No.382 地の塩、世の光として 2020.2.23

地の塩、世の光として

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。<マタイ5:16>
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 「クリスチャンとしての私たちの言動を見せるのではなくて、クリスチャンである私たちを通してイエス・キリストを知っていただくのだ。」とはよく言われる言葉である。
 だが、果たして、周りの人々は私たちの生きる姿を通してイエス・キリストを知ってくれるであろうか。私たちはそのような人でありたいと願っているがどうだろう。

 以前、「満ちる」で、私の父のかたくなまでに押し通す信仰行為について言及したことがある。
 世の人との妥協点は、道徳的、人道的そのあたりまでであって、そこから突き進んでパウロの言う「宣教の愚かさ」をもって生きようとするとき、今の自由な日本でさえ、「うーん!」とまゆをひそめられることが多い。
 とてもそのような周りの人に敵対するような生き方はなかなかできない。

 しかし、考えてみると、世の人と、イエス様の側の人間とは、敵対するのが当たり前である。
 魂の底にあるものが全く違うからだ。
 「闇と光、死と命」、この違いははっきりしている。
 私たちは、世と妥協しないで、宣教していくことが果たしてできるのであろうか。
 イエス様が言う、「地の塩としての役割を担う、また、世の光として、精いっぱいの良きことを行い示していくこと」はとても大事な宣教の一つである。

 そこで、私たちが、地の塩であり、世の光である、御国の性質を、顕していく人になるために、先ず、聖霊様による充満を求めよう。

 真の地の塩の働きをして下さるのはイエス様だ。
 これは愛である。
 また、真の世の光として、暗いところを照らし、私たちの罪をもあらわにし、救いに導く者、これも私たちのイエス様のお姿だ。
 このイエス様が私たちの中に生きてくださるとき、私たちは、「愚かな宣教」ができる人となる。

 私たちの心の中に悪しき思いが満帆になっているとしたら、とても塩の働きも、光の一筋も漏れることがない、サタンの奴隷状態だ。
 イエス様の思いで満たしていただこう。

 いつも神の側の人間として立っているためには、み言葉の告白である。

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。<第一テサロニケ5:16~18>
 
 例えばこのみ言葉を、できないと言わずにただ告白する。
 一日何度でも思い出すたびに告白する。
 私たちの告白する言葉によって、イエス様は神にとりなしてくださるのである。
 「出来ないことだから口に出せない」ということはイエス様にとりなしてもらわなくても良いということになる。
 そうするといつまでたってもみ言葉が実現することはないであろう。

まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。<マタイ12:34>

 私たちのうちにあるイエス様のご性質(生きて働いてくださるイエス・キリストの霊)を、これでもかというくらいに満たしていただこう。
 心の奥底(霊)から心、肉の心を突き破り、外なる人までも、だんだんと変えていただこう。

 暗闇で光が漏れるように、私の心の中からキリストの香りを放つことができる人に変えられよう。(た)
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by mitiru-takae | 2020-02-26 19:03 | 満ちる | Comments(0)
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