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No.309 神から盗み続けていませんか? 2018.9.30

神から盗み続けていませんか?

 父(前牧師)の死後、中止していた早天祈祷会が、再開というか新たに第二期早天祈祷会として始まったのは2014年9月29日のことでした。
 そして昨日の2018年9月29日で4周年を迎えました。

 その直前、9月26日に早天祈祷会(以後略して早天と書きます)ではマラキ書の最終章を読みました。
ヨブ記から始まった私たちの早天で初めて、旧約聖書(創世記からマラキ書)を全部読み終わったのです。
 4周年記念日と重なり、感無量という気がしました。

 そのマラキ書に学んだことを、皆さんと是非共同の財産にしたいと思います。

人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。<マラキ3:8>

 私の父もかつてそうであったように、私も献金について大きな声を上げることはほとんどありません。
 しかし9月25日の早天で、このマラキ書3章を読んだときの心に響く素晴らしさを神に感謝しています。

 神様は「私たちに、どれだけのものをくださっているか、また私たちはそれを毎日毎日どれだけ湯水のように消費しているか」ということを自分に問いかけてみます。
 「そして感謝は?」と問うてみると、献金でさえユダヤ人のように正確には収入の十分の一を献金していないと気づいてしまいます。神様はこのことを盗んでいると言うのです。厳しいですね。

わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。<マラキ 3:10>

 十分の一献金(返金)を実行して恵みに溢れた経験をし、またし続けている方はたくさんいます。相良佐枝子姉は生前いつもこのことを声を大にして言っていました。
 「天が開くのよ…!」「ゆすり入れるほどに祝福が来るのよ…!」等々。

 さて、今日は献金のお勧めというより、「神様にとって、私たちがささげるもので一番のものはいったい何でしょう」ということです。
 献金はその一部にしかすぎません。
 
天に積めない、この世の宝(お金)でさえ、ささげることで溢れる恵みを注いでくれる神様ですから、十一献金はできるだけした方が良いですね。

 しかし、私たちがするべき、イエス様に喜ばれる第一のものは、感謝の供え物です。
 私たちの気休めや、自分が喜ぶためではなく、イエス様(神様)がお喜びになるささげものをしたいと思います。

 パウロは「信仰によって義と認められた」と言いました。この「認められた」(ローマ4:3 みなされた【新改訳】)という言葉は勘定に入れるという意味があります。
 つまり今まで私たちの罪は負債の勘定に入っていたのです。

 イエス・キリストを信じる信仰(イエス・キリストの信仰)によって義とされるとき、この罪という負債が、資産勘定(イエス・キリストの側)に入れられてしまい、もはや負債はなくなってしまっているという状態なのです。
 商人が毎日帳簿を付けるように、私たちも毎日この負債の勘定をイエス様の勘定に入れるということを、寝る前の祈りによってやっていきたいと思うのです。

 イエス様が喜ばれるささげもの、それは「砕かれた魂の悔い改めの祈り、神をほめたたえる、賛美のささげもの」です。
 今日一日の負債を明日まで残すことなく、今日一日で終わらせましょう。
 毎日決算しましょう。(た)
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by mitiru-takae | 2018-09-30 23:04 | 満ちる | Comments(0)

No.308 大分ローカルギャザリングを終わって 2018.9.23

大分ローカルギャザリングを終わって

 9月17日(月・祝)大分ローカルギャザリングを終えました。
 この日与えられたゼカリヤ書を通しての預言にはちょっとびっくりさせられました。
 オイコスチャーチの藤江先生が立って語ってくださった預言はこうです。
 「私たちが散歩をすると、その町の人々が救われます」
 つまり、私たちが歩くだけで、人々が救われるということです。そんなことがあり得るだろうか…という夢のような預言でした。

 実は、先生がおはなしした後に私はゼカリヤ書5章の話を少ししていたのですが、そのあとオイコスチャーチの皆さんが、5章から続けて8章まで読んだとき、びっくりしたのが次のみ言葉だったわけです(そんなことであっただろうと思います)。

万軍の主は、こう仰せられる、その日には、もろもろの国ことばの民の中から十人の者が、ひとりのユダヤ人の衣のすそをつかまえて、『あなたがたと一緒に行こう。神があなたがたと共にいますことを聞いたから』と言う」。<ゼカリヤ8:23>

 「ハレルヤ。外国語を話す私たちが一人のユダヤ人の袖を固くつかみます・・・・
が、次に霊的イスラエルの民である私たちクリスチャンの袖を未信者の人々がつかみ、『私たちもあなた方と一緒に行きたい。それは「神があなた方とともにおられる」と聞いたからだ』と言う、リバイバルが来るということです。信じます」【藤江由美子先生の話】

 つまり、藤江先生の預言の答えとも言うべきみことばをゼカリヤ書が教えてくれたわけです。
 「神が共にいる人」と一緒に居たいと、未信者の方々が言って、袖をつかみに来るというわけですから、私たちクリスチャンが歩くだけでも、その町が救われていくと言うわけです。恐るべし・・・・。

 これは橋本先生のお話の中でも、パウロやペテロたちの影を踏んだだけでも人々が癒されていったと言うお話と同じく、まさにこのような奇跡が起こる日が来るんだといって喜びました。

 あちこちでギャザリングのような集い(日本ではジーザスレインズジャパン、また、北アメリカギャザリングは、IHOPマイクビクルと合同でカンザスシティで開かれる・・・など新しいニュースも入ってきています)が始まっていき、次はこれらが皆一つに結ばれる時が来ます。もう既にそれは始まっていて、もうすぐ「結集」の時が来るのでしょう。一つになって初めて、「キリストの花嫁」となるのです。
 橋本先生は大きな声で「花嫁は一人です」と言っておられましたね。

 このギャザリングと銘打ってから何回目になるのでしょう。
 それまでの3教会合同聖会も長いこと続いていたわけですが、これが今のギャザリングにシフトしていく過程も、今振り返ってみれば、神様のご計画が着々と進んでいたのだと不思議にさえ思えます。

 自分の所属する教会の中だけでなく、同じ思いを持つ教会との交わりの中で、私たち一人一人の魂が整えられ、私たちの魂の中で命を吹き返した新しい霊について行くことができるように訓練されていったのでしょう。

 律法にがんじがらめになっていたクリスチャンが、聖霊様にふれられ、聖霊様について行くとき、本当に自由にされます。
 ギャザリングでは、毎回違った聖霊様のお導きを経験します。その中で私たちは、集会そのものの本当の自由、聖霊様による自由な礼拝を、体験出来て行っていると思います。
 神の家族が一つのところに集まる、礼拝するという時、同じように私たちが人を愛するという時、それは私の行為(神の戒めを守る)というよりも、主イエスと共に生かされるという行いであると知るのです。

 信仰の行いとは、私たちが何かをする、できるというのではなく、聖霊様自身(イエス様自身)の行為の中に私たちが入れてもらっているということのように感じます。

 これからも皆で集い、神の家族の愛を、つまり神の愛を見せていただこうと期待しています。(た)
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by mitiru-takae | 2018-09-30 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.307 神を礼拝する 2018.9.16

神を礼拝する

日の出る所から没する所まで、国々のうちにわが名はあがめられている。また、どこでも香と清いささげ物が、わが名のためにささげられる。これはわが名が国々のうちにあがめられているからであると、万軍の主は言われる。<マラキ1:11>

 9月10日(月)に別府FG教会でギャザリングのミーティングが行われました。

 この日、ユダヤ暦で新年を迎えましたので、皆で「あけましておめでとうございます」の挨拶から始まりました。ちなみに5779年が明けたのです。

 去る8月9、10日の二日間、愛知県にある「華人の家」という中華系の教会でローカルギャザリングが行われました。
 日本から140名、中国系100名、韓国から31名、北韓(北朝鮮)から6名、カナダから6名と、計283名もの神の家族が集まったそうです。【HAZAH10月号参照】

 私たちが集まる大きな聖会では、癒し、奇跡、悔い改め、解放、喜び、賛美など、色々な体験をしたり、また期待したりします。
 そんな中でギャザリングの集いというのはやはり一味違うところがあります。
 この集会の賛美や、預言、お話の中で、癒しも奇跡も起こっているのですが、それを当然のようにとらえ、特に表に出したりしないというか、それ以上に「聖霊様と親しく過ごせることが嬉しい」といった感じが大きいのです。

 デミアン先生方率いる集まりのようでそうでない、本当に聖霊様の導きに沿って始まっていく集会です。しかし、「集会というより『家族の楽しい時間』のようだ」と、先生自身は語っています。
 また、先生は、「私たちの体・感情・魂は、霊について行かねばなりません。聖霊様が何を語っているかに注意しましょう。この時、聖霊様があなたに語っていることを、しっかりと分かち合いましょう。」【HAZAH10月号より】とも語っています。
 聖霊様のお導きが一番なのですね。
 果たして私たちは聖霊様について行けているのでしょうか?思いのすべてを聖霊様に向けてみようではありませんか。

 私たちの教会でも、祈祷会、聖書学習会、聖会などすべての集まりの中で、聖霊様のお導きを求め、そこにいるお互いの感じたこと、思いついたことを語り合い、その中から教えられ、啓示していただいたことなどを共有できたりして、とても恵まれています。

 毎回そうですが、今回9月17日(日・祝)のローカルギャザリングも、主イエス様が私たちに、何をしようとされているのか、期待に胸が膨らみます。

 私たちにとって大切なことは、私のうちに生きて働くイエス様(聖霊様)の証をいつも心の中に持たせていただくことですね。
 天の父を「アバ父よ」と呼びあえる「神に砕かれた従順な心をもった人たちの教会」、また、神の家族の証が毎日毎日ぞくぞくとあふれ出て、「喜びも悲しみも共に分かちあえる教会」、これが私たちの教会のコンセプトであると思います。

 私たちはことごとに神を礼拝していく真の礼拝者として、この地上におかれています。
 いつも神をあがめ、礼拝する事は、神の主権を認め、神の全能の力を認めることです。
 そして、その御手に寄りかかって、信頼して行くことでしょう。

 私たちがどれほど神を頼り切ったとしても、神は倒れるお方ではありません。また、神の御手はどれほど遠くに延ばしても、世界中の求める人々に多くの御手を伸ばし尽くしたとしても、切れることも、尽きることもないお方です。

またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。<マラキ3:1>

 真の礼拝をささげる者の心の中に、主イエス様は即、喜びをもって応え、来てくださるお方です。満々感謝!(た)
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by mitiru-takae | 2018-09-30 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.306 天国のはなし(2) 2018.9.9

天国のはなし(2)

イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。<使徒1:10、11>

 弟子たちと共に上空を見上げてイエス様のお姿をいつまでも見送っていたのは、私たちの姿でもありましょう。

 イエス様は上空に消えたのではなく、私たちと永遠に共に住むために、天に帰られたのですから、「なぜ天を仰いで・・・」と言われても仕方がありません。

 神様の愛を知りました。
 イエス様の十字架の贖いのわけもわかりました。
 でもどうしても、完全な救いは死んで天国に帰ってからだったり、新しい天国における霊の体で生きて初めて全てのことわかるように思えたりします。

 しかし本当に、完全な天国の命と体は死ななければ与えられないのでしょうか。
 今は肉体をもって生きていますが、実は魂の奥底(霊)で、私たちは既に死なない命を実現していただいているのです。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。<Ⅱコリント5:17>

 このみ言葉は神様が啓示してくださった奥義です。

 私が生まれてからずっと持っている霊は、イエス様を知った時から、新しく天国人としての霊に変えられているはずです。
 この世の人と同じではありません。み言葉が確かに「全てが新しくなった」と言っているからです。
 この地上を離れるとき、私たちは何の抵抗もなく、天に帰ることができるのはそのためだと思います。

わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。 <ヨハネ14:2~3>
 
 イエス様が天にお帰りになるわけは、この場所を創るためです。
 そしてこの場所は、イエス様が私たちと共にいる場所(住まい)です。

また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。<ルカ17:21>

 私たちはこの世に生きていても、死んでも、すでに天国人です。
実は、私たちは、イエス様を信じて新しく作り変えられた時、魂の中に天国を持つものとなったのです。イエス様が共に住んでくださる場所を、一人一人が持っているのです。

 私たちはいつも心の中に天国を持っています。それはいつも父なる神の場所とつながっています。
 なぜなら、イエス様が神様と私たちをつなぐ道(架け橋)であるからです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。<ヨハネ14:6>

 「天国ってどんなところ?」と聞かれたら、何と答えればいいでしょうか。

 私はこう答えます。「イエス様が私と共にいてくださる場所です」。
 天に帰っても地上においても同じです。アーメン! (た)
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by mitiru-takae | 2018-09-30 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.305 天国のはなし(1) 2018.9.2

天国のはなし(1)
 
 木曜日の学習会で、「天国にいったら父ちゃんに会えるんやなあ」というE姉妹の切実な言葉から、天国の話になりました。

 大好きだった人、愛する子供、妻、夫・・・というように、みんなと天国で会うのを楽しみにしていますという方は多いのではないでしょうか。

 そこで思い出すのがグレイスチャペル安曇野の須佐二三子先生の天国に行った話です。

 天国は、全世界のどんなところよりも素晴らしいところで・・・金色に光り輝き・・・クリスタルガラスのような虹・・・・ダイヤモンドのように色々な色に輝く水のような・・・【「突然の死に遭遇し、天国を見、生かされた」より】

 先生は第3版くらいまでこの本を出していると思いますが、天国の中のどこにも、知っている人にあったということは書いていません。様々な色の、それも赤ちゃんの頭ほどもあるような宝石がたくさん輝いているところのようでした。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。<イザヤ43:4>【新改訳】

 私たち一人一人が天国で光り輝いていた宝石のように、神様がとても大事にしてくださっている素晴らしい「宝物」なのですね。
 そして、神様にとっては私たちは、天国にいるときも地上にいるときも、同じように素晴らしい価値ある尊いものなのです。

 グレイスチャペルの須佐先生のお話に戻りますが、先生の冊子「天国では」の中で、気になることを言っていました。

 よくこういう事を言われたり質問されます。
「天国で、会いましょう」、「天国で、先祖(両親)が見守っている」、「天国で、だれと会われましたか?」(須佐二三子著【天国では】参照)

 しかし、先生は天国では誰とも会っていませんでした。
 ただ三位一体なる主の真ん中で、愛に包まれていた思いだったそうです。

 これを聞くと、今の私たちは「そんな寂しいことを」とか、「えー、会いたいですよね」とか思ってしまうのです。しかし、須佐先生はそんな懐かしい人たちには会っていないのですね。天国では必要のないことなのでしょう。

イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。 <ルカ20:34,35>

 果たして天国には人間がだれもいないのでしょうか?両親はいないのでしょうか。「あのお世話になった方に会いたかったのに」という願いは聞かれないのでしょうか?天国では私たちの想像を絶する御霊の体がありそうです。

すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。<Ⅰコリント15:49>

 さあ、そこで私たちの霊の母国である「天国」はどこにあるの?という疑問も浮かんでくると思います。
 わたしたちが臨死体験でもしないかぎり、生きたままでは天国を見ることは不可能なのでしょうか。

 イエス様は天国の話をたくさんしてくださいましたが、殆どがたとえ話です。
 しかし、そのお話の中で天国の場所について、イエス様は核心的なことを言って下さっています。

また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。<ルカ17:21>
ーつづくー(た)
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by mitiru-takae | 2018-09-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.304 イエスに神の権威を見る 2018.8.26

イエスに神の権威を見る

イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。<マルコ4:40、41>

 「イエス様が共にいるので『あなたたちは怖がらなくてもいいのです。怖がる必要がないのです。信じてくださいね』」といくら口を酸っぱくして、自分の周りにいる人から言われたとしても、また私が講壇から言ったとしても、実際にはどうでしょう。
 人間には命の危険を知らせる「痛みや不安」という感覚があります。
 ですからこの不安がいらないと言っているわけではありませんね。
 
 ただ、この不安の真っただ中にいるとき、痛みで耐えかねるほどの苦しみにあっているときなど、まさに「その時」の中心にいるあなたに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とイエス様が言ってくださるのです。

 嵐が起こるであろうガリラヤ湖の只中に、あえて漕ぎ出したイエス様のお心は、ここにあると思います。
 漁師であるペテロたちにとっては、来るべき嵐は予測できるものです。
 しかしお言葉ですから、イエス様と共に漕ぎ出しました。
 逆に言えば、イエス様と一緒にいるので漕ぎ出せたわけです。
 イエス様があとから来ようと、舟の中で寝ていようと、「わたしを捨てず、離れない」事実を、漕ぎ出す時に知ることができるのです。

 しかし、イエス様の奇跡や、恵みの業は、漕ぎ出した時に体験できるものかもしれませんが、それを見るまではどうしてもつぶやいてしまいます。

「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」<マルコ4:38抜粋>

 この不信仰な言葉を吐く弟子たちですが、いわばイエス様に甘えているという心の様子が伺えてしまいます。
 駄々っ子の言葉ですね(笑)
 自分では解決のできない出来事に直面したとき、周りの頼りになる人に「助けてください」と言っていくものです。
 しかし弟子たちは、低姿勢で「助けてください」ではなく、「おぼれてもかまわないのですか」ですから、この弟子たちも強いというか、このお方に命を預けているのだから、救ってくれて当然という、ちょっと言いすぎかもしれませんが「素晴らしい信仰を持っている」ようにも見えます。

 ここでイエス様が「信じてほしい」と弟子たちに願っていたことは、まことにどうにもならない「大自然の驚異」をも難なく従わせることができるお方のことなんだと思うのです。
 
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。<マルコ4:41>

 ここの弟子たちの恐れは、「全能の神、すべてを従わせることができる神」に対しての畏れであり、このことを通してイエス・キリストの背後に全能の神の権威を垣間見たのでありましょう。

 普段は、イエス様がまるで沈黙しているように見える、眠っているようにも見える、そんな信仰の薄い私たちでも、嵐に直面したときすぐにイエス様を起こせるように、日ごろの魂をイエス様に直結させていたいですね。そのためにこの証を紹介したいと思います。(た)
   
日岡だよりNo.598より抜粋
最近、やや心境の乱れあり。しかし朝祷のあと、中野君に「なんで君この頃調子いいのか」ときくと、「山室軍平先生の本で教えられました。聖書を学ぶこと、祈ること、この二つを実行しはじめてからすっかり変りました。最近は、少々心が暗くなるような事がおこっても、神様!と言って帰ると何でもなくなります。」大いに感謝した。
【「神の息よ吹け」1974年7月号(「心に満つるより」改題・通巻第10号)「日々新生」より】
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by mitiru-takae | 2018-08-31 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.303 種まきが種をまく時(神の国の奥義) 2018.8.19

種まきが種をまく時(神の国の奥義)

そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。
それは
『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』
ためである」。また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。種まきは御言をまくのである。<マルコ4:11~14>

 イエス様はよくたとえ話をしました。
 ところが弟子たちにはその意味がよくわかりませんでした。ですからイエス様は弟子たちに説明しました。種まきのたとえもそうです。
 「種がどのようなところに落ちたのか、そしてみことばの種は、どのようになっていったのか」がよくわかります。
 また、種が落ちた地がもし私たちに置き換えればどういう人、また、どういう心の状態であるかなどもよくわかります。

 神の御言葉を受け取った人々とは<マルコ4:14~20参照>
【道ばた】・・・自分自身の今までの経験や、地域の伝統、習慣などに心がとらわれるので、サタンに機会を狙われやすい人。
【石地】…みことばを簡単に受け入れはするが、感情にとらわれやすく、自分の意志で、み言葉を持ち続けることができない人。
【いばら】・・・霊(心や魂の深いところ)的にも、肉(この世にかかわるところ)的にも情欲の多い人。多くの悩みを持っている人ともいえます。
【良い地】・・・砕かれた(耕された)神に従順な魂を持つ人。「イエス様という一粒の種が地に落ち死ぬことによって、自分たちは多くの実を実らせることができる」ということを信じる人たち。

 こうしてみると実にいろいろな地があります。
 自分はどれにあてはまるだろうと、考える方はまだよいですが全く他人ごとの人もいるわけです。

 しかし神様が下さる種は皆同じ種です。
 神様がまいたみことばは、私たち一人一人がそれを聞いた時、実はとても怖いことですが、すでに裁かれているのです。
 種を受け取ったときすでに結果が出てしまっています。
 道ばたも石地もいばらの中も、種がうまく育つのはとても無理な場所です。

 受け取ったとたんに、私の罪が暴露される怖い、神様の種まきですから、良い機会です。わたしがどのような地であるのか知っておきたいですね。
 このことは私たちが「神に立ち帰る良い機会」でもあります。
 私たちは日ごとにみ言葉にふれ、事ごとに、私の地が今どういう状態であるのか、いつも見せられます。しかし、み言葉にふれねば、それもわかりません。
 毎日みことば(聖書、また祈りによって直接イエス様に)にふれましょう。

 また、わたしたちは神から頂いた種をもって、種まきにでかけます。
 果たして良い地を選んで種をまくなどということができるでしょうか。
多分出来ないのではないでしょうか。
 なぜならこの地に種をまいてどうなるかは、奥義です。隠されていることなのです。
 ですから私たちが種まきをするときは聖霊様にお任せして、私が選ぶのではなく、聖霊様に選んでいただくのです。それは具体的にどうすればいいのでしょうか。感情や好き嫌いは後回しにして、はっきり言って、思い付きでもいいのです(こういうとちょっと極端ですが…)。言い訳をせず、とにかくみことばを運ぶものとなりましょう。

 隠された奥義は、明かり(イエス・キリスト)によって明らかにされます。
 奥義が顕れ、照らし出される時は、最後の審判で神の前に立つ時そのものです。
 私たちはみ言葉によって既に自分の罪を知らされ、また知っています。
 わたしの罪を担い、神の前で「この人には罪が一つもありません」と言ってくださるイエス様を、誰もが信じぬいていきたいと願うでしょう。必ず信じさせてくださるのもイエス様です。アーメン! (た)
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by mitiru-takae | 2018-08-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.302 ごらんなさい ~イエスが共に住む人たち~ 2018.8.12

ごらんなさい
~イエスが共に住む人たち~

すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。
そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。<マルコ3:33~35>

 今日、私たちの教会に、イエス様が入ってこられて、会堂はぎっしりと埋め尽くされ、皆が癒しと解放の期待に瞬きもせずに息を殺している…と、そんな状況であったならば、どうでしょう。

 想像してみるだけで、なんと素晴らしい光景だろうかと、ワクワクしてきます。

 イエス様の周りはいつも、期待に満ちた人々で埋め尽くされていたに違いありません。そして、その一人一人には、それぞれの家族や、大切な人々がいたに違いないですね。

 イエス様にもこの地上においての家族がいました。
 父ヨセフは早く召されたかもしれませんが、母のマリヤ、そしてイエス様の兄弟たちです。
 ついこの間まで、共に暮らしていたのでしょうが、突然イエス様は家を出て、バプテスマのヨハネのところに行き、バプテスマを受けると、そのまま家に帰らず、荒野へと行ってしまわれたのです。
 このあと、イエス様がマリヤたちのところへ帰ったならば、まあ、問題はないわけです。しかし「神の子イエス」にとっては、帰るべきところはマリヤたちがいる家ではありません。
 
 イエス様は、この地上に「私には枕するところがない」と言われました。
 イエス様がこの地上で本当に枕したところは、十字架の上でした。

ではイエス様の住まわれる家とは、いったいどこでしょうか。

ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが…<マルコ3:32前半>

 このイエス様を取り囲んでいる人々を見まわしました。
 そして「ごらんなさい」と言われたのです。
 群衆と書いていますから、とにかく大人数でしょう。
 家の中に入りきれないほどの人々もいたのかもしれませんが、イエス様に一番近いところに、イエス様を囲んで座っている人々を見回していいました。「神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」

 神のみこころを行う者は誰でも、イエス様の母、兄弟といいますが、果たして、私たちは神の御心を行うものであるでしょうか。
 イエス様は、私たちを見まわして、「ごらんなさい」と言ってくださるでしょうか。

 私たちが優秀な人であるのでイエス様は「私の母、兄弟」と呼んでくれるのではありません。ただ、何もわからずとも、ただイエス様に期待しているだけです。

 また、希望をもってイエス様の周りに集まっています。
 どこまでもついて行き、イエス様から離れないでいると「必ず癒される、罪より解放される」と信じ続けることができるようになります。

 イエス様のそばにいるということが一番大切なことでしょうか。それが真の家族だと思うのです。
 たとえイエス様を知らない人たちであっても、家族は互いに助け合い、愛し合うのですから、神の家族はなおさらです。

 イエス様が住まわれる家、それは、私たちの魂のど真ん中です。

あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。<Ⅰコリント3:16>

 神の家族、それはいつもイエス様が共に住む人たちのことですね。
 「ごらんなさい」とイエス様はあなたを指して言われます。(た)
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by mitiru-takae | 2018-08-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.301 十二使徒たち 2018.8.5

十二使徒たち

さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。<マルコ3:13~15>

 すぐに言えるようですぐに出てこない十二使徒の名前ですが、皆さんはいかがですか?

 学生の頃のようにテストでもあれば必死で覚えるでしょうが、大人になって、「いや、必要な時はいつだって言えるさ」などと思って、何もしないでおくとずーっと、そのままですね。

 一つには、4つの福音書にでてくる名前が同じでない弟子がいるということ。また、使徒なのか、執事なのか、はたまた、ただの弟子なのかと、同じ名前の弟子がいるのでわからないということもあります。
 こういうことが、覚えるのがめんどくさいという理由の一つでもあるのでしょう。

 今日は使徒と呼ばれる12人、いえ13人の名前を挙げてみたいと思います。

【シモン(ペテロ)】
 イエス様はシモンに「ペテロ(岩)」という意味の名を付けました。ペテロは「ペテロの手紙」を書いています。
【アンデレ】
 シモンの兄弟であり、二人は漁師です。二人ともバプテスマのヨハネの弟子でした。またシモン(ペテロ)をイエス様に紹介しました。

【ゼベダイの子ヨハネ】
 ペテロたちと同じ漁師であったヨハネはパトモス島にとらえられていました。しかし、そこで幻を与えられ、のちにヨハネ黙示録を書きます。他にヨハネによる福音書、手紙などを書いています。
【ヨハネの兄弟ヤコブ】
 このヤコブは大ヤコブと言われています。ヨハネとヤコブの二人はイエス様からボアネルゲ(雷の子)という名を付けられました。

【ピリポ】
 5000人の給食の奇跡の時「人々にどこからかパンを買ってきて食べさせようか」とイエス様に言われ信仰を試されたことがあります。
【バルトロマイ(ナタナエル)】
 ピリポがバルトロマイを連れてくる前に、イエス様は「あなたをイチジクの木の下で見た」と言っていました。

【トマス(デドモ)】
 イエス様の脇と手の傷を見ないとイエス様の復活を信じないと言った弟子です。
【取税人マタイ(レビ)】
 小ヤコブと兄弟、マタイによる福音書を書いたと言われています。

【アルパヨの子ヤコブ】
 大ヤコブと区別するために小ヤコブと呼ばれました。
【タダイ(ヤコブの子ユダ)】

【熱心党のシモン】
 熱心党とは反ローマ帝国の過激派組織です。
【イスカリオテのユダ】
 このユダがイエス様を裏切りました。
【マッテヤ】
 使徒行伝の時代に入ってユダの代わりに12人目の使徒となりました。

 ざっと書いてみましたが、聖書の中には、まだまだたくさんのエピソードがあります。
イエス様のもとに選ばれた弟子たちは、本当に様々な境遇、考え方、生き方仕事をしてきた人達です。
 
 この12人の使徒ではなくても、復活のイエス様により新生し、私は使徒であると断言できるパウロ。
 このパウロをアンテオケに連れてきたバルナバ。

 また、使徒と同じ名前ですが、聖霊のお導きによって、エチオピアの高官に福音を語り、洗礼を授けたピリポ。
 またパウロの見ている前で石を投げつけられて殉教したステパノ、またパウロの伝道旅行に従い、ペテロの通訳者でもあったマルコの福音書の筆者であるマルコなど、聖書を読んでいくと数多くの弟子たちが出てきます。

 イエス様が生きているときも、天に帰ってからも、今に至るまで、イエス様の弟子は増え続けています。
 私たちも使徒行伝28章に続き、今の時代(使徒行伝29章)の中で聖霊様と共に働くイエス様の弟子です。ハレルヤ! (た)
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by mitiru-takae | 2018-08-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.300 力を奮い起こせ (満ちる第300回記念号) 2018.7.29

力を奮い起こせ
(満ちる第300回記念号)

しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた(ダビデはその神、主によって力を奮い起こした【新共同訳】)。<サムエル上30:6>

 いよいよ「満ちる」も、300回を迎え、よくやってきたなあと思う半面、まだまだこれからだなあとも思います。これからも、力を奮い起こして、主によって励んでいきたいと思います。

 牧師按手礼5周年記念礼拝も同じ時期に迎えることができ、とてもタイムリーでした。
 礼拝司会の妹が新生教会の5歳の誕生日だと言ってくれた時には、本当に感無量でした。
 ほんとだ、父帰天から約6年、なんかやっと父を安心させられることができるのかな?とも思ったりして、あらためて責任の重さを感じて、こころなしか、緊張しています(笑)。
 しかし、私ではなく、神の側にいつも立ち、主イエス様のお心によって、歩み続けるものでありたいと祈っています。

 毎日が幸せで、何事も問題がない時は、「奮い起こす」という心の状態は、さほど体験しません。
 ところがアブラハムの「望みえないのに望みつつ信じた」信仰に似て、再び起き上がることもできないくらいの苦しい、つらい状態の時「勇気などかけらもないのに、勇気が必要」ということが起こってくる時があります。

 ただ、これが「主によって」可能であるというところが、イエス様を知らない方々にはわからないところです。いわゆる世の中の精神の強い人たちが頑張って成し得るということとは、ちょっと違うものなのです。

 主イエス様は私に働きかけてくださって、「できない」を「できる」に変えてくださいます。
 こういうと、よく、「では神はどうして私に望む通りしてくれないのか、神は何にもしてくれない、何でもできるんだったら、これもやれ、あれもやってのけろ・・・・」等々、いやはや、人間の心の中は何んと身勝手で自己中心でしょうか。(笑)

 以前、このような交通標語を見て、なるほどと感心したことがあります。
「出せるスピード 出さない勇気」
 スピードを出すのが好きな人は、なかなかゆっくりは走れません。いつの間にか、気持ちよく好きなスピードで走ってしまっています。ちょっと気を付けてスピードを緩めると、突然の事態に対処することができるものです。
 スピードを出す人にいきなり「スピードを出すな!」と言っても反発しますが、スピードを出さないことを勇気としたのはなかなかです。勇気を必要とする心に語り掛けているのです。そうか、勇気がいるんだ!と思いました。
 
 勇気って、どこか自分の思いとは反対の方向に奮い立つことによって生まれてくるような気がします。それは自分の肉の思いを捨てることでもあるのでしょうか。捨てたとたんに私たちの心の中にイエス様の力が湧き起こってくるのでしょう。

 たとえ、私たちに悪い知らせが来ようと、できもしない無理難題が来ようと、突然の病で不安に襲われそうになっても、主にあって力を奮い起こしましょう!その時主イエス様の勝利がわたしにあることがわかります。

これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。<ヨハネ16:33>

 主イエス様によって、私は勝利します!
 「満ちる」が300回続いたことを心から感謝します。 またこれからも「満ちる」を書いていけることを感謝します。
 牧師として5年間、奉仕できましたことを心から感謝します。これからも教会と主の聖徒の皆様に仕えていけますことを感謝します。
 ことごとに勇気を出して、立ち上がっていく、決して逃げない、そんな底力をイエス様が私の魂の中で持ち続けてくださっていることを深く感謝いたします。
 すべての栄光を父なる神へお帰しいたします。アーメン! (た)
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by mitiru-takae | 2018-07-31 23:05 | 満ちる | Comments(0)