カテゴリ:満ちる( 292 )

No.304 イエスに神の権威を見る 2018.8.26

イエスに神の権威を見る

イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。<マルコ4:40、41>

 「イエス様が共にいるので『あなたたちは怖がらなくてもいいのです。怖がる必要がないのです。信じてくださいね』」といくら口を酸っぱくして、自分の周りにいる人から言われたとしても、また私が講壇から言ったとしても、実際にはどうでしょう。
 人間には命の危険を知らせる「痛みや不安」という感覚があります。
 ですからこの不安がいらないと言っているわけではありませんね。
 
 ただ、この不安の真っただ中にいるとき、痛みで耐えかねるほどの苦しみにあっているときなど、まさに「その時」の中心にいるあなたに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とイエス様が言ってくださるのです。

 嵐が起こるであろうガリラヤ湖の只中に、あえて漕ぎ出したイエス様のお心は、ここにあると思います。
 漁師であるペテロたちにとっては、来るべき嵐は予測できるものです。
 しかしお言葉ですから、イエス様と共に漕ぎ出しました。
 逆に言えば、イエス様と一緒にいるので漕ぎ出せたわけです。
 イエス様があとから来ようと、舟の中で寝ていようと、「わたしを捨てず、離れない」事実を、漕ぎ出す時に知ることができるのです。

 しかし、イエス様の奇跡や、恵みの業は、漕ぎ出した時に体験できるものかもしれませんが、それを見るまではどうしてもつぶやいてしまいます。

「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」<マルコ4:38抜粋>

 この不信仰な言葉を吐く弟子たちですが、いわばイエス様に甘えているという心の様子が伺えてしまいます。
 駄々っ子の言葉ですね(笑)
 自分では解決のできない出来事に直面したとき、周りの頼りになる人に「助けてください」と言っていくものです。
 しかし弟子たちは、低姿勢で「助けてください」ではなく、「おぼれてもかまわないのですか」ですから、この弟子たちも強いというか、このお方に命を預けているのだから、救ってくれて当然という、ちょっと言いすぎかもしれませんが「素晴らしい信仰を持っている」ようにも見えます。

 ここでイエス様が「信じてほしい」と弟子たちに願っていたことは、まことにどうにもならない「大自然の驚異」をも難なく従わせることができるお方のことなんだと思うのです。
 
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。<マルコ4:41>

 ここの弟子たちの恐れは、「全能の神、すべてを従わせることができる神」に対しての畏れであり、このことを通してイエス・キリストの背後に全能の神の権威を垣間見たのでありましょう。

 普段は、イエス様がまるで沈黙しているように見える、眠っているようにも見える、そんな信仰の薄い私たちでも、嵐に直面したときすぐにイエス様を起こせるように、日ごろの魂をイエス様に直結させていたいですね。そのためにこの証を紹介したいと思います。(た)
   
日岡だよりNo.598より抜粋
最近、やや心境の乱れあり。しかし朝祷のあと、中野君に「なんで君この頃調子いいのか」ときくと、「山室軍平先生の本で教えられました。聖書を学ぶこと、祈ること、この二つを実行しはじめてからすっかり変りました。最近は、少々心が暗くなるような事がおこっても、神様!と言って帰ると何でもなくなります。」大いに感謝した。
【「神の息よ吹け」1974年7月号(「心に満つるより」改題・通巻第10号)「日々新生」より】
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by mitiru-takae | 2018-08-31 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.303 種まきが種をまく時(神の国の奥義) 2018.8.19

種まきが種をまく時(神の国の奥義)

そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。
それは
『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』
ためである」。また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。種まきは御言をまくのである。<マルコ4:11~14>

 イエス様はよくたとえ話をしました。
 ところが弟子たちにはその意味がよくわかりませんでした。ですからイエス様は弟子たちに説明しました。種まきのたとえもそうです。
 「種がどのようなところに落ちたのか、そしてみことばの種は、どのようになっていったのか」がよくわかります。
 また、種が落ちた地がもし私たちに置き換えればどういう人、また、どういう心の状態であるかなどもよくわかります。

 神の御言葉を受け取った人々とは<マルコ4:14~20参照>
【道ばた】・・・自分自身の今までの経験や、地域の伝統、習慣などに心がとらわれるので、サタンに機会を狙われやすい人。
【石地】…みことばを簡単に受け入れはするが、感情にとらわれやすく、自分の意志で、み言葉を持ち続けることができない人。
【いばら】・・・霊(心や魂の深いところ)的にも、肉(この世にかかわるところ)的にも情欲の多い人。多くの悩みを持っている人ともいえます。
【良い地】・・・砕かれた(耕された)神に従順な魂を持つ人。「イエス様という一粒の種が地に落ち死ぬことによって、自分たちは多くの実を実らせることができる」ということを信じる人たち。

 こうしてみると実にいろいろな地があります。
 自分はどれにあてはまるだろうと、考える方はまだよいですが全く他人ごとの人もいるわけです。

 しかし神様が下さる種は皆同じ種です。
 神様がまいたみことばは、私たち一人一人がそれを聞いた時、実はとても怖いことですが、すでに裁かれているのです。
 種を受け取ったときすでに結果が出てしまっています。
 道ばたも石地もいばらの中も、種がうまく育つのはとても無理な場所です。

 受け取ったとたんに、私の罪が暴露される怖い、神様の種まきですから、良い機会です。わたしがどのような地であるのか知っておきたいですね。
 このことは私たちが「神に立ち帰る良い機会」でもあります。
 私たちは日ごとにみ言葉にふれ、事ごとに、私の地が今どういう状態であるのか、いつも見せられます。しかし、み言葉にふれねば、それもわかりません。
 毎日みことば(聖書、また祈りによって直接イエス様に)にふれましょう。

 また、わたしたちは神から頂いた種をもって、種まきにでかけます。
 果たして良い地を選んで種をまくなどということができるでしょうか。
多分出来ないのではないでしょうか。
 なぜならこの地に種をまいてどうなるかは、奥義です。隠されていることなのです。
 ですから私たちが種まきをするときは聖霊様にお任せして、私が選ぶのではなく、聖霊様に選んでいただくのです。それは具体的にどうすればいいのでしょうか。感情や好き嫌いは後回しにして、はっきり言って、思い付きでもいいのです(こういうとちょっと極端ですが…)。言い訳をせず、とにかくみことばを運ぶものとなりましょう。

 隠された奥義は、明かり(イエス・キリスト)によって明らかにされます。
 奥義が顕れ、照らし出される時は、最後の審判で神の前に立つ時そのものです。
 私たちはみ言葉によって既に自分の罪を知らされ、また知っています。
 わたしの罪を担い、神の前で「この人には罪が一つもありません」と言ってくださるイエス様を、誰もが信じぬいていきたいと願うでしょう。必ず信じさせてくださるのもイエス様です。アーメン! (た)
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by mitiru-takae | 2018-08-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.302 ごらんなさい ~イエスが共に住む人たち~ 2018.8.12

ごらんなさい
~イエスが共に住む人たち~

すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。
そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。<マルコ3:33~35>

 今日、私たちの教会に、イエス様が入ってこられて、会堂はぎっしりと埋め尽くされ、皆が癒しと解放の期待に瞬きもせずに息を殺している…と、そんな状況であったならば、どうでしょう。

 想像してみるだけで、なんと素晴らしい光景だろうかと、ワクワクしてきます。

 イエス様の周りはいつも、期待に満ちた人々で埋め尽くされていたに違いありません。そして、その一人一人には、それぞれの家族や、大切な人々がいたに違いないですね。

 イエス様にもこの地上においての家族がいました。
 父ヨセフは早く召されたかもしれませんが、母のマリヤ、そしてイエス様の兄弟たちです。
 ついこの間まで、共に暮らしていたのでしょうが、突然イエス様は家を出て、バプテスマのヨハネのところに行き、バプテスマを受けると、そのまま家に帰らず、荒野へと行ってしまわれたのです。
 このあと、イエス様がマリヤたちのところへ帰ったならば、まあ、問題はないわけです。しかし「神の子イエス」にとっては、帰るべきところはマリヤたちがいる家ではありません。
 
 イエス様は、この地上に「私には枕するところがない」と言われました。
 イエス様がこの地上で本当に枕したところは、十字架の上でした。

ではイエス様の住まわれる家とは、いったいどこでしょうか。

ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが…<マルコ3:32前半>

 このイエス様を取り囲んでいる人々を見まわしました。
 そして「ごらんなさい」と言われたのです。
 群衆と書いていますから、とにかく大人数でしょう。
 家の中に入りきれないほどの人々もいたのかもしれませんが、イエス様に一番近いところに、イエス様を囲んで座っている人々を見回していいました。「神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」

 神のみこころを行う者は誰でも、イエス様の母、兄弟といいますが、果たして、私たちは神の御心を行うものであるでしょうか。
 イエス様は、私たちを見まわして、「ごらんなさい」と言ってくださるでしょうか。

 私たちが優秀な人であるのでイエス様は「私の母、兄弟」と呼んでくれるのではありません。ただ、何もわからずとも、ただイエス様に期待しているだけです。

 また、希望をもってイエス様の周りに集まっています。
 どこまでもついて行き、イエス様から離れないでいると「必ず癒される、罪より解放される」と信じ続けることができるようになります。

 イエス様のそばにいるということが一番大切なことでしょうか。それが真の家族だと思うのです。
 たとえイエス様を知らない人たちであっても、家族は互いに助け合い、愛し合うのですから、神の家族はなおさらです。

 イエス様が住まわれる家、それは、私たちの魂のど真ん中です。

あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。<Ⅰコリント3:16>

 神の家族、それはいつもイエス様が共に住む人たちのことですね。
 「ごらんなさい」とイエス様はあなたを指して言われます。(た)
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by mitiru-takae | 2018-08-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.301 十二使徒たち 2018.8.5

十二使徒たち

さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。<マルコ3:13~15>

 すぐに言えるようですぐに出てこない十二使徒の名前ですが、皆さんはいかがですか?

 学生の頃のようにテストでもあれば必死で覚えるでしょうが、大人になって、「いや、必要な時はいつだって言えるさ」などと思って、何もしないでおくとずーっと、そのままですね。

 一つには、4つの福音書にでてくる名前が同じでない弟子がいるということ。また、使徒なのか、執事なのか、はたまた、ただの弟子なのかと、同じ名前の弟子がいるのでわからないということもあります。
 こういうことが、覚えるのがめんどくさいという理由の一つでもあるのでしょう。

 今日は使徒と呼ばれる12人、いえ13人の名前を挙げてみたいと思います。

【シモン(ペテロ)】
 イエス様はシモンに「ペテロ(岩)」という意味の名を付けました。ペテロは「ペテロの手紙」を書いています。
【アンデレ】
 シモンの兄弟であり、二人は漁師です。二人ともバプテスマのヨハネの弟子でした。またシモン(ペテロ)をイエス様に紹介しました。

【ゼベダイの子ヨハネ】
 ペテロたちと同じ漁師であったヨハネはパトモス島にとらえられていました。しかし、そこで幻を与えられ、のちにヨハネ黙示録を書きます。他にヨハネによる福音書、手紙などを書いています。
【ヨハネの兄弟ヤコブ】
 このヤコブは大ヤコブと言われています。ヨハネとヤコブの二人はイエス様からボアネルゲ(雷の子)という名を付けられました。

【ピリポ】
 5000人の給食の奇跡の時「人々にどこからかパンを買ってきて食べさせようか」とイエス様に言われ信仰を試されたことがあります。
【バルトロマイ(ナタナエル)】
 ピリポがバルトロマイを連れてくる前に、イエス様は「あなたをイチジクの木の下で見た」と言っていました。

【トマス(デドモ)】
 イエス様の脇と手の傷を見ないとイエス様の復活を信じないと言った弟子です。
【取税人マタイ(レビ)】
 小ヤコブと兄弟、マタイによる福音書を書いたと言われています。

【アルパヨの子ヤコブ】
 大ヤコブと区別するために小ヤコブと呼ばれました。
【タダイ(ヤコブの子ユダ)】

【熱心党のシモン】
 熱心党とは反ローマ帝国の過激派組織です。
【イスカリオテのユダ】
 このユダがイエス様を裏切りました。
【マッテヤ】
 使徒行伝の時代に入ってユダの代わりに12人目の使徒となりました。

 ざっと書いてみましたが、聖書の中には、まだまだたくさんのエピソードがあります。
イエス様のもとに選ばれた弟子たちは、本当に様々な境遇、考え方、生き方仕事をしてきた人達です。
 
 この12人の使徒ではなくても、復活のイエス様により新生し、私は使徒であると断言できるパウロ。
 このパウロをアンテオケに連れてきたバルナバ。

 また、使徒と同じ名前ですが、聖霊のお導きによって、エチオピアの高官に福音を語り、洗礼を授けたピリポ。
 またパウロの見ている前で石を投げつけられて殉教したステパノ、またパウロの伝道旅行に従い、ペテロの通訳者でもあったマルコの福音書の筆者であるマルコなど、聖書を読んでいくと数多くの弟子たちが出てきます。

 イエス様が生きているときも、天に帰ってからも、今に至るまで、イエス様の弟子は増え続けています。
 私たちも使徒行伝28章に続き、今の時代(使徒行伝29章)の中で聖霊様と共に働くイエス様の弟子です。ハレルヤ! (た)
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by mitiru-takae | 2018-08-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.300 力を奮い起こせ (満ちる第300回記念号) 2018.7.29

力を奮い起こせ
(満ちる第300回記念号)

しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた(ダビデはその神、主によって力を奮い起こした【新共同訳】)。<サムエル上30:6>

 いよいよ「満ちる」も、300回を迎え、よくやってきたなあと思う半面、まだまだこれからだなあとも思います。これからも、力を奮い起こして、主によって励んでいきたいと思います。

 牧師按手礼5周年記念礼拝も同じ時期に迎えることができ、とてもタイムリーでした。
 礼拝司会の妹が新生教会の5歳の誕生日だと言ってくれた時には、本当に感無量でした。
 ほんとだ、父帰天から約6年、なんかやっと父を安心させられることができるのかな?とも思ったりして、あらためて責任の重さを感じて、こころなしか、緊張しています(笑)。
 しかし、私ではなく、神の側にいつも立ち、主イエス様のお心によって、歩み続けるものでありたいと祈っています。

 毎日が幸せで、何事も問題がない時は、「奮い起こす」という心の状態は、さほど体験しません。
 ところがアブラハムの「望みえないのに望みつつ信じた」信仰に似て、再び起き上がることもできないくらいの苦しい、つらい状態の時「勇気などかけらもないのに、勇気が必要」ということが起こってくる時があります。

 ただ、これが「主によって」可能であるというところが、イエス様を知らない方々にはわからないところです。いわゆる世の中の精神の強い人たちが頑張って成し得るということとは、ちょっと違うものなのです。

 主イエス様は私に働きかけてくださって、「できない」を「できる」に変えてくださいます。
 こういうと、よく、「では神はどうして私に望む通りしてくれないのか、神は何にもしてくれない、何でもできるんだったら、これもやれ、あれもやってのけろ・・・・」等々、いやはや、人間の心の中は何んと身勝手で自己中心でしょうか。(笑)

 以前、このような交通標語を見て、なるほどと感心したことがあります。
「出せるスピード 出さない勇気」
 スピードを出すのが好きな人は、なかなかゆっくりは走れません。いつの間にか、気持ちよく好きなスピードで走ってしまっています。ちょっと気を付けてスピードを緩めると、突然の事態に対処することができるものです。
 スピードを出す人にいきなり「スピードを出すな!」と言っても反発しますが、スピードを出さないことを勇気としたのはなかなかです。勇気を必要とする心に語り掛けているのです。そうか、勇気がいるんだ!と思いました。
 
 勇気って、どこか自分の思いとは反対の方向に奮い立つことによって生まれてくるような気がします。それは自分の肉の思いを捨てることでもあるのでしょうか。捨てたとたんに私たちの心の中にイエス様の力が湧き起こってくるのでしょう。

 たとえ、私たちに悪い知らせが来ようと、できもしない無理難題が来ようと、突然の病で不安に襲われそうになっても、主にあって力を奮い起こしましょう!その時主イエス様の勝利がわたしにあることがわかります。

これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。<ヨハネ16:33>

 主イエス様によって、私は勝利します!
 「満ちる」が300回続いたことを心から感謝します。 またこれからも「満ちる」を書いていけることを感謝します。
 牧師として5年間、奉仕できましたことを心から感謝します。これからも教会と主の聖徒の皆様に仕えていけますことを感謝します。
 ことごとに勇気を出して、立ち上がっていく、決して逃げない、そんな底力をイエス様が私の魂の中で持ち続けてくださっていることを深く感謝いたします。
 すべての栄光を父なる神へお帰しいたします。アーメン! (た)
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by mitiru-takae | 2018-07-31 23:05 | 満ちる | Comments(0)

No.299 泣き笑いの5年間でした 2018.7.22

泣き笑いの5年間でした

どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。<エペソ3:20、21>

 先週7月15日、牧師按手礼5周年記念礼拝を喜びのうちに終わることができました。ありがとうございます。
 この5年間は、ラブソナタ大分や、CGNtvの収録など、いろいろな行事もさることながら、2度の大病を経験いたしました。聖霊様のお導きがなければ、少し大げさですが、命を落とす危険性もなきにしもあらずでした。主イエス様に守られてきましたことを深く感謝しています。

 ひとえに主と、キリストの福音大分教会の聖徒の皆様のおかげです。ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

 さて、この「満ちる」は来週で300回を迎えます。
 父が帰天後、「日岡だより」にならって始めた小さな刷り物ですが、はじめは毎週書く自信もなく(笑)不定期に出すつもりでいました。
 ところが、病気をしようが、入院しようが、一度も休むことなく続けることができ、私自身もびっくりしています。

 父はもともと作家志望の人でありましたので、書くことは大好き、また素晴らしい文章を書きました。
 しかし私はというと、全く文章を書くなどということには機会を得ない人で、書くと言えば中学生のころから書いていた日記くらいなものでした。
 その私が何かを書こうというのですから、まあ、大変です。

 ちょうど父が召される一年くらい前に、私はパソコンデビューをしまして、事もあろうか、わけのわからぬブログというものを作り、見切り発車してしまったのです。
 しかし、そのおかげか、文章を書くことそれ自体がそんなにつらいことでもなく、楽しいとさえ思えるようになっていきました。
 パソコンのワードソフトを開くと不思議に書いて行けるのです(笑)から、びっくりです。

 その時のブログの2回目くらいに書いた記事を拾ってみました。

◆すてき!

「うちに咲いているお花を活けてます!」と言う
いつも教会堂にお花をかざってくださる姉妹がいるのですが
今日のお花もとてもすがすがしい
花屋さんで買ってきたお花もきれいで素敵なのですが
「負けてないよーっ」
「いいえ、それ以上かも!」
と思ってしまいます

栄華をきわめた時のソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった
              ー聖書ー
(2011.8.24・ブログ【しおんのゆめ】より)

 ワープロの前で、一日中書き物をしていた父を思い出しますが、昔は原稿用紙に、鉛筆やペンで書いていましたね。私にはとてもできません。
 しかし昔の文章を読んでいると、この父の字には、いまだに悩まされます。きちんと最後まできれいな字では書けない人でしたので、読めないところが多いのです。
 私が父の印刷会社でタイプを打っていたころは、この父の原稿をタイプできる人は私のほかにはいませんでした。校正も、母しかできませんでしたね。
 今は懐かしい思い出の中の光景の一つです。

 聖霊様の働く力は、私のうちで働いていました。
 この先、私の進むべき道を知って、私が思い求める以上のことを、いつも先取りして準備してくださいます。
 「満ちる」もそうでした。

 イエス様はわたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたですね。満々感謝! (た)
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by mitiru-takae | 2018-07-31 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.298 イエス様の福音に押し出されて 2018.7.15

イエス様の福音に押し出されて

神の子イエス・キリストの福音のはじめ(口語訳)
「神の子」「イエス・キリストの福音」の源(岩波翻訳委員会訳)
イエス・キリストの福音はこうして始まった(塚本訳)
<マルコ1:1>

 私が牧師(実は父の後を代表者としてこの教会を存続していくか否かの切羽詰まったとき)となることの「神よりの召命」ともなったみことばですので、何度も何度も語ってきたことであり、少々恐縮の感ありです。

 しかし、私たちには、決して忘れることのできない「誰かの一言」が心の中にあります。
 学校の先生、先輩、友人など、家族以外の人からの言葉が多いかもしれません。家族は、なかなか自分の宝と気が付いていないところがあります。
 最近、「当たり前」という歌をラジオで聞きましたが、確かに当たり前のことへの気づきや感謝が私たちには足りないのです。

 私たちにはそれまでの人生が、一瞬にして裏から表また、表から裏へと返るように180度転回してしまうほどの影響力のある言葉・・・それは人生の中の体験として深く心に刻まれていきます。
 私にとっても、両親や家族の言葉によって、良し悪し関係なくたくさんの影響を受けています。
イエス様の愛がだんだんわかってくると、この良し悪しが、自己の判断や感覚だけで理解することなく、神様のご計画の中で与えられたものであると気が付いてきます。

 そうすると、私を導いてくださった言葉、いやこれは私を試されたお言葉など、私たちは自分の周りに起こってくる出来事の一つ一つを無駄にすることなく思い返すことができます。これこそが聖霊様の働きです。

私たちは多くの悔い改めをすることができ、多くの赦しをいただくことができ、多くのイエス様の愛をいただくことができるのですから、最高です。ハレルヤ!

 話を戻しますが、このイエス・キリストの福音が私たちを押し出し始めると、神のご計画に従って、私たちは前進させられます。
 父の「イエス・キリストの福音が、あなたを押し出して進んでいくんだから、大丈夫だよ!、簡単だよ!」という声が、わたしには、今も聞こえてくるようなのです。

 代表者から、牧師へと、イエス様は私を訓練していってくださいました。
 朝から晩まで、聖書と、ガイドブックと信仰書を読みあさって、意気揚々と主日礼拝のメッセージを始めましたが、実は3か月目に私は挫折したのです(笑)。
 なんでもそうですが、やってみなくてはわからないことが、私を挫折させます。しかし、そのおかげで私は、「そうではない」ということに気が付くわけです。
 
主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。<詩篇19:7>

 生前父が「イエス・キリスト様、アーメン!」という、聖名を呼ぶ信仰を推奨していたころがありました。アーメンはしかり。イエス様は完全なお方です。
そのお方に私たちは「完全肯定、アーメン、しかり」と、御前に進んでいきたいのです。

 私たちが「アーメン」といったその時、私への神様のご計画が動き出すのですね。万物が神によって更新され、全く新しい私たちの生きる場所が開き続けるのです。

 私たちはイエス・キリストご自身の持っておられる、権威、能力、知識など、多くのものを聖霊様によって知ることができます。そしてイエス様が直接私に顕わしてくださるご証しによって、心の中に確かなものとされていく(聖霊の証印)のです。

 ともあれ、牧師按手礼(2013・7・15)から5周年を迎えることができました。
ひとえにキリストの福音大分教会に集う聖徒の皆様、そしてこの教会に連なる大きなエクレシアのメンバーの皆様の応援とお祈りのおかげです。ありがとうございます。
 みなさん、これからも祈り、支えて
くださいますようにお願いいたします。満々感謝! (た)
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by mitiru-takae | 2018-07-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.297 万事休す 2018.7.8

万事休す

 言葉の由来はというと、子供のころ甘やかされて育った王子に対して言った、王である父の言葉らしいですが【「宋史荊南高氏世家」より】万策尽き、もはやおしまいという意味です。この王子は、王になったとき、父が言った通り、どうにもならない悪い王になったそうです。

 そんなに頻繁にあってはならない、この万事休すの時ですが、人生の中ではどうにもならない土壇場に追いやられることもないとは言えません。
 自分のことであれば、出来てもできなくても自分の身から出た錆ということで、自分が頑張って山を踏み越えればいいわけです。しかし、難しいのは家族であったり、身近な、それも愛する友たちです。

 私たちはとかく、説教をしてみたり、叱ってみたりと、色々試みるわけですが、本人の心が動かねば、どうしようもないわけです。言えば言うほど心はくじけていき、周りの者は「万事休す」と思ってしまうのですね。

しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。<マルコ2:20>

 私たちの心の中で、「万事休す」というときが来たとき、まるでイエス様がとりさられたような虚しい力のない日を経験するとき、このような時こそ、断食をします。それは悔い改めであったり、希望を持つためであったり、とにかくイエス様と近くいるためです。
 そういう意味では断食は毎日してもいいですね。

 T兄弟とLINEでこのみ言葉を分かち合ったとき、兄弟はすかさず「木、金、土曜日の三日間断食します」と言ってきました。
 断食がすべての解決ではありませんが、実行しようとする自分の心に正直になれることはとても素晴らしいと思います。ハレルヤ!
  
 イエス様を知っているというだけで、私たちは土壇場に強くなれます。
 たとえ主が取り去られる時が来ても、私たちは手をとりあって、共に心を合わせ、希望を捨てることがないばかりか、新しい革袋として、聖霊によって全く新しい復活のイエス・キリストを見ることができるのです。

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。〔だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである〕」。<マルコ2:22>

このみ言葉のように、どんなに素晴らしい言葉であっても、受け入れる袋がたえられなくては、ついには張り裂けてしまいます。
 葡萄酒を入れる前に革袋を新しいものに取り換える必要があるのです。

 私たちの魂の革袋を新しくできるお方は、イエス・キリストの他にはありません。革袋が新しくなると、新しい葡萄酒を入れても、袋がはりさけることはないのです。
 新しく生まれた人には、主が新しい葡萄酒を入れてくださるのですね。
 この葡萄酒は、イエス様が私たちにくださった新しい契約によるお言葉そのものです。

 今日、もしあなたに、あなたの家族に、また友人、知人に、「万事休す」と言いたくなるようなことが起こったとき、イエス様を知らない人であったら、主の前にともに行ってあげるとよいでしょう。それはイエス様こそが私たちの救いですと知らせてあげることです。
 また、その人がすでにクリスチャンであれば、座って手を取り合い、ともに祈るとよいでしょう。

 私たちはとりなしのために、いつも自分自身を主にお捧げして、聖めていただいておく必要があります。(た)

七日間にわたって祭壇の贖いをし、それをきよめて使い始めなければならない。
この期間が終わり、八日目と、その後は、祭司たちが祭壇の上で、あなたがたの全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげなければならない。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れる。――神である主の御告げ。――」<エゼキエル43:26、27【新改訳】>
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by mitiru-takae | 2018-07-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.296 偽善の反対語は? 2018.7.1

偽善の反対語は?

 偽善とは…「ギリシア語の原意は『劇である役割を演じる』こと。そこから実際にもたない感情や徳などをもっているふりをする倫理的に悪い態度をいう。特に宗教において問題となり,イエスはこの態度を強く戒め……。」【<ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 偽善の用語解説>から】

 ここに書かれている【「劇である役割を演じる」こと】がとても腑に落ちますね。これを、演技ならよいのですが自分の心の中で悪意をもって普段の生活の中で演じれば、立派な偽善者となるでしょう。

 とても困るのは、自覚がなくて悪意で生じるはずの偽善の行為を、何の悪気もなくやってのけることです。問題は、私たちの心や、もっと深いところで魂が、清いかどうか、愛があるかどうか…などにかかってくるのです。

 しかしこれらは、イエス様がおっしゃるようには、なかなかいきません。「ラクダが針の穴を通るより難しい」ことで、人間の努力では偽善者にならないように生きることはとても難しそうです。
 人は知らず知らずのうちに顔に偽善の面をかぶってしまいます。

 ここででは私たちが考えるのは、どうすれば偽善の反対を行えるのか?、またそういう人になれるのか?ということです。
 そこで私は「偽善の反対は何という言葉だろう」と頭をひねったのです。

 調べてみると、「偽悪」と出てきます。「偽悪」ってなんでしょう(笑)。悪ぶるということでしょうか。
 E兄は「真悪」かな…と言ってくれました。
 確かに文字の反対はそうです。その通りです。
 そうすると、パリサイ人たちは、「偽善」ですので、まだ救われますね。

 私は、頭をひねりました。意味の反対です。
 「義善」あるいは「真善」はどうでしょうか。
 私は「凡聖」であるといった父を思い出すのですが、私たちはイエス様のとりなしなくして義も聖も、善も難しい存在です。しかしながら、主にあるなら(主の側にいるならば)全てが可能な人に変えられます。ハレルヤ!

 ちょっとは救われる偽善者パリサイ人(真悪ではないので…)たちにとって、イエス様の存在はとても気になるもののようでした。

 イエス様の後をついて行く、様子をうかがう、心の中で批判する(自分たちの考えと照らし合わせてみる)、批判の言葉を投げかける、教理によって打ち負かしたい、などと思い、いつもイエス様の近くにいるのです。

 ユダヤ教もイエス様のころは、サドカイ派、パリサイ派、エッセネ派、また熱心党なるものもありました。
 特にパリサイ人と呼ばれる人たちは教養も高く、あらゆる階層の人たちから支持を受けていたようです。
 このパリサイ人達にイエス様はいいました。

イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている <マルコ7:6>

 偽善者の筆頭と言われそうなパリサイ人たちの中には、ニコデモや、アリマタヤのヨセフのように、隠れた弟子もいました。またパウロのころにはユダヤ教から改宗したクリスチャンもたくさんいたわけですから、どのような教理、教派だとしても真理を求める者には、イエス様は応えてくださるのです。
 
 こういうお言葉をかけていただけることでさえ、イエス様の近くにいるからこそと感じます。私たちも聖霊様のお言葉にいつも耳を傾けていたいですね。ちょっと嫌なことであっても、私たちに「真の善」をなさしめてくださる主を信じて、逃げ出さず、ついて行きましょう。

 イエス様こそ、私たちの真の主治医です。
 悪いところや病気を正しく診断し、告げ、癒してくださる、良い医者です。(た)

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」<マルコ2:17>
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by mitiru-takae | 2018-07-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.295 どちらが先か 2018.6.24

どちらが先か

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。<創世記1:3>

 天地創造の時、神は一日目に光を呼び出されました。「光あれ」と言われたのです。光があったとき地は混とんとしていたのですが、光と闇に分けられました。この時、昼と夜ができたのです。

 二日目には、水を上と下に分けられました。おおぞらを創り水を上と下に分けました。

 三日目、分けられた下の水を一つ所に集め、乾いた地が現れるように言いました。神は、集まった水を海と名付け、乾いた地を陸と名付けました。

 この日はこの後、草や木をお創りになりました。

神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。<創世記1:11>

 種を持つ草、種のある実を結ぶ果樹……ですから、神様の創造は種からでもなく実からでもなく、実を結ぶことのできる草や木を創ったということになります。

 人間も他の生き物もそうです。神様の創造は、種だけとか、卵だけとかいうものではありませんね。

 こうしてみると、よく「卵が先か、鶏が先か」と論争しますが、全くナンセンスですね。神様は卵も鶏も同時に創られています。

神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。<創世記1:22>

 すべてのものをお創りになった神様のお心は、はじめから命で満ち溢れる世界の創造でした。

 人間が他の動物と違うのは、「従わせよ、治めよ」と言う神様からのお言葉をいただいているというところです。

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。<創世記1:28>

 人間は、神様に似るものとして、創造されたものの中でも「最高の冠」として創られたのです。

また地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。<創世記1:30>

 ところで先週の礼拝ではマルコ2:1~12を取り上げました。その中にあるイエス様のお言葉を見てみます。

あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。<マルコ2:9>

 イエス様にとってはどちらもたやすいことであったでしょうが、あえて罪の赦しを先に宣言したのにはわけがありました。

人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」<マルコ2:10>

 癒しの祈りをするときに、罪の赦しをしてからでないと…とか、また、癒されないのは、罪があるからだとか…、みこころでないから…etc、人間の側では、いろいろ考えてみたりします。しかし、これもナンセンスです。
 
 イエス様にとっては簡単明瞭。ただ「神のみこころ(愛と聖と義)」によって、すべてのことが天になるごとく地にもなるように、父なる神にとりなしてくださっているということなのです。

 私たちの罪からの赦しと解放は神様の創造の前からのご計画であり、私たちの癒しは神様のお心ひとつで成る(治る)のです。ハレルヤ! (た)
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by mitiru-takae | 2018-06-30 23:03 | 満ちる | Comments(0)