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No.447 わたしの神、主/ペンテコステの朝、9時 2021.5.23

わたしの神、主

「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。<出エジプト20:2、3>

 神が定められた律法、出エジプト20:3~17は、かつて毎週、教会学校で子供たちと大声で読み上げていた、かの十戒である。
 その十戒を読み上げる前に、神は言う。
 あなたたちをエジプトから助け出したのは私である。

 わたしが旧約の世界でみことばを一つ取り上げるとしたら、難しい選択ではあるが、このみことばである。
「私はあなたの神、主である」

 イスラエルの民たち、そしてこの私の仕切り直しの第一声である。
 まず神からの号令があって、私たちは進みだした。
 今からも、新しい道に入るときは必ず、神からの号令がかかるはず。
 「号令を聞き逃すな」ということである。

 今の全世界のコロナ禍、異常気象、核戦争のうわさ等など、このカオス状態から抜け出せるのは、愛するわたしたちの神の伸ばす手による以外ない。
 
 今年もペンテコステを迎えた。
 今週から礼拝はオンライン中心となり、しばらく会堂での礼拝は休止である。

 昨年は、2月20日に私の骨折事件があり、2月最後の礼拝は牧師不在の礼拝となったが、素晴らしいことに、ちょうど別府フルゴスペル教会の永野牧師にメッセージと祝祷をお願いしていた。

 次の日曜礼拝から会堂での礼拝はコロナ感染対策で休止とした。
 そして、再開できたのは、ペンテコステの日(2020年5月31日)からだった。
 が、この長い会堂での礼拝休止のおかげで、新しい教会の形が出来つつあったことは驚き以外の何ものでもない。

 祈祷会は、この時から今に至るまで、教会堂では休止のままだ。
 しかし、新しい教会形式では、祈祷会はLINEのビデオチャットを使ってのリモート祈祷会となった。この祈祷会は会堂で再開する日が来たとしても、多分LINEと並行していく形となるだろう。
 礼拝はすでにYouTubeでのライブと並行して行っている。

 私たちの精神の中にある「硬鉄の信仰」が、この暗闇のような我慢の時の中、踏まれても起き上がる雑草のような強い芽、それは「葦の信仰」として、泥水の中から顔を出したのである。
 何が起こっても、神から離れることがない本物の「神の民」と創り変えられているに違いない。

 先週日曜日の礼拝の中でE兄が祈っていたみことばが、私たちの今の状態をよく表していると思う。
 この朝のラインでの祈り会にのせられたみ言葉であった。(た)

だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。<ローマ8:35>



ペンテコステの朝、9時

 その日が来た。待望の聖霊の降臨である。

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。<使徒2:1、2>

 イエス様が待てと言うときは、待てば必ずその時が来る。
 僕(しもべ)のために癒しを願い出た百卒長のように、イエス様の御言葉に従える人にさせていただこう。
 主が行け、と言えば行き、来いと言えば来る。
 エルサレムで待てと言えば、そこで待てる人に。アーメン!(た)
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# by mitiru-takae | 2021-05-23 13:22 | 満ちる | Comments(0)

No.446 瞑想のススメ 2021.5.16

瞑想のススメ

神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。<ヨハネ4:24>

 私たちの日ごとの賛美と祈りの中で、また、教会での礼拝の中で、神の霊が満ち溢れていることを知っているだろうか。
 聖書を開いて、みことばを読み進めていく時、み使いたちがのぞき込んでは喜び、共にページをめくっているのを知っているだろうか。

 「見たことがないからわからない、感じたこともない」と言う方がいるかもしれないが、瞑想することで、感じ取れる助けになりそうだ。

 イエス様を信じる者は、霊とまことで礼拝する。
 信仰は感情ではないから、たとえあると感じられなくても、「あると心に言って聞かせよ」とはよく言うことばだ。
 確かに聖霊にしてもみ使いにしてもそうである。
 私たちが認識しようとしまいと、神の霊は私のうちに生き、み使いは私たちを守ってくださっているからだ。

 神は人間に永遠(神のイノチ)を思う心を与えられた。
 私たちの思いの深層に、神の霊を知り、感じることが出来る私の霊があるのだ。
 神が私たちを創られたときに下さった、「神の息」である。
 私の中で生きている神の息をしっかりと意識して礼拝したいと思う。
 また、日々を過ごしたいと思う。

 それには瞑想することもひとつの方法である。
 神の存在を、五感で感じ取れるくらい、瞑想してみよう。

◇気楽な瞑想
 父(釘宮義人牧師)は、朝早くから教会のソファに座って、祈っていた。
 「何時間も座っているので、果たして祈っているのか、眠っているのかわからなくなる」とは父の弁。
 これは、老人に与えられた恵みのような気もするが、神と一番近い祈りだなと思う。
 自分の意識をすべて神に委ねきっているからだ。
 最近は私も良く真似をする。
 気楽な瞑想である。
 ただイエス様のことを思いながら、時間を過ごすのである。
 若い方は難しいかもしれない(笑)

◇みことばによる瞑想
 短くてもいいので、暗唱できるみことばをいくつか持っておこう。
 覚えておくと、いちいち聖書を開かなくてもよいので、本当に瞑想しやすい。
 フレーズはどんなに短くてもいいのだ。
 繰り返し、かみしめていくうちに、神様はとんでもない素晴らしい啓示をくださる。
 反対に、聖書を読み漁るということもある。
 これも、宝探しのようで、結構時間を忘れるほど楽しい。
 聖書は砂をかむようで読むのが辛い、というような時ばかりではない。
 宝石を探すように、みことばを読んでいく。
 このこと自体がすでに瞑想しているのと同じような心の状態である。
 全てを忘れて、みことばと一つになっている素晴らしい瞑想の時だ。

◇深呼吸で瞑想
 最近、深呼吸を2、3度した後、血圧を測ると、いつもよりだいぶ低いということを発見。
 今さら何を、という感じであるが、おいしい深呼吸を覚えた。
 胸の肋骨を開くようにして息を吸う、これは良くすると思うが、この時の最後、もう吸えないという時、さらに肺の奥まで吸い込んでみる。
 すると、おいしいという表現がぴったりの感じが、次の吐くという動作を促してくれる。
 深呼吸ってこんなにおいしいものなのだ、と感じてしまう。
 ここまでする必要はないけれど、軽い複式呼吸を続けながら、肩の力を落として、イエス様を思い浮かべる。
 これを持続していくと、体そのものが平安で満たされてくる。

 軽く目を閉じてイエス様をすぐそばに感じるだけで、心はグングン平安に引き込まれていく。
 これだけでも瞑想はお勧めの価値がある。
 自分だけの瞑想の方法を見つけてみよう。(た)
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# by mitiru-takae | 2021-05-16 13:40 | 満ちる | Comments(0)

No.445 天国はハーモニー 2021.5.9

天国はハーモニー

そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。<マタイ18:1>

 私たちがいつも心の中のどこかで思うこと、それは、「この中でだれが一番○○だろうか」である。
 私くらいの年配になると、あまり考えないが、それでも若いころは、色々思ったものだ。
 「あの人は仕事ができる」、「この中ではあの人が一番物知りだろう」というように、私たちは勝手に人の優劣を決めようとする。

 やがて使徒と言われるようになる12人の弟子たちでさえ、日ごろの仲間たちの言動一つ一つを、この優劣で計ってしまう。
 当時、奇跡や、癒し、聞いたことのないような権威ある説教で、イスラエル中を沸かせたイエスというお方に、自分が認められたいと思うのは当然だろう。
 しかし、イエス様の弟子教育とは、天国人としての生き方を伝えることである。

「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。<マタイ18:3>

 心を入れ替えて、幼な子のようになれと、イエス様はみんなの真ん中に幼な子を連れてきたのである。
 心を入れ替えるとはどういうことであろうか。
 悪人が改心することだろうか。
 イエス様の思いと、弟子たちの考えとでは、天と地の相違がある。

イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。<ヨハネ3:3>

 新しく生まれるということは、まず「自分ではどんなにしても自分の罪を取り除くことができない」ということを知ることから始まる。

 幼な子のように、砕かれた心となって初めて、神のみ前に出ていけるのだ。
 この小さいものを押しのける者は、決して神に近づくことはできない。

また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。
しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。<マタイ18:5、6>

 幼な子というのは、イエス様を信じる小さい者である。
 それはイエス様が愛してやまない弟子たちを筆頭に、世界に広がっていく神の教会のひとりびとりのことである。

あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。<第一コリント12:27>

 私たちの肢体は、どれ一つとっても必要のないものはない。
 神様はすべてのものを最高の働き手として調和するように創られた。

それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。<第一コリント12:25>

肢体は多くあるが、からだは一つなのである。<第一コリント12:20>

 目が一番大切なのだろうか、指はなくてもよいものなのだろうか。
 そんなことはないのだ。
 教会も同じである。
 私たち一人ひとりがイエス様の大切な肢体である。ハレルヤ!

あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。<ローマ12:2>

 心を新たにすることは、幼な子のように小さい者として生きることであり、他の肢体と共に、イエス様のハーモニーの中で天国人として生きることである。(た)
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# by mitiru-takae | 2021-05-09 14:41 | 満ちる | Comments(0)

No.444 二人分の銀貨 2021.5.2

二人分の銀貨

彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。
ペテロは「納めておられます」と言った。<マタイ17:24、25a>

 イエス様たちは、イスラエルのあちこちに小旅行を重ね、ひとところにはなかなか留まっていなかったので、宮に収める税金を、集め損ねていた集税人たちが、イエス様の帰って来たことを聞くと、すぐに押し寄せてきたのだろう。
 出エジプト記によると、もともとこの宮に収める税金は「魂の贖いのためのささげ物」であった。

あなたはイスラエルの人々から、贖いの銀をとって、これを会見の幕屋のように充てなければならない。これは主の前にイスラエルの人々のため記念となって、あなたがたの命をあがなうであろう」。<出エジプト30:16>

 イエス様は、贖ってくださる救い主そのものである。
 ペテロは告白した。「あなたこそ生ける神の子キリストです」
 
そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。
ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。<マタイ17:25b~26>

 ペテロの告白通り、イエス様は神の子であり、神は、父である。
 イエス様は12才のころ、神殿を「自分の父の家」と言っている。
 この世の王は、自分の子から税金や貢を取り上げたりはしないように、天の父(神殿)に対して、イエス様が税金を払う必要はないわけである。

しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。<マタイ17:27>

 イエス様は、ご自身が神の子であること、キリストであることを、魚にたとえ、またしてもペテロに教えた。
 「最初につれた魚」とは、まさしく十字架にかかり死なれ、復活(ヨナ書をみると、魚は復活を思い起こさせてくれる)したイエス様ご自身の事であろう。
 急いで行ってガリラヤ湖の岸で釣り糸を垂れるペテロの姿が目に見えるようだ。

 弟子たちにとっても、今の私たちにしても、この世においての必要はいつも主が満たしてくださっている。
 同じように、私たちの魂も精神も、欠けることのないようにと、必要をすべて与え続けてくださるイエス様の愛のお姿がここにあるのだ。

 私とあなたのための二人分の銀貨、それは、イエス様と共有させていただく私への神の愛である。
 一人に愛を100%、100人いても変わらず、一人一人に100%をくださる、欠けることのない神様の愛のことだ。
 この愛こそ、魚にたとえられた私たちの救い主イエス・キリストの愛のことである。

 イエス様とペテロの間に何の違いもなく、神の愛をいただくとは、この二人分を用意された銀貨の意味は大きい。

天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。<エペソ:4~6>

 イエス・キリストによってのみ、私たちはイエス様の似姿に変えられ、神の子とされるのだ。
 神の子の完成をイエス様ご自身が世の創られる前から信仰、希望、愛を、私たちに持ってくださり、選んでくださったのである。
 主をほめたたえよう。
 ハレルヤ!(た)
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# by mitiru-takae | 2021-05-02 13:57 | 満ちる | Comments(0)

No.443 今からでも私に帰れ/コインの入った魚 2021.4.25

今からでも私に帰れ

主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。
あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。<ヨエル2:12、13>

 「思い立ったが吉日」ということわざがあるが、クリスチャン的に言うと「思い立ったが祝福の時」ということになろうか。

 私たちが何か気づいたことがある時、即実行するのが良い。
 聖霊によって気づかされることが多いからだ。
 例えば、誰かのために祈ろうと思ったとき、車の運転中など危険な時はともかくとして、その場で、即座に祈るのが良いとは、私の父がよく言った言葉である。

 父は、日記を書こうとよくチャレンジしていたが、三日坊主を何度も繰り返しながらも継続していた。
 多少苦笑しながらも感心するのだが、書くことがつらいと言いながらも、よく書く人であったと思う。
 これは継続の手本でもある。
 大概のことは思い立った時、即座に始める父であった。

 主は言われる。「今からでも心を尽くし・・・私に帰れ」
 なんと嬉しいお言葉であろうか。
 思い立ったが祝福の日。
 さあ、主に帰ろう。
 見せかけの断食ではなく、心からの嘆きと悲しみを表せ。
 
もしかすると、主が思い直してあわれみ、
祝福をあとに残しておいてくださるかもしれない。
あなた方の神、主への
穀物と注ぎのささげ物を。<ヨエル2:14【新改訳17】>

 私たちがもう間に合わないと思うときでさえも、主に帰るのに、遅いということはない。
 主は言われる、今からでも私に帰れと。(た)



コインの入った魚

 イスラエルに旅行した時の事、何日目だったか、昼食に、「ペテロの魚」が出た。
 この魚の口の中にコインが入っていたのかと少し興味津々、フォークで魚をつついて食べてみた。
 その時「コインが入っていた」と、叫ぶ人がいた。
 確か、その日お誕生日の人だったと記憶している。
 なかなか楽しい思い出である。

 キリスト信仰を表すシンボルマークとしても、魚の形の中にギリシャ語でイクスースと書かれたものが使われるが、ギリシャ語で「イクスース」とは、魚の意味だ。魚の形も無限大のマーク(∞)に似ている。
 これはペテロが告白した「あなたは生ける神の子キリストです(イエス・キリスト・神・子・救い主)」の頭文字である。

しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣り針を垂れなさい。そして最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が見つかる。それを取って、私とあなたの分として納めなさい。」<マタイ17:17~27>

 最初に釣れた一匹の魚、この中に銀貨が入っているというのである。
 どうして最初に釣れた魚であり、一匹の魚なのだろうか。
 この時の銀貨一枚は、イエス様と、ペテロの二人分の税金の額である。
 ここにも、イエス様の御国の奥義がちりばめられているように思える。

 イエス様と、弟子たちの濃厚な日常が、私たちの心の中に迫ってくるようだ。
 いつも共にいて、食べて、飲んで、笑って、泣いて、様々な事件に遭遇しながら、日々が過ぎていったのだろう。
 十字架へ向かうイエス様のお姿を見送る日まで、毎日。(た)
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# by mitiru-takae | 2021-04-25 16:33 | 満ちる | Comments(0)