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No.400 人生多端 恩寵無限(父に倣って生きる) 2020.6.28

人生多端 恩寵無限
(父に倣って生きる)

わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。<1コリント11:1>

 表題(釘宮義人による)の言葉を書いた谷後先生からの5月25日消印のハガキをいただきとても嬉しかったことを、何週か前の満ちるに書いたばかりである。
 人生多端だなあと、思わされる今日この頃だ。

 コロナ禍による非常事態宣言や、少し収まったかと思っても、また、また感染者が出るという油断のならない毎日である。
 体は自宅で時間に余裕こそできるが、恐れや不安で心の中が多端(あれこれと心配事で忙しい)であった方も多いであろう。

 それまで一生懸命仕事に打ち込んできた人たちが、自粛のため腕を振るう場所をとられ、そのためにキャリアが奪われていくのは、とてもつらいものであったと思う。
 仕事が再開できてもなかなか、元通りになるまでには時間がかかりそうだ。

 今の自分が満足している幸せな生活環境が、ある日突然奪われてしまう。
 いつも緊急事態の中を生きているなんて、耐えられるものでもない。
 しかし、世界の中には、コロナ禍でなくとも、そのような方たちはたくさんいる。
 ちょっとだけ平和ボケしていた私たちは、生き方の根底を変える必要があるかもしれない。

  成功が万物の尺度であり
  快楽が人生の充実であると
  豚やミミズがそう思うのならよい
  人間にはもっと徹した生き方があろう  ―義人―

 これは、私が20代のころ、父が送ってくれた手紙の中の一文である。
 多分、仕事もできて充実して、外から見れば信仰そっちのけで、やりたいことをして楽しんでいる私に、くぎを刺したのだろう。
 私には、恩寵無限という、神の恵みによって生かされている喜びというものがよくわかっていなかった。
 今思えば恥ずかしい限りである。
 父自身、事業にある程度成功して忙しい日々を過ごしていたころの言葉だ。感慨深い。

 父が帰天してからの教会の礼拝や週報の形については、ほとんどが父の真似事であったのだが、「満ちる」もそうであった。
 とても長い前置きであるが、その「満ちる」が、ついに今週でNo.400となったのだ。
 たとえ真似事でも、400回続けてこられたのには我ながら感心している。

 もうすぐ7月15日が来る。
 牧師按手礼から7年が過ぎた。
 父を悠々自適な信仰者と思っていた私たちだが、本人はそうでなかったらしい。
 最後の日記に「私は自由なクリスチャンになりたい」という一文があったのは見逃がせなかった。
 父ほど自由なクリスチャンはいなかったと思うが、本人はそんなこと思っていたのかと、ちょっと不思議な感じですらある。

 私も何とか父の自由な最期の「凡聖」なるものを目指して、進んでいきたいものだと思っていた。
 父がよく言っていた言葉がある。
 「自分で覚悟したことは何とか克服できる。問題は覚悟してなかったことがしばしば起こる。その時こそ信仰だ。」

 私の牧会も当初困難がつきまとった。
 当然といえば当然である。
 何もかもが信徒のそれとは違い、一つは講壇に立てば誰も助けてくれないのだ(最近は物忘れなところを助けられているのがおかしい)。
 講壇と言い表される、牧師のあらゆる仕事は、私にとって過分な主の訓練であったようにも思えるが、しかし今はその成果のおかげか、少しずつではあるが前に向いて進んでいるようだと自分では思っている。ハレルヤ!

 満ちるNo.400も、恩寵無限、神の恵みと、読んでくださる皆さんの温かい心のおかげで、ここまで続けてくることができたのである。感謝!
 さあ、今日からまた歩いて行こう。(た)
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by mitiru-takae | 2020-06-28 20:09 | 満ちる | Comments(0)

No.399 このお方はどういう人なのだろう 2020.6.21

このお方はどういう人なのだろう

それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。<マタイ8:23、24>

 ある律法学者には「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。<マタイ8:20>と言われた。

 「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。<マタイ8:21>と言うある弟子には「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。<マタイ8:22>と言った。
 
 イエス様は不思議なほど、人の心の奥がわかる。
 また、イエス様の選びのわざは、人の思いとは異なり、神のみ心によって行われる。
 神の選びと導きは、私たちにとっては時に不思議に思える。

 「ついて行きたい」と言えば、「寝るところがないよ、いいのかな?」
 「いやちょっと用事を済ませて」と言えば、「ほっといてついて来なさい」という。
 
 では私たちはどうすればいいのだろうか。
 イエス様にとってはとても簡単、「私の言葉に従いなさい」である。
 そしてその言葉には、言うべき時と、権威がある。

 ある時は「可」、そしてある時は「否」である。
 私たちはイエス様に対していつも「可」であるべきだが、愚かな私たちにとってはなかなか難しい時が多い。
 そしていつも妥協点を探すのである。

 そのような私たちではあるが、とにもかくにも「イエス様に従う」という、このことに妥協案はない。
 イエス様の弟子たちは、とにかく、従った。
 だからこそ、次の展開がある。

そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。<マタイ8:25、26>

 イエス様と同じ船に乗った弟子たちである。
 そばにはいつも助けてくださるお方がいる。
 私たちもイエス様に従ったならば、いつもそばにおられる主を呼び求めることができるし、この時の弟子たちのように今の状況を叫んで伝えることも可能だ。

 船は神の教会でもある。
 愛する家族が恐れ、苦しむとき、誰かが口を開いて「助けてください」と叫ぶならば(どうか我こそがと、とりなしてほしい)、主は私たちを助けないでどこかに行ってしまわれるだろうか。
 そんなことはない、どんな嵐も風も叱って止めてくださるであろう。
 船から離れているときでも、水の上を歩いてきてくださるお方である。
 魂(心)が一つの同じ船に乗っているならば、神はどこにいても、その御腕を伸ばして助けてくださる。

 弟子たちと同じようにまだまだ信仰の薄い我々である。
 この少ない信仰をどんどん増やしていこう。
 どのようなことでも、祈れば、応えられたことを知ることができる。
 祈らねば、何も起こらない。
 祈らねば感謝も、喜びも起こらない。
 人の思いをはるかに越えて、応えてくださる主イエス様は、わたしたちの小さな信仰でさえ、重く受けとめてくださり、大きくしてくださる。

彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。<マタイ8:27>

 嵐が静まったとき、風が止んだとき、私たちは、はっきりと告白しよう。
 このお方こそ、神のひとり子、私たちの主イエス・キリストである。(た)
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by mitiru-takae | 2020-06-21 17:50 | 満ちる | Comments(0)

No.398 生きている 2020.6.14

生きている

イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。<マタイ8:22>

 イエス様が死人と言われた人たちとは、だれのことであろうか。
 まだイエスを救い主と知らない人のことであり、神を神としない人たちのことである。
 つまり、イエス様のイノチで生きていない人たちのことである。

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。<ガラテヤ2:20>

 ご自身をささげられたキリスト・イエスの信仰が、私のうちに生きている。
 律法の行いによらず、ただ神の恵みによって生かされている、だから私たちはイエス・キリストのイノチによって生きているんだ、といえる。

 「手のひらを太陽に」という歌が、以前LINEグループチャットの中で話題になったことがある。
 「僕らはみんな生きている」で始まる日本の童謡だ。
 「生きている」ということを子供でも分かる言葉で、伝えてくれる。
 彼はクリスチャンだとは聞いていたが、いやいや、やなせたかしさんは素晴らしい信仰者だ。

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
 (中略)
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ  (作詞やなせたかし・作曲いずみたく)

 やなせたかしさんが描く絵本やアニメに子供たちの大好きな「それいけ!アンパンマン」というのがある。
 おじさんがパンを焼く製造過程の中で、アンパンの中にイノチの星が入ってアンパンマンになるという素晴らしい正義のヒーローの物語である。
 人も物も、その中にイノチが入ってこそ、生きるものとなるんだ、バイキンマンだって生きている…。
 そう考えると心の中が熱くなってくる。
 素朴な子供の心を通してイエスの愛を感じさせてくれるアニメだ。

 コロナ禍の中で考える。
 ここがエデンの園になれば、トラや、クマどころか、菌類もウィルスも、すべてのものが神のイノチで生きるようになると、互いに害を与えるものはいなくなる。
 今でも、菌の中には人にとっても有益なものがあるように、ウィルスも人間にとって、とても重要な役割をするものとなるはずだ。
 共にイエス様を慕い喜んで、菌だって、ウィルスだって、ミミズもアメンボも、イエス様を待ちわびて日々を生きる、こんな世界に早くなればいいなと思う。
 しかし、まだまだ、その時は来ていない。

 さて、マタイ8章の癒しの中でとても簡単に書かれているが、「イエス様大好きおばさん」とでもいおうか、ペテロのお姑さんの癒しが、私は大好きである。

それから、イエスはペテロの家にはいって行かれ、そのしゅうとめが熱病で、床についているのをごらんになった。
そこで、その手にさわられると、熱が引いた。そして女は起きあがってイエスをもてなした。<マタイ8:14、15>

 なんと、このお姑さんは癒された途端、起き上がってイエス様をもてなしている。
 私たちも、イエス様大好き人間になって、病気で動けないときでも、心はイエス様に明け渡していこう。
 すると、イエス様自らズンズンと部屋に入って来て、イノチの手を伸ばしてくださる。
 満々感謝!(た)
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by mitiru-takae | 2020-06-14 15:47 | 満ちる | Comments(0)

No.397 驚き 2020.6.7

驚 き

イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。<マタイ7:28、29>

 イエス様の山上でのお話を聞いた人たちは、ひどく驚いたようだ。
 私たちもこの場にいたかった、などとよく思うものである。
 実際にイエス様が語られると、私たちは、そのお言葉が、学者のような難しい言葉でもなく、偉い数学者のようでもなく、宇宙のすべての知識を超えた神の知恵の響きに、恐れおののくであろう。

 もうすぐ「満ちる」が400回を迎えることを、妹が気付いてLINEで教えてくれた。
 私はというと、ここ一か月くらいは本当に気分も具合も悪くて、書くだけ…という感じであった。
 そんな時、「えっ」とあらためて驚いた。
 もうそんなに書き続けていたのか、と。
 憎いことにそのあと私を泣かせてくれたのが弟だ。

「『満ちる』第1号は義人牧師のブログの2012年11月11日号、そのブログの重なりは父娘が手を繋いでここまでやって来た証かな、そんな思いがする。バックナンバーを見てみるとNo.がタイトルに付くのは2015年5月10日号の132号から。------中略-----ともかく、400号までいろいろあったこれまでのことすべてを善しと変えて下さる方に感謝したいと思います。」(え)

 ここだけの話、「満ちる」がここまで続けられるとは思っていなかったのだ。はじめは不定期で発行ということにしていたくらいだ。
 ここまで続けられたのは、読んでくれる皆さん方がいたこと、妹がよく、校正、アドバイスをくれたおかげである。

 ともかく、色々あったのだ、そうだ、確かに続けるということは並大抵ではない。

 父がよく、「継続の秘訣は、忘れてしまっていても、気が付いたときに、何事もなかったかの如くはじめること」と言っていたのを思い出す。

さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、
この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。<使徒2:5~7>

 各地に離散していたユダヤの人たちはこの日エルサレムに帰っていた。
 ペテロたちを見て人々は驚いた。

 先週、私たちも久しぶりに、礼拝の中で、賛美、祈り、異言、霊歌が、語られ歌われ、聖霊充満を目で見、耳で聞き、兄弟姉妹が共に喜んで過ごすことができた。
 このような状況を、大分ブレッシングの先生たちとも分かち合うことができた。
 アガペーチャペル(廣田先生)では午前、午後と、二回の礼拝をおこなっているそうだ。
 「55歳以上第一礼拝、55歳以下第二礼拝に分けて再開。最高齢者98歳、95歳の夫婦。88歳、85歳夫婦(自力運転で)・・・」 ということで、私は驚いた。
 85歳以上が4人、最高齢98歳というのだから、私たちも負けてはおられない。がんばろう!と、思いを新たにした。

 そんなペンテコステの礼拝の日、谷後先生(拡大宣教学院)からのはがきを受け取った。

人生多端
恩寵無限 ―義人―
 
 父の遺した言葉を谷後先生の達筆で書いてくださったのだ。
 懐かしい、大好きな父の言葉は他にもたくさんあるが、造語も含めて、歯切れ良い素晴らしい言葉、詩が多い。
 恐怖ではなく、脅かしでもない、私たちの心を驚かせてくれるもの。
 それ等のすべては、心から神を思い人を思う愛がそこにあるからだろう。(た)
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by mitiru-takae | 2020-06-07 19:10 | 満ちる | Comments(0)