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No.509 クリスチャンの知識と体験 2022.7.31

クリスチャンの知識と体験

 キリスト教神学の博士、または神学校の教師の先生方や、牧師先生たちなら、キリスト教についての知識はあって当然と思うが、だからと言って信仰については知識だけでは語れないものであろう。

 どんなに小さな体験、経験であっても、知識では説明のつかない信仰の世界がある。

 聖霊による魂の体験を持つことである。

彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。<ルカ24:32>
 
 これはイエス様が復活された後、エマオに向かう二人の弟子の体験である。

イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。<ルカ24:17>

 イエス様に語り掛けられた二人の弟子(一人の名はクレオパ)は、「この人は今話題の大変なニュースなのに、ナザレのイエスのことを知らないのだろうか。」と思い、事件についてとうとうと、語り始めるのである。
 当の本人イエス様に向かってである。

そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。<ルカ24:25>

こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。<ルカ24:27>

 彼らが、イエス様に気付くその時まで、イエス様は彼らと共にいて、語ってくださっていたのである。

 私たちは「祈っても聞かれない」だとか、「祈れないほどに苦しい」だとか、「神も仏もない」などと、勝手なことばかり並べたてているが、イエス様はと言えば、私たちの目の前に居て、気が付けば食事の席まで共にしてくださっているではないか。

 ただただ驚きの事件の様子を並べ立てるだけの彼らに、イエス様は、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされたのである。
 
 この時、二人は自分の心が内に燃えるのを体験したのである。
 しかし、その時は分からなかったのだ。

 信仰は、イエス様と私の共同で積み上げた記憶(天の宝)である。
 私の記憶は薄れていても、イエス様の記憶はとこしえに変わることも朽ちることもないのである。
 これこそイエス・キリストの信仰である。
 私の信仰と思っていたのは、実はイエス様がしっかり記憶してくださっているイエス・キリストの信仰なのである。

 体験も同じである。
 二人の弟子たちのように、イエス様が魂に触れてくださっているとき、自分の魂も応答して燃えているのにもかかわらず、その時は一生懸命で、周りが見えてないのである。

 ある時、聖霊様が私に気付かせてくださる。
 あなたも、まだ気が付いていない体験があるかもしれない。
 私には体験なんてないと思っているかもしれない。
 
一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。<ルカ24:30,31>

 聖霊が私たちの目を開き、「イエス様だよ」と教えてくださる。
 クリスチャンはみんなどこかで体験しているだろうし、イエス様に出会ったとき、心が燃えないものは一人もないであろう。
 これはキリスト教の知識だけではわからない、イエス様に出会う聖霊による体験のことである。(た)
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by mitiru-takae | 2022-07-30 21:54 | 満ちる | Comments(0)
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