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No.291 御霊の火に燃やされて祈ろう 2018.5.27

御霊の火に燃やされて祈ろう

御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。<ローマ8:26~27>

 イエス様が天に昇った後、弟子たちはペンテコステの日に聖霊の降臨を受けました。
 この時の弟子たちの異言は、目を見張るものがありました。
 他国の言葉で、福音のメッセージを語り始めたのです。
 ですから、色々なところから集まってきた人々は、それぞれ自国の言葉でそれを聞いたわけです。
  
わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいる<使徒2:9~10>

 という具合です。エルサレムってなんと外国人の多い都市でしょうか。
 特にこの日はペンテコステのお祭りの日でしたから、すごい賑わいであったのでしょう。
 現在の東京など、オリンピック開催地の会場でもし同じようなことが起こったら……国際空港で…国際色豊かな大学の学食で…などと考えていると、とても楽しいというか、大騒ぎでしょう。
 神様の御業が働くときは、人間の知恵はとても愚かに見えます。
 いくら進化論を口が裂けるようにして叫んだとしても、天動説が、地動説に変わったように進化論も創造論に代わっていくでしょう。人の考え方は変えられていきます。神の力は、ある時いきなり真実に目覚めさせ、気付かせてくださるのです。
 神の大能の前には私たち人間はまことにとるに足りないものです。
 このように神の霊は私の中で、突然、魂の変革を起こしてくださいます。それは使徒たちの異言にも勝る奇跡です。これは聖霊の働きなのです。

 父、御子、聖霊なる神の知恵は、地上の科学ではできない、神と人とをつなぐ大路を開いてくださいました。
 私の魂の中に、聖霊を通して神の国とつながる場所をイエス様が創ってくださったからです。
 人間である私たちが、理解出来てもできなくても、父のところに帰ったイエス様は、私たちの住む場所を創ってくださっているのです。心のドアを開ければ、まるでワープしたように神の国の家に入ることができるように…です。

 そして不思議なことに、聖霊は私の知らない言葉さえもくださいます。
 地上の音声を、天国の音声に変えてくれる、まるで音の変換機です(笑)。
 聖霊は、切なる呻きをもってこれを可能にしてくださっています。
 時には、とんでもない願い事さえも、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるという事実を、私たちは知って、感謝したいのです。
 祈りが叶う秘訣は、ここにあるような気がします。
 私たちの只中にある天国で、イエス・キリスト、さらに聖霊のとりなしによって魂が張り裂けるほどの祈りを捧げましょう。

わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。<Ⅰコリント2:12>

 預言や知識と同じように、地上では異言もすたれていくでしょう。しかし、天国に通じる異言という言葉は、天国に帰ったときには音声(肉)はなくとも霊の言葉そのものだと思うのです。
 ペンテコステの日に、聖霊が弟子たちの上にとどまったように、私たちの上にも聖霊の火が満ち溢れて、大きく燃やされ続けるように知性の祈りでも求め、異言でも大いに祈っていきましょう。(た)
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by mitiru-takae | 2018-05-31 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.290 ペンテコステの朝の祈り/春の聖会「主に叫べ!」(3) 2018.5.20

ペンテコステの朝の祈り

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。<使徒2:1、2>

 父が書いた古い刷り物の中に、「信仰の成長はみ言葉、伝道には奇跡だ」という文言がありました。どこだったかは忘れたのですが、確かに、伝道は口先だけではどうにもならないようです。

 伝道を実践していく中では、主が魂の中に奇跡を起こしてくださることが一番ですが、目の前で、癒しの奇跡などを見ると、やはりわたしたちはおどろきますし、見た人も主の力を信じたくなります。

 そして、導いた者も、導かれた者も、そのあと、自分にとって奇跡が一体何のためであったのかを、聖書によって教えていただくことによって、救いが起こります。ひとりの信仰者の誕生です。

 自分の力でできることは限られています。
 主権者なる王、イエス様により頼み、祈り叫び求めて、本物のワクワクする感動をいただきたいと思うのです。

 私たちにとっては、祈りのほか何一つ自分でできる行いはありません。ほかのものはただ主が私たちに、添えて与えてくださるものばかりです。

 ペンテコステの朝、祈りの中で使徒たちは、聖霊様による感動に満たされていたでしょう。私たちも祈りましょう!まず、祈って神様からのドキドキ、ハラハラを体験したいものです。そして立って出かけていきましょう。(た)

  
春の聖会「主に叫べ!」(3)

 父なる神の心、それは「愛」でした。
 放蕩息子を本心に立ち返らせ、神様自身が、あろうことか人間となって、私たちの義と聖と贖いになられたという、救済の本質を見ることができます。

 全てが、父の心、それは「愛」から出たことなのですね。
 「お父さ~ん!」と大きな声で呼び求めましょう。声が出なくても、体中のエネルギーを集中させて、叫びましょう。
 「イエス様~!」

 今回の聖会の感想を渡辺恵美子姉妹が手紙の中で書いてくださっていましたので、ここに載せることにしました。姉妹だけではなく、聖会に参加した方々が、それぞれ聖霊様の啓示を受けていると感じさせられています。毎回思うことですが、この聖会は素晴らしい! 満々感謝!

立て、さあ行こう。見よ。わたしを裏切る者が近づいてきた」。<マルコ14:42>

以下、渡辺姉妹の手紙から
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 毎回大分教会での学び、お交わりでは、たくさんの恵みをいただき感謝でいっぱいです。
 今回の聖会で、いただいた恵みは、いくつかありますが、一番は「神様からの励まし」ということです。
 夜の第2聖会では【エペソ書6章10節】での「強くなりなさい」のお言葉に、神様は、私たちが弱いことは十分にご存知なのだと気づかされ、だから「強くなりなさい」と言ってくださるのだ。そして、朝の第3聖会の【マルコ14:42】「立て、さあ行こう」と、先立って行かれるイエス様に、「ついて行けばいいのだ。」と、そんなことを思いました。

 問題が起こった時、神様に叫び、祈るなら、「強くなりなさい」と力を下さり、「さあ、行こう」と手を引いて問題解決に導いてくださる、そういうことなのだろうと思いました。
 だから、もっと主に叫び、祈らなければいけないのだなあ…と。
 毎回、神様は時にかなった恵みをくださいます。                           
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(た)
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by mitiru-takae | 2018-05-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.289 イエス様の昇天/春の聖会「主に叫べ!」(2) 2018.5.13

イエス様の昇天

こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。<使徒1:9>

 人間であるイエス様が十字架にお架りになったところまでは、皆が信じられるところです。意味は分からないまでも、十字架刑にあうことはあり得ることだからです。
 しかし、復活となると、ちょっと眉唾ものです。まして昇天となると、もうSFの世界です。不思議なお話は誰もが好きですし、楽しいに違いありません。
 でも、イエス様のお話は、まことに不思議な、しかし、私たちにとって真実なるお話なのです。
 それは神様が私たちのために用意された、それも特別な、私たちのためのものだからです。わたしの罪の贖いによる救いと、神様の義を与えてくださる愛と赦し、イエス様が悪しき者から絶対的勝利を得た事実を語った物語だからです。
 イエス様が昇天後、わたしたちにくださった聖霊様は、私の罪を教えてくださり、またイエス様のお言葉を思い出させてくださり、私たちが日々悔い改めて、主に立ち返ることをお導きくださるお方です。感謝!(た)

  
春の聖会「主に叫べ!」(2)

聖会《3》
●父に叫ぼう!
 参照聖書箇所:ルカ15:11~32、マルコ14:32~42

 父なる神に二人(例えばカインとアベルのように人間に二通りの生き方がある)の息子がいました。
 兄はまじめで忠実で、働き者でした。もう一人の弟は、財産の取り分を父から取り上げたあげく、すべてを使い尽くしてしまったどうしようもない放蕩息子でした。
 私たちは一体どちらでしょう。
 考えてみますと、自己中心極まりない弟のようでもあり、よく考えてみると、父の心もわからず、ただ、父と、弟を責め、裁く兄のようでもあります。

 父である神様にとってはどちらも相続人である子供なのですが、父の心をよく考えてみると、「自分をよく思い出してくれた、良く帰ってきてくれた、死なずに元気で顔を見せてくれた、私の名を呼んですがって泣いてくれた・・・」弟を、喜ばずにはおれない、愛に溢れた父が見えてきます。
 半面、父に不平と不満を吐き出した兄にたいしては、父はなだめるばかりで、何も言えず、何もできません。
 もしあなたが、二人の父であったとしたら、どのような思いをするでしょうか。

 さらに私たちの崇高な父は、ご自分の計画のために、そのひとり子(イエス様)を、人間界で、さらし者にしようとしていました。
 絶対的な父の命令ではありますが、従うか否かは、ひとり子にかかっていました。
 私たちもそうです。父に従うか否かは、私たちの心にかかっているのです。
 ゲッセマネでのひとり子イエス様の祈りは、飲むに飲めない、ひどい杯を「あなたのみこころのままに」と飲み込むまでの葛藤を、ごく簡単に「イエス様なんだから、できるでしょう」と読み過ごしてしまいそうになります。
 
 イエス様が受けた苦しみは、二つありました。一つは人間としての痛み、一つはひとり子としての父なる神との断絶です。
 天においても地においても、残酷極まりない大刑罰であったでしょう。
 私たちの痛み、苦しみ、すべてをイエス様が知っておられるのは、ひどいあざけりも、いばらの刺さる傷も、鞭の肉をそぎ落とす痛みも、大きな釘で刺し通された手と足の痛みも、自分の体を打ち付けられた手と足でしか支えることのできない痛みも、すべて人間として経験しているからです。

 すべてのことが、父のお心を知るがゆえに飲み干すことができた杯だったのです。
 そのお心は「愛」でした。

 私たちへの愛のゆえに、十字架に向かって「立って行く」イエス様のように、私たちの父なる神に「父よ、あなたのみこころのままになさってください」と叫ぼうではありませんか。
 ペテロを励ましたように主は必ず私たちにも勇気と力を与えてくださいます。(た)
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by mitiru-takae | 2018-05-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.288 春の聖会「主に叫べ!」(1) 2018.5.6

春の聖会「主に叫べ!」(1)

わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。<エレミヤ33:3>

 4月29日、主日礼拝の後の第1聖会《賛美と祈り》に始まり、夜の第2聖会《聖書の学び》(木曜学習会に倣って)、翌日の第3聖会《まとめ・メッセージ》と、2日間にわたって「春の聖会」が行われました(毎年恒例の信徒一泊セミナーが今年から「春の聖会」「秋の聖会」と名前が変わりました)。
 今回の主題は「主に叫べ」でした。

聖会《1》
 この時間は賛美を思いっきり捧げます。そして、メッセージ、祈りと続きます。

●告白によって主に叫びましょう!叫ぶ相手は主です。
 告白(悔い改め、赦し・み言葉による告白)
 主をほめたたえる(御言葉・メロディー)
 笑い(これも告白です・・・主を喜ぶことは私たちの力である【ネヘミヤ8:10】
 異言(異言はいわば天国語(聖霊語)、神に向かって天国語で褒めたたえます)

●サタンに向かって叫ばない。
 否定的な言葉、サタンを受け入れる言葉、サタンが喜ぶ言葉はやめます。
 サタンに対しては、はっきり出て行け、退けとはっきり命じます。大声を出す必要はありません。ただし、イエス様を信じ、その権威によって(み言葉、イエスの聖名、イエスの血潮などによって)サタンどもに命じましょう。

 最後は、異言で祈り、主を思いっきりほめたたえる時となりました。二人の姉妹が汗だくだくの祈りの中、聖霊のバプテスマを受け、感謝と異言の祈りが響き渡りました。
 一人の姉妹は、先週の礼拝後の祈りの時も求めていました。主はこの聖会の中で与えてくださいました。
 もう一人の姉妹には、聖会の何日か前、「聖会で祈り求めましょう。必ず異言が与えられますよ」と言っていましたので、本当に感謝でした。

聖会《2》
 夜の学びの時は、【エペソ人への手紙6章10~20節】までを、皆で朗読し、木曜日の聖書学習会のように、一人一人がさらに黙読して主に聞く、それから人に話すという方法を取りました。
 いつものことながら、主は素晴らしい啓示を一人一人にくださいました。
 一人がみ言葉により示されたこと、気づかされたことを発表すると、そのことに対して、また更に気づきを与えられた人が付け加えるといった形で、語った人も聞いた人も、皆がみ言葉を深く知る、主のお心に気づくといった、経験をします。
 これは一人で聖書を読んでもなかなか理解できないという人でも、段々と、聖書の世界に引きずり込まれていく、不思議な時間を体験できます。

 普段礼拝では口語訳の聖書を使っていますが、学習会では新共同訳を使います。色々に翻訳された聖書を読んでみると、また違った感じを受けたりします。
 今回私は【岩波翻訳委員会訳1995】を見てみました。

悪魔の奸計に抗して踏みとどまることができるよう、神の武具を見につけなさい。<エペソ6:11>
更に、救いの被り物を取(って被)りなさい。そして霊の剣、すなわち神の言葉をも(取りなさい)、<エペソ6:17>

 奸計(かんけい・悪だくみ)などという難しい言葉も、サタンの巧妙なウソや惑わしの感じがよく表れているように思えます。
 また首藤姉妹から「救いの兜のところに赦しと書き込みがあるが意味は?」などと質問が出ましたが、この訳を見ると「イエス様による義の被り物をかぶることによって私たちは、罪赦されたものとなる」ということがよくわかります。興奮させられますね(笑)。
 更に釘宮えりや兄弟が、「神の武具でも、帯、胸当て、靴は信仰による、私たちを守る武具、兜は、主の救い、神の言葉は、唯一攻撃の武器となりうるものである」と、三つにわかれることを説明してくれました。
 どうか皆さんも同じところの聖書の箇所を開いてみてください。
 聖会《3》については、書ききれませんので次回とします。お楽しみに!満々感謝!(た)
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by mitiru-takae | 2018-05-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)