No.346 捕囚の果てに希望がある 2019.6.16

捕囚の果てに希望がある

主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。<エレミヤ29:11>

 6月13日(木)の聖書学習会で、列王記下25章を終えました。
 列王記上・下を毎週一章ずつ、全部で22章+25章で47章、約一年かけて、読んできました。

 ソロモン王の死とともに、イスラエルは二つに分かれ、エリヤをはじめとする預言者の時代が始まっていきます。
 この書を学んでいくうちに、預言者たちが神の言葉を告げ知らせていく時の、神への従順と苦悩とを覚えて、今の私たちの信仰による生き方を、深く思い返す良い機会となって行きました。

 私たちは、今の私たちに対する神のご計画はわからないことが多いと思います。

 聖書は「神は陶器師であり、私たちは創られたものである」と言いますが、創(作)られたものは創(作)ったものに文句を言うことができないのです。創造(制作)の完成(もしくは完成のビジョン)を知るお方は、ただ一人、創造主(制作者)だけなのです。

 しかし、この捕囚のころのユダの人々は最悪極まりないと言って良いくらいひどい時代の中に生きています。
この最悪の状況も果たして神のご計画なのだろうかと疑いたくなります。

 私たちは、どん底と思える状況から、解放という希望を持つことができるでしょうか。

 南ユダ王朝の最後から2番目にあたるエホヤキンという王様がいます。
 この王様はたった3か月間の王でした。そしてバビロンに捕らえられていきます。

 この後、最後の王ゼデキヤ(この王様は全くバビロンの操り人形のような立場でしたが反抗したため、悲惨な結末となりました)の時に、エルサレムの神殿も、城壁も、ソロモンの宮殿も何もかも、壊されてしまいます。

 ユダの国の人々がバビロンに連れ去られ、すべてが根絶やしにされたようになってしまいました。

 しかし、神のご計画は、これで終わりではありません。

ユダの王エホヤキンが捕え移されて後三十七年の十二月二十七日、すなわちバビロンの王エビルメロダクの治世の第一年に、王はユダの王エホヤキンを獄屋から出してねんごろに彼を慰め、その位を彼と共にバビロンにいる王たちの位よりも高くした。
こうしてエホヤキンはその獄屋の衣を脱ぎ、一生の間、常に王の前で食事した。
彼は一生の間、たえず日々の分を王から賜わって、その食物とした。<列王記下26:27~30>

 これは全くの神のご計画であり、エホヤキンという王様は、神様に対して良いことをしたわけでもなく、立派な王であったというわけでもなく、ただただ、神のご計画に沿って憐れみを受け、御心の成就のために用いられたのです。

 そして、この王様の孫であるゼルバベルの代になってユダの人々はエルサレムに帰り、神殿や城壁を再建することになっていくのです。

 私たちは最後まで神を信じ続け、耐え忍ぶならば、大いなる希望を見ることができます。まさにヨブが言うように、木には望みがあります。
 死んだ種から新しい芽が噴き出すように、神の業は、私たちの思いをはるかに超えています。
 神のご計画によって歴史が違った方向に動き出します。

 今の時代も昔と同じように神の御手の中です。
 私たちにとって、新しい神の神殿(宮)は、聖霊様によって私たちの心の中に建設されています。(た)
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by mitiru-takae | 2019-06-20 08:20 | 満ちる | Comments(0)
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