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No.282 ホサナ 2018.3.25

ホサナ

そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。<マタイ21:9>

今日は棕櫚(しゅろ)の日曜日。
 イエス様をメシヤと受け入れることができない、パリサイ人や他の律法学者たちとは正反対に、民衆はその素直な心で、イエス様をエルサレムの町に迎え入れました。

シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。<ゼカリヤ9:9>

 この時、まさにゼカリヤによって言われた預言が成就しました。
 イエス様はロバの子に乗って、民衆が大声で「ホサナ、ホサナ」と叫ぶ中、棕櫚の枝を踏みしめながらエルサレムの黄金の門を通って行かれました。

 今日、私たちの心に入場してくださるイエス様のために、大きな声で「ハレルヤ、ハレルヤ」と叫び、迎え入れましょう。

 「ホサナ」という言葉は、本来の意味(ヘブライ語で「救い給え」の意)というよりも、ほとんど、私たちが日ごろ使う言葉で「ハレルヤ」と言うのと変わらないと思います。
 神をほめたたえる言葉として教会で使われる言葉ですね。
 
 ところがこの民衆の同じ口で、この後イエス様がとらえられた後「十字架につけよ!」と叫ぶわけですから、民衆の心理というものはあまり信用ができません。
 私たちはいつも、自分の口を聖霊様に清め続けていただく必要があります。思わず周りにつられて、悪口を言ったり、人を攻めたりしてしまいます。
 皆がある人の悪口を言っている中で、反対論を述べるのには、ちょっと勇気がいるものです。しかし、み言葉を見るとペテロがこう言っています。

悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。<ペテロ第一3:9>

 今日の棕櫚の日曜日、ホサナ、ハレルヤと、神のみをほめたたえて過ごしましょう。教会の中だけではなく家に帰っても実践できれば幸いです。

 聖書が昔から告げていうメシヤの到来は、ユダヤ人の希望でした。
 パウロがローマで、ユダヤ人たちに告げたメッセージは、皆が待ち望んでいたメシヤ、救い主キリストのことでありました。(しかしユダヤの宗教家たちはイエス様を否定するどころか、自分たちの方が民衆を騙し、イエス様を十字架につけたのです。)

こういうわけで、あなたがたに会って語り合いたいと願っていた。事実、わたしは、イスラエルのいだいている希望のゆえに、この鎖につながれているのである」。<使徒28:20>

 十字架刑でイエス様ご自身が死んだあとは弟子たちをも迫害してしまう。
 そのような人間の傲慢、高慢が、昔も今も、自分の上に人をつくらないどころか神(創造主)までも地上に引き下ろしてしまったのです。

 しかし、このような逆境とおもわれる荒波の中でパウロたちは、全世界に向かって神の国とイエス・キリストを伝えていくわけです。

ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた。<使徒 28:15>

 彼らをどこにいても勇気づけ、元気を与え続けてくださったのは、あの小さなロバの子に乗って、子供たちに笑顔を惜しまなかった愛の主イエス・キリストなのです。ホサナ! (た)
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by mitiru-takae | 2018-03-31 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.281 主も彼らと共に働き/風が吹くとき 2018.3.18

主も彼らと共に働き

そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。<マルコ16:15>
弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕<マルコ16:20>

 「リバイバルミッション2018」の働きにより、私たちの教会にチャペルコンサートと題して、若い現役大学生しかもクリスチャンのDUO B→Zのお二人、そしてメッセンジャーとして平岡修治先生をお迎えすることができました。
 ヴァイオリン、ピアノの演奏、平岡修治先生のほとばしり出るようなメッセージと、素晴らしい時間を過ごすことができました。DUO B→ZのCDや、平岡先生の天に帰られた小さな魂(先生の長男)の証などの書籍があります。
 全世界に出ていく「リバイバルミッション」の働きを心から感謝し、祈りをもってお支えしていきたいと思います。

 主のみ言葉を実践するときは、いつも主が共に働いてくださっています。働きが大きい小さいは関係ありません。
 私たち一人ひとりの小さな宣教の働きを、主は喜んでくださいます。
 イエス・キリストの福音を伝えるときは、イエス様と共に一歩一歩あゆんでいるときです。そして私たちは、たまにイエス様に負ぶって歩いていただいているときもあるんですね。
 それは聖書に書かれたイエス様のお言葉が、確かなもの、真実なものであるとイエス様ご自身が私たちに示してくださるためです。(た)

風が吹くとき

風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。 <伝道の書1:6>
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。<伝道の書1:14>

 自然は単調で、同じことを繰り返すものだと、また、無駄な努力は、風を追うようなものだと、伝道の書は語ります。

 風がとらえどころのないことは言うまでもありませんが、困るのは暴風など、人間社会に被害をもたらすようなひどい風や竜巻などです。
 また、パウロも経験した、多くの船乗りや釣り人たちが経験する向かい風のように、行く手を遮ろうとする風です。
 
 よく人生は航路にたとえられますが、なかなか順風満帆ばかりとは言えません。
 しかし、嵐や、向かい風なるものが、どうして人生の中で起こってくるのでしょうか。誰も望んではいないと思う「嵐の夜」とでも言いたい事態に遭遇するものですね。それどころか順風の時でさえ、私たちは怠惰な心になってしまったり、神を忘れてしまうという、大きなサタンからの暴風に巻き込まれてしまいます。

 どんな時でも、イエス様に感謝を忘れない人生行路でありたいものです。

 先週日曜日は「3.11東日本大震災」のあった日から7年目を数える日でした。日本人の誰もが、地震の怖さ、津波の怖さ、原発の怖さを実感した災害でした。最近は噴火もあちこちで起きていますし、自然災害の脅威からは、逃げ出すことができません。
 順風の時には全く分からなかった、人を通しての神の愛を知る機会がやってきます。人の心の中に語りかけてくる神の元気が、私たちを立ち上がらせてくださるのです。
 全ての望みが絶たれたか・・・と思うとき、パウロは言いました。

だが、この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。<使徒27:22>
だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。
<使徒27:25> (た)
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by mitiru-takae | 2018-03-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.280 昔も今も永遠に 2018.3.11

昔も今も永遠に

しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
<イザヤ53:10>

 供え物というと、日本人は仏壇の上に置く、お菓子や果物を思い浮かべる。神道では地鎮祭の時などよく見かける、米や野菜である。
 いかに平和に見えることか。それにつけてもユダヤ教の生贄は、牛や、羊、鳥の切り裂いた血、肉である。

 遠く、インカやマヤの敗戦国の人質の心臓をささげるなど、残酷にしかみえない生贄などは、日本人から見ればとても野蛮で、見るにも聞くにも堪えられない、そのような感じだ。

 そうしてみるとキリスト教はとても平和な穏やかな人道的宗教のように見えるが、実は旧約聖書を見る限り、そのようには思えないのである。
 ただ、イエス・キリストがその残酷な生贄を一手に引き受けてくださったので、私たちは平安でいられるというわけだ。

 私たちはこの生きた生贄を捧げることが一番の残酷と思っているが、何よりもひどいのは創造主である神と断絶しているという現実だ。
 何故って、神との平和がありさえすれば、一切の生贄は必要ないものであるし、自分の子供を奴隷として売ったり、捧げたりする必要がないのだ。一番つらいのは、人間がサタンの奴隷となって生きていることだ。

われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
<イザヤ53:6>

 私たちは自分の罪をイエス様の上に置き、私の身代わりとしたのだ。以前聖幕の学びをしたとき、生贄の動物を伴ってとばりに入り、犯した罪をすべてその動物に移し、屠って捧げるということを学んだ。
 この屠られた動物こそ、私の罪の身代わりのイエス様であった。
 このように、モーセの時代も、イザヤの時代も、いえ、世界が作られる前から私たちのために救い主が来られることが決まっていた。

これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。(新共同訳)
<テトス1:2>

エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。(新共同訳)<ミカ5:1>

 イスラエルの希望であった約束のメシヤは、今や私たち人類すべての統治者、救い主として、私の希望となっている。

このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。(新共同訳)<使徒3:21>

 手に鎖をかけられたままのパウロが、自分を永遠の命に入れてくださった救い主イエス・キリストをユダヤ人の希望、異邦人の希望と認め、そのお方が、甦っただけでなく、私のうちに生きているということを証ししている。

 パウロが伝えたかったイエス様は、今生きているイエス様であって、過去にいただけのものではない。ましてや十字架で死んでしまったままのイエス様ではない。
 私たちの心の中に、十字架にかかったままのイエス様をいつまでも見るのではなく、私の罪と共に一度死に、死と黄泉に打ち勝ち、甦り、私もともに携えて永遠におられる方である勝利者であること、このことを心に刻み信じ続けていきたいと思う。

 昔いまし、今いまし、やがて来られるお方、王の王、主の主、イエス様を心から喜び、叫ぼう!
 ハレルヤ! (た) 
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by mitiru-takae | 2018-03-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.279 私のメンターはイエス様 2018.3.4

私のメンターはイエス様

だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう(【新共同訳】そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。)
<Ⅰコリント12:31>

 先日久留米クライストチャーチの山下耕司先生ご夫妻がみえられた。
 廣田先生のご紹介だったので、アガペーチャペルで先生を囲んで時間を持つことになっていたのだが、急遽私どもの教会に集まることとなった。

 先生は父とも会ったことがあるらしく、私自身は先生ご夫妻のことを若い先生と思っていたので、少しほっとしながら親近感を覚えたのは否めませんね。

 今回先生が来られたのは、ベン・ウォン先生(著書に「メンターとして仕える」がある)によってはじめられた、コーチングの内容についての(ほんのさわりと言っていましたが)お勧めではなく説明でした。
 というのも、そもそもこのコーチングは相手に自分の方法などを押し付けるものではなく、教会としての本質(エッセンス)を皆で確認し合い、納得したうえで、これを土台として、この上にそれぞれの方法、材料、デザインで家を建てていくというものだからだ。

 先生は「コーチングとは『関係である』と気づきを与えられた」と言っていたが、まさしく教会とは、イエス様と、私たちの関係、イエス様の弟子としての聖徒同士の関係、その関係のすべてが神の愛の帯で繋がれている状態なのだと思う。つまりエクレシアという一言で語れるかと思う。
 内容についてはまたの機会にしたい。

 ただ、話を聞いていく中で、私のメンター(ティーチング、カウンセリング、コーチングの3つの聖徒を整えていく働きをする人)はイエス様であり、私はイエス様のメンティー(メンタリングを受ける人)であるということを気付かされたということだった。

 まことに当然と思えることではあるのだが、意外と気づいていない。またこのことは自分が教会、また教会外でメンターとして働けるかということを考えていく中で、自分の「仕えるという思い」をはっきりとさせられていくものだ。
 最近はいつも「皆さん一人一人が祭司である」ということを言っているが、本当に大切なことは一人一人が神と直接つながっているということです。

 山下先生曰く、
「牧師を介してイエス様とつながっているのではない」
 そういうわけで、皆さん、一人一人がメンターとして仕えていくことができるように、主にある訓練を積んでいく必要があるのかと思う。このことがメンターとしてのキャリアを積んでいくということであろうか。
 何も学校に行けとか、お金を積んで手に入れるということではない。私たちの真のメンターであるイエス様に真似てついて行くことだ。
 具体的にはいつも、「イエス様だったらどう考えるのか、どうするのか?」と一瞬一瞬の思いをイエス様に馳せ、考え、捧げていくことだ。

 「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。(新共同訳)」のお言葉は、パウロのメンターとしての力強い言葉である。しかしここに、イエス様の力強いメンターとしてのお言葉がパウロを窮地においても支えているということがわかるのである。パウロにとっても私たちにとっても、聖霊として私に働きかける神こそ真のコーチである。
 私たちが目的をもって前進したいと願うとき、私に働いてその願いを完成してくださるのは神である。この時神のコーチング(目的をもって前進しようと願う人を援助すること)は最高に発揮される。

 パウロの言う最高の道こそ、「今も私の中で生きて働いてくださるイエス様によって生きる」ということに他ならない。これ以上の関係はこの地上にない。 

イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
<ヨハネ11:25>

 私たちの最高のメンターであり、コーチであるイエス様に満々感謝! (た)
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by mitiru-takae | 2018-03-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)