【満ちる】No.631 互いの心は主によって繋がる/心の中で光る神の言葉 2024.12.1

互いの心は主によって繋がる
 
 今日からアドベントである。
 この時期になると、今年のクリスマスも、教会で楽しく、一人でも多くの神の家族が集えるといいな、と毎日のように考える。何より、みんなが元気で、顔を見ることが出来るのが一番である。

見よ、兄弟が和合して共におるのは
いかに麗しく楽しいことであろう。
<詩篇133:1>

 先週の火曜日(11月26日)に、日本アライアンス教団大分キリスト教会(永井一匡牧師)で、「九州キリスト災害支援センター」の集まりがあった。私はこの数年、あまり外部の集まりに出ることがなかったが、最近は皆さんのお祈りに支えられて、ずいぶん元気なので出席することにした。
 久しぶりにお会いした先生方の顔を拝見出来、感謝であった。

 「九キ災」の働きについてや、教会の地域での支援についてなど、お聞きしたが、その中で、とある教会が、自らは他を支援しながら、自分の教会の被災について何も要請していなかった、尋ねても「大丈夫です」とくりかえしていたという話があった。
 防災の知識や備えも必要だが、自教会が被災した時に、我慢したり、遠慮したりしないで声を上げて支援を求めることも大切ではないか、そういう時に気軽に声をかけられるためにも、ともかく交わりをもっていこう、年に一度くらい、お茶や、食事会をしてはどうかという話になり、恥ずかしながら、私も「それならできる」という感じであった。緩やかな交わりでよいから、顔を合わせる機会をもっていこうということだ。
 
 集まって交わりが出来ることは、とても嬉しいことである。だが、最近は神の家族が共にいるのは、教会での礼拝に来た時だけのことが多い。
 しかし、たとえいつも離れていても、顔を思い出して○○さん!と祈ったり声を出してみたりと、共にいるにも勝る素晴らしい交わりが出来ることも確かである。最近はリモートでの集まりもあって、意外と、よく顔を見ることも出来るし、楽しい。

 心と心が主の御心でつながっているのだ。久しぶりでも和気あいあい、祈りや話し合いが出来るのは当然である。「九キ災」もそうである。主にある者たちはいつも、心が共にあることを感謝したい。(た)

心の中で光る神の言葉

パロはヨセフに言った、「わたしは夢を見たが、これを解き明かす者がない。聞くところによると、あなたは夢を聞いて、解き明かしができるそうだ」。ヨセフはパロに答えて言った、「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう」。
<創世記41:15、16>

 「いいえ、わたしではありません。」とヨセフは答えた。
 パロへの答えは、以前給仕役たちに答えた時とは少し違うようである。「私に話してください」とは言わない。
 2年間の獄屋生活は、ヨセフにとっては神と共に過ごす、誰にも邪魔されない至福の時であったのだろうか、とさえ思う。

 獄屋の中では、世の人との接触もないだろうし、神の言葉を毎日思いながら過ごしていると、罪を犯す機会さえもなかったのではないかと思う。
 毎日獄屋の仕事をさせられながら、心の中では主のおきてを喜んで受け止めていたのであろう。それは、実際にはとても難しいように思えるが、ヨセフにとってはそうではなかったのであろう。
 とにかく主が大好きという人であったのだろうと想像しながら、詩篇1篇のお言葉を読むと、ヨセフを喜ぶ神の声に聞こえてくる。

このような人は流れのほとりに植えられた木の
時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。
<詩篇1:1~3>

 父に可愛がられた幼少のころから、今日にいたるまで、辛すぎることもあったわけだが、ヨセフの心の支えとなっていたのは、あの麦の束や、月や星の夢だったのだろうか。
 ヨセフに確信があった夢であるならば、きっとそうであったに違いない。「いつ、いつだろう」と気がはやった時期もあったろう。だが今はそうでない。「神の言葉を正確に伝えよう。私ではないのだ。神のお導きなのだ。」
 神の前にへりくだるヨセフの姿がいとおしい。そして、やがて実を結ぶ時を迎える。(た)
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〔釘宮孝枝〕






by mitiru-takae | 2024-11-30 20:20 | 満ちる | Comments(0)
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