No.391 今を生きる 2020.4.26

今を生きる

わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。<ヨハネ14:18、19>

 墓の前で泣いたマグダラのマリヤも、「私の指をその釘あとに、私の手を、そのわきに差し入れてみなくては決して信じない」といったトマスも、11人の弟子たちはそれぞれ復活の主に会ったのである。

 会った場所も時も、それぞれ違ったかもしれないし、まだまだ恐れの中にいた弟子たちもたくさんいたであろう。

 イエス様の復活の後の弟子たちの様子は、ペンテコステまでの時間をかけてゆっくりと作り上げられていく、そのような感じで、決して、「うれしーーーー」と浮足立ってはねて喜びまわるというものでもない。

 魂の中で、何が起きても動じない、強い信仰が形成されていく。
 静かだが、力強い新しい世界が、弟子たちの心の中にできていく。
 復活はイエス様だけではなく、弟子たちも、そして私たちもだ。

 イエス様は40日かけて、聖霊の満たしを受ける弟子たちのために、たびたび現れて、導いてくださった。
 決して、十字架で、終わりではない。
 一人で歩けるように、又歩けるようになっても、わたしたちの主であるイエス様は、私たちを離れず、見捨てない。

 イエス様は言った。

 「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。」

 そうだ、イエス様が復活されて、今も生きてくださっているので、私たちも生きている。
 生きたイエス様が私たちの魂の中に生きている。
 この喜びは、ズンと重みがある。
 
 世界の状況を見て、世の終わりの兆候があちこちにみられ、今から世界は終末に向かっていくのだろうかと、聖書や、色々な予言者や占い師が言うことを信じ、戦々恐々としている人々も多い。
 今や戦争の形が昔のようではなく、恐れや、噂だけで、世の中の秩序は崩壊していく。
 災害、戦争、飢饉、疫病、等々、人々の心は沈んでいく。
 世の終わりについては、このように恐ろしいイメージがある。

 確かに、今は、「患難期の始まり」のはじまり…かもしれない。
 ノアの時のように、私たちが箱舟に乗るときは近いのかもしれない。
 ノアたちも、家族がすべて素晴らしかったわけではない。
 ただ、箱舟に乗ったか、乗らなかったか、その差が生死を決めた。
 人間がみな罪びとであることは間違いがない。
 あがなわれた罪びとか、そうでない罪びとかである。

 私たちは、恐れない。
 なぜなら、私たちイエス様を信じる者の終末は、黙示録にある、新天新地である。
 すべてが新しくなる時なのだ。
 イエス様が生きるので私も生きる、そんな世界なのだ。

 ましてや今、イエス様を信じている私たちは、死んだら即天国行きが約束されている。 
 今、病の中で苦しんでいる人も、苦しい状況の中でもがいている人もいるであろう。
 特に今は、すべての人がそれぞれ苦しい立場に置かれているかもしれない。
 元気な人はそれなり、行動制限することすら、とても苦痛を伴うものだ。

 しかし、そんな時だからなお、み言葉をいつも握りしめていよう。
 いつも、私たちを助けようと御手を伸ばしてくださる、力強いお方がいることを知っておこう。
 そのお方がいる限り、私たちは、恐れず、今を生きられる。
 ハレルヤ!(た)
No.391 今を生きる 2020.4.26_c0265111_17580742.jpg










by mitiru-takae | 2020-04-26 17:58 | 満ちる | Comments(0)
<< No.392 聖書は知っている... No.390 祝福は再び/にじ... >>