No.368 愛が湧くところ/天国の宝 2019.11.17

愛が湧くところ

この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。
そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。<ルカ16:22~23>

 去る11月10日(主日)、在天者祈念礼拝と、別府霊園にて墓前礼拝が行われた。

 在天の釘宮義人牧師以下、白布をかけた机の上にずらりと写真が並ぶ。この礼拝室でかつて大声で祈り、泣き、笑い、飛び跳ねて踊っていた思い出深い面々である。
 身が引き締まる思いで、先人たちの信仰を思い起こしていく。感謝!
 また、天国での毎日がどんなであるか、聞いてみたいものである。

 さて、久し振りに来会してくださった在天者のご家族の方々の笑顔が、この日は特に嬉しく感じた。
 やはり教会は嬉しいところ、楽しいところだ。
 なぜって、イエス様の愛があるからだ。
 思いやりも、慰めも、励ましも、喜びも、すべて神から出たものである。

 ルカによる福音書の中に、金持ちと、貧しく全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前に座っていたラザロという人が、二人とも死んだ話がある。
 二人の行ったところは黄泉(よみ)である。

 金持ちは、黄泉で苦しみながら目を上げると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。
 「ラザロをつかわして、私の舌を水で冷やしてください」とアブラハムに頼むが、あっさり断られる。
 その理由が、「あなたは生前良いものを受け、ラザロは悪いものを受けた。それにここからそこには行けない。」というのだ。
 黄泉において、ラザロは金持ちとは違い、慰められるのだ。
 黄泉に二つの場所がある。慰めの場所と、火の燃える苦しみの場所だ。
 金持ちは、苦しみの場所にいたのだ。

 ラザロは、「何か良いことをした」とか、「神に祈って嘆願したから」などとは、何も書いていない。
 彼がしたことといえば、「悪いものを受けた」こと、「貧しく、病をもっていて、苦しんだ」ことである。
 しかし、ラザロは幸いだ、本物の慰めを受けるからである。
 
 金持ちはどうだろう。
 彼はアブラハムの言葉に、自分の罪を認めざるを得ず、自分の兄弟たちの救いを求めた。
 私はこれが地獄と黄泉の決定的な違いだと思う。
 なぜなら地獄には愛などという、思いやりのかけらも、まったくないところだからだ。あるのはただ、黙示録に書いている火の池であり、第二の死があるだけである。

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。<マタイ5:6>

 黄泉には、愛を取り戻すチャンスがある。
 だとすると、いま私たちが生きている地上は、もっともっと、愛が溢れる希望があるところなのだ。
 自分の罪を認め、知ると、私たちは義に飢えかわく。
 イエス様を求める魂の渇きが起こってくるのだ。ハレルヤ!(た)


天国の宝

 天にある私たちの家には、地上での私たちがいただくはずの宝がたくさん用意されている。

 S姉妹は、今まで、あまりにも祈ってなかったので、この宝を受け取れていなかったこと気付いた。
 その時、姉妹に新しい賛美が与えられた。なんという祝福だろう。

 礼拝の中で、姉妹の証の後、皆で賛美した。とにかく、歌いだしたら止まらない賛美である(笑)。祝福、祝福。

 「天にあるすべての祝福 祝福 祝福
  天にあるすべての祝福 私のものよ~♪」 (た)
No.368 愛が湧くところ/天国の宝 2019.11.17_c0265111_09561175.jpg








by mitiru-takae | 2019-11-20 09:58 | 満ちる | Comments(0)
<< No.369 天は笑う 201... No.367 天国の夢を見よう... >>