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No.387 蕗の薹(ふきのとう) 2020.3.29

蕗の薹(ふきのとう)

彼らは雨を待つように私を待ち
春の雨を仰ぐように口を開いた。
彼らが希望を失った時にも、
わたしは彼らにむかってほほえんだ。
彼らはわたしの顔の光を除くことができなかった。<ヨブ29:23、24>

 ヨブの言葉である。
 まるで神が語っているようだ。
 この時ヨブ自身が気付いていない、義人ヨブの大間違いはここにある。

 確かに、来るものを拒まず、教え導き、施し、どんなきついときでも彼らの前で笑みを絶やすことなく、ヨブは周りの人々に慕われていたに違いない。

 苦しいものにとってそれは、春の雨のように、口を開けて待つだけの価値があったのだろう。
 ヨブにしてみれば、一生懸命に人のために尽くす行いが、自分を神に近づけ、義人と自負するための大切なものであったからだ。

 ヨブが、自分の行ってきたことのすべてに神の業を見つけるならば、「自分の義がこれをなしたのだ」とは言えなかったであろう。
 この言葉をそのまま、神が自分に下さったものだと知るとき、ヨブ自身が春の雨のすばらしさを見て神を崇めたであろう。

 私達はこの言葉を神の言葉としていただきたい。
 素晴らしい言葉だ。

 もう一つ春の言葉を挙げてみよう。

私はあなたがたの地に、秋の雨や春の雨など、必要な時期に雨を降らせよう。あなたは、穀物、新しいぶどう酒、新しいオリーブ油を収穫するだろう。<申命記11:14>

 やはり、春といえば、温かさを運んでくれる雨、私たちの地に豊かに収穫をもたらしてくれる穀物や、たくさんの木々、植物、美しい花などが芽吹く時で、何となく心が明るくなる。

 周りを見ると、こぶしの花が咲いていたり、桜の花もちらほらと咲きかけている。
 木や花の芽を見ると、どんなに寒くても、「ああ、春が来たな」と、心がウキウキしてくるのだ。

 先日、私の弟が蕗(ふき)の花が咲いている写真をLINEに載せてくれていた。
 「中々、花が咲く前には見つけられない」と言っていたが、蕗の薹は、ほろ苦い春の味覚としても、私たちを楽しませてくれる季節の逸品だ。

 いま、新型コロナウィルスの感染予防のため、あまり外を出歩かない人が多いと思う。

 私は特に、骨折のおかげで、外に出ることもできず、買い物もネットで済ませ、ひたすら痛みと戦っているうちに、ひと月過ぎ去ってしまったという次第である。

 苦しむことなく自宅で過ごせたというのも少しつらいが、元気であれば出歩きたいものである。
 気が付けば、あたりは春、自然の営みに、驚くばかりだ。

 ヨブに今会えたら、一緒になって神をほめたたえるだろう。

 「春の雨が素晴らしいのも、わたしたちが義人とされるのも、人々があなたや私たちを慕ってくれるのも、皆、素晴らしい私たちの神様のなさることだよ。
 この大自然や宇宙を創造したお方だからね。
 神様って何でもできてすばらしいんだ。」(た)

そこでヨブは主に答えて言った、
「わたしは知ります、
あなたはすべての事をなすことができ、
またいかなるおぼしめしでも、
あなたにできないことはないことを。<ヨブ42:1、2>
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by mitiru-takae | 2020-03-29 15:53 | 満ちる | Comments(0)

No.386 時が良くても悪くても 2020.3.22

時が良くても悪くても

神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。
御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。<第二テモテ4:1、2>

 私達が神様の前に立つとき、私たちの魂は命と死の二つのうちどちらかを選んで御前に進んでいく。
 しかしどのような時も、私の生死を決めているのは、すでに出来上がっている神のご計画であることを、知っておくべきだ。
 もし私たちの選択が間違って死を選びかねない、魂の危機に瀕しているときでも、私たちには希望がある。
 必ず、イエス様に執り成してくれる神の家族がいることを忘れないでおこう。

 神の家族はパウロがテモテに勧めているように、時が来たとき、そう、いざここだという時、私達の家族のために、教え、攻め、戒め、勧める用意が必要だ。
 聖霊による寛容な心をもってである。

 み言葉と絵が入ったTシャツを着て、伝道に出かけていた時期がある。
 この時の絵はロバ、み言葉は「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。(使徒18:9)」だった。このみ言葉の前に「時が良くても悪くても」と付け足したいのだ。

 もう、30年にもなるだろうか、私たちもみな若く、よく伝道していた。
 教会のマイクロバスに乗り込んで、市街地へと出かけて行ったものだ。
 本屋さんで立ち読みしている人を見つけては話しかけたり、喫茶店に一緒に行って、聖書のお話をしたり、時には、悔い改めの祈りをお導きして、イエス様を受け入れてもらうという、良き思い出だ。

 この時は、パウロのお言葉を、伝道のためと受け取って、自分たちの都合や、好き嫌い、天候の良しあしなど、どんなにきついときでも、み言葉を伝えるよという意気込みで、街に出て行ったものだ。
 また、相手がどんなにいやな顔をしようが、取り合ってくれまいが、めげずに次へと心を向けて行った。

 今は、年を取ってしまったかつての若者たちだが、自分たちにできるそれぞれの伝道方法で、イエス様の福音をお知らせしている。感謝!
 これからも信仰と伝道の初心にかえって、主のために働きたい。
 また、伝道するときのことだけに限らず、「時が良くても、悪くても、私たち一人一人が、いつも互いによく励み、学ぶことが大切だ」というように、私達のこととしても受け取っていきたい。

 「今の時を用い…(エペソ5:16参照)」というみ言葉のように、私たちに降りかかってくる、その特別な時の中で、教えあい、訓戒しあい、はたまた、良き交わりをもって、共に、主の御前に立つことができるように祈ろう。

人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。<第二テモテ4:3~5>

 人類の歴史の中で、私達の生死にかかわるような大きな出来事は、必ず神様のご計画によるものだと思う。
 ここから、新しく作り変えられるか、地上が変えられるのか、戦争も飢饉も私達にとっては、遭遇したくないこともあるかもしれないが、必ず主は私たちを守りぬいてくださる。
 私たちを主から離す者はこの世にはないのだと、確信する。

 真実のみ言葉を心の中に覚え、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うすることができるよう、主に従い、主に委ね、互いにとりなし励ましあっていこう。
 励ましあうことが大切だ。
 これこそ、「人事を尽くして天命を待つ」だ。ワッハッハ!(た)
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by mitiru-takae | 2020-03-22 14:52 | 満ちる | Comments(0)

No.385 今の時に学ぼう 2020.3.15

今の時に学ぼう

そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、
今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである
【機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。(新改訳)】
だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。
酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、
詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。<エペソ5:15~19>

 わたしが骨折してから、ギプス18日目のことである。
 診察に行くと、ギプスを電動鋸で切って外し、レントゲンを撮られた。
 「またギプスするかね――。折れたところの骨が細かいと、くっつきにくいんですよ。」と先生が仰る。
 「後、2週間だね。」

 看護師さんが、タオルを持って来て「足を拭いてね」という。
 そこで、すごい足の垢を拭いていると、「一日、このままで帰ってお風呂に入りますか?」と、笑いながら言う。
 「いえいえ、もうギプスして帰ります。」
 私としては外したいのはやまやまなれど、「また明日来て、やっと解放された足にまたギプスかーー」と思うと、今日観念したほうがよさそうな気がしたのだ。

 足を一日おろしていると、夕方にはとても足がむくんでくるものだ。
 最初にギプスをした時の足は、たぶん腫れていただろうし、午後であったのでむくんでいただろう。
 この日は午前中であったし、ギプスを外した足はなんだか細く思えたので、とっさに「あーー、この状態でギプスをすると、きつくなるのではないかな」という不安が押し寄せた。
 家に帰りついても「あー、ギプスがきつくなる」という固定観念から逃れられない。
 
 「骨折した先輩姉妹方がいらっしゃるので、気持ちをよくわかってもらえるところはとてもうれしいし、何かあっても体験を聞けるので心強い。」
 そのように自分に語り掛けながら、この日はとりあえずお風呂に入って早く休んだ。

 さて、次の日、朝から、気になって仕方がないのがギプスのことである。
 「主よ、これはどうすれば解放されるのでしょう」
 他人が聞けば大げさに聞こえるかもしれないが、ギプスに対してのストレスがこれほどであったとは、笑うに笑えない状況であった。

 さて、みなさん、新型コロナウィルスの脅威もそうである。形も危険度も全く別物ではあるが、私たちの心をとらえて離さない、大きな鎖は、何によって切り離すことができるであろうか。

 冒頭のみ言葉を思い出した。
 「今の機会」
 今しかない機会である。
 十分に生かせているか。
 苦しみも痛みも、「今の時」である。
 恐れも、危険も「今の時」である。

 平和ボケした私の心と体は、たったこれだけのことでストレスを感じて、イライラして逃れられない。
 もっともっと苦しんでいる人たちが大勢いるのに、なんて恥ずかしい。
 とはいってもこのままでは私はストレスに負けてしまうのである。

 み言葉は教えてくださっている。
 「詩と賛美と霊の歌をもって・・・」
 「主に向かって心から歌え、語れ!」
 愚痴交じりの言葉を主の前に吐き出しながら、その言葉は賛美へと変えられていった。
 獄中で賛美したパウロたちを思い出しながら、今の時だからこそ味わえる賛美のすばらしさを想う。感謝!(た)
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by mitiru-takae | 2020-03-15 11:43 | 満ちる | Comments(0)

No.384 全能者の陰にやどる人 2020.3.8

全能者の陰にやどる人

いと高き者のもとにある 隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。<詩篇91:1~3>

 新型コロナウィルスは猛威を振るい、それ自体はとても弱いウィルスのようであるのにもかかわらず、その脅威と恐れは、日本人の心の中を少しずつ危機の方向へと座標を変える結果になって来ている。

 中国武漢での、扉の向こうにある脅威として、その恐ろしさを聞いていたのはつい先日のことである。
 だが、日本にもそれが現実となり始めてきた。

 トイレットペーパーなどの紙製品、いくら「生産は国内なので、買い占めなくても流通は間に合うし、大丈夫だよ」と言われても、買い占め症候群は止まることがない。
 もはや「マスクがない」だけでは済まされないような現状である。
 理性ではわかっていても、スーパーに行って、ガラーンと空になった売り場の棚を見れば、おそらく誰でもが慌てふためくだろう。

 そのような中、去る3月5日(木)の祈祷会から、3月15日(日)の主日礼拝までの集会を休会と決めた。

 当教会に集まる信徒の皆さんには、高齢者、持病を持っている方々が多い。
 また、家族に介護を必要とする人がいたり、職業上、是が非でも感染源とならないためにと、心を砕いている方々も多く、苦渋の決断(多少大げさかもしれないが)をした。

 しかし、主は、いつどのような時でも、私たちをその翼の下から追い出すようなことはしない。
 私たちはいつも「全能者の陰」に宿るものである。
 そこではいつもイエス・キリストの血潮によって守られ、私たちの安全は守られているのである。

主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。<詩篇91:4~6>

 み言葉によって私たちの心を強くしていただこう。
 神は、私たち人間に言葉を与えてくださった。
 その言葉によって、私たちは救われ、平安を得ることができる。
 私たちの祈りは、主イエスに対する同意の告白だ。
 「アーメン!」
 
 どうか、兄弟姉妹方が、毎日平安で、心をサタンに奪われることなく、感謝と喜びをもって過ごしてほしいと切に願う。
 思い出したら笑ってほしい。
 賛美をしよう。
 そしてサタンの行為をあざ笑おう。

あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。<詩篇91:8>

 次の言葉は、荒野でサタンがイエス様に対して使ったみ言葉だ。

彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。<詩篇91:12>

 これは試みるためにある言葉ではなく、神が私たちに約束する真実の言葉だ。

 イエス様は、ご自身の体を私たちの身代わりとして、ご自身の手と足を木に打ち付けられたが、それはイエス様の栄光と変えられた。
 その打たれた傷によって私たちは癒されたのだ。
 その傷に、全被造物の勝利がかかっていたのだ。

 イエス様の勝利は、私たちの勝利である。ハレルヤ!(た)
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by mitiru-takae | 2020-03-08 10:01 | 満ちる | Comments(0)

No.383 奇跡を見る人/足首骨折 2020.3.1

奇跡を見る人

いと高き神はわたしにしるしと奇跡とを行われた。わたしはこれを知らせたいと思う。<ダニエル4:2>

 どんなにすごい奇跡が起こったとしても、それを見た人が奇跡と信じなければ、それはその人にとっての奇跡にはならない。

 私たちの体は、人の理解を超えた奇跡としか言いようのない、命の織り成すハーモニーで生きたものとされているし、私たちを取り巻く大自然や、宇宙を見て、これを偉大な人間が作ったとは思わないし、どこから来たのかも知らない。
 時間がどうして経過していくのか、どうして、生まれてきて、死んでいくのか、心はどこにあるのか、私達はほとんど何も知らない。

 このように、わからないことだらけであるのに、私たちはどうして神を信じることができるのであろうか。
 人間の知恵で、神を知るのではなく、神ご自身が私たちに教えてくれるからだ。

 同じように奇跡も、「これがあなたに起きた神の奇跡だ」と、誰かに教えてもらってわかるようなものではない。
 だれ一人、「すごい、奇跡だ」と言ってくれなかったとしても、自分に起こった奇跡が神から来たものだとわかるのは、聖霊による神からの私信である。

ああ、そのしるしの大いなること、ああ、その奇跡のすばらしいこと、その国は永遠の国、その主権は世々に及ぶ。<ダニエル4:3>

 燃え盛る炉の中に入れられてもなお死なず、神と共にいるダニエルの三人の友たちを見て、これを神のなした奇跡と知るネブカデネザル王である。

 S姉妹がガン宣告を受けたばかりのころ、姉妹の信仰の証としていつも思い出すことばがある。
 「自分の目で、自分の癒しを見たい、自分の目で自分に起こる奇跡を体験したい」

 わたしたちは、疑いを捨てて、神に期待しよう。 
 そして奇跡を見る人となる。
 奇跡は目の前で起こった。
 奇跡を見た!
 ハレルヤ―――!(た)


足首骨折

 去る2月20日(木)祈祷会が終わり、みんなが帰った後の出来事であった。
 カーテンを閉めて帰ろうと、「ひかり文庫」の入り口に立って振り向き、カーテンを閉めた、その途端である。
 15センチくらいの段差を普通に下りて去ろうとしたに違いないが、そのまま仰向けに後ろのコンクリートの地面に落ちて倒れてしまった。

 起きようとするが立てない。
 すぐ横の部屋で、学習塾の生徒と妹の声がしたので、か細い声をふりしぼって妹の名を呼んだ。
 なかなか気づいてくれない、しかし、動けない、さらに名を呼ぶ。

 やっと生徒が気づき、妹が来てくれて「ホッ」とする。
 身動きもできなかったが、祈りつつ、やっとの思いでなんとか立ってはみた。
しかし、どう考えても、足は捻挫してるようだし、まして、普通に座る姿勢になることもできないほどの背中のひどい痛みがある。
 救急車で一番近い整形外科の病院に行った。
 
 レントゲンの結果、頭部、頚椎、脊椎、仙骨などなど、すべて異常なしだった。
 なんと幸いなことであろうか、頭もしっかり、話もできる。痛いだけだ。たった一か所、捻挫したと思っていた足首が骨折していた。

 この日、この病院のベッドが空いておらず、他の病院に紹介状をもって行ったものの、こちらでは時間外と入院を断られ、ギブスの足を引きずりながら仕方なく、娘に介護されて自宅に戻ったのである。
 それにしても、神の奇跡と癒しは倒れたときにすでに始まっていたのだ。ハレルヤ!(た)
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by mitiru-takae | 2020-03-03 22:32 | 満ちる | Comments(0)