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No.361 大分ブレッシングは「新しい実」 2019.9.29

大分ブレッシングは「新しい実」

川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。<エゼキエル47:12>

 黙示録に同じような言葉がある。

都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。<黙示録22:2>

 エゼキエルや、ヨハネが見た新しい都エルサレム。
 いのちの木の実は、絶えることがない。

 いや、そうはいっても、いつまでも同じ実がそこにあるのではない。
 月ごとに新しい実がなる。
 毎月みのるその実は、新しい天と地の命の糧である。

 私たちが今、生きている地上でも、神は与えてくださる。
 いのちの糧、こころの糧である。
 決して古びることがない「新しい実」をいつも用意してくださる。

 それは私達にとっては信仰によっていただく新しい天と地における「新しい実」である。

 「大分ブレッシング」と、名を元に戻した聖会が、9月23日(月・祝)に、キリストの福音大分教会で行われた。
 この恵みに満ち溢れる集い、まさに今回のテーマ「プレローマ」である。
 神のあふれる恩寵はいつも、神の時にあり、神の時の中にある。

 実にこの集い(大分ブレッシング)は、私たちにとって、神が養いたもう「いのちの木の実」である。
 それはいつも新鮮で、私たちの心を新しくするようだ。

 この「大分ブレッシング」が古い殻を脱ぎすて、生まれ変わった感が、今回は特に感じられた。
 父がまだ元気であったころからの集まりだ。
 当時は3教会合同祈祷会と言っていた。
 結構長く続いているんだなあと感心する。
 やめようと、言い出す人がいないのだ。

 これはつまるところ、自分自身の心の居場所が大切だ。
 自分が渦中にいなければどんな賛美も証しも、とてもつまらないものとなる。
 今回の大分ブレッシングは、まさしく神のご計画の中にあった。
 私たちの心を神のプラグラムにまかせ、その中に没頭するとき、真に「新しい実」を与えられたような、そんな感がある。
 私達にとって、今回の大分ブレッシングは神が用意してくれた「いのちの木の実」だ。

 この大分ブレッシングが、地上での「新しい実」として有り続けるように、祈り、宣言していこう。

 そして私たちの教会が、どんなに小さくても、この地域の、また大分の、そして日本の「新しい実」として有り続けることができるよう祈る。

その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。<黙示録4:1>

 今月の9月30日は、ユダヤ暦の新年5780年ティスリの月1日を迎える。
 「ラッパの祭り」の日だ。

 私たちもラッパを吹き鳴らそう。
 大分ブレッシングの集会の中でも、賛美とともにショウファールの音が響いた。
 ラッパとともに主に叫ぼう。
 主もラッパのように大きな声で私達に呼び掛けてくださる。
 そう、大きな声で――!(た)
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by mitiru-takae | 2019-09-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.360 王とダニエルとライオン 2019.9.22

王とダニエルとライオン

ダリヨスは全国を治めるために、その国に百二十人の総督を立てることをよしとし、
また彼らの上に三人の総監を立てた。ダニエルはそのひとりであった。<ダニエル6:1、2下>

 ダニエル5章の終わりを思い出してほしい。
 バビロン帝国最後の王ベルシャザルは、皮肉にも、自分とバビロンの最後を預言したダニエルに、3人しかいない国の大臣の地位その3番目を与えたのだ。

 その夜殺されたベルシャザル王の後には、メディアのダリヨスが王座に就いた。
 ところが、またしてもダニエルの際立った素晴らしさは、周りの大臣たちの妬みを買うこととなったのだ。
 ご苦労なことに、毎日ダニエルを監視して、一つでも欠点を見つけたならば、王に訴えようとしたが、無駄であった。ダニエルには何の口実も、欠点も見いだせなかったのである。

 そこで大臣たちは、ダニエルを訴えることができるように策を考え出した。
 皆で申し合わせて王のところに行き、出来た法律に署名させ、まんまと、ダニエルを訴えることができる計画を実行に移した。

王よ、それはこうです。すなわち今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人にこれをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れるというのです。<ダニエル6:7>

 この法律は、一度決めると、たとえ王であっても取り消すことができないという。
 王自身も、後で、「やられたー」と気づく。
 しかし、後の祭りである。

 それにしてもダニエルの落ち着いた様が、こちらまで伝わってくる。
 この後がどうなるのかを知っているからかもしれないが、次の節を読むとなんだか誇らしげな気持ちになる。

ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。<ダニエル6:10>

 知ってなおかつ、「いつものように(新改訳)神の前に祈り、感謝した」というのだから、ここは一番ハラハラドキドキの場面であろう。
 案の定見ていた大臣たちは、王に訴え、王はどうすることもできず、ダニエルはライオンの穴に投げ込まれてしまったのである。

 一晩中断食をし、寝ることもできなかったダリヨス王は、夜が明けるとすぐにライオンの穴へといった。
 「ダニエル…」
 王は悲痛な声で呼びかけた。

わたしの神はその使をおくって、ししの口を閉ざされたので、ししはわたしを害しませんでした。これはわたしに罪のないことが、神の前に認められたからです。王よ、わたしはあなたの前にも、何も悪い事をしなかったのです」。<ダニエル6:22>

 ダニエルは穴から出された。
 神が、証人である。
 ダニエルを訴えたものは反対に妻子も共にライオンの穴に投げ入れられた。
 ダニエルをかみつこうともしなかったライオンたちは、おなかがすいていなかったのではと思いきや、彼らの骨はことごとく噛みくだかれたのであった。

 ダニエルはバビロンのネブカデネザル王の時に捕囚されてから、このメディアの王ダリヨスと、クロス王の治世にまで栄えた人であった。
 ヨシュアや、士師たちのように剣を振りかざすわけではないが、いつものように祈り、いつものように神が共にいてくださるというだけで、胸がすっとするほどの勝利を得るのである。(た)

それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。<ローマ8:31>
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by mitiru-takae | 2019-09-24 15:02 | 満ちる | Comments(0)

No.359 その子ベルシャザル 2019.9.15

その子ベルシャザル

ベルシャザルよ、あなたは彼の子であって、この事をことごとく知っていながら、なお心を低くせず、
かえって天の主にむかって、みずから高ぶり、その宮の器物をあなたの前に持ってこさせ、あなたとあなたの大臣たちと、あなたの妻とそばめたちは、それをもって酒を飲み、そしてあなたは見ることも、聞くことも、物を知ることもできない金、銀、青銅、鉄、木、石の神々をほめたたえたが、あなたの命をその手ににぎり、あなたのすべての道をつかさどられる神をあがめようとはしなかった。
それゆえ、彼の前からこの手が出てきて、この文字が書きしるされたのです。<ダニエル5:22~24>

 バビロンの王ネブカデネザルを父祖に持つベルシャザル、その母は、覚えていた。
 かつてネブカデネザル王の夢を解き、謎、難問を解く神の霊を宿した人がいることを。

 この世の権力を得、成功と、快楽を思うままにできるとき、高慢という大きな魔物が私たちを背後から支配する。
 神を貶め、神によってたてられた人を卑しめる、真の神を知らないものはおろかだ。

 ベルシャザルもそうだった。
 呼ばれてきたダニエルに対しての彼の態度は何と横柄なことか。
 そして王は「できれば与えるぞ」とばかりに言ったのだ。

それで、あなたがもし、この文字を読み、その解き明かしをわたしに示すことができたなら、あなたに紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけさせて、この国の第三のつかさとしよう」。<ダニエル5:16下>

 しかしこの言葉は、バビロンの次に支配する国にあって、ダニエルが大臣となる神の大いなるプランがあったと予測できる。

 ダニエルは答えた。
 それは決してベルシャザル王にとって良いことではなかった。
 いや、どちらかというと悲惨な預言だ。

それゆえ、彼の前からこの手が出てきて、この文字が書きしるされたのです。
そのしるされた文字はこうです。メネ、メネ、テケル、ウパルシン。<ダニエル5:24、25>

 この言葉を簡単に言うと、「あなたは秤で量られ、その量が足りないことが現れた。神はあなたの治世を数えて、これをその終わりに至らせた。あなたの国は分割されてメデアとペルシャに与えられる。」ということになる。
 なんと、恐ろしい言葉であろうか。
 
 それどころかこの言葉は実現したのだ。
 王は相当恐ろしかったに違いない。
 ここには書かれていないが、一瞬にして宴会はお開きになったであろう。

 ダニエルには紫の衣を着せ、金のネックレスをかけ、その場で布告を発し、言わせた。
 「彼は国の第三のつかさである」と。

カルデヤびとの王ベルシャザルは、その夜のうちに殺され、<ダニエル5:30>

 バビロン帝国はあっけなく、メデアに滅ぼされたのである。

 この恐ろしい言葉は神の手によって書かれた。
 この手は王の前から出てきたと書いている。
 これはベルシャザル王に対する、警告ではなく、さばきである。
 神の裁きは、神をないがしろにする者の前から、つまりその人の心の中心から指摘する。
 決して隣にいる人の前からではない。
 裁きとは他人ごとではないのだ。

 だから、呪いも祝福も、他人ごとではなく、あなたの目の前に置かれる。(た)
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by mitiru-takae | 2019-09-17 20:45 | 満ちる | Comments(0)

No.358 神の時は今 2019.9.8

神の時は今

あなたは、追われて世の人を離れ、野の獣と共におり、牛のように草を食い、こうして七つの時を経て、ついにあなたは、いと高き者が人間の国を治めて、自分の意のままに、これを人に与えられることを知るに至るだろう」。
この言葉は、ただちにネブカデネザルに成就した。<ダニエル4:32、33>

 釘宮家の半分はゴミをすべて取り除けられ、瓦をはがされ、まるで丸裸のようになった。
 いよいよユンボが入り、屋根から壊して取り除いていく。

 神の手はどこまで段取りがいいのか、ここで大雨注意報、雷が鳴り(自宅の地域ではすごい雷であった)、雨が程よく降り出した。
 ノアの時、神による雨がすべてを洗い流したように、家は消えていく。

 ユンボで家を壊す間、雨は降ったりやんだり―――と、おかげで、いくらか積もり積もった古屋の塵はすこしは防げたのか―――と思ったりもする。

 長い時(60年くらいになる)を経て、この家屋は務めを終えたのだ。
 形はなくなるが、私たちには両親が生きていたころの記憶が残る。
 すべては神の時、その御手のなかにある。

 さて、ネブカデネザル王はまたまた夢を見た。そしてダニエルはそれを解き明かす。<ダニエル4章参照>

その葉は美しく、その実は豊かで、すべての者がその中から食物を獲、また野の獣がその陰にやどり、空の鳥がその枝に住んだ木、
王よ、それはすなわちあなたです。<ダニエル4:21、22上>

 ここまでは良かったが、この後、神の言葉は、容赦なくネブカデネザル王の上に成就する。
 ネブカデネザル王が、神が計画した屈辱的な人の心を持たぬ時を与えられたのも、回心ともいうべき素晴らしい時を得るためであった。

 私たちの心が壊れそうになる時、罪が満ち、どうにもならなくなるとき、主は時どき私たちから、心や時間を取り上げる。
 それは決して私たちを滅ぼすためではない。
 くどいようだが、エレミヤの言葉が響いてくる。
 
主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。<エレミヤ29:11>

 ネブカデネザル王は神に選ばれた王であった。
 私達も同じだ。

 ダニエルやその3人の友たちが、バビロン捕囚という最悪にも見える状況の中で、神に愛され、王に愛されて、異教の地で優遇されたように、私達も神に選ばれ、神の良きわざに生きるために今の時を生きている。
 エズラをまねて言うが私達も「生き残りのもの」である。
 神によって生き残ることを許され、選ばれたものだ。

 人の傲慢が満ち
 神の忍耐の時が来る 
 人への神の裁きは神にとって忍耐の時である
 神はそれを捨て置かず、エレミヤが言うように、時が来ると心を天に向けさせてくれる。
 神の時が満ちると、その人は心を新たにされるのだ。
 
こうしてその期間が満ちた後、われネブカデネザルは、目をあげて天を仰ぎ見ると、わたしの理性が自分に帰ったので、わたしはいと高き者をほめ、その永遠に生ける者をさんびし、かつあがめた。その主権は永遠の主権、その国は世々かぎりなく――<ダニエル4:34>

 エレミヤは言う「その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く」と。
 その時は、今だ。(た)
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by mitiru-takae | 2019-09-10 09:16 | 満ちる | Comments(0)

No.357 火の中を歩く四人の者 2019.9.1

火の中を歩く四人の者

その時、ネブカデネザル王は驚いて急ぎ立ちあがり、大臣たちに言った、「われわれはあの三人を縛って、火の中に投げ入れたではないか」。彼らは王に答えて言った、「王よ、そのとおりです」。
王は答えて言った、「しかし、わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害をも受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ」。<ダニエル3:24、25>

 たとえ、自分のためだとわかっていても、人は試練にあうとたじろぐ。
 たじろぎながらも、主に従う時、私の心の中に奇跡が起こる。

 シャデラク、メシャク、アベデネゴも、奮い立って主に従ったとき、この言葉を発することができたのであろうか。
 受肉前のイエスは、今私たちに働く聖霊と同じく、人々の目の前で強烈に働いてくださったのだ。

たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。<ダニエル3:18>

 エステルもそうであったように、神への絶対的忠誠を誓う信仰は、この世のどんな王、権力者よりもはるかに勝るものが、私たちの神ということを真に知っているからである。
 そういう意味では、ちょっと不甲斐なく見えるネブカデネザル王も、エステルを許しユダヤの民を守ったアルタシャスタ王も、この本物の神を知らないのにも関わらず、神の思うとおりに動き、生かされている。
 これを見ると、神の主権によるご計画を絶賛せずにはいられない。

 さて、通常より7倍もの火力という炎の中、つまりそれは私たちにとっても起こりうる、試練であるかもしれない。
 私達は多分、焚火の中でさえも、通り過ぎるのはむずかしそうだ。
 私が小学校5年生のころ、手島郁郎先生の阿蘇の集会で「火渡り」が行われたことを覚えている。
 もちろん、父もそれに参加したのだが、足の裏に軽いやけどをしていたのを見た。
 「恐れてわたると、足の指の裏に燃えた炭を抱いてしまう、そうするとやけどをする、恐れず、たったった――と渡るんだよ」こう言って笑っていた父義人の顔が浮かぶ。

 牧師館のごみの片づけもやっと終わって(というか外に出してしまっただけであるが)少しほっとしている。(みなさんお手伝い有難う、本当に感謝!)
 しかし、このごみの片づけでも、量がここまで来ると、われを忘れるほど気を入れて一気に片付けないと、たらたらでは全く進まない。
 なぜか、「火渡り」の心境になる。

 そこで、「火渡り」どころか、炎の中に投げ込まれた3人は、果たしてどうなったのか――、ということだ。
 冒頭のみ言葉を見てみよう。
 王の驚きというか、不思議な体験とでもいおうか、目を疑うようなことが起きたのだ。

 王は見た。
 3人のはずが4人いる。
 縛ったはずなのに、なわめなし。
 火の中を歩いている。
 何の害も受けていない。
 第四のものは神の子のようだ。

 旧約の時代、イエスはまだ受肉前である。
 しかし神の子として、神の民を助け守ってきた。
 受肉し、第2神殿に降り立ったイエスは、人間のすべての罪を負って、完全に父から呪われた。
 しかし、死と黄泉に打ち勝ったイエスは、甦り、天の父の右に座した。
 すべての権威、主権は彼の上にあり、私たちは聖霊を通してこの恵みにあずかる。

 霊の神殿は私たちの心の中にあり、インマヌエルの神はここに住んでおられる。第四の人はいつも私たちと共にいるということだ。
 だからこそ、炎(試練)をくぐっても、火のにおいが付くことはない。(た)
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by mitiru-takae | 2019-09-03 13:40 | 満ちる | Comments(0)