No.348 「バラバ」があなただったとしたら 2019.6.30

「バラバ」があなただったとしたら

ここに、暴動を起し人殺しをしてつながれていた暴徒の中に、バラバという者がいた。<マルコ15:7>

それで、ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。<マルコ15:15>

 「ここに、バラバというものがいた」、リビングバイブルは「たまたま、この時」、新共同訳は「さて」、新改訳は「たまたま」、キングジェームス(英語)訳では「and」、と、バラバは本当にたまたま、この時とらえられて、牢に入れられていたようだ。

 しかし、神のご計画に偶然はない。
 バラバは赦された。

 ローマの刑は鞭打ちも相当残酷だが、十字架刑は、最小限の流血で、なかなか死なないという、見せしめとしてより残酷な効果があるものであっただろう。まるで拷問である。

 バラバが、こんな悲惨な刑を目前に控えて、牢の中につながれていたとすると、どのような思いでいただろうか。

 「暴動をおこし」と書いているので、ローマに対する反逆罪であったのだろうか、そして暴動の中でローマの兵士を殺してしまったのかもしれない。
 そうなると、十字架刑は免れないだろう。
 
 彼は、牢の中で、イエス逮捕のニュースを聞いていたであろうか、自分の起こした事件以上に、エルサレム中を騒動に巻き込んだこの事件のことを、果たして知っていたであろうか。

 たとえ、牢の番兵が話していたことを聞いて、薄々わかっていたとしても、ピラトに直接、イエスの代わりに私に恩赦をとは言えないだろうし、何を言っても聞いてもらえるような立場ではなかったであろう。

 自分で犯した罪のために、明日は十字架にかけられて死ぬ身として、牢の中でうずくまっているだけで何もできない、自業自得の哀れな人、バラバ。
 仲間はたくさんいても、死ぬときは一人っきり。
 
 私たちも救い主イエスを知らない頃は、このバラバと同じであった。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。<ヨハネ3:16>

 身代わりとしてバラバのために命を落とされたイエス。
 それは、すべての人の罪の身代わりであった。

 「すべての人のため」の中には、わたしもはいっている。
 価値もないような罪びとの命のために、ご自分の命を引き換えにしてくださった。

 バラバが自分から解放を選べたわけではない。
 バラバが自分から頼んだわけでもない。
 バラバが仲間を使って手回しをしたのではない。
 ましてやバラバが祭司長たちに「イエスの代わりに私を許してほしい」と、懇願したわけでもないのだ。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。<ヨハネ第一4:10>

 わたしはバラバであった。
 イエスの愛も神の愛も、なにも知らなかった。
 まして、神が私のために身代わりになったことなど、微塵も知らなかった。

 ただ、今、神の命に生かされている事実を知っている。
 自分が十字架にかからなくて済んだことを知っている。

 バラバも多分このことに、後になって気づいたことだろう。
 イエス様感謝! (た)
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by mitiru-takae | 2019-06-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)
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