No.303 種まきが種をまく時(神の国の奥義) 2018.8.19

種まきが種をまく時(神の国の奥義)

そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。
それは
『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』
ためである」。また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。種まきは御言をまくのである。<マルコ4:11~14>

 イエス様はよくたとえ話をしました。
 ところが弟子たちにはその意味がよくわかりませんでした。ですからイエス様は弟子たちに説明しました。種まきのたとえもそうです。
 「種がどのようなところに落ちたのか、そしてみことばの種は、どのようになっていったのか」がよくわかります。
 また、種が落ちた地がもし私たちに置き換えればどういう人、また、どういう心の状態であるかなどもよくわかります。

 神の御言葉を受け取った人々とは<マルコ4:14~20参照>
【道ばた】・・・自分自身の今までの経験や、地域の伝統、習慣などに心がとらわれるので、サタンに機会を狙われやすい人。
【石地】…みことばを簡単に受け入れはするが、感情にとらわれやすく、自分の意志で、み言葉を持ち続けることができない人。
【いばら】・・・霊(心や魂の深いところ)的にも、肉(この世にかかわるところ)的にも情欲の多い人。多くの悩みを持っている人ともいえます。
【良い地】・・・砕かれた(耕された)神に従順な魂を持つ人。「イエス様という一粒の種が地に落ち死ぬことによって、自分たちは多くの実を実らせることができる」ということを信じる人たち。

 こうしてみると実にいろいろな地があります。
 自分はどれにあてはまるだろうと、考える方はまだよいですが全く他人ごとの人もいるわけです。

 しかし神様が下さる種は皆同じ種です。
 神様がまいたみことばは、私たち一人一人がそれを聞いた時、実はとても怖いことですが、すでに裁かれているのです。
 種を受け取ったときすでに結果が出てしまっています。
 道ばたも石地もいばらの中も、種がうまく育つのはとても無理な場所です。

 受け取ったとたんに、私の罪が暴露される怖い、神様の種まきですから、良い機会です。わたしがどのような地であるのか知っておきたいですね。
 このことは私たちが「神に立ち帰る良い機会」でもあります。
 私たちは日ごとにみ言葉にふれ、事ごとに、私の地が今どういう状態であるのか、いつも見せられます。しかし、み言葉にふれねば、それもわかりません。
 毎日みことば(聖書、また祈りによって直接イエス様に)にふれましょう。

 また、わたしたちは神から頂いた種をもって、種まきにでかけます。
 果たして良い地を選んで種をまくなどということができるでしょうか。
多分出来ないのではないでしょうか。
 なぜならこの地に種をまいてどうなるかは、奥義です。隠されていることなのです。
 ですから私たちが種まきをするときは聖霊様にお任せして、私が選ぶのではなく、聖霊様に選んでいただくのです。それは具体的にどうすればいいのでしょうか。感情や好き嫌いは後回しにして、はっきり言って、思い付きでもいいのです(こういうとちょっと極端ですが…)。言い訳をせず、とにかくみことばを運ぶものとなりましょう。

 隠された奥義は、明かり(イエス・キリスト)によって明らかにされます。
 奥義が顕れ、照らし出される時は、最後の審判で神の前に立つ時そのものです。
 私たちはみ言葉によって既に自分の罪を知らされ、また知っています。
 わたしの罪を担い、神の前で「この人には罪が一つもありません」と言ってくださるイエス様を、誰もが信じぬいていきたいと願うでしょう。必ず信じさせてくださるのもイエス様です。アーメン! (た)
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by mitiru-takae | 2018-08-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)
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