No.352 立ち上がれ/マルコ福音書最後の講解メッセージ 2019.7.28

立ち上がれ

ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、 み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。<ゼカリヤ3:3、4>

すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。<ゼカリヤ4:6>

 2013年7月15日は、記念すべき、私が牧師按手礼をいただいた日である。
 その時いただいたみ言葉が冒頭にあげたゼカリヤ書だ。

 按手礼の時は「すべてが神の御手にあり、私が何ができるかということでなく、ただ、神の霊によってなされた偉大なことである」と不安交じりの心に「主の力によって立ち上がれ」と、命令していた状況であった。

立て。さあ、ここから出かけて行こう。<ヨハネ14:31>

 しかし、今日言葉を読みながら、私は片ほうの口角を上げて、ニタリと笑う。
 「その通り、サタンが私を牧師にしまいと、私の罪を神の前に告発するとき、
神はかえってサタンを告発するという。私の罪に汚れた服を脱がせ祭服をきせてくださった。まことにこれは神の霊によってなされたことである。」

 父が言ったではないか。「孝枝簡単だよ、主が後押ししてくださる」
 この言葉は今も私の胸中に迫ってくる。
 「そうだその通りだ」と。

 さて時に、先日のギャザリングがあった日はというと、くしくも7月15日、按手礼記念日であった。
 今回のギャザリングのテーマであるみ言葉も、ゼカリヤ書4章6節である。
 あれから6年、早いものだとまた父を思い出す。

 懐かしいので父の召される1月前くらいの日記の一部を再度紹介しよう。

 「義人よ、今だ。立ち上がれ。遅れを取るな。主の時だ、戦いの時だ。主に福音ののろしを上げるのだ。」―――「大きな変化が私の魂に起こりつつあるな、と思う。―――神様、有難うございます。今後、素晴らしいことが起こるでしょうね。―――いやいや、寝てられませんねえ。神様、感謝します。一切が変わります。」

 まさに「一粒の種」としての自分の役割が起こる時であったし、一切が変わる時であった。
 私も声を上げる。「寝てられませんねえ。主よありがとうございます。」(た)


マルコ福音書最後の講解メッセージ

弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕<マルコ16:20>

 マルコ講解も最後となった。
 はじめは「4、5か月かかったのかな」と思っていたがなんと、昨年の6月ごろから始めていたらしい。驚きだ。
 そういえばなんとなく、なじんでいて、もう終わりかと思うと寂しい気もする。

 このマルコの最後の最後、大宣教命令である。
 だが、私たちにとっては、主が共に働くということが大きな支え。
 いや、それどころか不信仰な私たちに、イエス・キリストの福音の確かさを、み言葉に伴うしるしとして(み言葉が伴わないものは神からのしるしではないともいえる)見せてくださる。

 みなさん、主からのしるしはすでに一つ受け取ってますよ。
 「私はイエス・キリストを私の救い主と信じます」と言えることだ。アーメン! (た)
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by mitiru-takae | 2019-07-31 09:17 | 満ちる | Comments(0)
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