【満ちる】No.607 私たちを富ませてくださるお方 2024.6.16

私たちを富ませてくださるお方

アブラムはソドムの王に言った、「天地の主なるいと高き神、主に手をあげて、わたしは誓います。
わたしは糸一本でも、くつひも一本でも、あなたのものは何にも受けません。アブラムを富ませたのはわたしだと、あなたが言わないように。
<創世記14:22、23>

 ある青年が友人たちに「私には何でも買うことが出来るほどの大きな財産がある」と自慢していた。
 友人は言った。「ではあなたは死ななくてもよいのですね。いいなあ、いくらでも命を買うことが出来るのでしょう。」

 青年は、苦笑いをしながら考えました。
 「命は一体どこに行けば売っているのだろうか。それを知らなければ、お金がいくらあっても手にいれることができないではないか。」

 命は、決してお金では買えないものである。
 それは誰もが知っていることのはずであるが、自分の生きている命は神からのものだと知っている人は少ない。

 私たちがいただいた命は神から来たものである。
 人間としての命を授かり、そのうえ、永遠の命を魂の中に持って生きているのである。
 イエス・キリストの命が私のうちにイキイキと活きている(父釘宮義人はこの命をイノチと書いた、又言った)。
 これが私たちの一番の財産であり、どこででも自慢出来得るものである。

 ソドムの王がいくらお金持ちであっても、アブラムが信仰によって持っているこのイノチ以上のものを、差し出すことは無理である。お金を積んでも、又すぐに命を狙ってくるこの世の王には、一円たりとももらい受ける必要はないのである。

アブラムがケダラオメルとその連合の王たちを撃ち破って帰った時、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷に出て彼を迎えた。
<創世記14:17>

 創世記14章を見ると、強いものに対する弱い者の性質が良くわかる。しかし、崇高な神のわざをサレムの王メルキゼデクに見ることになる。
 アブラムは神様からのご褒美をサレムの王メルキゼデクからもらったのである。

その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った、
 「願わくは天地の主なるいと高き神が、
 アブラムを祝福されるように。
<創世記14:18、19>

 若い頃自宅で聖書塾のような集会を開いていた父は「伝道者は清貧であるべきだ、私の所に来てくださる信者さんより私がお金持ちになってはいけない。」などとよく言っていた。クリスチャンが清貧に生きることは素晴らしいことである。
 しかし、パウロが言うように、父もいつの頃からかどちらの道をも心得ておくべきだと言うようになってきた。

わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
<ピリピ4:11、12>

 地上に住まう御国の人達は、豊かで、富におる道も、貧に処する道も、心得る極意を授かっているはずである。
 時には一国の城主のように、時には、どんなときにも武士である誇りを捨てない一介の素浪人のようである。
 日本人にはこのパウロの言葉がよく理解できるのではなかろうか。

 ある兄弟と電話で話をしている中で、「だんだん年を取ってくるが、私たちは腹が立ったり悲しかったりと色々ありますけれど、幸せになるのでしょうかね」とおっしゃった。
 「そうですね、悲しみとか、怒りとか、ありますね。悲しみや怒りの時はあるがまま、神のみ前に出るのですよ。まして幸せというものは、自分が幸せと思わない限り、幸せにはなれないと思います。あなたに一番近い、机の上などに幸せがあるかもです。手を組んで祈ってみてはどうですか。」

 私たちを富ませてくださるお方は、実に心も魂も富ませてくださる。主は、悲しみ、苦しみ、病気も、そして喜びも、みんな知っておられる、感謝だ。(た)〔釘宮孝枝〕
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# by mitiru-takae | 2024-06-15 21:30 | 満ちる | Comments(0)

【おしらせ】2024.6.16

6/16の礼拝
聖歌 394番(総合版同じ)
聖書 創世記15章
メッセージ 主を信じたアブラム 

今後の行事
・本日 〔礼拝後〕食事会(お茶会)
・7/7 〔礼拝〕聖餐式、誕生祝福式



# by mitiru-takae | 2024-06-15 21:29 | おしらせ | Comments(0)

【日岡だより】主の前に歩みて全くあれ (創世記説教③) 2024.6.14更新

主の前に歩みて全くあれ
(創世記說教③)



 アブラハムは紀元前約二千年の人、ヘブル民族の祖、そして新約聖書によればすべてのクリスチャンの信仰の父である。彼の生涯は完全に向っての歩みにほかならず、「あなたがたの父が完全であられるように、あなたがたも完全であれ」と言われたイエス様の教えのように生きた人物であった。


 アブラハムの生涯を概観しよう。年代的な記述は省略する。
 ①父と死別し親族と故郷を離れ、漂泊の中で甥のロトと別れ、妾ではあるが妻のハガルとその子イシマエルと別れ、最愛の息子イサクをも一度は神に捧げる決意をする。最後に年老いてから(それだけに寂しかったであろう)妻サラをも失う。アブラハムの生涯には常に離別と孤独の影がつきまとう。
 ②しかし彼は決して人間嫌いの孤独漢ではなく、まして悪徳ゆえに社会から排斥されたのでもなかった。彼は神への従順の故にこの世から分離し、財産についても無慾、独り子のイサクをさえ惜しまなかったのである。
 ③もっともアブラハムは天使でもなく、いわゆる聖人でもなかった。私たちが充分に理解でき、かつよく共感もできる欠点と弱さをもっていた。最初旅に出発のとき神様は親族より離れよと命じられたのに甥のロトを同行した。これは後で粉争の原因になる。エジプトやネゲブの地では妻サラの貞操を軽んじる。あるいはまた、その妻サラの愚かな提案に乗って神様の約束の日を待てずにハガルという女を召しいれる。神様の約束というのは後継ぎのことなのだが、一時は使用人のエリエゼルや妾の子イシマエルを後継者ではないかと早合点したふしもある。こういう失敗や欠点にかかわらず⋯⋯⋯
 ④アブラハムという人物の(司馬遼太郎式に言えば)「壮大な風景」は神との対話にある。神は時には天の星を指差し
てものいう、あるときには友のように語る、あるときにはアブラハムの方がしたたかなセールスマンのように神に頼みこむ。いずれも舞台が広いし、話題が大きい。
 ⑤初め神のアブラハムに対する約束はいささか漠然としている。しかしそれは次第に具体的になり、且つ拡大していく。「彼は多くの国民の父となり、かれの子孫は天の星のごとく殖えひろがる」のだと。それにつれてアブラハムの信仰も大きくなり、またしっかりしてくる。
 ⑥アブラハムの生涯の最後に平和がおとずれる。その何よりの象徴はイサクの誕生である。イサクとは「笑う」という意味の言葉である。
 ⑦妻のサラは百二十七歳で死ぬ。アブラハムは妻の墓のために寄留地カナンの土地を少しばかり買う。彼はこの世に何の望みも持たない。ただ僅かの墓地を買い、そこにいつの日か妻とともに葬らるることだけを望んでいるかに見える。
 ⑧さてその後、アブラハムは息子イサクに嫁をとる。このイサクの嫁選びの物語は物語としても一級品である。アブラハムはカナン現地の女ではなく、遠い親族の中より嫁を選ぼうとする。その選択権を忠実な老僕に委ねて旅立たせるのだが、その老僕のやりかたが実に生一本で、しかも信仰的でうるわしい。くわしくは創世記第二十四章を読んでほしい。


 アブラハムは決して完全な人ではなかった。しかし彼は神様に従順であった。彼の信仰はしだいに強化され、拡大する。このことは多くのクリスチャンにとり模範であり、また希望である。この意味でも彼はたしかに「信仰の父」である。 
 小さな私の体験を例にしたい。私は昭和十九年の秋、福岡刑務所の独房で回心した。それは石原兵永の「回心記」(新教出版社刊)そっくり。新生体験といってもよい。ところで多くのクリスチャンはここで終る。この新生体験は大抵の場合、教義的には義認の信仰であるが、そこだけに留まって先に進もうとしない人が多い。(もっとも信仰の世界の不思議さは、そこで不動にして徹底すると清妙な信仰の境地に達する事にある。日本では親鸞の信仰の型がそれで、そのせいか日本のクリスチャンの信仰の型がほとんどこの義認信仰のような気がする)。
 私は少年時代、原田美実という先生にふれて上記の信仰の確かさ(義認の信仰)を学び、それを泣いて求めて福岡の刑務所でそれを恵まれたのだ。その原田先生がその後、川合信水翁に入門師事されて信仰を大飛躍なさった。それはクリスチャンの完全を求め、それに至ろうとする信仰であり、修養なのである。これを律法主義という人もあろう。しかし聖書に従って聖書の示す標準に辿り着こうとすると、人は努力せざるを得ない。人の努力を神様は無視したまわない。
 私は回心以後、ホーリネスの人のいう聖潔経験をもとめた。あるいは又、神癒とか異言、預言など霊的信仰の世界にもなじんだ。実業界にとびこんで世俗的成功の法則にも神様の知恵が働いていることを知った。このようにして信仰は成長・発展・拡大・強化される。かつ性格は陶治されてキリストの品性に近づかねばならぬ。もちろんパウロのいうように、それをすでに得ていると言うのではない。しかしそれを大胆に目標としてかかげることは主のみ心にかなっていると思うし、益々キリストの完全を追い求めたいと思うのである。
(一九八五年三月三日主日礼拝メッセージより)〔釘宮義人〕
【1985.3.10週報「キリストの福音」掲載】


# by mitiru-takae | 2024-06-14 15:13 | 日岡だより | Comments(0)