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No.452 イエスのように/奇跡に満ちている人生 2021.6.27

イエスのように
 
ペテロはみんなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。それから死体の方に向いて、「タビタよ、起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起きなおった。<使徒9:40>

 タビタはギリシャ語でドルカス(かもしか)という名である。
 女弟子であった彼女は多くのやもめたちから慕われていたようだ。
 集まって泣いているやもめたちなど、皆を外に出し、ペテロはひざまずいて祈った。
 死んだ彼女が生き返ったのは、ペテロのわざではない。
 ペテロ自身が言うように「私にあるもの…それはイエス・キリストの御名」である。
 ひざまずくペテロの姿の上に、イエス・キリストを見た「死」は震え上がったことだろう。
 即座にタビタは目覚めたのだ。
 
 イエス様自身が同じような奇跡をおこなっている。

人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいる所にはいって行かれた。
そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。<マルコ5:40、41>

 イエス様の場合は、汚れた霊を叱ったとき言った言葉を見るとわかるが、イエス様ご自身が命じているのだ。

イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。<マルコ9:25>

 ペテロはいつもイエス様の御跡を慕う。
 ペテロの得意技は主の真似である。

 私は思う。
 ペテロは決して、歴史に名を残そうなどとは思っていなかっただろう。
 ただ、イエス様のように生き、一日も早く、お会いしたいと思っていたに違いない。
 イエス様がこの地上に生きていてくださったときのように、共に歩みたかったに違いない。

 私たちもペテロのようにイエス様をまねて生きよう。(た)


奇跡に満ちている人生

ああ、そのしるしの大いなること、ああ、その奇跡のすばらしいこと、その国は永遠の国、その主権は世々に及ぶ。<ダニエル4:3>

 私たちは周りにいる一人一人の存在を当然のように思っている。
 人間を見て、どうしてこんな生き物がいるのだろうか?などと思う人はいない。
 しかし、私自身が今生きていることこそが、驚きであり、最大の奇跡なのである。

 この世界の中にあるもので命ほど不思議なものはない。
 心(魂)こそ、この地上で命を宿せる入れ物だ。
 体は心を宿す器だ。
 命の中に神の霊が満ち満ちている。
 これが釘宮義人師の言うカタカナで書くイノチである。

 カタカナで書くイノチは、私たちの心の中に躍動し、満ち溢れている活きた神のイノチの事である。
 人間医学的な命ではなく、イエス様を信じる者の中で生きている神のイノチのことだ。
 このイノチは神の存在の証、聖霊の証印であり、永遠にあり続ける命である。

 神のイノチによって生かされていることこそ、私たちの人生の中で一番の奇跡である。
 ハレルヤ!(た)
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# by mitiru-takae | 2021-06-27 15:01 | 満ちる | Comments(0)

No.451 神の知恵と指導者ガマリエルの考察/雨と自動車と小鳥のさえずり 2021.6.20

神の知恵と指導者ガマリエルの考察

そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。
しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。<使徒5:38、39>

 夜、獄の戸が開き、捕らえられていたペテロたちは、獄舎から御使いに助け出された。
 そして御使いに言われた通り宮に行き、イエス・キリストの死と復活について語り始めたのである。

 この事態を聞いた宮守がしらたちは、どうしようかと慌てふためいていたが、人々に石で撃ち殺されてはたまらないと、手荒なことはせず、使徒たちを連れてきて、議会の中に立たせた。
 ところがペテロたちの話を聞くと議会にいる大祭司たちは激怒し、殺そうとさえ考えたのである。

 この時出てきたのがパリサイ派であり、サンヘドリンの指導者であるガマリエルである。

 神を信じる者が、世の中で起こったことに対して、神の意志に委ねようと思うのは、最高、最大の得策である。
 イエス様の十字架は、神の御心に従い委ねた結果であった。

 もちろん神の偉大なご計画の一端であるが、これを完成させるのは、人の子として生まれてくださったイエス様の神への従順と私たちへの愛の所以である。

 神に委ねるということは、私の思いを捨てることだ。

 さて、ガマリエルはパリサイ派の教師であるが、当時人々からとても尊敬されていた。
 さすがの大祭司たちも、ガマリエルの言うことはもっともだと理解したのであろう。
 彼らはガマリエルの勧告に従い、使徒たちは殺されずに済み、使徒たちを守るという神の意志はここに果たされたのである。

 時に「そのなすままにしておきなさい。」というのは妙案である。
 さらに「諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」という言葉は、神を信じている者に対して有効な言葉だ。
 実に、ここにいる大祭司や仲間のサドカイ人らは神を信じている人々であるはずなので、神のなさることは面白くてなんと素晴らしいことか。

 ペテロ以下、初代教会の聖徒たちが、これから異邦の地へと宣教に出ていく準備が神の手によって着々と進んでいくのである。ハレルヤ!(た)


雨と自動車と小鳥のさえずり

主は天を雲で覆い
地に雨を備え
山々に草を芽生えさせる。<詩篇147:8>

 今年の梅雨は早く始まり、中休みがあってまた降り始めるといった、少々忙しい梅雨である。
 気温も忙しくて、一日単位ではなく、朝、昼、晩と、暑くなったり寒くなったりだ。

 私の狭い部屋は南向きの3階である。
 雨が降り出すと、道路側の車のタイヤの走行音が大きくなる。
 前のバス停では皆、傘をさして集まってくる。

 雨音と自動車の走行音の合間に、かわいい小鳥たちの声が聞こえる。
 鶯の鳴き声は特に大きく、大きな道路を隔てた南向こうの公園にある、森の木のように育った大きな木の間からも聞こえてくる。
 木々の枝が揺れるのを見ながら、小鳥たちも雨が降るなかでよく飛び回っているな―という感じで可愛いものだ。
 水害の心配もなく、雨音を楽しめるこんな静かな梅雨の雨はとても楽しい。(た)
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# by mitiru-takae | 2021-06-20 15:49 | 満ちる | Comments(0)

No.450 救いと癒しの完成/時が裂けて 2021.6.13

救いと癒しの完成

ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。<使徒3:6>

 金言である。
 ペテロは仕事を捨ててイエス様に従ったが、世界で一番の宝を手に入れた。
 聖霊に満たされ、イエス・キリストの御名を行使するものとされたのである。
 私たちも同じ宝をいただいている。

 美しの門のそばに置かれていたものは、生まれつき足が萎えて立てない男であり、物乞いは、彼の生業であった。
 今日はいつもより良いものをもらえるかもしれないと思ってか、彼はペテロたちを見つめた。
 しかし、彼の想像をはるかに超えて、なんと歩けるようになったのである。
 生まれつき足の利かない者であれば、癒されたからと言ってすぐに歩けるものであろうか。
 神のみ心は、すべてが癒されることである。
 お金でもなく、パンでもなく、神を喜ぶ力と賛美をいただいたのである。

踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。<使徒3:8>

 この時、彼は明日からもう今までの仕事ができない不安も、新しい仕事が果たして見つかるのかということも、なに一つの悩みもなく、ただ、神を賛美して躍りあがっていたのである。
 この幼子のような魂を持ちたいものだ。

 ところが、祭司長や、律法学者たち、はたまた役人たちまでもが、使徒たちに対して尋問してきたのだ。

そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。<使徒4:7>

 問題は、何の権威で、だれの名によってこれをしたのか―――、ということであった。
 それは使徒たちがイエス・キリストの復活の証人となることであるし、イエス様の御名を世に示すためである。

 十字架にかかって私たちの贖いとなってくださったイエス様が、死に打ち勝ち、復活し、昇天し、神様のすべての権威をいただくものとなった。
 その権威は聖霊降臨をとおして、使徒たちにもたらされたのである。

この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。<使徒4:12>

 聖霊によってあらわされたイエス・キリストの御名はこの男の上に神の御心を実現した。
 この神のみ心が、彼を完全にいやしたのである。
 ここに救いと癒しの完成がある。(た)



時が裂けて

 ペテロの言葉に注目したい。ペテロがこんなすごいことを言っている。
 私が若いころ「時というものは後ろから前に流れていくのかと思っていた」と、父とよく“時”問答をして楽しんだものだ。
 主のみ前から来るのでなければ神の祝福の時(神の国)は私に到達しない。

それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。<使徒3:20>

 ペテロのメッセージは、釘宮義人牧師の時のとらえ方を彷彿とさせる。(以下抜粋を転載)(た)

永遠の時が裂けて……
「主のみ前から元気回復の時が来て……」(使徒行伝3:20私訳)
永遠の時が向うから来て、私を切点として裂けて過去に向っていく。その切点に現在がある。時間は一つの意識で、回想するからあるのである。【1980.12.28週報「キリストの福音」掲載】日岡だより
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# by mitiru-takae | 2021-06-13 14:44 | 満ちる | Comments(0)

No.449 つまずきの石があなたを変える 2021.6.6

つまずきの石があなたを変える

あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう。<使徒2:27、詩篇16:10>

 聖霊に満たされてペテロは語り継がれてきたダビデの詩篇を引用し、十字架にかかって死んだイエス様が、そのままになるはずがなく、確かに復活したのだということについて論証した。
 「ダビデが復活したのではない。ダビデ自身が『イエス様は復活する』と預言していたのだ」と。

 「あなた」を神のこととして読むとよくわかる。
 「わたし」とはイエス様の事である。

 十字架の上で死んだイエス様が復活したという事実は、ペテロの人生を変えてしまった。
 ペテロはさらに声を張り上げた。
 「あなた方が不法の人々の手に渡して十字架につけて殺した。そのお方がよみがえったのだ」

このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。<使徒2:23>

このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである<使徒2:32>。

 このお方の死と復活は、神のご計画によるものだ。
 神の素晴らしいご計画によって、私たちは自分の罪を知り、私の神を知ることとなる。

 実際、ペテロにとってイエス様の十字架の死は、ショック以外の何物でもなかった。
 イエスを否んだまま、その十字架の下についていくこともできず死なれてしまったペテロは、完全につまずいてしまったことだろう。その心は張り裂けそうであっただろう。
 どん底に突き落とされたペテロの心境は、まさに夜明け前の暗闇であったろう。

 ペテロにとって、イエス様の十字架の死は、まさしくつまずきの石であった。
 しかし、聖霊はこれを動かすことの出来ない隅のかしら石と変えてくださった。
 ペテロにとどまらず、すべての人にとって、神に帰ることを余儀なくする隅のかしら石となったのである。

 かつて、ペテロにとって忘れ得ない出来事があった。

イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。
彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。<マタイ16:13~16>

 実際にイエス様と寝起きを共にしてきたペテロにとって、目の前に居るお方が神の子、我々ユダヤ人のメシヤである、という告白は、聖霊の働きがなければ言えないことだ。

 そのことを言わしめた神の霊が、ペンテコステを境にペテロを変えた。
 弟子たちを変えた。
 そして、今の時代の私たちをも、「イエスは神の子キリストである」と信じる者に変えたのである。

 聖書の黙示録などで言えば、今は異邦人の時が終わろうとしている時代か、はたまた患難期の始まりのころであろうか。
 興味本位で、それどころか面白がって、黙示録を読んできた人々が、まさにその真っただ中に入るときがくる。
 誰も避けて通ることのできない神の定めた歴史の中で、私たちはしっかりと、イエス様だけを見上げ、見つめていきたいと願う。
 今こそ、本物と、偽物を見分ける聖霊の力を受けて、より強く、より愛に燃えて、素晴らしい変革の時代を生きていけることを喜ぼう。
 ついに悪しき者は絶え、神を喜ぶ聖徒の時がやってくる。
 イエスを神の子と信じる者こそが真の勝利者である。ハレルヤ!(た)
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# by mitiru-takae | 2021-06-06 15:13 | 満ちる | Comments(0)

No.448 ペンテコステと真の平和 2021.5.30

ペンテコステと真の平和

すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。
あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる。<エペソ3:3、4>

 先週はペンテコステ礼拝であった。
 長年キリスト教会に足を運んでいても、ユダヤ教のお祭りとなるとなじみが薄い。
 最後の晩餐が行われたのは、イエス様が十字架にかかって死なれた日だ。
 しかし、ヨハネの福音書では過ぎ越しの祭りの準備の日となっているので、夕方前に食事を始めたのであろうか。
 ユダヤの一日は夕方から始まり、次の夕方に終わる。
 ゲッセマネの祈りから、ユダの裏切り、ヘロデ邸、ピラトの裁き、十字架、埋葬まで、一日の出来事であったことになる。
 次の日が安息日(土曜日)で弟子たちは誰も動けず、イエス様は三日目(日曜日)の朝によみがえられた。

 過ぎ越しの祭りではパン種を入れないパンを食べる。
 詳しくは出エジプト12:39、13:3などを参照してほしい。
 パン種はイエス様のたとえ話などを見ると、悪い心、罪を指しているようである。
 過ぎ越しで食べるパンは、罪もシミもない穢れないイエス様ご自身のことを表している。
 イエス様はご自身のことを「私が命のパンである」<ヨハネ6:35>ともおっしゃっている。
 聖餐式でいただくパンも、信仰によってイエス様の御からだをいただいているのである。

 さて本題に入ろう。
 パウロが理解した神の奥義、このエペソ書ではまさしく、ペンテコステの奥義を語っているようだ。
 パウロ自身は、人であった頃のイエス様にはお会いしてないのである。
 しかし、パウロは復活のイエス様にお会いした。
 それも聖霊によるすさまじいほどの啓示を体験したのである。
 これはパウロのペンテコステ体験(聖霊体験、回心)だ。

 パウロが異邦人宣教に出ていった理由が以下であると思う。

キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。
それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。<エペソ2:14~16>

それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。<エペソ3:6>

 パウロの異邦人宣教は、聖霊による素晴らしい奥義の開示により始まった。

 またユダヤではペンテコステの日、ルツ記を読むらしい。
 その答えはレビ記にありそうだ。

すなわち、第七の安息日の翌日までに、五十日を数えて、新穀の素祭を主にささげなければならない。
またあなたがたのすまいから、十分の二エパの麦粉に種を入れて焼いたパン二個を携えてきて揺祭としなければならない。これは初穂として主にささげるものである。<レビ23:16、17>

 ペンテコステとは五十週の祭りのことである。
 ここでささげるパンはパン種を入れたものである。それも二つ。
 異邦人のルツがユダヤ人ボアズと結婚してイエス・キリストの系図に入れられたように、私たち異邦人とユダヤ人の事と思える。
 パン種の入ったパンは、私たちが罪あるまま、あるがままの私たちのようだ。

 聖書はいたるところで、イエス様の死と復活また昇天が、私たち全被造物の完全なる救いと平和をもたらしてくださったということを、教えてくださっている。(た)
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# by mitiru-takae | 2021-05-30 13:31 | 満ちる | Comments(0)