No.351 新しい賜物 2019.7.21

新しい賜物

彼は天を低くして下られ、
暗やみが彼の足の下にあった。
彼はケルブに乗って飛び、
風の翼に乗ってあらわれた。
彼はその周囲に幕屋として、
やみと濃き雲と水の集まりとを置かれた。       <サムエル下22:10~12>

 7月15日(月・祝)、大分カルバリチャーチに於いて「大分ローカルギャザリング」が開かれた。
 アルゼンチン、台湾の教会をめぐって、大いに恵まれた永野先生のお話にみなワクワク期待し、また、福岡、山口県宇部など、遠い教会からの初めての先生方や兄弟姉妹の参加があり、とてもエネルギッシュな聖会となった。

 キリストの福音大分教会からも精鋭数人の参加、特に遠く阿蘇からの井野さんご夫妻の参加は嬉しかった。
 お二人のニコニコ顔が、外部の教会で見ると、とてもほっとする。
 弟のベースギター、妹の賛美リーダー、ともに奉仕感謝であった。
 賛美についても、主のみ前で踊り、又主と共に演奏し、歌う、これをとても楽しんでいるように見える。

 「私たちの礼拝はこうでなくっちゃ」と思う。
 妻からさげすまれたダビデのように、幼子にかえって私たちは主を喜び、主に喜ばれるものとなりたい。
 いや、そうなった(笑)、成らせていただいた―――のだ。

 恥ずかしかった「ハグ」も―――だいぶなれた。
 「愛してる」も言えるようになった。
 この喜びは「賜物」であり、「実」だ。今日いただく「新しい賜物、それは新しい実」である。
 このことは、今回のギャザリングで、一番私の心に刻まれた。

 今回私は絵を描かせてもらった。
 冒頭にあげたみ言葉は、絵をかき終わって3日目くらいに与えられたもの。
 関連してみ言葉が、毎日次々と与えられる。
 聖書を探すのではない。
 毎日、「早天祈祷会」、又「聖書学習会」というようにみ言葉(聖書)を開くたび、そのところで示されていく。

 そもそも私にとっての預言的アートというものは、数年前の東京の21世紀教会での礼拝後与えられた「夢と絵を描くこと」の預言、ここから始まった気がする。

 四国松山と広島のギャザリングの前に、橋本先生から描いてと頼まれた預言的アート2枚が、預言とどちらが先か後かはよく覚えていないが(笑)、わたしの預言的アートの発端となった絵である。

 絵を描くのはとても好きだったし、漫画を描くことも大好きだった。
 自分の大好きなことを、主にお捧げできることは素晴らしい。
 絵を通して私のライフワークが示された感があり、「主の下さる賜物を感謝して受け取る」ことが大切だと、実感する。

 21世紀教会での預言の最後に、「シーズンが来たら明かされる」と言われていたことの意味が、絵の解き明かしのことではなくて、私にとっての新しいシーズンが来るんだという預言であったということも、恥ずかしいことではあるが、「今、わかった」と言える、そんな喜びが湧いてくる。

 神が下さる、新しいシーズンがやってくるとき、それはまるで神は私の魂の中に「天を押し曲げ降りてこられた」という、今回与えられたみ言葉のようだ。

 突然(私にとっては突然である)主はケルプに乗って大いなる権威をもって私のうちに来てくださる。
 私の魂を、主は幕屋(仮庵)としてくださったのだ。

 私たちを囲む命の水は永遠に枯れることがなく、私たちも決して枯れない。
 なぜならば、私たちはイエス・キリストに、接ぎ木されたものであって(ローマ11:24~26)すべてのものを「根」からいただいているからだ。アーメン! (た)
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(今回のギャザリングで披露した預言アート)
















by mitiru-takae | 2019-07-25 22:18 | 満ちる | Comments(0)
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