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No.291 御霊の火に燃やされて祈ろう 2018.5.27

御霊の火に燃やされて祈ろう

御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。<ローマ8:26~27>

 イエス様が天に昇った後、弟子たちはペンテコステの日に聖霊の降臨を受けました。
 この時の弟子たちの異言は、目を見張るものがありました。
 他国の言葉で、福音のメッセージを語り始めたのです。
 ですから、色々なところから集まってきた人々は、それぞれ自国の言葉でそれを聞いたわけです。
  
わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいる<使徒2:9~10>

 という具合です。エルサレムってなんと外国人の多い都市でしょうか。
 特にこの日はペンテコステのお祭りの日でしたから、すごい賑わいであったのでしょう。
 現在の東京など、オリンピック開催地の会場でもし同じようなことが起こったら……国際空港で…国際色豊かな大学の学食で…などと考えていると、とても楽しいというか、大騒ぎでしょう。
 神様の御業が働くときは、人間の知恵はとても愚かに見えます。
 いくら進化論を口が裂けるようにして叫んだとしても、天動説が、地動説に変わったように進化論も創造論に代わっていくでしょう。人の考え方は変えられていきます。神の力は、ある時いきなり真実に目覚めさせ、気付かせてくださるのです。
 神の大能の前には私たち人間はまことにとるに足りないものです。
 このように神の霊は私の中で、突然、魂の変革を起こしてくださいます。それは使徒たちの異言にも勝る奇跡です。これは聖霊の働きなのです。

 父、御子、聖霊なる神の知恵は、地上の科学ではできない、神と人とをつなぐ大路を開いてくださいました。
 私の魂の中に、聖霊を通して神の国とつながる場所をイエス様が創ってくださったからです。
 人間である私たちが、理解出来てもできなくても、父のところに帰ったイエス様は、私たちの住む場所を創ってくださっているのです。心のドアを開ければ、まるでワープしたように神の国の家に入ることができるように…です。

 そして不思議なことに、聖霊は私の知らない言葉さえもくださいます。
 地上の音声を、天国の音声に変えてくれる、まるで音の変換機です(笑)。
 聖霊は、切なる呻きをもってこれを可能にしてくださっています。
 時には、とんでもない願い事さえも、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるという事実を、私たちは知って、感謝したいのです。
 祈りが叶う秘訣は、ここにあるような気がします。
 私たちの只中にある天国で、イエス・キリスト、さらに聖霊のとりなしによって魂が張り裂けるほどの祈りを捧げましょう。

わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。<Ⅰコリント2:12>

 預言や知識と同じように、地上では異言もすたれていくでしょう。しかし、天国に通じる異言という言葉は、天国に帰ったときには音声(肉)はなくとも霊の言葉そのものだと思うのです。
 ペンテコステの日に、聖霊が弟子たちの上にとどまったように、私たちの上にも聖霊の火が満ち溢れて、大きく燃やされ続けるように知性の祈りでも求め、異言でも大いに祈っていきましょう。(た)
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by mitiru-takae | 2018-05-31 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.290 ペンテコステの朝の祈り/春の聖会「主に叫べ!」(3) 2018.5.20

ペンテコステの朝の祈り

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。<使徒2:1、2>

 父が書いた古い刷り物の中に、「信仰の成長はみ言葉、伝道には奇跡だ」という文言がありました。どこだったかは忘れたのですが、確かに、伝道は口先だけではどうにもならないようです。

 伝道を実践していく中では、主が魂の中に奇跡を起こしてくださることが一番ですが、目の前で、癒しの奇跡などを見ると、やはりわたしたちはおどろきますし、見た人も主の力を信じたくなります。

 そして、導いた者も、導かれた者も、そのあと、自分にとって奇跡が一体何のためであったのかを、聖書によって教えていただくことによって、救いが起こります。ひとりの信仰者の誕生です。

 自分の力でできることは限られています。
 主権者なる王、イエス様により頼み、祈り叫び求めて、本物のワクワクする感動をいただきたいと思うのです。

 私たちにとっては、祈りのほか何一つ自分でできる行いはありません。ほかのものはただ主が私たちに、添えて与えてくださるものばかりです。

 ペンテコステの朝、祈りの中で使徒たちは、聖霊様による感動に満たされていたでしょう。私たちも祈りましょう!まず、祈って神様からのドキドキ、ハラハラを体験したいものです。そして立って出かけていきましょう。(た)

  
春の聖会「主に叫べ!」(3)

 父なる神の心、それは「愛」でした。
 放蕩息子を本心に立ち返らせ、神様自身が、あろうことか人間となって、私たちの義と聖と贖いになられたという、救済の本質を見ることができます。

 全てが、父の心、それは「愛」から出たことなのですね。
 「お父さ~ん!」と大きな声で呼び求めましょう。声が出なくても、体中のエネルギーを集中させて、叫びましょう。
 「イエス様~!」

 今回の聖会の感想を渡辺恵美子姉妹が手紙の中で書いてくださっていましたので、ここに載せることにしました。姉妹だけではなく、聖会に参加した方々が、それぞれ聖霊様の啓示を受けていると感じさせられています。毎回思うことですが、この聖会は素晴らしい! 満々感謝!

立て、さあ行こう。見よ。わたしを裏切る者が近づいてきた」。<マルコ14:42>

以下、渡辺姉妹の手紙から
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 毎回大分教会での学び、お交わりでは、たくさんの恵みをいただき感謝でいっぱいです。
 今回の聖会で、いただいた恵みは、いくつかありますが、一番は「神様からの励まし」ということです。
 夜の第2聖会では【エペソ書6章10節】での「強くなりなさい」のお言葉に、神様は、私たちが弱いことは十分にご存知なのだと気づかされ、だから「強くなりなさい」と言ってくださるのだ。そして、朝の第3聖会の【マルコ14:42】「立て、さあ行こう」と、先立って行かれるイエス様に、「ついて行けばいいのだ。」と、そんなことを思いました。

 問題が起こった時、神様に叫び、祈るなら、「強くなりなさい」と力を下さり、「さあ、行こう」と手を引いて問題解決に導いてくださる、そういうことなのだろうと思いました。
 だから、もっと主に叫び、祈らなければいけないのだなあ…と。
 毎回、神様は時にかなった恵みをくださいます。                           
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(た)
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by mitiru-takae | 2018-05-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.289 イエス様の昇天/春の聖会「主に叫べ!」(2) 2018.5.13

イエス様の昇天

こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。<使徒1:9>

 人間であるイエス様が十字架にお架りになったところまでは、皆が信じられるところです。意味は分からないまでも、十字架刑にあうことはあり得ることだからです。
 しかし、復活となると、ちょっと眉唾ものです。まして昇天となると、もうSFの世界です。不思議なお話は誰もが好きですし、楽しいに違いありません。
 でも、イエス様のお話は、まことに不思議な、しかし、私たちにとって真実なるお話なのです。
 それは神様が私たちのために用意された、それも特別な、私たちのためのものだからです。わたしの罪の贖いによる救いと、神様の義を与えてくださる愛と赦し、イエス様が悪しき者から絶対的勝利を得た事実を語った物語だからです。
 イエス様が昇天後、わたしたちにくださった聖霊様は、私の罪を教えてくださり、またイエス様のお言葉を思い出させてくださり、私たちが日々悔い改めて、主に立ち返ることをお導きくださるお方です。感謝!(た)

  
春の聖会「主に叫べ!」(2)

聖会《3》
●父に叫ぼう!
 参照聖書箇所:ルカ15:11~32、マルコ14:32~42

 父なる神に二人(例えばカインとアベルのように人間に二通りの生き方がある)の息子がいました。
 兄はまじめで忠実で、働き者でした。もう一人の弟は、財産の取り分を父から取り上げたあげく、すべてを使い尽くしてしまったどうしようもない放蕩息子でした。
 私たちは一体どちらでしょう。
 考えてみますと、自己中心極まりない弟のようでもあり、よく考えてみると、父の心もわからず、ただ、父と、弟を責め、裁く兄のようでもあります。

 父である神様にとってはどちらも相続人である子供なのですが、父の心をよく考えてみると、「自分をよく思い出してくれた、良く帰ってきてくれた、死なずに元気で顔を見せてくれた、私の名を呼んですがって泣いてくれた・・・」弟を、喜ばずにはおれない、愛に溢れた父が見えてきます。
 半面、父に不平と不満を吐き出した兄にたいしては、父はなだめるばかりで、何も言えず、何もできません。
 もしあなたが、二人の父であったとしたら、どのような思いをするでしょうか。

 さらに私たちの崇高な父は、ご自分の計画のために、そのひとり子(イエス様)を、人間界で、さらし者にしようとしていました。
 絶対的な父の命令ではありますが、従うか否かは、ひとり子にかかっていました。
 私たちもそうです。父に従うか否かは、私たちの心にかかっているのです。
 ゲッセマネでのひとり子イエス様の祈りは、飲むに飲めない、ひどい杯を「あなたのみこころのままに」と飲み込むまでの葛藤を、ごく簡単に「イエス様なんだから、できるでしょう」と読み過ごしてしまいそうになります。
 
 イエス様が受けた苦しみは、二つありました。一つは人間としての痛み、一つはひとり子としての父なる神との断絶です。
 天においても地においても、残酷極まりない大刑罰であったでしょう。
 私たちの痛み、苦しみ、すべてをイエス様が知っておられるのは、ひどいあざけりも、いばらの刺さる傷も、鞭の肉をそぎ落とす痛みも、大きな釘で刺し通された手と足の痛みも、自分の体を打ち付けられた手と足でしか支えることのできない痛みも、すべて人間として経験しているからです。

 すべてのことが、父のお心を知るがゆえに飲み干すことができた杯だったのです。
 そのお心は「愛」でした。

 私たちへの愛のゆえに、十字架に向かって「立って行く」イエス様のように、私たちの父なる神に「父よ、あなたのみこころのままになさってください」と叫ぼうではありませんか。
 ペテロを励ましたように主は必ず私たちにも勇気と力を与えてくださいます。(た)
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by mitiru-takae | 2018-05-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.288 春の聖会「主に叫べ!」(1) 2018.5.6

春の聖会「主に叫べ!」(1)

わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。<エレミヤ33:3>

 4月29日、主日礼拝の後の第1聖会《賛美と祈り》に始まり、夜の第2聖会《聖書の学び》(木曜学習会に倣って)、翌日の第3聖会《まとめ・メッセージ》と、2日間にわたって「春の聖会」が行われました(毎年恒例の信徒一泊セミナーが今年から「春の聖会」「秋の聖会」と名前が変わりました)。
 今回の主題は「主に叫べ」でした。

聖会《1》
 この時間は賛美を思いっきり捧げます。そして、メッセージ、祈りと続きます。

●告白によって主に叫びましょう!叫ぶ相手は主です。
 告白(悔い改め、赦し・み言葉による告白)
 主をほめたたえる(御言葉・メロディー)
 笑い(これも告白です・・・主を喜ぶことは私たちの力である【ネヘミヤ8:10】
 異言(異言はいわば天国語(聖霊語)、神に向かって天国語で褒めたたえます)

●サタンに向かって叫ばない。
 否定的な言葉、サタンを受け入れる言葉、サタンが喜ぶ言葉はやめます。
 サタンに対しては、はっきり出て行け、退けとはっきり命じます。大声を出す必要はありません。ただし、イエス様を信じ、その権威によって(み言葉、イエスの聖名、イエスの血潮などによって)サタンどもに命じましょう。

 最後は、異言で祈り、主を思いっきりほめたたえる時となりました。二人の姉妹が汗だくだくの祈りの中、聖霊のバプテスマを受け、感謝と異言の祈りが響き渡りました。
 一人の姉妹は、先週の礼拝後の祈りの時も求めていました。主はこの聖会の中で与えてくださいました。
 もう一人の姉妹には、聖会の何日か前、「聖会で祈り求めましょう。必ず異言が与えられますよ」と言っていましたので、本当に感謝でした。

聖会《2》
 夜の学びの時は、【エペソ人への手紙6章10~20節】までを、皆で朗読し、木曜日の聖書学習会のように、一人一人がさらに黙読して主に聞く、それから人に話すという方法を取りました。
 いつものことながら、主は素晴らしい啓示を一人一人にくださいました。
 一人がみ言葉により示されたこと、気づかされたことを発表すると、そのことに対して、また更に気づきを与えられた人が付け加えるといった形で、語った人も聞いた人も、皆がみ言葉を深く知る、主のお心に気づくといった、経験をします。
 これは一人で聖書を読んでもなかなか理解できないという人でも、段々と、聖書の世界に引きずり込まれていく、不思議な時間を体験できます。

 普段礼拝では口語訳の聖書を使っていますが、学習会では新共同訳を使います。色々に翻訳された聖書を読んでみると、また違った感じを受けたりします。
 今回私は【岩波翻訳委員会訳1995】を見てみました。

悪魔の奸計に抗して踏みとどまることができるよう、神の武具を見につけなさい。<エペソ6:11>
更に、救いの被り物を取(って被)りなさい。そして霊の剣、すなわち神の言葉をも(取りなさい)、<エペソ6:17>

 奸計(かんけい・悪だくみ)などという難しい言葉も、サタンの巧妙なウソや惑わしの感じがよく表れているように思えます。
 また首藤姉妹から「救いの兜のところに赦しと書き込みがあるが意味は?」などと質問が出ましたが、この訳を見ると「イエス様による義の被り物をかぶることによって私たちは、罪赦されたものとなる」ということがよくわかります。興奮させられますね(笑)。
 更に釘宮えりや兄弟が、「神の武具でも、帯、胸当て、靴は信仰による、私たちを守る武具、兜は、主の救い、神の言葉は、唯一攻撃の武器となりうるものである」と、三つにわかれることを説明してくれました。
 どうか皆さんも同じところの聖書の箇所を開いてみてください。
 聖会《3》については、書ききれませんので次回とします。お楽しみに!満々感謝!(た)
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by mitiru-takae | 2018-05-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.287 告白の力 2018.4.29

告白の力

 キリストの福音大分教会献堂40周年記念に出版した父の遺筆「告白の力」は、父釘宮義人が常々言う信仰の実践です。
 「笑い」も含めて、自分ができるとか、だめだとか、信じられないとか、そんなことは一切関係なく、神の力が働くとき「わたしはなんでもできる」と言い切ってしまうということです。
 「いや言った後でできないと恥ずかしいから…」と、これもなしです。

 出来る出来ないは神の御心です。確かに私の目には、愚かな出来ない自分が映るということはたまらないことかもしれません。しかし、神の計画はその私に見えている範囲の向こうにあります。
 真実は、いつも主のみ手の中にあります。私の掌の上にはないのです。

 聖書を見ると、主のお言葉は必ず成就します。
 私たちはそのお方のお言葉を告白するとき、そのお言葉を現実にいただいているのです。

御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。<ヤコブ1:21>

 「告白の力」の表紙を開くと、まず「言葉には力がある」という表題が目に入ります。
良い言葉には良い力が、悪い言葉には悪い力があります。
 私たちは神から頂いた、神の言葉を告白しなければなりません。
 つまり私たちの告白は、ただ人が口から出す言葉ではなく、みことばを告白するとき、そこに働くのは神の力だということなのです。

 いつも神の言葉を告白できる人は、神のお言葉がうちに宿っている人です。 そして神を賛美するのです。神をことばでほめたたえ、メロディーでほめたたえ、真の礼拝をささげることです。

キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。<コロサイ3:16>

 心の目が開けると、真実のものが見えてきます。
 「肉の目からさめよ」と言わんばかりのイエス様の「すがるな」のお言葉に、たぶんマグダラのマリヤも、まことのイエス様が見えるようになったのだと思います。
 クレオパも、パンを裂くイエス様を見た瞬間、私たちの救いのためにご自身の体をムチや釘で裂いてくださったイエス様を見ることができたのでしょう。
 ところが、トマスに至っては、目が開くどころか、現実に「傷口に指を差し入れてみないと決して信じない」というのですから、彼は「信じない人」なのです。
 しかし、トマスはイエス様の「信じる者になりなさい」のお言葉に、応えました。

トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。<ヨハネ福音書20:28>

 私たちはなかなか信じられません。
 信じようとすればするほど、信じられなくなります。
 それは私たちが「信じない人」だからです。信仰告白によって「信じる者」になることです。

 ただ、「信じられてから告白します」ではどうかすると一生信じられません。イエス様はトマスの告白の後に彼に向かって言っています。

イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。<ヨハネ福音書20:29>

 トマスは偉いなあと思うのです。なぜかというと、イエス様のお言葉によると、トマスは目で見たことで信じたのです。
 私たちの目はあやふやですし、どうかすると真実かどうかもわからない時があります。トマスは自分に言い聞かせるようにきっぱりと言いました。「私の主・・・」。

 真似をしましょう。
 信じているのか信じていないのか、あやふやな時でも、「確実にその通りになる」と、神のお言葉を告白するのです。
 そのとたん、きっと信じさせられると思いますね。(た)
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by mitiru-takae | 2018-04-30 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.286 すぐに立ってエルサレムへ 2018.4.22

すぐに立ってエルサレムへ

 イエス様がよみがえって、墓の中から消えたその日のこと、ふたりの弟子が、エルサレムからエマオという村へ向かっていました。
二人は今日の出来事を、語り合い、論じ合っていました。
 イエス様が墓にいないということや、甦ったということが、彼らの頭では理解ができず、整理がつかなかったのでしょう。

 そこへ、イエス様が近づいてきたのです。
 ところが、二人の目はさえぎられていて、このお方がイエス様であるとは全く分かりません。
 イエス様は二人に語りかけました。
 「その話は、なんのことなのか」

 イエス様はご自分の弟子たちを、愛して愛してやまないのです。
 釘宮義人牧師も「何を話してるのですか?」とたびたび、信徒さんの話の中に割り込もうとしてきていましたが(笑)、これも教会のみんなが大好きで、気になってしかたがなかったのでしょう。
 愛するものへは自分から近づいていくものですね。イエス様なら、なおさらです。

 さあ、エマオに近づいてきました。
 
それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。<ルカ:24:28、29>

 イエス様を、イエス様とは知らずに、二人は無理やり引き留めて泊まるように勧めました。
 そして食事を共にすることになりました。

 ところが、客であるはずのイエス様の方がパンを取り、祝福してさき、二人(一人の名はクレオパと言います)に渡します。この時二人は「ハッ」と気づいたのです。目が開(ひら)けて、イエス様がわかったのです。

一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。<ルカ24:30、31>

 どんなに嬉しかったでしょうか。今までの疑問はすべて吹っ飛んでしまい、代わりにイエス様が復活されたことについての確信が、魂の中にしっかりと記された時でした。

彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。 <ルカ24:32>

 私たちも、たとえ信じられないことがあって、イエス様を認められずにいるときでも(信じられない時、苦しみのどん底で周りが見えない時、途方に暮れて、すべてを放り捨ててしまいたいとき、二人の弟子のように、他の弟子たちや使徒たちと共にいることができず、郷里へと帰ってしまおうと思うときなど)、信仰の友と語り合ってみましょう。論じ合ってみましょう。
 
 主は必ずそこに来てくださり、魂の奥深くに語りかけてくださいます。

そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。<ルカ24:33、34>

 心の中に力がよみがえり、聖霊様に燃える心をいただいたならば、また信仰の兄弟姉妹が集まるところに帰りましょう。あなたの本当に帰るべき所(キリストの体の一部として)はどこでしょう。

 あなたが立ち直ったならば、次は、他の弱った兄弟姉妹を、力づけてあげましょう。互いに主の復活の証人として告白し合いましょう。
 こうして教会は力を得て全世界に出て行けるのです。(マルコ16:15参照) (た)
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by mitiru-takae | 2018-04-30 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.285 新しい命に生まれ変わる 2018.4.15

新しい命に生まれ変わる

人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。<ルカ9:25>

 この地上でいちばん大切なものと言えば、もちろん命です。
 しかし、この世に生を受けたならば必ず死を迎えねばなりません。
 人間の命はこの地上で生きていくときだけのものです。死んでしまえば、肉体と共に命もなくなってしまします。

なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。<ローマ8:13>

 肉にあっては私たちの命は限りがあります。
 しかし私たちが、私を罪から解放し、新しい命に生かしてくださるお方を信じるならば、肉(律法)の行いではなく、そのお方を信じる信仰によって生きることができます。

 この地上で死ぬしかなかった私たちは、イエス様を信じることで、死んでも生きるという永遠のいのちをいただくことができるのです。
 そして私たちはその命によって、新しく生まれ変わるのです。

イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。<ヨハネ3:3>

 新しく生まれるということは神の国を見ることができるということです。
 神の国を見るとは、神の国の側から物事を見ることができるようになったことであり、神の国の側の思いを持ち、語ることです。
 
 ユダヤ人の指導者であったニコデモという人は夜遅く、イエス様のところに来て、この奥義を聞きました。しかし、初めは何のことを言っているのかさっぱりわかりませんでした。
 新しく生まれるということは、どんなに頭の良い学者でも、わからない奥義です。ニコデモはこういいました。

ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。<ヨハネ福音書3:4>

 このように、初めはびっくりするようなイエス様のお言葉ですが、この後のイエス様の返事はこうでした。

「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない<ヨハネ福音書3:5>。

 このお言葉にある「水と霊」は、バプテスマのことでしょう。
 また言い換えれば、旧約(モーセの律法)での幕屋における水の清め、新約(イエス・キリストの愛)による聖霊の聖めの二つによって私たちは新しく生まれ変わり、神の国に入るということです。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。<ヨハネ福音書3:16>

 ニコデモとアリマタヤのヨセフは、他の指導者たちとは違い、イエス様の隠れ弟子として、イエス様に仕えてきた人たちのようです。
 アリマタヤのヨセフなどは恐れることなく、総督ピラトのところに行ってイエス様を十字架から引き取る許可をもらってくるほどですからびっくりです。
 このような勇気はどこから来るでしょうか。

 人が新しく生まれ変わるということは、なんと素晴らしいことでしょうか。
 世界中(もちろん当時の世界は今よりは狭かったと思いますが)の人が、イエス様(神様)を敵に回しても、私たちは「イエス様の側の者」という揺るがない魂を持ち続けることができる、「そういう人にこそ私はなりたい」ですね。(た)
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by mitiru-takae | 2018-04-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.284 バプテスマおめでとうございます 2018.4.8

バプテスマおめでとうございます

すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。<使徒2:38>

 イースター礼拝の中で、平井姉妹のバプテスマ式が行われました。

 一年ほど前にご主人を天に送ったばかりの姉妹ですが、死を身近に感じ、いわゆる終活をしなければと思ったらしいのです。その第一番に「バプテスマを受けたい」という選択肢があったことを、心から嬉しく思い感謝しています。

 長いこと教会の礼拝に出席していますし、仲の良い姉妹の自宅で行われている家庭集会にも参加する、信仰を求めることに熱心な姉妹です。
 「信仰の友」たちの祈りもあって、姉妹はめでたくバプテスマを受けることとなりました。主は素晴らしい。

 姉妹のご主人が生前入院しておられたときに、「お祈りに来てほしい」という連絡がありました。そこで、病床におじゃまして、お祈りをさせていただきました。
 この時ご主人は私の顔を見て、なんとなく微笑んでくださっているようにお見受けしました。

 ご主人の心が次第に神様の方に近づいていたんだなと感じさせられましたし、病の苦しみの中にあっても、ご夫婦お二人の病室でのお姿は、私の目には平安そのものに見えていました。

 ご主人の「死」をきっかけに、天の御国を思う心が大きくなっていったのでしょう、姉妹の心の中でバプテスマを受け、神の家族の一員となるという夢が、具現化してきたのですね。
 
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。<ローマ6:4>  
 
 バプテスマを受けるとは、私たちがイエス様と一つになるということです。

 バプテスマには、「古い私が死んでしまう」という意味もあります。今までの罪に支配されていた私は、イエス様と共に一度死んでしまい、そして新しい人として復活のイエス様と共に私たちも復活するということです。
 古い罪人はもういません。死んでしまいました。

 新しい命に生きるということは、私の中に生きてくださるイエス様の命が私と共に生きてくださるということです。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。<第2コリント5:17>

 ですから、イエス様を信じてバプテスマを受けた人は新しく生まれ変わった人なのです。

わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。<ガラテヤ2:19>

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。<ガラテヤ2:20>

 私たちは、ただ勧められるままになんとなくバプテスマを受けるわけではありません。そこには素晴らしい神様のご計画があり、私たちを救うイエス様の愛と信仰があります。私たちのイエス様と一つになりたいという希望がイエス様によって本当に叶えられるのですね。

 バプテスマを受ける方々が、姉妹に引き続き続々と出てきますようにお祈りしています。(た)
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by mitiru-takae | 2018-04-30 20:46 | 満ちる | Comments(0)

No.283 祝イースター/十字架への道 2018.4.1

祝 イースター

もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。<ヨハネ14:9>

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 イエス様が十字架にかかり死なれてから初めての日曜日、私たちは再びイエス様を見ます。
 私を永遠に生かすことのできる「道なる主、真理なる主、命なる主」を見ることができるのです。
 復活のイエス様は、私たちを勝利に導くお方であり、私たちの帰る場所を示してくださった唯一のお方です。

そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。<ヨハネ14:3>

 この世でイエス様の死ほど貴いものはありません。またイエス様の復活ほど力強いものはありません。(た)


十字架への道

しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。<ヨハネ16:7>

 イエス様が十字架の死に向かっていくとき、そのことをいくら聞いても納得出来ないのが、イエス様に一番近くいるはずの弟子たちです。

 まして、「去っていく」というイエス様のお言葉は、決して受け入れたくないお言葉でもあります。

 毎日そばで暮らし、話を聞き、「このお方こそ本物の王であり、メシヤにちがいない」と確信していたであろうイエス様が、こともあろうに人々から、笑いものにされ、見世物にされ、死の苦しみを受けるのですから、尋常な心では見ておれません。 
 しかし、イエス様の生きる場所は十字架の向こうにありました。十字架を避けてはイエス様の復活の命どころか、私たちの命さえもなかったわけです。

 私たちは自分の永遠の命を得るために、なんと楽をしていることでしょう。 
 栄光あるお方が(私たちには到底できませんが)その栄光を捨てて、私の代わりに笑いものになってくださったのです。また、見世物になってくださったのです。そして死の苦しみを味わってくださったのです。

 なんと私たちは、幸せでしょう。
 あなたは、人々に笑われたとき、イエス様を思い出すことができるでしょうか。
 あなたは、人々に見世物のように扱われたとき、イエス様を思い出せるでしょうか。

 そして、あなたが、一人で死と向き合うほどの苦しさを覚えたとき、苦しみの中で、イエス様を思い出して「助けてください」と祈り願うことができるでしょうか。

 その時、私たちは、決して思い出すだけではないのです。
 あの苦しみを勝利に変えたイエス様が、今は私と共にいてくださる、私の苦しみの中に、私に降りかかる災難の中に、私のつらさを一番理解してくださるお方として生きて働いてくださっているのを知ることができるのです。

その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。<ヨハネ20:19>

 復活のイエス様は、人を恐れて戸を閉じているときも、怖くて心がふるえているときも、私たちの只中に入ってきて「安かれ」といってくださいます。
 イエス様の十字架への道は、私を平安へ導く勝利の道なのです。(た)
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by mitiru-takae | 2018-04-30 17:20 | 満ちる | Comments(0)

No.282 ホサナ 2018.3.25

ホサナ

そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。<マタイ21:9>

今日は棕櫚(しゅろ)の日曜日。
 イエス様をメシヤと受け入れることができない、パリサイ人や他の律法学者たちとは正反対に、民衆はその素直な心で、イエス様をエルサレムの町に迎え入れました。

シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。<ゼカリヤ9:9>

 この時、まさにゼカリヤによって言われた預言が成就しました。
 イエス様はロバの子に乗って、民衆が大声で「ホサナ、ホサナ」と叫ぶ中、棕櫚の枝を踏みしめながらエルサレムの黄金の門を通って行かれました。

 今日、私たちの心に入場してくださるイエス様のために、大きな声で「ハレルヤ、ハレルヤ」と叫び、迎え入れましょう。

 「ホサナ」という言葉は、本来の意味(ヘブライ語で「救い給え」の意)というよりも、ほとんど、私たちが日ごろ使う言葉で「ハレルヤ」と言うのと変わらないと思います。
 神をほめたたえる言葉として教会で使われる言葉ですね。
 
 ところがこの民衆の同じ口で、この後イエス様がとらえられた後「十字架につけよ!」と叫ぶわけですから、民衆の心理というものはあまり信用ができません。
 私たちはいつも、自分の口を聖霊様に清め続けていただく必要があります。思わず周りにつられて、悪口を言ったり、人を攻めたりしてしまいます。
 皆がある人の悪口を言っている中で、反対論を述べるのには、ちょっと勇気がいるものです。しかし、み言葉を見るとペテロがこう言っています。

悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。<ペテロ第一3:9>

 今日の棕櫚の日曜日、ホサナ、ハレルヤと、神のみをほめたたえて過ごしましょう。教会の中だけではなく家に帰っても実践できれば幸いです。

 聖書が昔から告げていうメシヤの到来は、ユダヤ人の希望でした。
 パウロがローマで、ユダヤ人たちに告げたメッセージは、皆が待ち望んでいたメシヤ、救い主キリストのことでありました。(しかしユダヤの宗教家たちはイエス様を否定するどころか、自分たちの方が民衆を騙し、イエス様を十字架につけたのです。)

こういうわけで、あなたがたに会って語り合いたいと願っていた。事実、わたしは、イスラエルのいだいている希望のゆえに、この鎖につながれているのである」。<使徒28:20>

 十字架刑でイエス様ご自身が死んだあとは弟子たちをも迫害してしまう。
 そのような人間の傲慢、高慢が、昔も今も、自分の上に人をつくらないどころか神(創造主)までも地上に引き下ろしてしまったのです。

 しかし、このような逆境とおもわれる荒波の中でパウロたちは、全世界に向かって神の国とイエス・キリストを伝えていくわけです。

ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた。<使徒 28:15>

 彼らをどこにいても勇気づけ、元気を与え続けてくださったのは、あの小さなロバの子に乗って、子供たちに笑顔を惜しまなかった愛の主イエス・キリストなのです。ホサナ! (た)
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by mitiru-takae | 2018-03-31 23:03 | 満ちる | Comments(0)