より
  高く上げよ、この世に示せ
  この世に示せ、この世に示せ
  高く上げよ、この世に示せ
  王の王がここに住む

 嬉しくてたまらない、心の叫びが、主をほめたたえる賛美に変わるのである。一人が歌い出すと、とたんに皆が歌い始める。みんな覚えているのだ。
 やはり、フレーズの短い簡単な、繰り返しの曲はいいな・・・。
 私も思わず歌いだすが、姉妹はもう踊り出していた。ほんの少しの時間ではあったが、感謝であった。この賛美に限らず、姉妹は何時も踊っている。自宅でもこの通りのようだ。
 「一人住まいだから何でもできるんよ」と本人は言っているが、いやいや、たとえ一人暮らしでも、照れてできないものである。祈りも、声を出して、いつまでも祈ってられない、すぐやめてしまうか、小さな声で、端っこでブツブツと祈って終わり、ということにもなりそうである。

 神様の前に子供のようでありたい、そう願うのはみな同じだと思うが、案外、子供のようにはなれない大人のプライドがあるようだ。
 私も、姉妹を真似て、もっと自由に神と過ごしたい。皆で真似ようではないか。わっはっは!(た)

全ては宣教

 先週日曜日の午後は、原田修司さんの召天2周年祈念式であった。奥様の光子さんの写真も並べて、お二人の偲ぶ会のようでもあった。
 お父様の会社を見事に継いでいる兄弟お二人とそのご家族、そして親族の方々と、楽しい時を過ごした。
 出席者にクリスチャンは皆無に等しかったが、話も弾み、時間のたつのが早く感じられたのは、お料理のおいしさも相まって、というところでもあろうか。
 
 イエス様の救いを無理やり押し付けるわけでは無い、ただクリスチャンとしてイエス様の聖名を掲げ、神の愛を語り、いわゆる世間でいう3回忌の法要を2周年祈念式として行ったのである。そして最後には主の祈りを祈った。なんと主は素晴らしい。

 最近キリスト教を知らない外国の土地に行って伝道する宣教師の先生方が結構おられる。
 その中にコモリ先生という方がいる。イエス様を知らない方たちの中に家族と共に入ってその人たちと一緒に仕事もし、共に過ごしながら伝道を実行してきている素晴しい先生と家族である。

 生活の中でイエス様の福音、罪のこと、色々なことを少しずつ触れていく。
 やがて反対の多い中にも、地域の家庭で集会が出来るようになり、クリスチャンとして成長していく若者たちの姿を見るようになる。自分の身をとして宣教している方たちの素晴らしさはさることながら、イエス様を知らない地であった所にイエス様を知り、聖書に触れ、賛美し、祈り、育って行く若きクリスチャンたちがいるのを見ると、感動してしまうのである。

 コモリ先生たち家族は、今は日本に住んでいるようだが、日本にあっても、イエス様を知らないご近所の人々の中に、まさに未伝の地に、家族と共に遣わされている。
 そうしてみると、日本は教会もあるし、クリスマスもあるけれど、町や村の中に入ってみると、どこもかしこも未伝の地のようなところが多く、仏教や、神道しか知らない地域が結構多いものである。
 先生が「ハーザー6月号 『特集 届く宣教』」のなかで『異邦人には異邦人のように(コモリコウゾウ)』というタイトルで宣教について語ってくださっている。是非一読していただければと思う。(た)〔釘宮孝枝〕
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# by mitiru-takae | 2024-06-01 22:00 | 満ちる | Comments(0)