No.378 もしあなたがクリスチャンであるなら 2020.1.26

もしあなたがクリスチャンであるなら

さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。<マタイ4:1~3>

 「あなたはクリスチャンなんだから、隣人を愛さなければいけないのでは。今日は、教会の日曜礼拝に行くよりこの人を助けるために、あなたの時間をさくべきだとおもいます。」と、家族か、会社の同僚に言われたとき、あなたは一体どうするだろうか。

 昔、まだ釘宮家の子供たちが、小学生くらいのころ、必ず日曜日に行われる運動会に、親が朝から見に行くなどということはまずなかった、というよりも、お昼のお弁当は、日曜礼拝の後、母が急いで持っていくという始末であった。
 それも、早めに終わってほしいなと思う時に限って、父はいつもより長い説教をするのである。

 ただ、そのことを、他の信者さんに同じようにせよとは言わなかった。中には言いたい人もあったようであるが(笑)。

 牧師なら、伝道者なら、信仰の筋を通すべきであるかもしれない。
 また、自分の信条を簡単に崩してしまうのは信仰者として、他の求道者の方々に対して少し恥ずかしい。何より神様の前に顔を上げて出られない。

 こんなことを父が思っていたかどうかはわからないが、一本筋を通した生き方というのは他人からしてみると、少し律法的に見えたり、頑固のようにも見える。
 信仰によって生きる真実の生き方とは、一体どこが違うのであろうか。

イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。<マタイ4:4>

 父が一貫して通した生き方は、時には頑固であったかもしれない。
 時には、自分の思いを制するために執拗なまでも押し通したことであったかもしれない。
 しかし、そこに「神に従って生きよ」という、神の言葉が父に語りかけられていたとするならば、なんとしてでも神に従たがわざるを得なかったであろう。
 
 私たちもそうである。
 時どき迷うこともある、その選択は、誰にも教えてもらえないときもある。相談する信仰の友もいないときがある。
 一家の家長であるご主人、又一人で子供を育てなければならないひとり親、一人暮らしの方、会社の社長、など、すべての頂点に立つ人々は、特に重要な選択を迫られる。

 他人に聞いては思うようにならないと腹をたてたり、悪い結果が出ると、その人の責任にしたくなる――、というように、私たちはいつもどこか自分自身に対しても、他の人に対しても、自信もなければ信頼も薄い。

 神様の前に静まって、心の底に語り掛けてくる細き小さな声を聴くことをお勧めしたい。
 砂をかむようであっても、聖書を読むことをお勧めする。

 人の思いは、さばいたり中傷したりと、自分と考えの違う他人に対しては、とても冷たいものである。
 
人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。<箴言29:25>

 イエス様に倣って歩んでいこう。
 わたしたちにとって、まるで荒野のような状況の中にある時も、イエス様はいつも私たちより先に進んで、荒野の中に逃れる場所を用意してくださっている。
 今、たとえ荒野の真っただ中にいても、イエス様の居られる場所にいこう。

 荒野で「あなたクリスチャンなんだから―-」とサタンの試みにあうならば、「わたしはクリスチャンなので、神の口から出る一つ一つのことば(レーマ)をいただいて生きています」と告白しよう。(た)
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by mitiru-takae | 2020-01-29 19:36 | 満ちる | Comments(0)
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