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No.339 奇跡と癒しの時 2019.4.28

奇跡と癒しの時

そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。<ヨハネ福音書21:1~3>

 イエス様は復活して、弟子たちの前に現れてくださいました。
 そして8日たった後、戸を閉め切って集まっていた弟子たちの前に、また、現れてくださったのです。
 さて、その後の彼らはどういう思いで毎日を過ごしていたのでしょうか。

 7人の弟子たちがテベリヤ湖畔で一緒にいたときのことです。イエス様はもう一度現れてくださいました。
 この時の次第はこうでした。

 ペテロが「私は漁に行く」というので、他の弟子たちも皆一緒についていったのです。
 彼らはいったい何の目的があって漁に出たのでしょう。
 食べ物がなかったからでしょうか。
 仕事をしたいという思いで、張り切って漁に出たのでしょうか。
 それとも惰性でついていったのでしょうか。
 この時弟子たちは夜明けまでかかっても何の獲物もとることができなかったのでした。

 イエス様が復活された後、確かにイエス様の復活のお姿を見たり、お声を聴いたりして、悲しんでいた弟子たちはみな喜びに溢れました。
 でもそのあと、実際は何をしてよいのかわからない、何も手につかない、指導者がいなくなった後の無気力な時を過ごしていたのではないだろうかと想像してしまいます。

 実際、復活のイエス様が、自分と何のかかわりがあるのかわからないし、生前のように、直接手を取って教えてくださるわけでもなく、羊飼いのいない羊小屋状態であったのでしょうか。

 病気で苦しんだり、悩みがあったり、解決策が見つからず、途方にくれたり、様々な試練や患難が私たちを襲う時、苦しみの中でイエス様のお名前を呼び、助けを求めて叫んだり、祈ったり―ーーと、私たちは何らかの脱出のための行動を起こします。
 
 しかし、無気力からの脱出は自分からはとても難しいのです。

 何をするでもなく、ペテロはかつてのライフワークであった漁へ行くと言い出します。
 他のみんなも、当然のようにペテロについていきます。ここでせめて魚がとれればいいのですが、朝までかかってもなんにも獲れないのです。

 イエス様は(本当に時にかなって美しいことをなさるのですが)弟子たちに語り掛けてくださいました。

すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。<ヨハネ福音書21:6>

 お言葉通りにすると、不思議なことが起こります。イエス様はいつでも奇跡を私たちのために用意してくださっているのです。
 度肝を抜かれた弟子たちは、一時に目が覚めます。イエス様と気付きます。
 
彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。<ヨハネ21:9、10>

 無気力であった弟子たちが励まされたように、今こそ私たちもイエス様に癒しと奇跡をいただく時だと思うのです。(た)
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by mitiru-takae | 2019-04-30 17:28 | 満ちる | Comments(0)

No.338 祝イースター 2019.4.21


祝イースター

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そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。
それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。<ヨハネ3:14~16>

 私は先々週から風邪をひいて、何日か寝込んでいました。
 熱が引いた後の肩や腰の痛みを感じながら、イエス様の十字架のことをずっと思っていました。

 「釘で打ち付けられた腕と、足のほか、垂直に立てられた十字架の上で、ご自分の体を支えるものは何もない」という十字架にかかられた時のイエス様の状況を想像してみたのです。

 「なんと、むごい刑なのだろう」
 それしか出てきません。
 それ以上に思わされることは、それが「私の身代わり」であったということです。

 いろいろな物語の終わりで、ハッピーエンドになるのが当然と思いつつ読み進めていくうちに、あらぬ方向に行ってしまう、そんな体験が、あると思いますが、イエス様の弟子たちにとっては、まさにそれでした。

 しかし、聖書の素晴らしさはここからなのです。
 私たちと同じ人間の体で、「すべての人の罪を背負う」イエス様の「悲しみと絶望」が、真逆の「命と喜び」に変わるその瞬間を、私たちは体験するのです。

 「イースターおめでとう!」

 死と黄泉に打ち勝って、天馬が空をかけ昇っていくように地上に戻られたイエス様は、以前と変わらず、優しい、愛に満ちた、そして力強いお姿で弟子たちのところに、近づいてきてくださいました。

 弟子たちにとって初めは驚きや畏れがあったに違いありません。しかしそれと共に、大きな喜びが沸き上がってきたことでしょう。
 私たちも同じ喜びをいただきましょう。
 2000年前復活されたイエス様が、今日、私の目の前に勝利のお姿を見せてくださいます。

 「私の罪のためにイエス様は十字架にかかり死んでくださった」から始まるイエス・キリストの福音とは、これ以上もこれ以下もない、世界でたった一つの救いです。

 松岡欣也先生は4月16日のみことばメールのメッセージでこの福音を「とてつもないビッグニュース福音」とおっしゃり、「この恵みに徹しよう!」と呼びかけています。

 受難週を終え、イースターを迎えるこの朝、私たち以上に天の父は喜んでいるでしょう。イエス様が闇と死に勝利されたのですから――。

 暗闇で途方に暮れてあなたが人生で一番つらいとき、そのあなたこそが真っ先に復活の光であるイエス様にお会いでき、勝利を体験します。

 イエス様の勝利はそのまま信じる者の勝利です。
 サタンをかかとで踏み砕き、み言葉が成就したこの日を、私たちも天の父とともに大いに喜びましょう。
 
平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。<ローマ16:20>

 私たちも主イエスとともに、サタンを足の下に踏み砕くのです。アーメン!(た)
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by mitiru-takae | 2019-04-23 15:42 | 満ちる | Comments(0)

No.337 新元号「令和」にちなんで 2019.4.14

新元号「令和」にちなんで

 京都ギャザリングの後の大分ミニギャザリングも終わり、フェイスブックや、LINEを開いてみながら、ちょっと一息ついています。

 そんな朝、拡大宣教学院の永井信義先生からメッセンジャーで、「釘宮義人先生が献木された梅の花が今朝ほゞ満開です」という言葉とともに写真が送られてきました。
 
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 白梅ですね。
 「うわー、満開だーーー」と喜んで見ているうちに、新元号の「令和」を思い出しました。 
 
 「令和」の典拠、いわゆる出典は「万葉集」の梅花の歌、三十二首の序文にある「初春の令月(れいげつ)にして、気淑く(きよく)風和らぎ(やわらぎ)、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披き(ひらき)、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」から引用したものだそうです。

安倍晋三首相は会見で、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております」と述べています。
 ローマ字表記はどうなるのかというと、「国の公文書はヘボン式ローマ字で表記されます。そのため、ローマ字表記はREIWAと記します」ということのようです。

 「和」は誰でも意味がよくわかる文字で、平和の和であり、なごむ、優しい感じがします。日本人はどこか、周りの人を思いやり、キリスト教で言う隣人を愛する心を持っていると思います。

 初春の季節は、まさに今の東北の気候がそうであるように、大分でもそうですが、外に出て梅の花を見に行くと、心がキリっと引き締まるような、真冬の冷たさではないですが、うす寒さを感じます。

 私は、このキリっと引き締まる感じが梅の花をとても美しくしているような気がします。バラの花でもなく、菊の花でもなく、梅は清楚で、日本の武士道精神にも似た、引き締まる中にも、見る人々の心を和ませてくれる、そのような花だと思うのです。

 聖書にはこういうお言葉があります。

令名は大いなる富にまさり、恩恵は銀や金よりも良い。<箴言22:1>

 カルバリチャーチの橋本先生は「父が私たちに語っている祝福の言葉です。これで行きましょう」と喜びの声を上げています。

 弟はこのように言っていました。
 「『初春の令月にして、気よく風やわらぎ、』の直前に実は『時に、』があるのです。とても意味深い文言がついているんだと思いました。」

 この色々な方の感じ方、思い、を見てみても、「令和」という元号で表される、新しいシーズンが、日本にもたらされ、新しいことが始まる予感がするのです。

 皇室が変わり、政治経済が変わり、日本人本来の持つ素晴らしい国民性が現れる時が来たのだと、喜びの声を上げる、それが今なのだと、この特別な時を私たちの与えてくださった主へ感謝と畏敬の気持ちを表したいと思います。

 私たちは祈ります。
 日本の皇室のために、また日本のために、イスラエルのために、全世界に隠されたレムナントが現れるために、私たちが住む星、地球のために!(た)
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by mitiru-takae | 2019-04-17 15:24 | 満ちる | Comments(0)

No.336 雨が降るその日まで 2019.4.7

雨が降るその日まで

『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。<列王紀上17:14>

 京都ギャザリングで、預言的アートというものを自分を含め、初めて身近に体験しました。

 2年ほど前になりますが、東京21世紀教会に行った時のことです。その時、聖会の講師として来てくださっていた先生が、前日の夜の礼拝後、出席していた全員の方々に預言をしてくださいました。
 そのとき私がいただいた預言は、次の通りです。

 「あなたは夢を見るでしょう。その夢を絵にしてください。しかし、その絵はシーズンが終わるまでは伏せておいてください。時が来ると、あなたはその絵を人々の前に見せることができます。」

 私自身、このお言葉がはっきりとはわかっていなかったようです。
 なぜなら、シーズンそのものがいつなのか、いつ終わるのか、いつ新しいシーズンが来るのかということが、この時はまだわからなかったからです。

 先走って、描いた絵の意味を解釈しても見ました。が、しかし、私の中では、何か決定的な真意に欠けるものでもありました。

 預言というものは不思議です。時が来ないと、主からの真意は理解できないものです。

 何十年も前にいただいた預言が、いつしか成長して、私の前にその姿を現してくれます。また、たった今の主からの預言を確かに受け取るという時もあります。
 いずれにしても、時が満ちなければ私の目の前には現れません。10年後か、10分後か、今なのか、わからないのです。
 花の種を植えるようなものですね。

 今教会の花壇に、チューリップの大きな花が色とりどりに咲いています。E姉妹が取り混ぜて持ってきてくださった球根を、わたしが適当に植えたものです。
 花が咲いたのを見て初めて、どれが赤か、ピンクか、黄色なのかがわかるのです。

 エリヤを通して神様が下さった「かめの粉や瓶の油」のように、神様が与えてくださったものが、私たちの心の中で尽きることのない恵みとして、時が来るまで在り続けます。
 預言も賜物も似ているなあと思います。
 神からの恵みの時が来るまで、わたしたちは預言のお言葉を持ち続けます。

 私は絵を4枚描きました。
 それぞれ、今回のギャザリングの中で、与えられた預言的なものでした。

 最後のセッションで、炎と剣の話があったようですが、その前に、この日、朝いちばんに橋本先生が来られ、剣を描いてほしいと言ってから席に戻られました。
 私の思いと一致していましたので、聖霊の炎と日本刀を描いたのです。

 ギャザリングのすべてのプログラムが終わり、橋本先生が「剣の絵はーーーー?」と言ってきました。
ところが、その時すでにその絵は私の手元にはありませんでした。
 台湾から来た方が譲ってほしいと言って3枚の絵を持っていかれた後でした。
 私も一瞬「なぜあの絵を渡してしまったのだろうか」と思いながら、またなぜか(台湾の方に渡すときに私が失念していたからです)一枚だけ残った絵を持ってきて、代わりにと橋本先生に差し上げました。

 後日、先生からメールが入りました。
 「7本の矢の絵によって、かつてヘンリー・グルーバー師よりいただいた預言が、『矢を放ちなさい』であったことを思い出しました」と。
 
 これは先生の心の中に「尽きぬ聖霊の油、命の糧としてのパン(まさにイエス・キリスト)」としての預言が、存在し続けていたのだと、深く感謝しました。
 そしてさらに聖霊による新しいシーズンが訪れ、預言は私達のうちで実存となるのです。ハレルヤ!(た)
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〔橋本先生にさしあげた7本の矢の絵〕









by mitiru-takae | 2019-04-09 10:19 | 満ちる | Comments(0)