No.294 神の宣言 2018.6.17

神の宣言

さて、ひとりの重い皮膚病の人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
すると、すぐに、その重い皮膚病が消えて、その人はきよくなった。<マルコ1:40~42【新改訳】>

 この「重い皮膚病」という表現が適切な翻訳ではないと最近では言われているようですが、レビ記などを見ると、確かに家や石など、物にも生じるもののようですので、何かしらの意味のある病のように思えます。
 いずれにしても、イエス様はこの「重い皮膚病」を持った人を癒されたのです。というか、この「重い皮膚病」はすぐに消えて、きよくなったと言います。
 モーセの手にも、神は懐に入れたり、出したりするだけで「重い皮膚病」を生じさせたり、消したりしています。
 ですから、神がきよめればすぐにきよくなるものです。

 全能の神は、与えてくださることも、また取り上げることも、いとも簡単にできるお方です。こんなすごいお方に「みこころならば…」と言えたこの病の男もたいしたものです。
 度胸というよりも「本当の神の力を知っているわけではないが、自分に不可能と思えることでも、少しでも可能性があると思うならば、必死に求めていく男」であったのでしょう。
 私たちも、なりふり構わず、求めていくこと、これが一番のようです。
 それにしても「神のみこころを問う」というのは神にとって一番の突っ込みどころであったに違いありません。(笑)

 創造の初めから変わることのない「神のみこころ」、それこそが神ご自身が言う「私の心」です。
 ですからイエス様がおっしゃった「私の心」は「父なる神ご自身の心」です。
 神はご自身の愛(みこころ)を、この世(私の心の中)に完成させるために、私たちをイエス・キリストと結ばせてくださいました。
 そして、このキリストは私たちにとっては神の知恵そのものであり、私のための義と聖と贖いとなられました。おかげで私たちはイエス・キリストを私の救い主と信じるだけで贖われ、聖い者、また義しい者とされたのです。

 また神は、ご自分のお心を、私の前で宣言してくださるお方です。

主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」<出エジプト33:19【新改訳】>

 神はいつもわたし(あなた)のはなはだ近くにおられ、敵の陣地の中にあっても、いつでもわたし(あなた)の前で、宴を設けてくださいます。神のいつくしみと恵みとがわたしを追ってくると新改訳では訳されています。
 神はいつも、私を追いかけてまでして共にいてくださるのですから、せめて私たちは神の前から逃げないようにしたいものですね。
 いつでもどこでも私たちは神のものです。

あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。<詩篇23:5【口語訳】>
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。<詩篇23:6【新改訳】>

 口語訳、また新共同訳、はたまた新改訳と、時には英語の聖書まで開いてみるという、み言葉への渇きが学習会などでも表れてきます。
 神の御心を知るために、私たちはみことばに触れ、声を出して朗読し、祈り求めて、さらにみ言葉を読むということを、もっともっとしていきたいものです。そしてみことばを宣言していくのです。
 毎日の生活の中でも、いつでもどこでも神の御前で生かされ、キリストの香りを放つものとなりましょう。

 私たちは、<主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ>という、強い神ご自身の宣言の上に立っているのです。(た)
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# by mitiru-takae | 2018-06-30 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.293 人間をとる漁師にしよう 2018.6.10

人間をとる漁師にしよう

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。<マルコ1:7>

 CS(教会学校)の子供たちが喜ぶお話です。
 ルカによる福音書に詳しく書いていますが、一晩中漁をしても収獲のなかったペテロたちに、イエス様は沖に漕ぎ出して網を下ろしなさいと言いました。その通りにすると、すごい量の魚がとれて網は破れそうだし、手伝ってもらった他の船も、自分たちの船も沈みそうになったのです。

 さすがの漁にかけてのプロであるペテロも、びっくり、思わず「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」<ルカ5:8>と言ってしまいます。

 しかしこの後、イエス様は「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」<ルカ5:10>とおっしゃったのです。
 そしてペテロたちはそのままイエス様の後に従っていったのです。
 
二人はすぐに網を捨てて従った。<マルコ1:19>

また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。<マルコ1:19、20>

 共観福音書(マルコによる福音書、ルカによる福音書、マタイによる福音書)にはそれぞれ同じ記事が載っていますが、細かくは少しずつ違うところもあるので、読み比べてみるとよいと思います。
 しかし共観福音書は、共感ではないのですね。人間が感じたことではなく、イエス様とイエス様のなさったこと、言われたことなどを観たままに、そのことについて「共通の見解」として書いているのだと思います。

 イエス様がガリラヤ湖のそばで漁師たちに目を止められたことはとても興味深いものがあります。
 イエス様の言われたこと、行ったこと、すべてのことが古くからイスラエルの人々に語られてきた預言者の言葉の成就であることが、私たちにとっても驚きです。

イスラエルの子らを、………わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる。
見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。<エレミヤ16:15、16>

 神様のご計画は、創造の始め以前から、2000年前も、また今に至るまでも進んでいます。

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
<マルコ7:27>

 またエレミヤの預言は、イエス様が異邦人の女に言った言葉をも思い出させてくださいます。

ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」<マルコ7:28>

 この後イエス様は、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」と言ってくださいました。
 
 今も世界中に離散しているユダヤ人、またイスラエルに住んでいるユダヤ人であっても、まだ異邦人と同じくイエス様を知らない人々が大勢います。
 ともに主にある兄弟として、イエス様を賛美し、信仰を共有できる本当の兄弟姉妹として集うために祈っていきたいと思います。

 シモン・ペテロとアンデレの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟、共に妻も姑も、父親も仲間も、すべてを即捨ててイエス様に従って行った十二使徒のうちの4人の召命の話です。
 私たちもイエス様の「ついて来なさい」のお言葉を聞いて即従うものとなりたいですね。
「従います」と告白していきましょう。(た)
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# by mitiru-takae | 2018-06-30 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.292 全ての始まりは神から 2018.6.3

全ての始まりは神から

神の子イエス・キリストの福音のはじめ。<マルコ1:1>

 同じ個所を、ほかの訳で見てみますと、はじめという言葉の翻訳が少し違っています。

[神の子]「イエス・キリストの福音」の源。【岩波翻訳委員会訳】
イエス・キリストの福音はこうして始まった。――【塚本訳】
 
 故釘宮義人牧師の生前最後の週の火曜日の祈祷会で、この聖書個所を開いたのが、まるで昨日のことのようです。

 「『はじめ』というのは『始まり』のことです。
ここから、イエス・キリストの福音そのものが、わたしたちの背中を押して、進んでいくのです。」

 この時の言葉が、そのまま私の「召命」の言葉ともなりました。

 確かに私は、本当に能力も、知識も、権力もなにもない、そのようなものでありましたから、牧師となるには、聖霊様の後押し、つまりイエス・キリストの福音の後押しが絶対必要なものでした。
「それ以外に、私には誇るものが何もなかった」というのが、謙遜でも何物でもない、事実だったからです。

 誰にでも、何かの始まりの時があります。
 この世界にも始まりがありました。

はじめに神は天と地とを創造された<創世記1:1>
 
 人間の誕生にも始めがあります。

聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。<第一コリント15:45>

 私たちは人間としてこの世に生まれてきました。「人間・私」のはじまりです。
 そして、イエス様に出会ってから、更に新しい命をいただきました。

 イエス様と共に十字架で死に、イエス様と共に、新しく生まれました。闇の支配から贖われ、光の支配(権威)のもとに生まれ変わったのです。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。<第二コリント5:17>

 私たちの新しい人生は、始まっています。
 救われてすぐの時は、前方に何があるかわからないので、少し不安であったかもしれません。

しかし、もう古いものはなくなったのですから、後戻りはできません。新しい命で、永遠に絶えることのない本当の幸せを楽しんで過ごしていけます。

 新しく始まった私たちの生き方はこうです。

わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。<ローマ14:8>
 
 主のものとして、いつも誇りをもって、顔を上げてこの世に出ていきましょう。
 主が創られたもので、素晴らしくないものなどありません。
 私たちを宝としてくださる神様の深い愛をいつも思い、感謝して、喜んですごすことが、私たちの素晴らしさをより素晴らしくする秘訣です。

 イエス様を信じる人は皆イエス様の花嫁です。
 私たちはイエス様と一つになって、新しいいのちで永遠に生きることができます。

 永遠という言葉は私たちは実際には理解できません、しかし、始めであり、終りであると言われるイエス様自身こそが永遠そのものです。
私たちはイエス様を信じることで初めて、本当の始めと終わりを知ることができるのでしょう。(た)
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# by mitiru-takae | 2018-06-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.291 御霊の火に燃やされて祈ろう 2018.5.27

御霊の火に燃やされて祈ろう

御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。<ローマ8:26~27>

 イエス様が天に昇った後、弟子たちはペンテコステの日に聖霊の降臨を受けました。
 この時の弟子たちの異言は、目を見張るものがありました。
 他国の言葉で、福音のメッセージを語り始めたのです。
 ですから、色々なところから集まってきた人々は、それぞれ自国の言葉でそれを聞いたわけです。
  
わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいる<使徒2:9~10>

 という具合です。エルサレムってなんと外国人の多い都市でしょうか。
 特にこの日はペンテコステのお祭りの日でしたから、すごい賑わいであったのでしょう。
 現在の東京など、オリンピック開催地の会場でもし同じようなことが起こったら……国際空港で…国際色豊かな大学の学食で…などと考えていると、とても楽しいというか、大騒ぎでしょう。
 神様の御業が働くときは、人間の知恵はとても愚かに見えます。
 いくら進化論を口が裂けるようにして叫んだとしても、天動説が、地動説に変わったように進化論も創造論に代わっていくでしょう。人の考え方は変えられていきます。神の力は、ある時いきなり真実に目覚めさせ、気付かせてくださるのです。
 神の大能の前には私たち人間はまことにとるに足りないものです。
 このように神の霊は私の中で、突然、魂の変革を起こしてくださいます。それは使徒たちの異言にも勝る奇跡です。これは聖霊の働きなのです。

 父、御子、聖霊なる神の知恵は、地上の科学ではできない、神と人とをつなぐ大路を開いてくださいました。
 私の魂の中に、聖霊を通して神の国とつながる場所をイエス様が創ってくださったからです。
 人間である私たちが、理解出来てもできなくても、父のところに帰ったイエス様は、私たちの住む場所を創ってくださっているのです。心のドアを開ければ、まるでワープしたように神の国の家に入ることができるように…です。

 そして不思議なことに、聖霊は私の知らない言葉さえもくださいます。
 地上の音声を、天国の音声に変えてくれる、まるで音の変換機です(笑)。
 聖霊は、切なる呻きをもってこれを可能にしてくださっています。
 時には、とんでもない願い事さえも、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるという事実を、私たちは知って、感謝したいのです。
 祈りが叶う秘訣は、ここにあるような気がします。
 私たちの只中にある天国で、イエス・キリスト、さらに聖霊のとりなしによって魂が張り裂けるほどの祈りを捧げましょう。

わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。<Ⅰコリント2:12>

 預言や知識と同じように、地上では異言もすたれていくでしょう。しかし、天国に通じる異言という言葉は、天国に帰ったときには音声(肉)はなくとも霊の言葉そのものだと思うのです。
 ペンテコステの日に、聖霊が弟子たちの上にとどまったように、私たちの上にも聖霊の火が満ち溢れて、大きく燃やされ続けるように知性の祈りでも求め、異言でも大いに祈っていきましょう。(た)
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# by mitiru-takae | 2018-05-31 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.290 ペンテコステの朝の祈り/春の聖会「主に叫べ!」(3) 2018.5.20

ペンテコステの朝の祈り

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。<使徒2:1、2>

 父が書いた古い刷り物の中に、「信仰の成長はみ言葉、伝道には奇跡だ」という文言がありました。どこだったかは忘れたのですが、確かに、伝道は口先だけではどうにもならないようです。

 伝道を実践していく中では、主が魂の中に奇跡を起こしてくださることが一番ですが、目の前で、癒しの奇跡などを見ると、やはりわたしたちはおどろきますし、見た人も主の力を信じたくなります。

 そして、導いた者も、導かれた者も、そのあと、自分にとって奇跡が一体何のためであったのかを、聖書によって教えていただくことによって、救いが起こります。ひとりの信仰者の誕生です。

 自分の力でできることは限られています。
 主権者なる王、イエス様により頼み、祈り叫び求めて、本物のワクワクする感動をいただきたいと思うのです。

 私たちにとっては、祈りのほか何一つ自分でできる行いはありません。ほかのものはただ主が私たちに、添えて与えてくださるものばかりです。

 ペンテコステの朝、祈りの中で使徒たちは、聖霊様による感動に満たされていたでしょう。私たちも祈りましょう!まず、祈って神様からのドキドキ、ハラハラを体験したいものです。そして立って出かけていきましょう。(た)

  
春の聖会「主に叫べ!」(3)

 父なる神の心、それは「愛」でした。
 放蕩息子を本心に立ち返らせ、神様自身が、あろうことか人間となって、私たちの義と聖と贖いになられたという、救済の本質を見ることができます。

 全てが、父の心、それは「愛」から出たことなのですね。
 「お父さ~ん!」と大きな声で呼び求めましょう。声が出なくても、体中のエネルギーを集中させて、叫びましょう。
 「イエス様~!」

 今回の聖会の感想を渡辺恵美子姉妹が手紙の中で書いてくださっていましたので、ここに載せることにしました。姉妹だけではなく、聖会に参加した方々が、それぞれ聖霊様の啓示を受けていると感じさせられています。毎回思うことですが、この聖会は素晴らしい! 満々感謝!

立て、さあ行こう。見よ。わたしを裏切る者が近づいてきた」。<マルコ14:42>

以下、渡辺姉妹の手紙から
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 毎回大分教会での学び、お交わりでは、たくさんの恵みをいただき感謝でいっぱいです。
 今回の聖会で、いただいた恵みは、いくつかありますが、一番は「神様からの励まし」ということです。
 夜の第2聖会では【エペソ書6章10節】での「強くなりなさい」のお言葉に、神様は、私たちが弱いことは十分にご存知なのだと気づかされ、だから「強くなりなさい」と言ってくださるのだ。そして、朝の第3聖会の【マルコ14:42】「立て、さあ行こう」と、先立って行かれるイエス様に、「ついて行けばいいのだ。」と、そんなことを思いました。

 問題が起こった時、神様に叫び、祈るなら、「強くなりなさい」と力を下さり、「さあ、行こう」と手を引いて問題解決に導いてくださる、そういうことなのだろうと思いました。
 だから、もっと主に叫び、祈らなければいけないのだなあ…と。
 毎回、神様は時にかなった恵みをくださいます。                           
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(た)
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# by mitiru-takae | 2018-05-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)