No.318 「恵まれた人・愛される人」/まず「我信ず!」 2018.12.2

「恵まれた人・愛される人」

 「恵まれそうな人」「愛されそうな人」ではありません。
 人が外から見て「あ、あの人は恵まれていそうだ、きっと愛されているに違いない」と周りから思われる人のことではではありません。

御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。<ルカ1:28>

 御使いはマリヤに、「恵まれたように見える人」とは言いません。当然ですが、「恵まれた女よ」と語りかけます。
 聖霊様(イエス様)は今日も、明日も、これからもずっと、語りかけてくださいます。
 「恵まれた人〇〇よ」また「幸せな〇〇よ」と。

 今日からアドベントに入ります。
 「私たちが、このように「恵まれた人」となるために、イエス様はこの世にきてくださいました。
 それは私たち人間を愛して愛して、愛し抜いておられるからです。
 くじけそうなとき、神様はダニエルにこう言いました。

「大いに愛せられる人よ、恐れるには及ばない。安心しなさい。心を強くし、勇気を出しなさい」。彼がこう言ったとき、わたしは力づいて言った、「わが主よ、語ってください。あなたは、わたしに力をつけてくださったから」。<ダニエル10:19>

 ダニエルは、神様に対してしっかりと返事ができるほど力づけられました。やっと、神様のお声を聴くことができるようになったのです。

 私たちもすましてはいても、ほんとは神様に「大いに愛せられる人よ」と、言って貰いたい者なのです。
 イエス様からの一言には、どれほど元気づけられることでしょうか。
 強がらず、素直にイエス様にかわいがられるものになりたいですね。

 さらに、私たちの喜びは、そのわたしたちを愛してくださるイエス様が、地上に生まれてくださり、私自身の上にも救いが成就したということです。(た)



まず「我信ず!」

その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。<マルコ9:24>

 幼いころから、今に至るまで、人生の中で精魂尽き果てた状態がどのくらいあったでしょうか。
 また、「一つの苦しみを何十年も続けている・・・」というようなことがあるでしょうか。
 それらはとてもつらいことです。

 長く続く苦しみからの解放は、イスラエルの民が切に望んだことでもあり、生まれながらの障害や、慢性病で苦しむ方々の切なる願いでもあります。

 病気をあまりしたことのない方でも、いきなりインフルエンザなどにかかると、天と地が入れ替わったのではないかというほどの苦しみに思えたりします。
 とかく、他人事で済ませられることについては何でもありませんが、当事者となると、ほんの些細なことでも、つらいものです。

 特に病は、だれにも代わってもらえない、自分自身に与えられた試練です。
 このような時こそ、「我信ず」と、まず悪霊どもに対して、私の意思表明をしなければなりません。
 「イエス・キリストを信じます」
  
 いつも自分が、イエス様の側のものであることを、自分に対して、またこの世(サタン)に対して示していきましょう。

 喜びの時も、苦しみの時も、どんなときにも、主権者はあなたではなく神様なのです。

 このお方を信じるほかにすべてこの世からの解放はあり得ません。(た)

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# by mitiru-takae | 2018-12-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.317 ラブ・ソナタの恵み (神からの賜物) 2018.11.25

ラブ・ソナタの恵み
(神からの賜物)

すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。<マタイ25:15>

 11月14日(水)ラブ・ソナタ福岡に行ってきました。
 前日のゴスペルナイトには行けなかったのですが、地元の教会の若者たちの賛美が素晴らしかったことでしょう。参加できなかったのは残念でした。
 というのも、今回のラブ・ソナタ福岡のアンケート集約の結果報告が来ていましたのでそれを見てみましたら、びっくりしたのです。
 
ゴスペルナイトに来た人たちのうちで、クリスチャンの方々の内訳はこうです。

1.これまで以上に神様を愛し、教会に仕えていきたい …163名
2.イエス・キリストに人生をささげ、献身者として一生涯神様に仕えたい…118名
 【神学校へ進学:6名  牧師、伝道師として:16名  宣教師として:12名  教会スタッフとして:42名  フルタイム:4名  仕事をしながら仕える:70名  CS教師として:13名  ユースパスター(若者のための牧師)として:4名  その他:30名】

 素晴らしいですね。
   
 今回のラブ・ソナタ福岡では、ソン・ソルナムさんなどいつものメンバーに加えて、最近何度か出演しているアントニオ古賀さんが来てくださっていました。
 この方が、一昨年初めて行った教会が東京のオンヌリ教会だったそうです。神様ってなんてすごいのかなっと思います。
 はじめから用いるために、導いてくださっていたんだと思いますね。

 今まで、教会なんて行ったこともなかったアントニオ古賀さんが、気が付いた時には毎週礼拝に通っていたというのですから、主は素晴らしい!

 なんといっても彼は日本人ですから、韓国からの素晴らしいアーチストとともに主のために働けるなんて、私たちにとっては嬉しいことです。

 ベ・チェチョルさんのマネージャーであり、音楽プロデューサーである輪島さんの場合もそうです。
 彼もベ・チェチョルさんのお世話をしていたノンクリスチャンの方でしたが、神様はみごと、輪島さんの魂もつかんでしまいました。

 オンヌリ教会主催のラブ・ソナタですが、二人も日本人のエンターテイナーを遣わしてくださったわけです。機会があればアントニオ古賀さんのお証を福岡ラブ・ソナタ協力教会の藤江先生に詳しく聞いてみたいと思っています。

 アントニオ古賀さんといえば、「影を慕いて」や、「ジャニーギター」など、ギター演奏にかけては素晴らしい賜物を持っています。日本一かもしれません。トークもうまいし、歌も素晴らしい。またギターでの編曲が素晴らしいのです。

 このような、いわゆる有名人というだけでなく、私たちの心をとらえてしまうエンターテイナーとしての役割を持った方がいると、どんなイベントであっても力強いですね。
 これは神様からお預かりしているタラントなのです。

 やがて、天に帰った時、私たちは神様の前で、山のように増えた賜物を披露することができるでしょうか。

 これを聖書ではタラントの教えとして書いているのです。

五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。<マタイ25:15,16>
主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。<マタイ25:21>

 神様からいただいたものを、どんどん使って、この地上にいる間に増やしていきましょう。ハレルヤ!(た)
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# by mitiru-takae | 2018-11-30 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.316 あなたは私を誰と言うか 2018.11.18

あなたは私を誰と言うか

〈洗礼式〉

 去る11月12日(月)宮川芽生姉妹の洗礼式を浸礼で執り行いました。

 洗礼を受けたいとお母さんからの申し出があってから3年たっていましたが、これまで、神様は時を待っておられたのでしょう。丁度よいときに、それも芽生姉妹の心の渇望の高まりをここぞととらえて、この日、朝11時という天からの恵みの時を与えてくださいました。

 式文の中に「あなたは洗礼を受けたいと望みますか」という一文を入れさせていただきました。
 教会によっては、当然告白することかもしれませんが、こればかりは、神様のなさることです。本人はそれほどでないにしても、突然、水の中に放り込まれることも無きにしも非ずです。

 それにしても芽生さんの声は、はきはきしていて、「信じます」「望みます」の応答の声をはっきりと聞くことができました。
 顔は天使のように泣きじゃくりながらも明るい、すがすがしいとても美しいお顔でした。彼女はとにかく、純真で愛くるしい神の子なのです。ハレルヤ! (た)
                    
〈ペテロの告白〉

そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。<マルコ8:29>

 ペテロは「あなたこそキリストです」と答えました。
 お弟子さんたちがイエス様の周りを囲んでいた時ですから、一番弟子のペテロさんは、一番に皆を代表して答えたのでしょう。

 しかし、今回の洗礼式での芽生さんのように洗礼を受けるときはイエス様と一対一です。

 イエス様が奇跡を起こされた時のように、私とイエス様の特別な時なのです。
 「あなたはイエス・キリストをあなたの救い主と信じますか」と、イエス様があなたに声をかけてくださるとき、イエス様はそこにいるみんなに語り掛けたのではありません。
 あなたに答えてもらいたいのです。二人っきりですから。

 ペテロもこの時は、キリスト(メシヤ)をこの地上のユダヤ王国を統率してくれる、素晴らしい王様としてとらえての返事だったかとも受け取れます。
 然し、聖霊様は、この言葉の中に働かれます。
 「あなたこそキリストです」という言葉を告白するとき、私の思いを言葉にしたのではなくても、言葉の方が私の意識(脳)を支配します。
  
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。<マルコ8:34、35>

 弟子たちの期待をよそに、イエス様は「自分を捨て、自分の十字架を負うて従いなさい」と言います。
 自分を捨てるということは自己否定です。そしていろいろな問題や試練を受けても、自分の思いを捨て、それを乗り越えていくなら、イエス様に従っていけるようです。
 しかし、人間は自分が生きるためにそれをしようとします。

 イエス様はというと、人間とは進む方向が全く違います。イエス様の進む道は、十字架という、死と屈辱の道でした。

 本当の十字架刑を受けるべきは、罪びとであるすべての人間です。
 人間が10億人いれば10億人用のいけにえが必要です。これをすべて網羅できるいけにえはイエス様、つまり神の子羊以外にはありません。
 イエス様はそのために生贄(いけにえ)としてこの世に来られました。

 そしてこのいけにえとなる神の子羊は、あなたのためのいけにえでもあるのです。
 全人類のために、そしてたった一人のあなたのために来られたのですね。(た)
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# by mitiru-takae | 2018-11-30 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.315 告白と宣言/日々剥脱(はくだつ) 2018.11.11

告白と宣言

あなたがたが足の裏で踏む所は皆、あなたがたのものとなり、あなたがたの領域は荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテから西の海に及ぶであろう。<申命記11:24>

 最近ではあまり「お願いします」を祈祷会などでも声を張り上げて祈るということが少なくなりました。もっぱら声を張り上げるのは、異言の祈りと霊歌です。
 また、カウンターなどを使って「み言葉の告白」や、「宣言」を何百回もしています。

 しかし時には私たちの無理難題をイエス様に申し上げることがあります。このときはあえて「お願いします」の声を張り上げるのですね。
 私たち自身の、心を偽らない「お願いします」も大切な祈りです。

 「主の御前に告白をしましょう」とよく言います。告白とは何でしょうか。
 もちろん、私の心の中にあることを表明(信仰告白、または罪の告白)するわけですが、イエス様に対してアーメン「然り」という言葉を表明することです。
 これ以外の告白は、サタンを喜ばす告白になりかねません。

 申命記を見てみますと、「足の裏で踏むところ」というのは、イスラエルの民たちが自分たちの土地として所有するところです。
 シナイ山(アラビヤにある)のふもとでは、イスラエルの民が石の上に足跡を刻んだものがたくさん残っているそうです。
 「あなたがたが足の裏で踏む所は皆、あなたがたのものとなり、」と聖書に書いてありますが、当時の人々にとって、これは神との約束の証書でもあったのでしょうか。
 それにしても、すごいお言葉ですね。踏むだけで、自分の所有の土地となるのなら、毎日何十キロでも歩けそうです。

 これは私の見解ですが、私たちの「宣言」というのは、表明というよりも、この足跡のような気がします。
 私たちが宣言する一つ一つの言葉を、神の領域の中にスタンプのように押していきます。
 すると、足で踏んだところのように、宣言していったことはすべて、私たちのものになる…と言ってくださっているようです。

 物事の一つひとつをおさえて、宣言していきましょう。足でしっかりと踏むようにです。
 「病は癒される」(宣言)→癒された(告白)
 「〇〇の問題は解決する」(宣言)→解決した(告白)
 「心が元気になる」(宣言)→元気になった(告白)
というように、宣言によってこれらはすべてうけとれます。受け取ったものを信仰告白していきましょう。

 神様が私たちに下さったものは、決してとり上げたりしません。大いに宣言しましょう。土を踏みしめるように、宣言していきましょう。

あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。<ヨシュア1:3>

 神様のお約束はモーセの時代もヨシュアの時代も、そして今の私たちの時代も変わることがありません。(た)


日々剥脱(はくだつ)

 義人牧師の日記調の文章は、とても味わい深い。その中でも私はこのタイトルが一番といっていいほど大好きです。
 日々剥脱は、毎日の決算のようでもありますね。
 一日の汚れを毎日はぎ取っていただくのです。
 これは私の力で脱ぐのではなく脱がせていただくこと、今日の負債の勘定(罪)をイエス・キリスト勘定(十字架)に入れていただくことですね。

だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。<マタイ6:34>

 今日の思い煩いや小さな罪の数々から離れることができないと、明日はまだそれよりも心配になります。「明日まで持ち越さなくてよいですよ」ということでしょう。
 イエス様が大好き!(た)
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# by mitiru-takae | 2018-11-30 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.314 イエス様と私の特別な時 2018.11.4

イエス様と私の特別な時

 不思議な癒しと解放があります。
 ギリシャ人で、スロ・フェニキアのうまれの女の娘が、悪霊から解放されたという記事です。

 なんとイエス様は、願い出た女、もしくは娘の上に手を置いたわけでもなく、悪霊を叱ったわけでもないのに、悪霊は出ていったというのです。
 イエス様は言いました。

「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。<マルコ7:27>

 この女は、ユダヤの国では食事のあと、残しておいたパン一切れで手についた食べ物の汚れを拭き、床にいる犬たちにこの汚れたパンを投げてやるのを知っています。
 もちろん自分たちもそうするでしょう。そして子供たちはパンくずをテーブルの下にこぼすに違いないでしょうね。

すると女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。<マルコ7:28>

 それにしてもイエス様にこんなことをすぐ言えるなんて、聖霊様が働いたとしか思えません。聖霊様が働くということは、目の前にいるイエス様の信仰が働いたということでしょうか。
 帰ってみると、もう悪霊は娘から出てしまっていたのです。びっくりです。

そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。<マルコ7:29>

 その言葉で充分であったのです。
     *
 もう一つの癒しも不思議でした。

そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。<マルコ7:33、34>

 周りには多くの人々が押し寄せ、ごった返していたでしょう。

 イエス様はこの時、耳が聞こえない、話すこともできない人を、この人ごみの中から連れ出しました。二人っきりになったのです。
 そして、予想もしないことをしました。私たちには、さっぱり意味の分からぬことでした。

 しかし、イエス様は、この人だけに解る方法としぐさをもって、閉ざされていた二つの障害の門を開いてくださったのです。

 この人はイエス様と一対一で向き合い、二人だけの特別な時を持ちました。
 この人の心は開かれ、同時に、耳は聞こえるようになり、口もしっかりと声を出し、話すことができるようになりました。

 この二つの奇跡は、私たちに希望を与えてくれます。

 遠く離れて、何かをしてあげたくてもどうにもならない、助けることもできないような、そんな状況にある方が身近にいらっしゃれば、教えて差し上げましょう。またあなた自身がそうであれば、「こんな奇跡があるんだ」と知ってほしいのです。

 愛する家族や、大切な人の癒しや解放、平安を祈るとき、私と、そしてイエス様とが聖霊様のネットワークで繋がれ、イエス様の信仰が癒しと解放をその人のうちに成就してくださるということ
 
 周りの状況が見えずわからない、そんな厳しい状態の中であっても、イエス様は必ず、二人だけの特別な時をつくってくださいます。

 その人にしかわからない方法をもって、すべての物事を、御心のままに完成してくださいます。ハレルヤ!(た)
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# by mitiru-takae | 2018-11-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)