No.281 主も彼らと共に働き/風が吹くとき 2018.3.18

主も彼らと共に働き

そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。<マルコ16:15>
弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕<マルコ16:20>

 「リバイバルミッション2018」の働きにより、私たちの教会にチャペルコンサートと題して、若い現役大学生しかもクリスチャンのDUO B→Zのお二人、そしてメッセンジャーとして平岡修治先生をお迎えすることができました。
 ヴァイオリン、ピアノの演奏、平岡修治先生のほとばしり出るようなメッセージと、素晴らしい時間を過ごすことができました。DUO B→ZのCDや、平岡先生の天に帰られた小さな魂(先生の長男)の証などの書籍があります。
 全世界に出ていく「リバイバルミッション」の働きを心から感謝し、祈りをもってお支えしていきたいと思います。

 主のみ言葉を実践するときは、いつも主が共に働いてくださっています。働きが大きい小さいは関係ありません。
 私たち一人ひとりの小さな宣教の働きを、主は喜んでくださいます。
 イエス・キリストの福音を伝えるときは、イエス様と共に一歩一歩あゆんでいるときです。そして私たちは、たまにイエス様に負ぶって歩いていただいているときもあるんですね。
 それは聖書に書かれたイエス様のお言葉が、確かなもの、真実なものであるとイエス様ご自身が私たちに示してくださるためです。(た)

風が吹くとき

風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。 <伝道の書1:6>
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。<伝道の書1:14>

 自然は単調で、同じことを繰り返すものだと、また、無駄な努力は、風を追うようなものだと、伝道の書は語ります。

 風がとらえどころのないことは言うまでもありませんが、困るのは暴風など、人間社会に被害をもたらすようなひどい風や竜巻などです。
 また、パウロも経験した、多くの船乗りや釣り人たちが経験する向かい風のように、行く手を遮ろうとする風です。
 
 よく人生は航路にたとえられますが、なかなか順風満帆ばかりとは言えません。
 しかし、嵐や、向かい風なるものが、どうして人生の中で起こってくるのでしょうか。誰も望んではいないと思う「嵐の夜」とでも言いたい事態に遭遇するものですね。それどころか順風の時でさえ、私たちは怠惰な心になってしまったり、神を忘れてしまうという、大きなサタンからの暴風に巻き込まれてしまいます。

 どんな時でも、イエス様に感謝を忘れない人生行路でありたいものです。

 先週日曜日は「3.11東日本大震災」のあった日から7年目を数える日でした。日本人の誰もが、地震の怖さ、津波の怖さ、原発の怖さを実感した災害でした。最近は噴火もあちこちで起きていますし、自然災害の脅威からは、逃げ出すことができません。
 順風の時には全く分からなかった、人を通しての神の愛を知る機会がやってきます。人の心の中に語りかけてくる神の元気が、私たちを立ち上がらせてくださるのです。
 全ての望みが絶たれたか・・・と思うとき、パウロは言いました。

だが、この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。<使徒27:22>
だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。
<使徒27:25> (た)
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# by mitiru-takae | 2018-03-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.280 昔も今も永遠に 2018.3.11

昔も今も永遠に

しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
<イザヤ53:10>

 供え物というと、日本人は仏壇の上に置く、お菓子や果物を思い浮かべる。神道では地鎮祭の時などよく見かける、米や野菜である。
 いかに平和に見えることか。それにつけてもユダヤ教の生贄は、牛や、羊、鳥の切り裂いた血、肉である。

 遠く、インカやマヤの敗戦国の人質の心臓をささげるなど、残酷にしかみえない生贄などは、日本人から見ればとても野蛮で、見るにも聞くにも堪えられない、そのような感じだ。

 そうしてみるとキリスト教はとても平和な穏やかな人道的宗教のように見えるが、実は旧約聖書を見る限り、そのようには思えないのである。
 ただ、イエス・キリストがその残酷な生贄を一手に引き受けてくださったので、私たちは平安でいられるというわけだ。

 私たちはこの生きた生贄を捧げることが一番の残酷と思っているが、何よりもひどいのは創造主である神と断絶しているという現実だ。
 何故って、神との平和がありさえすれば、一切の生贄は必要ないものであるし、自分の子供を奴隷として売ったり、捧げたりする必要がないのだ。一番つらいのは、人間がサタンの奴隷となって生きていることだ。

われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
<イザヤ53:6>

 私たちは自分の罪をイエス様の上に置き、私の身代わりとしたのだ。以前聖幕の学びをしたとき、生贄の動物を伴ってとばりに入り、犯した罪をすべてその動物に移し、屠って捧げるということを学んだ。
 この屠られた動物こそ、私の罪の身代わりのイエス様であった。
 このように、モーセの時代も、イザヤの時代も、いえ、世界が作られる前から私たちのために救い主が来られることが決まっていた。

これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。(新共同訳)
<テトス1:2>

エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。(新共同訳)<ミカ5:1>

 イスラエルの希望であった約束のメシヤは、今や私たち人類すべての統治者、救い主として、私の希望となっている。

このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。(新共同訳)<使徒3:21>

 手に鎖をかけられたままのパウロが、自分を永遠の命に入れてくださった救い主イエス・キリストをユダヤ人の希望、異邦人の希望と認め、そのお方が、甦っただけでなく、私のうちに生きているということを証ししている。

 パウロが伝えたかったイエス様は、今生きているイエス様であって、過去にいただけのものではない。ましてや十字架で死んでしまったままのイエス様ではない。
 私たちの心の中に、十字架にかかったままのイエス様をいつまでも見るのではなく、私の罪と共に一度死に、死と黄泉に打ち勝ち、甦り、私もともに携えて永遠におられる方である勝利者であること、このことを心に刻み信じ続けていきたいと思う。

 昔いまし、今いまし、やがて来られるお方、王の王、主の主、イエス様を心から喜び、叫ぼう!
 ハレルヤ! (た) 
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# by mitiru-takae | 2018-03-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.279 私のメンターはイエス様 2018.3.4

私のメンターはイエス様

だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう(【新共同訳】そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。)
<Ⅰコリント12:31>

 先日久留米クライストチャーチの山下耕司先生ご夫妻がみえられた。
 廣田先生のご紹介だったので、アガペーチャペルで先生を囲んで時間を持つことになっていたのだが、急遽私どもの教会に集まることとなった。

 先生は父とも会ったことがあるらしく、私自身は先生ご夫妻のことを若い先生と思っていたので、少しほっとしながら親近感を覚えたのは否めませんね。

 今回先生が来られたのは、ベン・ウォン先生(著書に「メンターとして仕える」がある)によってはじめられた、コーチングの内容についての(ほんのさわりと言っていましたが)お勧めではなく説明でした。
 というのも、そもそもこのコーチングは相手に自分の方法などを押し付けるものではなく、教会としての本質(エッセンス)を皆で確認し合い、納得したうえで、これを土台として、この上にそれぞれの方法、材料、デザインで家を建てていくというものだからだ。

 先生は「コーチングとは『関係である』と気づきを与えられた」と言っていたが、まさしく教会とは、イエス様と、私たちの関係、イエス様の弟子としての聖徒同士の関係、その関係のすべてが神の愛の帯で繋がれている状態なのだと思う。つまりエクレシアという一言で語れるかと思う。
 内容についてはまたの機会にしたい。

 ただ、話を聞いていく中で、私のメンター(ティーチング、カウンセリング、コーチングの3つの聖徒を整えていく働きをする人)はイエス様であり、私はイエス様のメンティー(メンタリングを受ける人)であるということを気付かされたということだった。

 まことに当然と思えることではあるのだが、意外と気づいていない。またこのことは自分が教会、また教会外でメンターとして働けるかということを考えていく中で、自分の「仕えるという思い」をはっきりとさせられていくものだ。
 最近はいつも「皆さん一人一人が祭司である」ということを言っているが、本当に大切なことは一人一人が神と直接つながっているということです。

 山下先生曰く、
「牧師を介してイエス様とつながっているのではない」
 そういうわけで、皆さん、一人一人がメンターとして仕えていくことができるように、主にある訓練を積んでいく必要があるのかと思う。このことがメンターとしてのキャリアを積んでいくということであろうか。
 何も学校に行けとか、お金を積んで手に入れるということではない。私たちの真のメンターであるイエス様に真似てついて行くことだ。
 具体的にはいつも、「イエス様だったらどう考えるのか、どうするのか?」と一瞬一瞬の思いをイエス様に馳せ、考え、捧げていくことだ。

 「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。(新共同訳)」のお言葉は、パウロのメンターとしての力強い言葉である。しかしここに、イエス様の力強いメンターとしてのお言葉がパウロを窮地においても支えているということがわかるのである。パウロにとっても私たちにとっても、聖霊として私に働きかける神こそ真のコーチである。
 私たちが目的をもって前進したいと願うとき、私に働いてその願いを完成してくださるのは神である。この時神のコーチング(目的をもって前進しようと願う人を援助すること)は最高に発揮される。

 パウロの言う最高の道こそ、「今も私の中で生きて働いてくださるイエス様によって生きる」ということに他ならない。これ以上の関係はこの地上にない。 

イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
<ヨハネ11:25>

 私たちの最高のメンターであり、コーチであるイエス様に満々感謝! (た)
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# by mitiru-takae | 2018-03-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.278 きよい良心 2018.2.25

きよい良心

きよい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない。<テトス3:9>

 きよい良心は神様から頂いたギフトです。
 「ギフト(gift)」とは、「神様からの贈りもの」また「才能」という意味もあるそうです。高価なこの世にたった一つしかない私への神様からのプレゼントはイエス様です。(と勝手に解釈しています<笑>)

 神様が人をお創りになったとき、ご自身に似せて創ってくださいましたから、私たちはもともと、神の御心に沿う思いである良心をもって生まれてきました。

 それがいつの間にか、心が神様から離れるごとに、汚れてしまった状態になっています。これはもう良心とは言い難く、偽善、疑心に満ちた悪い心となってしまっています。

 私たちにとっての「一番の幸せ」はというと、ダビデが詩編で歌っているように、神様から「あなたは間違っているよ」とか、「あなたそれは嘘でしょう」とか言われない、神様に対して偽りのない人であることです。

主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。<詩篇32:2>

 神様に不義を負わせられないためにはどうすればいいのでしょう。もっと言えば、どうしてわたしたちの心が汚れてしまったままでは幸せになれないのでしょうか。

きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。<テトス1:15>

 どんなに勉強して偉くなったとしても、人々から素晴らしい人物だと言われても、神様が認めてくださらない限り、人は罪びとのままで、正しい人とは呼ばれないのです。

 イエス様を私の主、救い主と知って初めて、本当の知識を得ることができます。

主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。<箴言1:7>

なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。<ローマ10:10>
 
 イエス様を知って信じることこそ、私たちが清い良心を保ち続けることができる唯一の方法です。また私たちが持っている罪(汚れた心、自分では治しようがない生まれたときから持っている心のしみ)からの救いは、ほかにないのです。

 世の中には、良心によって素晴らしい善行をしたり生き方をする人も多いのです。しかし、私たちはその人たちの何分の一の真似もできず、思いはあっても、あきらめてしまいそうです。
しかし私たちが持つ良心とは、善行をするだけのものではありません。イエス様を信じている証しでもあるのです。

貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。<Ⅰコリント6:10、11>

 私たちは、イエス・キリストの名によって(神の霊によって)義とされるのです。

 神様からのギフトである「清い良心」を持ち続ける、保ち続けることができる、それはイエス・キリストを信じ続けるということなのですね。(た) 
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# by mitiru-takae | 2018-02-28 19:52 | 満ちる | Comments(0)

No.277 景教に影響された日本の宗教 2018.2.18

景教に影響された日本の宗教

 先日仏教について、えんじぇる田中先生より学ぶ時を与えられました。先生は浄土真宗のお寺のご子息として生まれ、仏教徒からキリスト教の牧師になった一寸風変わりな先生です。現在はアメリカに住んでおられます。

 今回中国のリバイバルの現場のお話と、仏教についてのお話をしてくださいました。
 少し先生のお話も交えて、父がよく言っていた親鸞の歎異抄の一節を紹介いたします。

【歎異抄第三章現代語訳  悪人こそが救われる 悪人正機】
善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。
(善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。)

【聖書】
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。<マタイ9:13>

〔人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕<マタイ18:11>

 面白いことに、仏教では涅槃に行くには何千億年という宇宙的時間を要します。特に女性は成仏できない不浄の者とされています。
 また、殺生してはいけません(これはモーセの十戒と同じですね、しかしその意味が全く違います)。お坊さんは雨の日は、虫を踏みそうなので外には出ないという話を田中先生よりお聞きました。
 なぜなら「今日私が踏んだナメクジは、もしかすると祖父の生まれ変わりであるかもしれないから」ということのようです。そしてもし自分が殺生すると人間界において、自分の修行の得にならないことと信じているからです。
 つまり仏教は因果応報という「自分中心の生き方」という世界なのです。

 ところがキリスト教は、「神を中心に生きる」ということです。神に生かされ神に従うという生き方なのですね。
 キリスト教には輪廻の思想はありません。
 どんな罪を犯したものであっても、悔い改めてイエス様を信じる者は天国に行くことができます。

 日々神に帰ることによって、私たちはますますイエス・キリストの似姿に作り変えられていていきます。
 神に生かされる世界は(歎異抄で言う「自力をすてて【現代語訳は,心をひるがえして】他力に帰すれば」)、つまり「自力によらず、神の力に帰る」世界です。

 このように、親鸞の教えは、聖書の教えに似ていますね。彼は聖書を読んだであろうと言われています。
 日本でまず最初に景教にふれて、持ち帰ったのは空海らしいですが、田中先生のお話だと、中国で見つかった石碑に書かれている中に景教のことを「真宗」とも呼ばれていると記されているらしく、また三位一体の神のことも書かれているんだそうです。そのレプリカが、日本の高野山にあるそうですから、見てみたいものです。

 しかし、キリスト教の福音は、イエス様の十字架と復活です。
 なぜ、悪人が救われるのか。なぜ、悪人を救うためにイエス様はこられたのでしょうか。
 それは簡単です。善人(義人)はいないからです。全ての人が罪びとなのです。救われる対象です。よいお方はイエス様だけです。

 罪びとが自分の罪を知ってこそ、イエス・キリストの福音の力が理解できるのであって、自分を善人と思っている人々には、わかりません。
 多分親鸞は他のお坊さんに比べると、ものぐさ坊主だったと思います(笑)。行いによっては、救われないと悟っていたに違いないからです。

 日本に入ってきた景教も、空海の教えも、親鸞の浄土真宗も、今では形だけを求める宗教となっていますが、キリスト教も同じ様相を呈しています。
 「私たちは信仰の奥義(イエス・キリスト)を求めて、主に喜ばれるものとなる」、楽しいクリスチャンとなりましょう。

 それは、宗教学者でも、宗教家でもなく、イエス・キリストにある信仰者とでも言いましょうか、子供の歌のように「イエス様が一番、十字架が誇り」の人なのです。(た) 
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# by mitiru-takae | 2018-02-28 19:48 | 満ちる | Comments(0)