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No.343 その日、その時 2019.5.26

その日、その時

その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。<マルコ13:32、33>

 時どき「終活」という言葉を耳にします。
 誰しもこの世に生まれてきた以上、例外なく死を迎えます。
 人生最後の一大イベントですが、若いときは想像もできません。

 イエス様がおっしゃった「その日、その時」は、人類の終末のことでしょう。
 しかし、私たちはこの世が滅ぶ前に、この地上での命を終わるかもしれません。
 
「わたしたちはこの人が『わたしは手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に手で造られない別の神殿を建てるのだ』と言うのを聞きました」。<マルコ14:58>

 ここで語られたイエス様の預言がエルサレムの滅亡、神殿の崩壊の予告のように受け取れます。

 確かにこの立派な神殿は壊されてしまいます。
 しかし、この神殿はイエス様ご自身のことでもあるのです。
 イエス様は、死んで3日目によみがえられました。

 また、神殿の崩壊は、私たちにとってはまさに古い皮袋の崩壊のようです。
 イエス様の新しい教えを入れることができる新しい皮袋、つまり私たちの魂が新しく作り変えられることです。

あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。<第一コリント3:16>
 
 世の終わりにイエス様が再臨されるときについては、天の父しか知るものはなく、私達にはわからないといいます。

 「では一体どのように準備すればいいのでしょうか」と思う方もいるかもしれません。
 弟子たちも気になったのでしょう。
 弟子の一人がイエス様に聞きました。

「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。<マルコ13:4>

 イエス様は世の終わりの前兆について語られました。
 私たちが今、世界中の不穏な動きや、天災等についてそれを世の終わりの前兆とみるわけですが、イエス様が語ってくださった出来事が、ことごとく起こるまでは、この時代はまだまだ滅びることがないといいます。

天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。<マルコ13:31>

 しかし、確実に天地は滅びに向かっているようです。
 私たちはどうやって「その日、その時」を迎えればいいでしょう。
 私の「死」であれ、この世の「終わり」であれ、私たちのすべきことはひとつです。

目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。<マルコ13:37>
 
 「目を覚ましている」ということは、いつもイエス様と共にいるということです。
 いつ何が起こってもいいように、私たちは眠っていないで、目を覚ましているべきなのですが、私一人では、居眠りをしてしまいそうです。

 また、賢い乙女たちのように、いつでも応えられるように、準備をしておくことが必要ですが、私たちは自分一人ではすべてを万端に整えることは不可能かもしれません。

 しかし、いつも主がともにいてくださることを信じて、毎日、イエス様の御心に帰っていくならば、必然的に、準備していけると思うのですがいかがでしょう。(た)
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by mitiru-takae | 2019-05-28 19:12 | 満ちる | Comments(0)

No.342 主の愛はとこしえまで 2019.5.19

主の愛はとこしえまで

金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。<へブル13:5>

イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。<へブル13:8>

 先週の日曜日(5月12日)は「母の日」でした。

 教会では有志によるランチ会を、近くの焼肉屋さんで行いましたが、遠く埼玉県から大分に来ていたI兄が、礼拝に出席、そして食事会にも参加してくださるということで、共に楽しい食事の時を持つことができました。

 I兄がお話の中で、へブル書13章に、「こういうお言葉がありますね」と、冒頭にあげたみ言葉によって励ましを受けたことをお証しはじめました。

 「うちの父もね、このみ言葉で救われた回心の時の話をよくしていましたよ」
 しばらくみ言葉について、互いに歓談しました。

 一度主のみ言葉で救われ、平安と喜びをいただいていても、ある日、ある時、突然不安がよぎったりすることがあります。

 私の父は、「ある朝、『あれっ、主は今日もいるのだろうか』と、ふっと不安に思った」、そんな時があったそうです。
 しかし、すぐにイエス様が「大丈夫、私はここに一緒にいるよ。あなたから離れず、また捨てたりしないよ」と答えてくださったそうです。
 
 まだ父が20代後半の頃の思い出話ですが、このことを一生忘れずに、心の底に持ち続けていたわけです。戦後間もない、私がまだ2、3歳のころのことです。

 神様が私たちに語り掛けてくださるお言葉は、すたれることがなく、昔あったことでさえ、今起こったことのように、新鮮に魂に響いてきます。

 皆さんの中にもこのような、魂に響く神様からのお言葉を、今もしっかり信仰の支えとして持っていらっしゃる方が多いと思います。

 古い昔の、主にいただいた証を、古い証として語るのではなく、今もその時と同じように心の支えであり、喜びであり、感動がそのまま響くほどの新鮮さを持ったものであってほしいと思います。
 また、そうであると思います。
 それはイエス様ご自身が、昔も今も、そしてこれからも決して変わることのないお方だからです。

 いつでも、どこでも、「あれっ!」とイエス様を探すことがないように、「いつも隅のかしら石として、魂の中に持ち続けている」と、自覚していようではありませんか。
 イエス様のほうから離れていくことはないとおっしゃってくださっているからです。
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【告白の祈り】
私たちは、イエス・キリストの贖いの血潮によって清められた「神の宮」です。
私たちの魂を支配しているのは聖霊様であり、サタンの居場所はすでにありません。
サタンがいかに私たちを「罪びとのままである」とだまそうとしても、だませません。
私たちの罪はすでにイエス・キリストの十字架の死によって解決済みだからです。
私たちは、唯一の神を畏れます。
私たちは神の国のプリンス、プリンセス、天国人です。
天国人として、誇りある生き方をします。私の誇りはイエス・キリストです。
日々、主の兵士として勇敢に、サタンとその配下の者と戦います。
神の家族同士の癒しと解放について、とりなしの祈りに徹します。
日々祈り、感謝します。
喜びの声を上げて、楽しく信仰生活を主とともに送ります。
アーメン! (た)













by mitiru-takae | 2019-05-22 10:22 | 満ちる | Comments(0)

No.341 本物のイエス様を知ろう 2019.5.12

本物のイエス様を知ろう

わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。<ピリピ3:8>

 神の知恵は、本当に測りがたく、アインシュタイン級の頭脳を持っていたとしても、とてもこれには及びません。

 それかと言ってパウロのように損と思えるほどの何物も持っていないというのもちょっと寂しい気がします。
 やはりみ言葉にはいつも触れていたいものです。
 私たちの学びと神の知恵によって、相乗効果を大いに期待しましょう(笑)。

 先週は、本屋で「令和元年5月1日発行・万葉集一」という本を買ってちょっと読んでみました。

 新元号「令和」の出典元となった、「梅花の歌」が最後の方にありました。

 当時の様子がよくわかる表現には驚いてしまいます。
 例えば、鏡前の白粉のように咲いた梅、貴人の飾り袋の香のような蘭の香り…といった具合です。
  
 「語学をもっと学ぼう」と言っているわけではありません。

 どのように素晴らしい言葉を使って詠んだ歌であっても、これを読む人が、梅の香りや、蘭の香りをまったく知らなくて想像できなかったり、鏡や、白粉の粉を知らない、飾り袋って何だろう…という感じではこの歌はわからないわけです。
 この歌をうたいあう仲間同士では、互いに理解のできることば、普段の生活、環境があって成立しているのです。

 聖書についても同じことが言えます。

 ある人が、イエス様を理論的に解明し、神がなんであるのか、人を救うとはどういうことなのかと、毎日、聖書を開いて読みあさってみたとします。
 ところが、いくら読んでもさっぱり意味が分からないということがおこります。

 然し一度でも、その人がイエス様に出会って、その愛の素晴らしさに触れたことがあるならば(これは肉声を聞くとか、幻を見たということだけではありません)、「梅」といったとき、梅の花を想像できるように、「イエス様の愛」と言う「み言葉」を見るならば、その「愛」がわかるのです。

その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。<エレミヤ29:12>

 このお言葉を読んだとき、心から「感謝」と思えるのは、苦しいとき、困ったとき、神に呼ばわったことがあるからですし、神に近づいて祈ったことがあるからです。

 「真の神であり、完全な人である」イエス様を、お言葉だけで理解しようとしても難しいのは、イエス様をまだ知らないからなのです。

 一度イエス様に出会うと、み言葉はその人の心のうちに開けて、理解できるようになります。
 クリスチャンがクリスチャンであるためには、私を十字架の死をもってあがない助けてくださったイエス・キリストを知っていることです。

 そのお方が私の魂の中で今も昔もこれからも変わらず、生きて働いてくださっていることを、言葉ではなく、あたかも梅の花を目の前で見るように、イエス様を知ることが、学ぶ以上に大切なことです。

 イエス様を知ることをもっと、もっと祈って求めましょう。

わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。<ホセア6:3>

 イエス様が、必ず、現実に私たちに臨み、私たちの渇ききった心を潤して下さいます。(た)
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by mitiru-takae | 2019-05-15 18:43 | 満ちる | Comments(0)

No.340 平成最後の春の聖会・雨の日の焼肉会 2019.5.5

平成最後の春の聖会・雨の日の焼肉会

 「いやしと祈り」のテーマで聖会が始まった。

 「癒しは全権神の側にある」と言いつつも、私たちは癒されない時、不信に陥ったりもする。
 他人事であれば、強気でとりなしもできるがいざ、自分のこととなると、弱気になってしまう。ただ、だからと言って気落ちすることはないのだ。

 私たちの身に起こってくることを通して、自分の弱さを徹底して知ることにより、イエス様に本気で頼っていける。
 神の他に頼るものはない、これこそ信仰ではないか。
 だからこそ、病気も悩みも、苦労も心配事も、実は「信仰の種」だ。

 種は死ぬことによって新しい芽を出す。
 殺すためには水をまく。
 これこそ祈りではないか。
 まさに「幸ならぬまがもなし」ということになろう。

 今回の聖会で得たものは、「自分でできないことでもイエス様と、神の家族が執り成してくれる」という、まず自分が出来ることを行う前の第一の難関を突破する素晴らしい方法と、考え方だった。

 「イエス様と、神の家族のとりなしが、私を助けてくれる力だ」
 「祈る力が湧いてくると、告白できる」
 「主を信じることは心から主を頼り切ってしまえること」
 「聖書的たてまえを告白しながら、自分の本音を少しでもそれに近づけよう」
 などなど、である。

 言いたい放題の癒しについての思いを、主のみ前に赤裸々にならべたてたレジメとでもいおうか、そのコピーをたたき台にして皆で、研鑽してみた。
 みなよく意見を出したし、一人も心を背ける者もいない、結果、神の家族の心の深みを五感で感じ取れたといっても過言でないくらい、神のご計画と御心をかじることができたと思う。

 私たちは、癒しであれ魂の安らぎであれ、主が私にしてくださったことを知るならば、次のみ言葉がぴったりくる。

あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」<ヨハネ16:30>

 ところで、モーセの律法の話が出たときのことです。
「律法の数の613は裏返すとヨハネ3:16ですね」と言ったW姉妹の言葉に、思わず、「本当だ」と声を上げてしまった。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。<ヨハネ3:16>

 私たちが平安で、健やかに過ごすことは神のみ心であり、それどころか、永遠の命を私たちに与えてくださるためには、ご自身の命さえ惜しむことがなかったお方だ。ハレルヤ!

 魂と心の愛さんがひとしきり終わると、次は私たちの食欲を満たしてくれる「肉の糧」、焼肉会である。

 外で火をおこし、いつものようにバーベキューをするところであったが、この日は恵みの雨だった。

 なんと素晴らしいシェフのいる教会であろうか。
 腕まくりもかいがいしく、次々と、ホットプレートの上に、野菜、肉などを載せていく。
 連係プレーは素晴らしいものだ。
 あっという間に、おいしそうな焼肉をいただく用意ができてしまった。

 あいにくの室内での焼肉会となったが、これも用意の手間が省けるし(と言っても自分は何もしないのであるが)みんなが揃って食べることができ、机を囲んで一つのところでの愛さんの時となり、最高であった。

 「イエス様を愛して信じる者が集まって、同じものを食す」
 復活後のイエス様と朝食を共にした弟子たちの喜びが、伝わってくるようだ。(た)
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by mitiru-takae | 2019-05-07 19:41 | 満ちる | Comments(0)