イエス・キリストの信仰 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。<ローマ1:17> 見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。<ハバクク2:4> 釘宮義人のローマ書講義をまとめた冊子があるが、その中の面白い話を紹介する。 鹿児島県のあるレジャー施設でダックレースの雄のあひる(名はビッグ)が、鴨が空を飛ぶのを見てその真似をしているうちに「飛ぶ」信仰を得た(?)。(信仰はたしかに真似からでも始まるところがある)。「ああ、俺はかつて鴨だったのだ。人間に家畜化されていたのだ」と自覚したかどうかは分かりませんが、彼は人間の家畜化の呪縛から解放されて、今や自由に東シナ海の上を飛んでいるそうです。・・・(釘宮義人主日礼拝メッセージ集より抜粋) 前後の説明がないのだが、ダックレースのおじさん(?)のレース合間のトークなのかな。 しかし、鎖につながれていた象が、鎖が解けてもまだ鎖の呪縛から離れないで、逃げることがない、という話のまるで反対であって面白い。 笑いごとでないのは人間も同じく、呪縛と言われるほどの離れがたい信念をもって生きているということだ。 私たちも悪魔の呪縛による信念から解放されて、自由を得る力を、キリストの福音の中に見出すべきである。 クリスチャンとなって自由を得たはずであるのに、まだ繋がれていると思い込み、この世の価値観から逃れられないでいる人もいるだろう。 あひるのビッグのように、私は自由だという信仰によって、羽ばたきたいものだ。 ただ、あひるが鴨を見て自分も飛びたいと思ったように、私たちの心に、良き思い、希望を起こさせてくださる神の力が、まず私たちの上に働くことを感謝する。 パウロが言うように選び分かたれた私たち聖徒への神の憐みと恵みである。 私たちの信仰の先人たちを見て、生き方を真似よう。 聖書の中のパウロのように信仰によって生きてみようと、その生き方を学んでみよう。 「信仰より信仰に進め」と、釘宮義人は言ったが、確かに信仰は前進する。 初めはほんの100メートルしか飛ばなかったあひるも、また他の話では鶏もあったと思うが、飛べるという信仰を持った時、東シナ海を渡れるほどの大物になれるのである(笑)。 私たちも、信仰から信仰へと突き進んでいきたい。 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。<ローマ1:16> キリストの福音とは、全ての人に救いを得させる神の力である。 わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。 そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。<ローマ1:14,15> 全ての人に福音を伝えたいというパウロの切望は、神への負い目があるからだ。 神に選ばれ、召されたパウロにとって、神に返そうとしても返しきれないほどの負債があるのだ。それは神の憐みと愛である。 キリストに触れた時、私たちは自分の深い罪に驚き、そこから助け出せるのはイエス・キリストしかいないことを知ってしまう。 「信仰による義人は生きる」と言ったパウロは、信仰によって生きる以外に自分の罪を帳消しにできる生き方がないことを知ってしまったのである。 信仰とは、パウロの、また私たちの中に生きて働く、キリスト・イエスの信仰である。 この救い主イエスの信仰こそが、神の前で私たちを義と認めていただくための唯一のものである。(た) #
by mitiru-takae
| 2022-05-21 21:10
| 満ちる
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パウロの望み キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから――<ローマ1:1> 意気揚々と、イエスを信じる者たちを捕まえようとダマスコに向かったパウロであったが、自分の思いとは裏腹に、キリスト・イエスにつかまってしまった。 魂をわしづかみにされたパウロは、いきなり見えなくなった目をイエスの預言どおり開いてくれるというアナニヤを尋ねた。 アナニヤのところへはすでにイエス様の知らせが入っている。 しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。 わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。<使徒9:15、16> パウロにとって、選ばれたこと、召されたことは、自ら望んだことではなかった。イエス様にとってはご計画であっただろうが、パウロにしてみれば、まさに青天の霹靂、ましてや、御名のための苦しみが待っていようとは、知るよしもない。 しかし、聖霊によってこのことを理解した彼は、自らを使徒と呼んだのだと思う。パウロの決心と言うか、人々の前に、自分が使徒として働くことを知らしめたのだ。 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。<ピリピ1:21> このお言葉は、全生涯に於いてのパウロの生き様を言い表しているようだ。 パウロがこの突然のイエス様の介入の後、自ら望んだことがあった。 「キリスト・イエスの僕」の一文に表わされている。 主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。<第一ヨハネ3:16> 「私は、イエス様のために生涯をささげる」という思いは、イエス様が私たちにしてくださったことに対する応答である。 だが、自分の胸に手を置いてみると、「主が私のために、その命を捨ててくださった」ことは感謝だが、果たして私は主の僕となりきれるのであろうか。 なれるとすれば、理由は一つ。 イエス様が大好きでたまらない。離れたくない。一生、イエス様と共に生きたい。と心の中で動かしようのない感情が生まれることだ。 聖書の中では、生活の困った人が自分を仕方なくお金のために身売りしたとしても、6年間だけで、7年目には解放しなければならないと書いている。(出エジプト21:1~6参照) ユダヤの律法はすごいなと感心してしまう。 その時、彼がどうしても主人のもとを離れたくない場合は、この主人に生涯仕えるということを明言し、耳にキリで穴をあける。 彼は生涯、この主人の僕である。 自ら進んで喜んで僕になる。 僕と言っても奴隷なわけである。 自ら自由を捨てて生涯をささげるのだ。 イエス様に、喜んで自分の生涯をささげたのがパウロである。 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。<ローマ14:8> ただ、世の中の主人と違うのは、肉体が死んでも、霊においては生涯キリストのものである。 永遠の命によって生きることが出来るのだ。 キリスト・イエスの僕なるパウロ、そして私たちも、神に選ばれ、また、自らも望んで永遠に主のものとされたのである。ハレルヤ!(た) #
by mitiru-takae
| 2022-05-14 22:24
| 満ちる
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喜びの糧をいただく あなたがたが早く起き、おそく休み、 辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。 主はその愛する者に、眠っている時にも、 なくてならぬものを与えられるからである。<詩篇127:2> 先日、私の孫を連れて、誕生日のお祝いにステーキを食べようとレストランに行った。 私たちは何か嬉しいことがあるときは、ご馳走をふるまったり、食べたりするものだ。 そのとても嬉しい会食の交わりが、今コロナ禍のなかで、教会でもできていない。 もちろん、会食が出来なければ喜びを分かち合うことが出来ないかと言われればそうではない。 神の家族一番の喜びは霊の交わりである。 そしてそれはまず、神をほめたたえる礼拝にある。 神は愛する者に、なくてはならぬものを与えてくださる。 それは、眠っている間にも与えてくださると言う。 では、起きているときはどうであろうか、もちろん、いつでも、どこでも、与えてくださっているのだ。 私たちがどんなに苦労して財産を築いたとしても、起きていても眠っていても、変わらず私たちを生かすことのできる保証は何もない。 人は必ず死を迎える。 世の中には神はいないという人が多いけれども、生まれて死を迎える私たちの命について説明できる人はいない。 私たちの体の中にも、私の意志に関係なく動いて、命を守ってくれている臓器などがある。 私が動かしているものと言えば、手や足、起きているときの目や口だが、しかし、それも私の意志を正確に伝えてくれる脳や神経、また筋肉なしには動かせない。 私たちの体一つとっても、神の存在を否定できるものはないのだ。 とても偶然にできましたとは言いがたい。 ところがどんなに偉い科学者であっても、偶然にできたとしか言いようのない進化論を語るのは、神の存在を打ち消そうとする悪しき者のたくらみではあるまいか。 神様は、私たちが生きるための全てのものを、生まれた時からくださっている。 神様の働きはシンプルだ。 私が気付かない時であっても、なくてはならぬものをくださっている。 それは私が一生懸命働いて得たものでもない。 苦労の中でやっと手に入れたものでもない。 お金を積んだわけでもない。 何より大切なことは、何をするにも、私たちをいつも見守り、愛してくださる神様が、私たちにすべての必要な物を与えてくださっていることを、心から感謝することだ。 すると、一生懸命働いたとき、一番に神様の笑顔が飛び込んでくるだろう。 苦労の末、やっと手に入れた幸せを、一番喜んでくださるのも神様だ。 お金の使い方を誉めてくださるのも神様である。 今、できることを喜ぼう。 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。<Ⅰテサロニケ5:16~18> さあ、皆で楽しもう。 神の霊によって楽しみ、喜び、笑おう! エフライムびとは勇士のようになり、その心は酒を飲んだように喜ぶ。その子供らはこれを見て喜び、その心は主によって楽しむ。<ゼカリヤ10:7> #
by mitiru-takae
| 2022-05-07 23:45
| 満ちる
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主の喜びと共に あなたの神、主はあなたのうちにいまし、 勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、 その愛によってあなたを新にし、 祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」。<ゼパニヤ3:17> 最近はコロナ禍ということで、開催されていないが、大分では、夏には大きな催しとして盆踊り(キリスト教らしくないがあしからず)大会が開かれる。 私が子供のころは、町内(旧・米屋町)の道路でも、近くの遊歩公園などでも毎年行われていた。 盆踊りだけではなく、夏休みには朝のラジオ体操、夜は火の用心のための町内巡りなど、大人も子供も総出で、結構楽しかった記憶がある。 多分、行事のある時には炊き出しもあったのだろう、釘宮の名を墨で書き込んだモロブタを思い出し、妙に懐かしい。 先週の礼拝では、「聖書は神様と人との思い出を記したもののようで、私たちの過去の失敗も、今から犯す失敗も、すべてこの中に記されている。私たちは聖書を開くことによって、自分の歩む正しい道を教えていただける。」と語らせていただいた。 神様が、私たちの過去の過ちも、また「ごめんなさい」と謝ったときの涙でグショグショの顔も思い出してくださって、「こんな時があったよ」と、笑ってくださるとしたらどうだろうか。 神様の日記にそのことが書かれていて、「懐かしいなあ、あ、もうこんな過ちは犯さないよ」と、気付かせてくれるとすれば、こんな良い指導書はない。 私たちの喜びは、私たちの天の父の喜びである。 楽しかった祭りの時を思い出すように、喜びを共にした主の笑顔を思い出そう。 シオンの娘よ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び呼ばわれ。エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ。<ゼパニヤ3:14> イスラエルの人々がエルサレムに帰って来た時と同じ喜びを、私たちはコロナ禍が過ぎ去ったときに得るのであろうか、今、戦禍にあっている人々が、いつ、主の御前で、笑顔になれる時がくるのだろうか、住む国も家もないものが、幸せを取り戻すことが出来るのはいつの日だろうか。 その愛によって私たちを新しくしてくださり、私のために喜び呼ばわる主が、私たちを忘れるはずがない。 主は私たちの中に居て、私たちに勝利をもたらすお方だ。 私たちも決して主を忘れない。 その時、わたしはあなたがたを連れかえる。 わたしがあなたがたを集めるとき、わたしがあなたがたの目の前に、 あなたがたの幸福を回復するとき、 地のすべての民の中で、 あなたがたに名を得させ、 誉を得させる」と 主は言われる。<ゼパニヤ3:20> 私たちの真の幸福の回復は、主の御手の中にある。 かつてイスラエルの民をシオンに連れ帰ってくださったように、また、私たちをも主の御前に集めてくださる。 私が忘れても、主は私を決して忘れない。 主を信頼しよう。 あなたを愛し、あなたに御国の名を得させ、天国の誉を与えてくださる。 古き良き時代と、私たちが今、回顧するのは、当時の人たちにとって、本当に良き時代であったのかは別として、今も昔も変わらない主の御手の中にある私たちの人生が、古き時代の信仰の先達の上にあることを思い出して感謝するからである。 思い出は、使徒の働きに続いているのだ。 真の幸せと、主と共にある復活の命をいただいていることは、イエス・キリストが確かにこの世に生きてくださったことの証しであり、十字架の死を主と共にいただくことによって、私は「復活」したのだ。 私を大喜びしてくださる主と共に歩もう。(た) #
by mitiru-takae
| 2022-05-01 00:16
| 満ちる
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ことばと思い わが岩、わがあがないぬしなる主よ、 どうか、わたしの口の言葉と、 心の思いが あなたの前に喜ばれますように。<詩篇19:14> コロナ禍とはいえ、他人と会話する機会がないわけでは無い。 しかし、コロナ前に比べると、外に出て行って、色々な人と交わる機会は減った。 おしゃべりの機会も減ったわけである。 それだけに家庭内でのおしゃべりは、楽しいものである。 中には楽しくない方もいらっしゃるかもいしれないし、「一人でおしゃべりする相手がいない」とぼやく人もいるかもしれない。 クリスチャンであれば、すかさず、「イエス様という話し相手がいるじゃないか」と言いたいところである。 昔、父(釘宮義人師)がよく自慢していた話である。 幼少のころ一人で留守番をしていた。帰ってきた母親が「義人、よく怖くなかったね」と聞くと、「イエス様がいるから少しも怖くはなかったよ」と答えたという。 ありふれた正解と言えばそれで終わりだが、小さい子供(何歳のころだったかは覚えていない)が、親の質問に対して、このような返事をするのは、クリスチャンホームならではの、素晴らしい会話だと思うのである。 言葉遣いと言うよりも、いつもイエス様を中心にして大人も子供も会話する習慣をつけると、言葉で相手を傷つけることはしなくなる。 先日、グッドニュース(本田弘慈先生の記念文書伝道会発行)を見ていたが、最後に「子育て相談コーナー」と言う欄に目を向けた。 この相談コーナーはいつごろから始まったのかは知らないが、もうずいぶん長いこと続いている。 ここで「子供の友達同士で話す言葉がとても気になる、もっと気持ちの良い言葉を使えないか」という質問があった。 子育ての悩みはつきることがない。 親のほうが子供に話しかける時、自分の使う言葉が、子供を傷つけていないかと、反省してほしい、言葉は人と人をつなぐ大切なもの、とおっしゃっていた。 また、「気になることは、単語しか話さない子供たちの存在」というのもあった。 「お母さん、おやつ」ではなく「お母さん、おやつちょうだい」と言うようにしつけてほしい、と回答(回答者 鎌野健一氏)してくださっているのも興味深い。 父が幼いころ、母に答えたように、いつでも神様の喜ばれる言葉を口にしたいものだ。 人は心の中に、いつも思っていることを口に出すものである。 ついつい言ってしまう辛い言葉も、心にあるからだ。 まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。<マタイ12:34> 私たちの心をいつも神様に明け渡していたい。 そのために、みことばを蓄えておこう。いつも祈っていよう。 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。<ローマ10:8> 信仰の言葉こそが、いつもあなたと共にあり、あなたを支え、あなたを導いてくれるものだ。 信仰とは、イエス・キリストにある父なる神への絶対的信頼であろう。 家庭の中にある楽しい時間は、また、神の家族の楽しい交わりは、互いの心が結ばれていてこそだ。 ことばとは、あなたの心にある思いの表れである。愛の表れである。(た) #
by mitiru-takae
| 2022-04-24 00:06
| 満ちる
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