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No.286 すぐに立ってエルサレムへ 2018.4.22

すぐに立ってエルサレムへ

 イエス様がよみがえって、墓の中から消えたその日のこと、ふたりの弟子が、エルサレムからエマオという村へ向かっていました。
二人は今日の出来事を、語り合い、論じ合っていました。
 イエス様が墓にいないということや、甦ったということが、彼らの頭では理解ができず、整理がつかなかったのでしょう。

 そこへ、イエス様が近づいてきたのです。
 ところが、二人の目はさえぎられていて、このお方がイエス様であるとは全く分かりません。
 イエス様は二人に語りかけました。
 「その話は、なんのことなのか」

 イエス様はご自分の弟子たちを、愛して愛してやまないのです。
 釘宮義人牧師も「何を話してるのですか?」とたびたび、信徒さんの話の中に割り込もうとしてきていましたが(笑)、これも教会のみんなが大好きで、気になってしかたがなかったのでしょう。
 愛するものへは自分から近づいていくものですね。イエス様なら、なおさらです。

 さあ、エマオに近づいてきました。
 
それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。<ルカ:24:28、29>

 イエス様を、イエス様とは知らずに、二人は無理やり引き留めて泊まるように勧めました。
 そして食事を共にすることになりました。

 ところが、客であるはずのイエス様の方がパンを取り、祝福してさき、二人(一人の名はクレオパと言います)に渡します。この時二人は「ハッ」と気づいたのです。目が開(ひら)けて、イエス様がわかったのです。

一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。<ルカ24:30、31>

 どんなに嬉しかったでしょうか。今までの疑問はすべて吹っ飛んでしまい、代わりにイエス様が復活されたことについての確信が、魂の中にしっかりと記された時でした。

彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。 <ルカ24:32>

 私たちも、たとえ信じられないことがあって、イエス様を認められずにいるときでも(信じられない時、苦しみのどん底で周りが見えない時、途方に暮れて、すべてを放り捨ててしまいたいとき、二人の弟子のように、他の弟子たちや使徒たちと共にいることができず、郷里へと帰ってしまおうと思うときなど)、信仰の友と語り合ってみましょう。論じ合ってみましょう。
 
 主は必ずそこに来てくださり、魂の奥深くに語りかけてくださいます。

そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。<ルカ24:33、34>

 心の中に力がよみがえり、聖霊様に燃える心をいただいたならば、また信仰の兄弟姉妹が集まるところに帰りましょう。あなたの本当に帰るべき所(キリストの体の一部として)はどこでしょう。

 あなたが立ち直ったならば、次は、他の弱った兄弟姉妹を、力づけてあげましょう。互いに主の復活の証人として告白し合いましょう。
 こうして教会は力を得て全世界に出て行けるのです。(マルコ16:15参照) (た)
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by mitiru-takae | 2018-04-30 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.285 新しい命に生まれ変わる 2018.4.15

新しい命に生まれ変わる

人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。<ルカ9:25>

 この地上でいちばん大切なものと言えば、もちろん命です。
 しかし、この世に生を受けたならば必ず死を迎えねばなりません。
 人間の命はこの地上で生きていくときだけのものです。死んでしまえば、肉体と共に命もなくなってしまします。

なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。<ローマ8:13>

 肉にあっては私たちの命は限りがあります。
 しかし私たちが、私を罪から解放し、新しい命に生かしてくださるお方を信じるならば、肉(律法)の行いではなく、そのお方を信じる信仰によって生きることができます。

 この地上で死ぬしかなかった私たちは、イエス様を信じることで、死んでも生きるという永遠のいのちをいただくことができるのです。
 そして私たちはその命によって、新しく生まれ変わるのです。

イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。<ヨハネ3:3>

 新しく生まれるということは神の国を見ることができるということです。
 神の国を見るとは、神の国の側から物事を見ることができるようになったことであり、神の国の側の思いを持ち、語ることです。
 
 ユダヤ人の指導者であったニコデモという人は夜遅く、イエス様のところに来て、この奥義を聞きました。しかし、初めは何のことを言っているのかさっぱりわかりませんでした。
 新しく生まれるということは、どんなに頭の良い学者でも、わからない奥義です。ニコデモはこういいました。

ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。<ヨハネ福音書3:4>

 このように、初めはびっくりするようなイエス様のお言葉ですが、この後のイエス様の返事はこうでした。

「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない<ヨハネ福音書3:5>。

 このお言葉にある「水と霊」は、バプテスマのことでしょう。
 また言い換えれば、旧約(モーセの律法)での幕屋における水の清め、新約(イエス・キリストの愛)による聖霊の聖めの二つによって私たちは新しく生まれ変わり、神の国に入るということです。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。<ヨハネ福音書3:16>

 ニコデモとアリマタヤのヨセフは、他の指導者たちとは違い、イエス様の隠れ弟子として、イエス様に仕えてきた人たちのようです。
 アリマタヤのヨセフなどは恐れることなく、総督ピラトのところに行ってイエス様を十字架から引き取る許可をもらってくるほどですからびっくりです。
 このような勇気はどこから来るでしょうか。

 人が新しく生まれ変わるということは、なんと素晴らしいことでしょうか。
 世界中(もちろん当時の世界は今よりは狭かったと思いますが)の人が、イエス様(神様)を敵に回しても、私たちは「イエス様の側の者」という揺るがない魂を持ち続けることができる、「そういう人にこそ私はなりたい」ですね。(た)
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by mitiru-takae | 2018-04-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.284 バプテスマおめでとうございます 2018.4.8

バプテスマおめでとうございます

すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。<使徒2:38>

 イースター礼拝の中で、平井姉妹のバプテスマ式が行われました。

 一年ほど前にご主人を天に送ったばかりの姉妹ですが、死を身近に感じ、いわゆる終活をしなければと思ったらしいのです。その第一番に「バプテスマを受けたい」という選択肢があったことを、心から嬉しく思い感謝しています。

 長いこと教会の礼拝に出席していますし、仲の良い姉妹の自宅で行われている家庭集会にも参加する、信仰を求めることに熱心な姉妹です。
 「信仰の友」たちの祈りもあって、姉妹はめでたくバプテスマを受けることとなりました。主は素晴らしい。

 姉妹のご主人が生前入院しておられたときに、「お祈りに来てほしい」という連絡がありました。そこで、病床におじゃまして、お祈りをさせていただきました。
 この時ご主人は私の顔を見て、なんとなく微笑んでくださっているようにお見受けしました。

 ご主人の心が次第に神様の方に近づいていたんだなと感じさせられましたし、病の苦しみの中にあっても、ご夫婦お二人の病室でのお姿は、私の目には平安そのものに見えていました。

 ご主人の「死」をきっかけに、天の御国を思う心が大きくなっていったのでしょう、姉妹の心の中でバプテスマを受け、神の家族の一員となるという夢が、具現化してきたのですね。
 
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。<ローマ6:4>  
 
 バプテスマを受けるとは、私たちがイエス様と一つになるということです。

 バプテスマには、「古い私が死んでしまう」という意味もあります。今までの罪に支配されていた私は、イエス様と共に一度死んでしまい、そして新しい人として復活のイエス様と共に私たちも復活するということです。
 古い罪人はもういません。死んでしまいました。

 新しい命に生きるということは、私の中に生きてくださるイエス様の命が私と共に生きてくださるということです。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。<第2コリント5:17>

 ですから、イエス様を信じてバプテスマを受けた人は新しく生まれ変わった人なのです。

わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。<ガラテヤ2:19>

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。<ガラテヤ2:20>

 私たちは、ただ勧められるままになんとなくバプテスマを受けるわけではありません。そこには素晴らしい神様のご計画があり、私たちを救うイエス様の愛と信仰があります。私たちのイエス様と一つになりたいという希望がイエス様によって本当に叶えられるのですね。

 バプテスマを受ける方々が、姉妹に引き続き続々と出てきますようにお祈りしています。(た)
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by mitiru-takae | 2018-04-30 20:46 | 満ちる | Comments(0)

No.283 祝イースター/十字架への道 2018.4.1

祝 イースター

もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。<ヨハネ14:9>

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 イエス様が十字架にかかり死なれてから初めての日曜日、私たちは再びイエス様を見ます。
 私を永遠に生かすことのできる「道なる主、真理なる主、命なる主」を見ることができるのです。
 復活のイエス様は、私たちを勝利に導くお方であり、私たちの帰る場所を示してくださった唯一のお方です。

そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。<ヨハネ14:3>

 この世でイエス様の死ほど貴いものはありません。またイエス様の復活ほど力強いものはありません。(た)


十字架への道

しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。<ヨハネ16:7>

 イエス様が十字架の死に向かっていくとき、そのことをいくら聞いても納得出来ないのが、イエス様に一番近くいるはずの弟子たちです。

 まして、「去っていく」というイエス様のお言葉は、決して受け入れたくないお言葉でもあります。

 毎日そばで暮らし、話を聞き、「このお方こそ本物の王であり、メシヤにちがいない」と確信していたであろうイエス様が、こともあろうに人々から、笑いものにされ、見世物にされ、死の苦しみを受けるのですから、尋常な心では見ておれません。 
 しかし、イエス様の生きる場所は十字架の向こうにありました。十字架を避けてはイエス様の復活の命どころか、私たちの命さえもなかったわけです。

 私たちは自分の永遠の命を得るために、なんと楽をしていることでしょう。 
 栄光あるお方が(私たちには到底できませんが)その栄光を捨てて、私の代わりに笑いものになってくださったのです。また、見世物になってくださったのです。そして死の苦しみを味わってくださったのです。

 なんと私たちは、幸せでしょう。
 あなたは、人々に笑われたとき、イエス様を思い出すことができるでしょうか。
 あなたは、人々に見世物のように扱われたとき、イエス様を思い出せるでしょうか。

 そして、あなたが、一人で死と向き合うほどの苦しさを覚えたとき、苦しみの中で、イエス様を思い出して「助けてください」と祈り願うことができるでしょうか。

 その時、私たちは、決して思い出すだけではないのです。
 あの苦しみを勝利に変えたイエス様が、今は私と共にいてくださる、私の苦しみの中に、私に降りかかる災難の中に、私のつらさを一番理解してくださるお方として生きて働いてくださっているのを知ることができるのです。

その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。<ヨハネ20:19>

 復活のイエス様は、人を恐れて戸を閉じているときも、怖くて心がふるえているときも、私たちの只中に入ってきて「安かれ」といってくださいます。
 イエス様の十字架への道は、私を平安へ導く勝利の道なのです。(た)
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by mitiru-takae | 2018-04-30 17:20 | 満ちる | Comments(0)

No.282 ホサナ 2018.3.25

ホサナ

そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。<マタイ21:9>

今日は棕櫚(しゅろ)の日曜日。
 イエス様をメシヤと受け入れることができない、パリサイ人や他の律法学者たちとは正反対に、民衆はその素直な心で、イエス様をエルサレムの町に迎え入れました。

シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。<ゼカリヤ9:9>

 この時、まさにゼカリヤによって言われた預言が成就しました。
 イエス様はロバの子に乗って、民衆が大声で「ホサナ、ホサナ」と叫ぶ中、棕櫚の枝を踏みしめながらエルサレムの黄金の門を通って行かれました。

 今日、私たちの心に入場してくださるイエス様のために、大きな声で「ハレルヤ、ハレルヤ」と叫び、迎え入れましょう。

 「ホサナ」という言葉は、本来の意味(ヘブライ語で「救い給え」の意)というよりも、ほとんど、私たちが日ごろ使う言葉で「ハレルヤ」と言うのと変わらないと思います。
 神をほめたたえる言葉として教会で使われる言葉ですね。
 
 ところがこの民衆の同じ口で、この後イエス様がとらえられた後「十字架につけよ!」と叫ぶわけですから、民衆の心理というものはあまり信用ができません。
 私たちはいつも、自分の口を聖霊様に清め続けていただく必要があります。思わず周りにつられて、悪口を言ったり、人を攻めたりしてしまいます。
 皆がある人の悪口を言っている中で、反対論を述べるのには、ちょっと勇気がいるものです。しかし、み言葉を見るとペテロがこう言っています。

悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。<ペテロ第一3:9>

 今日の棕櫚の日曜日、ホサナ、ハレルヤと、神のみをほめたたえて過ごしましょう。教会の中だけではなく家に帰っても実践できれば幸いです。

 聖書が昔から告げていうメシヤの到来は、ユダヤ人の希望でした。
 パウロがローマで、ユダヤ人たちに告げたメッセージは、皆が待ち望んでいたメシヤ、救い主キリストのことでありました。(しかしユダヤの宗教家たちはイエス様を否定するどころか、自分たちの方が民衆を騙し、イエス様を十字架につけたのです。)

こういうわけで、あなたがたに会って語り合いたいと願っていた。事実、わたしは、イスラエルのいだいている希望のゆえに、この鎖につながれているのである」。<使徒28:20>

 十字架刑でイエス様ご自身が死んだあとは弟子たちをも迫害してしまう。
 そのような人間の傲慢、高慢が、昔も今も、自分の上に人をつくらないどころか神(創造主)までも地上に引き下ろしてしまったのです。

 しかし、このような逆境とおもわれる荒波の中でパウロたちは、全世界に向かって神の国とイエス・キリストを伝えていくわけです。

ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた。<使徒 28:15>

 彼らをどこにいても勇気づけ、元気を与え続けてくださったのは、あの小さなロバの子に乗って、子供たちに笑顔を惜しまなかった愛の主イエス・キリストなのです。ホサナ! (た)
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by mitiru-takae | 2018-03-31 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.281 主も彼らと共に働き/風が吹くとき 2018.3.18

主も彼らと共に働き

そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。<マルコ16:15>
弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕<マルコ16:20>

 「リバイバルミッション2018」の働きにより、私たちの教会にチャペルコンサートと題して、若い現役大学生しかもクリスチャンのDUO B→Zのお二人、そしてメッセンジャーとして平岡修治先生をお迎えすることができました。
 ヴァイオリン、ピアノの演奏、平岡修治先生のほとばしり出るようなメッセージと、素晴らしい時間を過ごすことができました。DUO B→ZのCDや、平岡先生の天に帰られた小さな魂(先生の長男)の証などの書籍があります。
 全世界に出ていく「リバイバルミッション」の働きを心から感謝し、祈りをもってお支えしていきたいと思います。

 主のみ言葉を実践するときは、いつも主が共に働いてくださっています。働きが大きい小さいは関係ありません。
 私たち一人ひとりの小さな宣教の働きを、主は喜んでくださいます。
 イエス・キリストの福音を伝えるときは、イエス様と共に一歩一歩あゆんでいるときです。そして私たちは、たまにイエス様に負ぶって歩いていただいているときもあるんですね。
 それは聖書に書かれたイエス様のお言葉が、確かなもの、真実なものであるとイエス様ご自身が私たちに示してくださるためです。(た)

風が吹くとき

風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。 <伝道の書1:6>
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。<伝道の書1:14>

 自然は単調で、同じことを繰り返すものだと、また、無駄な努力は、風を追うようなものだと、伝道の書は語ります。

 風がとらえどころのないことは言うまでもありませんが、困るのは暴風など、人間社会に被害をもたらすようなひどい風や竜巻などです。
 また、パウロも経験した、多くの船乗りや釣り人たちが経験する向かい風のように、行く手を遮ろうとする風です。
 
 よく人生は航路にたとえられますが、なかなか順風満帆ばかりとは言えません。
 しかし、嵐や、向かい風なるものが、どうして人生の中で起こってくるのでしょうか。誰も望んではいないと思う「嵐の夜」とでも言いたい事態に遭遇するものですね。それどころか順風の時でさえ、私たちは怠惰な心になってしまったり、神を忘れてしまうという、大きなサタンからの暴風に巻き込まれてしまいます。

 どんな時でも、イエス様に感謝を忘れない人生行路でありたいものです。

 先週日曜日は「3.11東日本大震災」のあった日から7年目を数える日でした。日本人の誰もが、地震の怖さ、津波の怖さ、原発の怖さを実感した災害でした。最近は噴火もあちこちで起きていますし、自然災害の脅威からは、逃げ出すことができません。
 順風の時には全く分からなかった、人を通しての神の愛を知る機会がやってきます。人の心の中に語りかけてくる神の元気が、私たちを立ち上がらせてくださるのです。
 全ての望みが絶たれたか・・・と思うとき、パウロは言いました。

だが、この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。<使徒27:22>
だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。
<使徒27:25> (た)
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by mitiru-takae | 2018-03-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.280 昔も今も永遠に 2018.3.11

昔も今も永遠に

しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
<イザヤ53:10>

 供え物というと、日本人は仏壇の上に置く、お菓子や果物を思い浮かべる。神道では地鎮祭の時などよく見かける、米や野菜である。
 いかに平和に見えることか。それにつけてもユダヤ教の生贄は、牛や、羊、鳥の切り裂いた血、肉である。

 遠く、インカやマヤの敗戦国の人質の心臓をささげるなど、残酷にしかみえない生贄などは、日本人から見ればとても野蛮で、見るにも聞くにも堪えられない、そのような感じだ。

 そうしてみるとキリスト教はとても平和な穏やかな人道的宗教のように見えるが、実は旧約聖書を見る限り、そのようには思えないのである。
 ただ、イエス・キリストがその残酷な生贄を一手に引き受けてくださったので、私たちは平安でいられるというわけだ。

 私たちはこの生きた生贄を捧げることが一番の残酷と思っているが、何よりもひどいのは創造主である神と断絶しているという現実だ。
 何故って、神との平和がありさえすれば、一切の生贄は必要ないものであるし、自分の子供を奴隷として売ったり、捧げたりする必要がないのだ。一番つらいのは、人間がサタンの奴隷となって生きていることだ。

われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
<イザヤ53:6>

 私たちは自分の罪をイエス様の上に置き、私の身代わりとしたのだ。以前聖幕の学びをしたとき、生贄の動物を伴ってとばりに入り、犯した罪をすべてその動物に移し、屠って捧げるということを学んだ。
 この屠られた動物こそ、私の罪の身代わりのイエス様であった。
 このように、モーセの時代も、イザヤの時代も、いえ、世界が作られる前から私たちのために救い主が来られることが決まっていた。

これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。(新共同訳)
<テトス1:2>

エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。(新共同訳)<ミカ5:1>

 イスラエルの希望であった約束のメシヤは、今や私たち人類すべての統治者、救い主として、私の希望となっている。

このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。(新共同訳)<使徒3:21>

 手に鎖をかけられたままのパウロが、自分を永遠の命に入れてくださった救い主イエス・キリストをユダヤ人の希望、異邦人の希望と認め、そのお方が、甦っただけでなく、私のうちに生きているということを証ししている。

 パウロが伝えたかったイエス様は、今生きているイエス様であって、過去にいただけのものではない。ましてや十字架で死んでしまったままのイエス様ではない。
 私たちの心の中に、十字架にかかったままのイエス様をいつまでも見るのではなく、私の罪と共に一度死に、死と黄泉に打ち勝ち、甦り、私もともに携えて永遠におられる方である勝利者であること、このことを心に刻み信じ続けていきたいと思う。

 昔いまし、今いまし、やがて来られるお方、王の王、主の主、イエス様を心から喜び、叫ぼう!
 ハレルヤ! (た) 
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by mitiru-takae | 2018-03-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.279 私のメンターはイエス様 2018.3.4

私のメンターはイエス様

だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう(【新共同訳】そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。)
<Ⅰコリント12:31>

 先日久留米クライストチャーチの山下耕司先生ご夫妻がみえられた。
 廣田先生のご紹介だったので、アガペーチャペルで先生を囲んで時間を持つことになっていたのだが、急遽私どもの教会に集まることとなった。

 先生は父とも会ったことがあるらしく、私自身は先生ご夫妻のことを若い先生と思っていたので、少しほっとしながら親近感を覚えたのは否めませんね。

 今回先生が来られたのは、ベン・ウォン先生(著書に「メンターとして仕える」がある)によってはじめられた、コーチングの内容についての(ほんのさわりと言っていましたが)お勧めではなく説明でした。
 というのも、そもそもこのコーチングは相手に自分の方法などを押し付けるものではなく、教会としての本質(エッセンス)を皆で確認し合い、納得したうえで、これを土台として、この上にそれぞれの方法、材料、デザインで家を建てていくというものだからだ。

 先生は「コーチングとは『関係である』と気づきを与えられた」と言っていたが、まさしく教会とは、イエス様と、私たちの関係、イエス様の弟子としての聖徒同士の関係、その関係のすべてが神の愛の帯で繋がれている状態なのだと思う。つまりエクレシアという一言で語れるかと思う。
 内容についてはまたの機会にしたい。

 ただ、話を聞いていく中で、私のメンター(ティーチング、カウンセリング、コーチングの3つの聖徒を整えていく働きをする人)はイエス様であり、私はイエス様のメンティー(メンタリングを受ける人)であるということを気付かされたということだった。

 まことに当然と思えることではあるのだが、意外と気づいていない。またこのことは自分が教会、また教会外でメンターとして働けるかということを考えていく中で、自分の「仕えるという思い」をはっきりとさせられていくものだ。
 最近はいつも「皆さん一人一人が祭司である」ということを言っているが、本当に大切なことは一人一人が神と直接つながっているということです。

 山下先生曰く、
「牧師を介してイエス様とつながっているのではない」
 そういうわけで、皆さん、一人一人がメンターとして仕えていくことができるように、主にある訓練を積んでいく必要があるのかと思う。このことがメンターとしてのキャリアを積んでいくということであろうか。
 何も学校に行けとか、お金を積んで手に入れるということではない。私たちの真のメンターであるイエス様に真似てついて行くことだ。
 具体的にはいつも、「イエス様だったらどう考えるのか、どうするのか?」と一瞬一瞬の思いをイエス様に馳せ、考え、捧げていくことだ。

 「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。(新共同訳)」のお言葉は、パウロのメンターとしての力強い言葉である。しかしここに、イエス様の力強いメンターとしてのお言葉がパウロを窮地においても支えているということがわかるのである。パウロにとっても私たちにとっても、聖霊として私に働きかける神こそ真のコーチである。
 私たちが目的をもって前進したいと願うとき、私に働いてその願いを完成してくださるのは神である。この時神のコーチング(目的をもって前進しようと願う人を援助すること)は最高に発揮される。

 パウロの言う最高の道こそ、「今も私の中で生きて働いてくださるイエス様によって生きる」ということに他ならない。これ以上の関係はこの地上にない。 

イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
<ヨハネ11:25>

 私たちの最高のメンターであり、コーチであるイエス様に満々感謝! (た)
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by mitiru-takae | 2018-03-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.278 きよい良心 2018.2.25

きよい良心

きよい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない。<テトス3:9>

 きよい良心は神様から頂いたギフトです。
 「ギフト(gift)」とは、「神様からの贈りもの」また「才能」という意味もあるそうです。高価なこの世にたった一つしかない私への神様からのプレゼントはイエス様です。(と勝手に解釈しています<笑>)

 神様が人をお創りになったとき、ご自身に似せて創ってくださいましたから、私たちはもともと、神の御心に沿う思いである良心をもって生まれてきました。

 それがいつの間にか、心が神様から離れるごとに、汚れてしまった状態になっています。これはもう良心とは言い難く、偽善、疑心に満ちた悪い心となってしまっています。

 私たちにとっての「一番の幸せ」はというと、ダビデが詩編で歌っているように、神様から「あなたは間違っているよ」とか、「あなたそれは嘘でしょう」とか言われない、神様に対して偽りのない人であることです。

主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。<詩篇32:2>

 神様に不義を負わせられないためにはどうすればいいのでしょう。もっと言えば、どうしてわたしたちの心が汚れてしまったままでは幸せになれないのでしょうか。

きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。<テトス1:15>

 どんなに勉強して偉くなったとしても、人々から素晴らしい人物だと言われても、神様が認めてくださらない限り、人は罪びとのままで、正しい人とは呼ばれないのです。

 イエス様を私の主、救い主と知って初めて、本当の知識を得ることができます。

主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。<箴言1:7>

なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。<ローマ10:10>
 
 イエス様を知って信じることこそ、私たちが清い良心を保ち続けることができる唯一の方法です。また私たちが持っている罪(汚れた心、自分では治しようがない生まれたときから持っている心のしみ)からの救いは、ほかにないのです。

 世の中には、良心によって素晴らしい善行をしたり生き方をする人も多いのです。しかし、私たちはその人たちの何分の一の真似もできず、思いはあっても、あきらめてしまいそうです。
しかし私たちが持つ良心とは、善行をするだけのものではありません。イエス様を信じている証しでもあるのです。

貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。<Ⅰコリント6:10、11>

 私たちは、イエス・キリストの名によって(神の霊によって)義とされるのです。

 神様からのギフトである「清い良心」を持ち続ける、保ち続けることができる、それはイエス・キリストを信じ続けるということなのですね。(た) 
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by mitiru-takae | 2018-02-28 19:52 | 満ちる | Comments(0)

No.277 景教に影響された日本の宗教 2018.2.18

景教に影響された日本の宗教

 先日仏教について、えんじぇる田中先生より学ぶ時を与えられました。先生は浄土真宗のお寺のご子息として生まれ、仏教徒からキリスト教の牧師になった一寸風変わりな先生です。現在はアメリカに住んでおられます。

 今回中国のリバイバルの現場のお話と、仏教についてのお話をしてくださいました。
 少し先生のお話も交えて、父がよく言っていた親鸞の歎異抄の一節を紹介いたします。

【歎異抄第三章現代語訳  悪人こそが救われる 悪人正機】
善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。
(善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。)

【聖書】
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。<マタイ9:13>

〔人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕<マタイ18:11>

 面白いことに、仏教では涅槃に行くには何千億年という宇宙的時間を要します。特に女性は成仏できない不浄の者とされています。
 また、殺生してはいけません(これはモーセの十戒と同じですね、しかしその意味が全く違います)。お坊さんは雨の日は、虫を踏みそうなので外には出ないという話を田中先生よりお聞きました。
 なぜなら「今日私が踏んだナメクジは、もしかすると祖父の生まれ変わりであるかもしれないから」ということのようです。そしてもし自分が殺生すると人間界において、自分の修行の得にならないことと信じているからです。
 つまり仏教は因果応報という「自分中心の生き方」という世界なのです。

 ところがキリスト教は、「神を中心に生きる」ということです。神に生かされ神に従うという生き方なのですね。
 キリスト教には輪廻の思想はありません。
 どんな罪を犯したものであっても、悔い改めてイエス様を信じる者は天国に行くことができます。

 日々神に帰ることによって、私たちはますますイエス・キリストの似姿に作り変えられていていきます。
 神に生かされる世界は(歎異抄で言う「自力をすてて【現代語訳は,心をひるがえして】他力に帰すれば」)、つまり「自力によらず、神の力に帰る」世界です。

 このように、親鸞の教えは、聖書の教えに似ていますね。彼は聖書を読んだであろうと言われています。
 日本でまず最初に景教にふれて、持ち帰ったのは空海らしいですが、田中先生のお話だと、中国で見つかった石碑に書かれている中に景教のことを「真宗」とも呼ばれていると記されているらしく、また三位一体の神のことも書かれているんだそうです。そのレプリカが、日本の高野山にあるそうですから、見てみたいものです。

 しかし、キリスト教の福音は、イエス様の十字架と復活です。
 なぜ、悪人が救われるのか。なぜ、悪人を救うためにイエス様はこられたのでしょうか。
 それは簡単です。善人(義人)はいないからです。全ての人が罪びとなのです。救われる対象です。よいお方はイエス様だけです。

 罪びとが自分の罪を知ってこそ、イエス・キリストの福音の力が理解できるのであって、自分を善人と思っている人々には、わかりません。
 多分親鸞は他のお坊さんに比べると、ものぐさ坊主だったと思います(笑)。行いによっては、救われないと悟っていたに違いないからです。

 日本に入ってきた景教も、空海の教えも、親鸞の浄土真宗も、今では形だけを求める宗教となっていますが、キリスト教も同じ様相を呈しています。
 「私たちは信仰の奥義(イエス・キリスト)を求めて、主に喜ばれるものとなる」、楽しいクリスチャンとなりましょう。

 それは、宗教学者でも、宗教家でもなく、イエス・キリストにある信仰者とでも言いましょうか、子供の歌のように「イエス様が一番、十字架が誇り」の人なのです。(た) 
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by mitiru-takae | 2018-02-28 19:48 | 満ちる | Comments(0)