【満ちる】No.605 主を賛美すること/全ては宣教 2024.6.2

主を賛美すること

「立ちあがって永遠から永遠にいますあなたがたの神、主をほめなさい。あなたの尊いみ名はほむべきかな。これはすべての祝福とさんびを越えるものです」。
<ネヘミヤ9:5>
そして彼らに言った、「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。
<ネヘミヤ8:10>

 先週の礼拝の途中、玄関につるしている旗が風になびいているという司会者の言葉に、一人の姉妹が声をあげて歌いだした。
 
  喜びの旗ひるがえる
  ひるがえる、ひるがえる
  喜びの旗ひるがえる 心の砦より
  高く上げよ、この世に示せ
  この世に示せ、この世に示せ
  高く上げよ、この世に示せ
  王の王がここに住む

 嬉しくてたまらない、心の叫びが、主をほめたたえる賛美に変わるのである。一人が歌い出すと、とたんに皆が歌い始める。みんな覚えているのだ。
 やはり、フレーズの短い簡単な、繰り返しの曲はいいな・・・。
 私も思わず歌いだすが、姉妹はもう踊り出していた。ほんの少しの時間ではあったが、感謝であった。この賛美に限らず、姉妹は何時も踊っている。自宅でもこの通りのようだ。
 「一人住まいだから何でもできるんよ」と本人は言っているが、いやいや、たとえ一人暮らしでも、照れてできないものである。祈りも、声を出して、いつまでも祈ってられない、すぐやめてしまうか、小さな声で、端っこでブツブツと祈って終わり、ということにもなりそうである。

 神様の前に子供のようでありたい、そう願うのはみな同じだと思うが、案外、子供のようにはなれない大人のプライドがあるようだ。
 私も、姉妹を真似て、もっと自由に神と過ごしたい。皆で真似ようではないか。わっはっは!(た)

全ては宣教

 先週日曜日の午後は、原田修司さんの召天2周年祈念式であった。奥様の光子さんの写真も並べて、お二人の偲ぶ会のようでもあった。
 お父様の会社を見事に継いでいる兄弟お二人とそのご家族、そして親族の方々と、楽しい時を過ごした。
 出席者にクリスチャンは皆無に等しかったが、話も弾み、時間のたつのが早く感じられたのは、お料理のおいしさも相まって、というところでもあろうか。
 
 イエス様の救いを無理やり押し付けるわけでは無い、ただクリスチャンとしてイエス様の聖名を掲げ、神の愛を語り、いわゆる世間でいう3回忌の法要を2周年祈念式として行ったのである。そして最後には主の祈りを祈った。なんと主は素晴らしい。

 最近キリスト教を知らない外国の土地に行って伝道する宣教師の先生方が結構おられる。
 その中にコモリ先生という方がいる。イエス様を知らない方たちの中に家族と共に入ってその人たちと一緒に仕事もし、共に過ごしながら伝道を実行してきている素晴しい先生と家族である。

 生活の中でイエス様の福音、罪のこと、色々なことを少しずつ触れていく。
 やがて反対の多い中にも、地域の家庭で集会が出来るようになり、クリスチャンとして成長していく若者たちの姿を見るようになる。自分の身をとして宣教している方たちの素晴らしさはさることながら、イエス様を知らない地であった所にイエス様を知り、聖書に触れ、賛美し、祈り、育って行く若きクリスチャンたちがいるのを見ると、感動してしまうのである。

 コモリ先生たち家族は、今は日本に住んでいるようだが、日本にあっても、イエス様を知らないご近所の人々の中に、まさに未伝の地に、家族と共に遣わされている。
 そうしてみると、日本は教会もあるし、クリスマスもあるけれど、町や村の中に入ってみると、どこもかしこも未伝の地のようなところが多く、仏教や、神道しか知らない地域が結構多いものである。
 先生が「ハーザー6月号 『特集 届く宣教』」のなかで『異邦人には異邦人のように(コモリコウゾウ)』というタイトルで宣教について語ってくださっている。是非一読していただければと思う。(た)〔釘宮孝枝〕
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by mitiru-takae | 2024-06-01 22:00 | 満ちる | Comments(0)
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