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カテゴリ:満ちる( 388 )

No.401 イエス様の荷は軽い 2020.7.5

イエス様の荷は軽い

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。<マタイ11:28>

 自分の重荷は担ぐのが当然と思い、我慢して担いで歩くうちに、一歩も前に進むことができなくなるくらい疲れて動けなくなってしまう。
 そしてやっと我に返り、誰かに助けを求める。

 この重荷が人のものだとしたら、あなたは持ち主の代わりに担いで、ともに歩いて行けるだろうか。
 自分の重荷でさえ、どうにもならないのに、人の分まで持っていけるだろうか。不満をこぼしながらでさえ担ぐことはできないのが私たちではなかろうか。

 ところが聖書の中にはこれをやってのけた人たちがいる。
 イエス様はこの人たちの信仰をとてもほめた。

すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。<マタイ9:2>

 この人たちが、家族なのか、知人なのか、はたまた赤の他人なのかはわからない。
 他の福音書を見ると、大勢の人々をかき分けて、屋根に上り、その屋根をはいで、イエス様の前につり下ろしたというのだから、彼らの真心は素晴らしい。
 中風の彼はというと、動けないし、助けさえも求める元気もない(声も出なかったかもしれない)、周りの人の言いなりだし、心の中までは誰にもわからない。
 せめて彼が逃げ出す力もなかったことは幸いだ。
 イエス様はこの男のかたくなな心を分かっていたのだろう。
 多分「しっかりしなさい。誰もあなたを責めないよ、もう大丈夫だ。あなたの罪はゆるされたよ」と、優しく言ったのだと思う。

 表面だけしか見ることのできない律法学者の中には、悪い思いを抱くものがいたようだ。
 律法学者ならずとも、私たちでさえ、口先だけなら、無責任に「あなたの罪は許された」といえる。
 だが、歩けない人に「起きて歩きなさい」とは無責任には言えないのである。

 しかし、イエス様にとっては、あなたの罪はゆるされた、と言うのも、起きて歩け、と言うのも、同じである。

しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。すると彼は起きあがり、家に帰って行った。<マタイ9:6、7>

「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」(2017年版新改訳参照)

 中風の男の人は、病気のまま4人(担ぎたかった候補者はもっといたのかもしれないが)の人に担がれて、イエス様の御前に連れてこられた。
 私たちが病気や禍で苦しんでいるときも、世界中の名も知らない神の家族のとりなしの祈りが、この4人の人たちのように、私をイエス様の御前に連れて行ってくれる。

 罪を赦され、病を癒されて、私の人生の重荷のすべてを、イエス様自身が担いでくださった。

 自分の寝ていた病の床はずいぶんと重いものであったろう。
 だが、天の国への道を見つけた私たちは、イエス様の荷を担いで歩いて行ける。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。<マタイ11:29>
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。<マタイ11:30>

 イエス様のくびきも、荷も学びのためである。
 誰でも負うことができ、担ぐことができる、魂を休ませてくださるものなのだから、毎日、イエス様のもとへ帰って学ばせていただこう。
 4人のように、誰かをイエス様の御前に担いでいける祈りの人となろう。(た)
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by mitiru-takae | 2020-07-05 16:46 | 満ちる | Comments(0)

No.400 人生多端 恩寵無限(父に倣って生きる) 2020.6.28

人生多端 恩寵無限
(父に倣って生きる)

わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。<1コリント11:1>

 表題(釘宮義人による)の言葉を書いた谷後先生からの5月25日消印のハガキをいただきとても嬉しかったことを、何週か前の満ちるに書いたばかりである。
 人生多端だなあと、思わされる今日この頃だ。

 コロナ禍による非常事態宣言や、少し収まったかと思っても、また、また感染者が出るという油断のならない毎日である。
 体は自宅で時間に余裕こそできるが、恐れや不安で心の中が多端(あれこれと心配事で忙しい)であった方も多いであろう。

 それまで一生懸命仕事に打ち込んできた人たちが、自粛のため腕を振るう場所をとられ、そのためにキャリアが奪われていくのは、とてもつらいものであったと思う。
 仕事が再開できてもなかなか、元通りになるまでには時間がかかりそうだ。

 今の自分が満足している幸せな生活環境が、ある日突然奪われてしまう。
 いつも緊急事態の中を生きているなんて、耐えられるものでもない。
 しかし、世界の中には、コロナ禍でなくとも、そのような方たちはたくさんいる。
 ちょっとだけ平和ボケしていた私たちは、生き方の根底を変える必要があるかもしれない。

  成功が万物の尺度であり
  快楽が人生の充実であると
  豚やミミズがそう思うのならよい
  人間にはもっと徹した生き方があろう  ―義人―

 これは、私が20代のころ、父が送ってくれた手紙の中の一文である。
 多分、仕事もできて充実して、外から見れば信仰そっちのけで、やりたいことをして楽しんでいる私に、くぎを刺したのだろう。
 私には、恩寵無限という、神の恵みによって生かされている喜びというものがよくわかっていなかった。
 今思えば恥ずかしい限りである。
 父自身、事業にある程度成功して忙しい日々を過ごしていたころの言葉だ。感慨深い。

 父が帰天してからの教会の礼拝や週報の形については、ほとんどが父の真似事であったのだが、「満ちる」もそうであった。
 とても長い前置きであるが、その「満ちる」が、ついに今週でNo.400となったのだ。
 たとえ真似事でも、400回続けてこられたのには我ながら感心している。

 もうすぐ7月15日が来る。
 牧師按手礼から7年が過ぎた。
 父を悠々自適な信仰者と思っていた私たちだが、本人はそうでなかったらしい。
 最後の日記に「私は自由なクリスチャンになりたい」という一文があったのは見逃がせなかった。
 父ほど自由なクリスチャンはいなかったと思うが、本人はそんなこと思っていたのかと、ちょっと不思議な感じですらある。

 私も何とか父の自由な最期の「凡聖」なるものを目指して、進んでいきたいものだと思っていた。
 父がよく言っていた言葉がある。
 「自分で覚悟したことは何とか克服できる。問題は覚悟してなかったことがしばしば起こる。その時こそ信仰だ。」

 私の牧会も当初困難がつきまとった。
 当然といえば当然である。
 何もかもが信徒のそれとは違い、一つは講壇に立てば誰も助けてくれないのだ(最近は物忘れなところを助けられているのがおかしい)。
 講壇と言い表される、牧師のあらゆる仕事は、私にとって過分な主の訓練であったようにも思えるが、しかし今はその成果のおかげか、少しずつではあるが前に向いて進んでいるようだと自分では思っている。ハレルヤ!

 満ちるNo.400も、恩寵無限、神の恵みと、読んでくださる皆さんの温かい心のおかげで、ここまで続けてくることができたのである。感謝!
 さあ、今日からまた歩いて行こう。(た)
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by mitiru-takae | 2020-06-28 20:09 | 満ちる | Comments(0)

No.399 このお方はどういう人なのだろう 2020.6.21

このお方はどういう人なのだろう

それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。<マタイ8:23、24>

 ある律法学者には「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。<マタイ8:20>と言われた。

 「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。<マタイ8:21>と言うある弟子には「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。<マタイ8:22>と言った。
 
 イエス様は不思議なほど、人の心の奥がわかる。
 また、イエス様の選びのわざは、人の思いとは異なり、神のみ心によって行われる。
 神の選びと導きは、私たちにとっては時に不思議に思える。

 「ついて行きたい」と言えば、「寝るところがないよ、いいのかな?」
 「いやちょっと用事を済ませて」と言えば、「ほっといてついて来なさい」という。
 
 では私たちはどうすればいいのだろうか。
 イエス様にとってはとても簡単、「私の言葉に従いなさい」である。
 そしてその言葉には、言うべき時と、権威がある。

 ある時は「可」、そしてある時は「否」である。
 私たちはイエス様に対していつも「可」であるべきだが、愚かな私たちにとってはなかなか難しい時が多い。
 そしていつも妥協点を探すのである。

 そのような私たちではあるが、とにもかくにも「イエス様に従う」という、このことに妥協案はない。
 イエス様の弟子たちは、とにかく、従った。
 だからこそ、次の展開がある。

そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。<マタイ8:25、26>

 イエス様と同じ船に乗った弟子たちである。
 そばにはいつも助けてくださるお方がいる。
 私たちもイエス様に従ったならば、いつもそばにおられる主を呼び求めることができるし、この時の弟子たちのように今の状況を叫んで伝えることも可能だ。

 船は神の教会でもある。
 愛する家族が恐れ、苦しむとき、誰かが口を開いて「助けてください」と叫ぶならば(どうか我こそがと、とりなしてほしい)、主は私たちを助けないでどこかに行ってしまわれるだろうか。
 そんなことはない、どんな嵐も風も叱って止めてくださるであろう。
 船から離れているときでも、水の上を歩いてきてくださるお方である。
 魂(心)が一つの同じ船に乗っているならば、神はどこにいても、その御腕を伸ばして助けてくださる。

 弟子たちと同じようにまだまだ信仰の薄い我々である。
 この少ない信仰をどんどん増やしていこう。
 どのようなことでも、祈れば、応えられたことを知ることができる。
 祈らねば、何も起こらない。
 祈らねば感謝も、喜びも起こらない。
 人の思いをはるかに越えて、応えてくださる主イエス様は、わたしたちの小さな信仰でさえ、重く受けとめてくださり、大きくしてくださる。

彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。<マタイ8:27>

 嵐が静まったとき、風が止んだとき、私たちは、はっきりと告白しよう。
 このお方こそ、神のひとり子、私たちの主イエス・キリストである。(た)
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by mitiru-takae | 2020-06-21 17:50 | 満ちる | Comments(0)

No.398 生きている 2020.6.14

生きている

イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。<マタイ8:22>

 イエス様が死人と言われた人たちとは、だれのことであろうか。
 まだイエスを救い主と知らない人のことであり、神を神としない人たちのことである。
 つまり、イエス様のイノチで生きていない人たちのことである。

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。<ガラテヤ2:20>

 ご自身をささげられたキリスト・イエスの信仰が、私のうちに生きている。
 律法の行いによらず、ただ神の恵みによって生かされている、だから私たちはイエス・キリストのイノチによって生きているんだ、といえる。

 「手のひらを太陽に」という歌が、以前LINEグループチャットの中で話題になったことがある。
 「僕らはみんな生きている」で始まる日本の童謡だ。
 「生きている」ということを子供でも分かる言葉で、伝えてくれる。
 彼はクリスチャンだとは聞いていたが、いやいや、やなせたかしさんは素晴らしい信仰者だ。

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
 (中略)
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ  (作詞やなせたかし・作曲いずみたく)

 やなせたかしさんが描く絵本やアニメに子供たちの大好きな「それいけ!アンパンマン」というのがある。
 おじさんがパンを焼く製造過程の中で、アンパンの中にイノチの星が入ってアンパンマンになるという素晴らしい正義のヒーローの物語である。
 人も物も、その中にイノチが入ってこそ、生きるものとなるんだ、バイキンマンだって生きている…。
 そう考えると心の中が熱くなってくる。
 素朴な子供の心を通してイエスの愛を感じさせてくれるアニメだ。

 コロナ禍の中で考える。
 ここがエデンの園になれば、トラや、クマどころか、菌類もウィルスも、すべてのものが神のイノチで生きるようになると、互いに害を与えるものはいなくなる。
 今でも、菌の中には人にとっても有益なものがあるように、ウィルスも人間にとって、とても重要な役割をするものとなるはずだ。
 共にイエス様を慕い喜んで、菌だって、ウィルスだって、ミミズもアメンボも、イエス様を待ちわびて日々を生きる、こんな世界に早くなればいいなと思う。
 しかし、まだまだ、その時は来ていない。

 さて、マタイ8章の癒しの中でとても簡単に書かれているが、「イエス様大好きおばさん」とでもいおうか、ペテロのお姑さんの癒しが、私は大好きである。

それから、イエスはペテロの家にはいって行かれ、そのしゅうとめが熱病で、床についているのをごらんになった。
そこで、その手にさわられると、熱が引いた。そして女は起きあがってイエスをもてなした。<マタイ8:14、15>

 なんと、このお姑さんは癒された途端、起き上がってイエス様をもてなしている。
 私たちも、イエス様大好き人間になって、病気で動けないときでも、心はイエス様に明け渡していこう。
 すると、イエス様自らズンズンと部屋に入って来て、イノチの手を伸ばしてくださる。
 満々感謝!(た)
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by mitiru-takae | 2020-06-14 15:47 | 満ちる | Comments(0)

No.397 驚き 2020.6.7

驚 き

イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。<マタイ7:28、29>

 イエス様の山上でのお話を聞いた人たちは、ひどく驚いたようだ。
 私たちもこの場にいたかった、などとよく思うものである。
 実際にイエス様が語られると、私たちは、そのお言葉が、学者のような難しい言葉でもなく、偉い数学者のようでもなく、宇宙のすべての知識を超えた神の知恵の響きに、恐れおののくであろう。

 もうすぐ「満ちる」が400回を迎えることを、妹が気付いてLINEで教えてくれた。
 私はというと、ここ一か月くらいは本当に気分も具合も悪くて、書くだけ…という感じであった。
 そんな時、「えっ」とあらためて驚いた。
 もうそんなに書き続けていたのか、と。
 憎いことにそのあと私を泣かせてくれたのが弟だ。

「『満ちる』第1号は義人牧師のブログの2012年11月11日号、そのブログの重なりは父娘が手を繋いでここまでやって来た証かな、そんな思いがする。バックナンバーを見てみるとNo.がタイトルに付くのは2015年5月10日号の132号から。------中略-----ともかく、400号までいろいろあったこれまでのことすべてを善しと変えて下さる方に感謝したいと思います。」(え)

 ここだけの話、「満ちる」がここまで続けられるとは思っていなかったのだ。はじめは不定期で発行ということにしていたくらいだ。
 ここまで続けられたのは、読んでくれる皆さん方がいたこと、妹がよく、校正、アドバイスをくれたおかげである。

 ともかく、色々あったのだ、そうだ、確かに続けるということは並大抵ではない。

 父がよく、「継続の秘訣は、忘れてしまっていても、気が付いたときに、何事もなかったかの如くはじめること」と言っていたのを思い出す。

さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、
この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。<使徒2:5~7>

 各地に離散していたユダヤの人たちはこの日エルサレムに帰っていた。
 ペテロたちを見て人々は驚いた。

 先週、私たちも久しぶりに、礼拝の中で、賛美、祈り、異言、霊歌が、語られ歌われ、聖霊充満を目で見、耳で聞き、兄弟姉妹が共に喜んで過ごすことができた。
 このような状況を、大分ブレッシングの先生たちとも分かち合うことができた。
 アガペーチャペル(廣田先生)では午前、午後と、二回の礼拝をおこなっているそうだ。
 「55歳以上第一礼拝、55歳以下第二礼拝に分けて再開。最高齢者98歳、95歳の夫婦。88歳、85歳夫婦(自力運転で)・・・」 ということで、私は驚いた。
 85歳以上が4人、最高齢98歳というのだから、私たちも負けてはおられない。がんばろう!と、思いを新たにした。

 そんなペンテコステの礼拝の日、谷後先生(拡大宣教学院)からのはがきを受け取った。

人生多端
恩寵無限 ―義人―
 
 父の遺した言葉を谷後先生の達筆で書いてくださったのだ。
 懐かしい、大好きな父の言葉は他にもたくさんあるが、造語も含めて、歯切れ良い素晴らしい言葉、詩が多い。
 恐怖ではなく、脅かしでもない、私たちの心を驚かせてくれるもの。
 それ等のすべては、心から神を思い人を思う愛がそこにあるからだろう。(た)
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by mitiru-takae | 2020-06-07 19:10 | 満ちる | Comments(0)

No.396 祝ペンテコステ 2020.5.31

祝ペンテコステ

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。<ヨハネ14:26>

 聖霊様が私たちにつかわされたのは、いわば、私たちの救いの完成のためだ。
 日々、イエス・キリストの似姿に変えられていくためには、聖霊様の働きがなければ、到底自分で出来ることではない。

 私たちを導き、天の父の御心を悟らせ、イエス様のお言葉を、必要な時に思い起こさせてくださる、そんな、私たちにとって都合のいいことずくめの聖霊様の降臨である。
 ましてや、ペンテコステの恵みは、当時の弟子たちだけに限らず、今の私たちにとっても、体験すべき出来事だと、私は思う。

 罪が贖われたのでもういいじゃないかと言いたくなるかもしれないが、私たちが地上に生きている間、この聖霊様との密接な生き方を全く知らないで過ごすというのも寂しい限りだ。
 地上で天国の前味を味わわせていただくのが、クリスチャンとしての醍醐味というのは少し大げさであろうか。
 それは、聖霊のバプテスマを受けて、異言を語ったり、預言が与えられたり、幻を見たり、ということだけではない。

 私たちの人生の航路に、必要不可欠な羅針盤が聖霊様である。
 天国への道しるべを、また時には私たちの間違った方向をも示してくださる。
 私の心にいつも話しかけてくださり、私の心の中で生きて働くイエス様がおられることを理解させてくださる。

 聖霊様は神である。
 イエス様は神である。
 創造主である天の父は神である。
 このことを「三位一体の神」という。
 唯一の神であり、3つの位格を持っている。

 理屈で考えだすと、世も眠れぬくらい難しくなる。
 しかし、聖霊様が教えてくださると、いとも簡単に、このことがわかる。
 私たちの細胞の一つ一つが納得するのだ。
 聖霊様の働きは、理屈抜きである。

わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。<ヨハネ14:27>

今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。<ヨハネ14:29>

 このお言葉はイエス様がまだ十字架にかかる前のことだ。
 ご自身が十字架にかかり、弟子たちは動揺し、心がくじけてしまうであろう、それを予測してのお言葉である。
 弟子たちに対するイエス様の愛は、本当に深い。
 全部わかっているからこそ、至れり尽くせりである。

 私たちに対してもそうである。
 イエス様の深い愛に触れると、勇気が出てくる。
 「わかった、イエス様、私はおじけない!」と言える。

 今日はペンテコステ礼拝である。
 しかし、私たちにとっては、クリスマスや、イースター同様、「毎日がクリスマス」「毎日がイースター」「毎日がペンテコステ」である。

 今日だけにとどまらず、聖霊様を毎日歓迎しよう。
 毎日、理性の言葉で祈るように、異言で祈ろう。
 異言は、聖霊様によって開かれた、私たちと神の国とをつなぐ言葉でもある。
 時に聖霊様はペテロたちのように自分の知らない外国の言葉を語らせてくださるかもしれない。
 自分ではわからない天国語を語らせてくださるであろう。
 そして、それらを読み解くように、私たち一人一人に、かつては王様、預言者、祭司など、特別な人たちにしか伝えられなかった神の言葉を、預言として与えてくださる。

 ペンテコステは、2000年前も今も、私たちの魂の収穫の日なのである。リバイバルを期待してやまない。(た)
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by mitiru-takae | 2020-05-31 17:15 | 満ちる | Comments(0)

No.395 神の御旨を行う者 2020.5.24

神の御旨を行う者

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。<マタイ7:21~23>

 とても厳しいお言葉だと感じざるを得ない。
 特に、牧師や伝道者、福音を伝えている人たちはなおさらである。
 時には悪霊を叱って追い出したり、癒しなどの奇跡をおこなったり、とかく教会の中でも中心となって働く人たちにとって、耳の痛い話であろうと思う。

 イエス様はいったい何を言われているのだろうか
 山上で語ってきたお言葉は、いったい何を私たちに伝えたかったのであろうか。
 とかく私たち人間は、パウロが言うように、霊で始めさせてもらったものを、肉で仕上げてしまうという、誠に勝手極まりない、神を神としない偽善者となりやすい。

あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。<ガラテヤ3:3>

 私たちが行いというとき、善いことをしよう、人を助けよう、愛していこう、など、心の中の誓いは素晴らしいものである。
 しかし、神に祈り、求め、委ね、探し、見つけ出し、戸をたたき開けてもらい、感謝を、一つでもしただろうか。
 気が付けば栄光は自分のものになっていることが多い。
 そんな時、神は「私はあなたに対して何もしていないし、求められてもいないので、あなたとは全く関係がない」と言わないであろうか。
 「私はあなたを知らない」というはずだ。
 
 「父の御旨を行う者」とは、イエス様のお言葉を聞いて従うものである。
 私たちの心の中に生きて働いているイエス・キリストが主導権をもって行うことなのだ。

 イエス様が一番である。私はそのあとに従う者である。
 この時、イエス様と、私の間には邪魔者がいない。
 そしてこの状態を続けるためには、祈り、喜び、賛美して、いつもイエス様にくっついていることだ。

 この状態をイエス様は、「岩の上に家を建てた賢い人」にたとえられた。

それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。<マタイ7:24、25>

 イエス様は岩にたとえられるような、動くことのない、いつまでも変わらない愛と真理をもって私を導き支えてくださるお方である。そのお方の上に、自分の信仰を建て上げるのである。
 反対に、父なる神に「私はあなたを知らない」といわれる人々は、豪華な家を、砂の上に建てた人のようである。
 土台が砂のようであれば、どんな頑丈な家も、倒れてしまうだろう。
 それは、砂のようにもろいこの世の教えや考えである。

 私たちが主のみこころを知り、行うためには、いつも主につながり、御心を真剣に求めるべきだ。

【「ジョージ・ミューラーの祈りの秘訣」巻頭より抜粋】
「私は、クリスチャンとして生きてきて1895年3月で69年と4か月になる。その間、神の言葉である聖書を通し、聖霊により、誠実に、忍耐強く、神のみこころを知ることを求めた時、正しく導かれなかったことは一度もなかった。しかし、もし正直な心、神の御前での正しさが欠けていたならば、あるいは忍耐強く神の指示を待たなかったならば、あるいは仲間の忠告を生ける神のみことば以上のものとしているようなことがあったならば、私は大きな失敗をしたのである。」 (た)
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by mitiru-takae | 2020-05-24 19:54 | 満ちる | Comments(0)

No.394 夜はふけた 2020.5.17

夜はふけた

愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。<ローマ13:10>

だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。<マタイ7:12>

 イエス様が言われるように、確かに悪人でさえ、自分の子供にはよいものを与える。

 ゴッドファーザーのようなギャングの世界でも、日本のやくざの世界でも、自分の愛する者への愛、忠誠心は普通の一般人よりも愛する者との絆がとても深いような気がする。
 限られた世界の中だけでの愛ではあってもその情はとても深い。

 私たちが子供を愛す、両親を愛す、友人を愛すというとき、どちらかというと、「悪人でもその子を愛す」というのとさほど変わらない次元である。

 「あなたの敵を愛せよ」といわれるイエス様のお言葉には、なかなかついていけない。

 しかし、パウロは言う。
  
なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。
夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。<ローマ13:11、12>

 あなた方は知っている。
 私たちの救い(主の再臨の時)はもうそこまで来ている。
 夜が明けた時、あなたたちは今のままの姿で、光にさらされる。
 あなたが想像するよりも早く、主は来られる。
 いつまでも闇のわざを握っている場合ではないであろう。
 主の下さる光の武具に着替えようではないか。

 パウロの切羽詰まった言葉が響いてくるようだ。

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。<マタイ7:7、8>

 人は律法を目の前に示すと、「いやできない」、「難しい」、と逃げ腰になる。
 それどころか「あの人は出来てないじゃないか」と人を裁く。
 裁くことは簡単だが、自分もその人と同じ穴のムジナだと言うことには気付かない。
 
 しかし、イエス様は、私たちに「律法を行え」とは言わない。
 「求めよ」「たたけ」「探せ」といわれる。
 そうすれば必ず神は応えてくださるからだ。
 あなたはどれほどイエス様に求めただろうか、どれほど、イエス様の背中をたたき続けたでであろうか、血眼になって、イエス様を探したであろうか。

 神様の答えは、私たちの思いをはるかに超え、私にとって最善の、そのまた最高をなしてくださる。
 それは神様が私たちの必要をすべてご存じだからだ。

神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。<Ⅱコリント6:2>

 新型コロナウィルス感染のニュースに右往左往する私たちの心に響いてくるのは、「今日、あなたの願いは聞いたよ」、「今、あなたを助けたよ」、というイエス様のお言葉だ。

 今や空中エクレシアで集う多くのクリスチャンたちで、サタンどもの居場所はだんだん狭くなりつつあるように見える。
 神の栄光が地球の上を覆い、私たちの魂はいつ主にまみえてもよい時がそこまで来ているようだ。マラナタ! (た)
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by mitiru-takae | 2020-05-17 16:02 | 満ちる | Comments(0)

No.393 神のイノチ 2020.5.10

神のイノチ

しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。<マタイ6:29>

 父(故釘宮義人牧師)は、私のうちで神の生きて働く命のことを「イノチ」とカタカナで書いた。
 勘太郎月夜の替え歌で、「神のイノチはおいらのイノチ」と歌った。

(一)おいらのイノチは神のイノチ
  神のイノチが躍動すれば
  ちっちゃな人生 ひっくりかえり
  悪魔けちらし再発進

(二)人を愛せば生命をすてろ
  国を愛せば家をもすてろ
  金も名誉も友さえいらぬ
  神と一つに生きる道
 
(三)前進前進一歩もひくな
  神の兵卒くじけちゃならぬ
  御霊のほのほにやきつくされて
  宇宙完成なる日まで  
   (勘太郎月夜唄模作・くぎみやよしと)

 イエス様は、空の鳥、野の花を見なさい、考えてみなさいと言われた。
 ソロモンよりもこの花は着飾っている、とも言われた。

 多分イエス様は、人々に語りながら、足元に咲いている小さな花を見、空を飛んでいく鳥たちを眺めていたのだろう。

 こんな素晴らしい世界を作られたお方がいるのに、人々はなぜ、そのお方を見ずに、自分の着物、食べ物のことばかり考えるのか、どうしてそのお方に求めずに、思い煩うのかと語ってくださる。

 わたしたちは、イノチを求めなければならない。
 どんなに小さくても、足元に咲く花には、神のイノチが満ち満ちている。
 空を飛ぶ鳥も、神のイノチを満喫している。

 しかし、かつては満ちていた神の臨在がソロモンの神殿から去っていったように、地上は、神のイノチがないものであふれている。

あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。<マタイ6:27>

 たとえ命があったとしても、それは私のものであって、私のものではない。
 自分で自由にはできないからだ。
 ソロモンの素敵な着物には、イノチがない。
 神殿に神の臨在と栄光がないのと同じだ。

 父が言った神のイノチとは、どんな建物よりも素晴らしい、神の宮である私たちの魂の中で生きているイノチだ。
 飛んだり跳ねたり、エネルギーで満ちた活気あるイノチである。

ヤコブよ、あなたの天幕は麗しい、イスラエルよ、あなたのすまいは、麗しい。<民数記24:5>

 これはバランの命令でイスラエルを呪うはずであったバラクが、かえってイスラエルを祝福した時の言葉である。

 神のイノチが生きている住まいは素晴らしい。
 それは、野の鳥であり、野に咲く花である。
 そして、私たち一人一人がそうである。

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。<マタイ6:27>

 すべてに勝るものは、神のイノチである。

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。<マタイ6:33> (た)
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by mitiru-takae | 2020-05-10 21:11 | 満ちる | Comments(0)

No.392 聖書は知っている 2020.5.3

聖書は知っている

主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。<エレミヤ書29:11>。

 聖書は知っている。
 いや神様は知っている。
 私たち人間の過去も未来も知っている。

 主イエス様を信じる人、その人たちの未来は約束されている。それは、主が平安を与え、未来を与え、希望を与えるということだ。

神様が、わたしたちに抱いているご計画を信頼し、すべてのことを喜んでいただこう。
この意思表示さえできれば、あとは神様がやってくださる。

昨年はダニエル書を学んできた。
その中で私たちは聖書に書かれていることが、実際に起こっているという事実をあらためて知り、驚愕したものだ。

ダニエル書に書いている事柄は、歴史家が調べれば調べるほど驚くような、これから先に起ころうとしていることを告げているのである。
もちろんダニエルにとって、見たことも聞いたこともない歴史がここで語られているわけだし、それは世の終わりについての言及に発展していく。

さて、私たちのこれからの世界も、聖書に書かれている通り、神のご計画に、沿って進んでいくはずだ。
そう思うと、いてもたってもいられない。
私たちは、聖書が語る歴史の目撃者なのだから。
ハレルヤ!

新型コロナウィルスのパンデミックによって、私たちの世界は、果たしてどの方向に舵を切ったのであろうか。
進んでいく目の前に、何かが姿を現さないことには、私たちの目には何も見えない。

私たちにとっては、出来上がりを見たことがないパズルのピースがバラバラになっているようにしか見えない世の中である。

しかし、もともとこのパズルには制作者がいるのだ。
そして混とんとしていく中で、ある時突然、制作者(救世主)が現れて、出来上がりの写真を見せてくれる。

私たちは出来上がりの世界を知っている人間である。
パズルの制作者を知っているのだ。
その人は出来上がりを知っているし、その写真を持っている。

そのお方こそ、創造主なる神、イエス・キリストである。

しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。<ヨハネ黙示録5:3>

 黙示録には、7つの封印をした巻物が出てくる。
 それは神の右の手にあった。
 しかしその封印を解くことができるものが、一人もいなかった。
 ヨハネは泣いた。激しく泣いた。
 
すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。<ヨハネ黙示録5:5>

 神の右の手にある巻物、すべての権威、すべてを統治する力がここにあり、この権威を受け取ることができるのは十字架にかかり、復活し、勝利を得て天に昇ったイエス・キリストのみである。

 このお方は神の小羊、それも屠られたと見える小羊である。
 首を切られ血を全部流してしまい、私たちの贖いとなった屠られた小羊である。
 この小羊が父なる神の手から、巻物を受け取る。
 私たちを贖い、救うことができるのはこのお方をおいてほかにないのだ。
 アーメン!主よ来たりませ!(た)
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by mitiru-takae | 2020-05-03 18:08 | 満ちる | Comments(0)