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No.341 本物のイエス様を知ろう 2019.5.12

本物のイエス様を知ろう

わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。<ピリピ3:8>

 神の知恵は、本当に測りがたく、アインシュタイン級の頭脳を持っていたとしても、とてもこれには及びません。

 それかと言ってパウロのように損と思えるほどの何物も持っていないというのもちょっと寂しい気がします。
 やはりみ言葉にはいつも触れていたいものです。
 私たちの学びと神の知恵によって、相乗効果を大いに期待しましょう(笑)。

 先週は、本屋で「令和元年5月1日発行・万葉集一」という本を買ってちょっと読んでみました。

 新元号「令和」の出典元となった、「梅花の歌」が最後の方にありました。

 当時の様子がよくわかる表現には驚いてしまいます。
 例えば、鏡前の白粉のように咲いた梅、貴人の飾り袋の香のような蘭の香り…といった具合です。
  
 「語学をもっと学ぼう」と言っているわけではありません。

 どのように素晴らしい言葉を使って詠んだ歌であっても、これを読む人が、梅の香りや、蘭の香りをまったく知らなくて想像できなかったり、鏡や、白粉の粉を知らない、飾り袋って何だろう…という感じではこの歌はわからないわけです。
 この歌をうたいあう仲間同士では、互いに理解のできることば、普段の生活、環境があって成立しているのです。

 聖書についても同じことが言えます。

 ある人が、イエス様を理論的に解明し、神がなんであるのか、人を救うとはどういうことなのかと、毎日、聖書を開いて読みあさってみたとします。
 ところが、いくら読んでもさっぱり意味が分からないということがおこります。

 然し一度でも、その人がイエス様に出会って、その愛の素晴らしさに触れたことがあるならば(これは肉声を聞くとか、幻を見たということだけではありません)、「梅」といったとき、梅の花を想像できるように、「イエス様の愛」と言う「み言葉」を見るならば、その「愛」がわかるのです。

その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。<エレミヤ29:12>

 このお言葉を読んだとき、心から「感謝」と思えるのは、苦しいとき、困ったとき、神に呼ばわったことがあるからですし、神に近づいて祈ったことがあるからです。

 「真の神であり、完全な人である」イエス様を、お言葉だけで理解しようとしても難しいのは、イエス様をまだ知らないからなのです。

 一度イエス様に出会うと、み言葉はその人の心のうちに開けて、理解できるようになります。
 クリスチャンがクリスチャンであるためには、私を十字架の死をもってあがない助けてくださったイエス・キリストを知っていることです。

 そのお方が私の魂の中で今も昔もこれからも変わらず、生きて働いてくださっていることを、言葉ではなく、あたかも梅の花を目の前で見るように、イエス様を知ることが、学ぶ以上に大切なことです。

 イエス様を知ることをもっと、もっと祈って求めましょう。

わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。<ホセア6:3>

 イエス様が、必ず、現実に私たちに臨み、私たちの渇ききった心を潤して下さいます。(た)
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by mitiru-takae | 2019-05-15 18:43 | 満ちる | Comments(0)
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