No.296 偽善の反対語は? 2018.7.1

偽善の反対語は?

 偽善とは…「ギリシア語の原意は『劇である役割を演じる』こと。そこから実際にもたない感情や徳などをもっているふりをする倫理的に悪い態度をいう。特に宗教において問題となり,イエスはこの態度を強く戒め……。」【<ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 偽善の用語解説>から】

 ここに書かれている【「劇である役割を演じる」こと】がとても腑に落ちますね。これを、演技ならよいのですが自分の心の中で悪意をもって普段の生活の中で演じれば、立派な偽善者となるでしょう。

 とても困るのは、自覚がなくて悪意で生じるはずの偽善の行為を、何の悪気もなくやってのけることです。問題は、私たちの心や、もっと深いところで魂が、清いかどうか、愛があるかどうか…などにかかってくるのです。

 しかしこれらは、イエス様がおっしゃるようには、なかなかいきません。「ラクダが針の穴を通るより難しい」ことで、人間の努力では偽善者にならないように生きることはとても難しそうです。
 人は知らず知らずのうちに顔に偽善の面をかぶってしまいます。

 ここででは私たちが考えるのは、どうすれば偽善の反対を行えるのか?、またそういう人になれるのか?ということです。
 そこで私は「偽善の反対は何という言葉だろう」と頭をひねったのです。

 調べてみると、「偽悪」と出てきます。「偽悪」ってなんでしょう(笑)。悪ぶるということでしょうか。
 E兄は「真悪」かな…と言ってくれました。
 確かに文字の反対はそうです。その通りです。
 そうすると、パリサイ人たちは、「偽善」ですので、まだ救われますね。

 私は、頭をひねりました。意味の反対です。
 「義善」あるいは「真善」はどうでしょうか。
 私は「凡聖」であるといった父を思い出すのですが、私たちはイエス様のとりなしなくして義も聖も、善も難しい存在です。しかしながら、主にあるなら(主の側にいるならば)全てが可能な人に変えられます。ハレルヤ!

 ちょっとは救われる偽善者パリサイ人(真悪ではないので…)たちにとって、イエス様の存在はとても気になるもののようでした。

 イエス様の後をついて行く、様子をうかがう、心の中で批判する(自分たちの考えと照らし合わせてみる)、批判の言葉を投げかける、教理によって打ち負かしたい、などと思い、いつもイエス様の近くにいるのです。

 ユダヤ教もイエス様のころは、サドカイ派、パリサイ派、エッセネ派、また熱心党なるものもありました。
 特にパリサイ人と呼ばれる人たちは教養も高く、あらゆる階層の人たちから支持を受けていたようです。
 このパリサイ人達にイエス様はいいました。

イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている <マルコ7:6>

 偽善者の筆頭と言われそうなパリサイ人たちの中には、ニコデモや、アリマタヤのヨセフのように、隠れた弟子もいました。またパウロのころにはユダヤ教から改宗したクリスチャンもたくさんいたわけですから、どのような教理、教派だとしても真理を求める者には、イエス様は応えてくださるのです。
 
 こういうお言葉をかけていただけることでさえ、イエス様の近くにいるからこそと感じます。私たちも聖霊様のお言葉にいつも耳を傾けていたいですね。ちょっと嫌なことであっても、私たちに「真の善」をなさしめてくださる主を信じて、逃げ出さず、ついて行きましょう。

 イエス様こそ、私たちの真の主治医です。
 悪いところや病気を正しく診断し、告げ、癒してくださる、良い医者です。(た)

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」<マルコ2:17>
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by mitiru-takae | 2018-07-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)
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