No.289 イエス様の昇天/春の聖会「主に叫べ!」(2) 2018.5.13

イエス様の昇天

こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。<使徒1:9>

 人間であるイエス様が十字架にお架りになったところまでは、皆が信じられるところです。意味は分からないまでも、十字架刑にあうことはあり得ることだからです。
 しかし、復活となると、ちょっと眉唾ものです。まして昇天となると、もうSFの世界です。不思議なお話は誰もが好きですし、楽しいに違いありません。
 でも、イエス様のお話は、まことに不思議な、しかし、私たちにとって真実なるお話なのです。
 それは神様が私たちのために用意された、それも特別な、私たちのためのものだからです。わたしの罪の贖いによる救いと、神様の義を与えてくださる愛と赦し、イエス様が悪しき者から絶対的勝利を得た事実を語った物語だからです。
 イエス様が昇天後、わたしたちにくださった聖霊様は、私の罪を教えてくださり、またイエス様のお言葉を思い出させてくださり、私たちが日々悔い改めて、主に立ち返ることをお導きくださるお方です。感謝!(た)

  
春の聖会「主に叫べ!」(2)

聖会《3》
●父に叫ぼう!
 参照聖書箇所:ルカ15:11~32、マルコ14:32~42

 父なる神に二人(例えばカインとアベルのように人間に二通りの生き方がある)の息子がいました。
 兄はまじめで忠実で、働き者でした。もう一人の弟は、財産の取り分を父から取り上げたあげく、すべてを使い尽くしてしまったどうしようもない放蕩息子でした。
 私たちは一体どちらでしょう。
 考えてみますと、自己中心極まりない弟のようでもあり、よく考えてみると、父の心もわからず、ただ、父と、弟を責め、裁く兄のようでもあります。

 父である神様にとってはどちらも相続人である子供なのですが、父の心をよく考えてみると、「自分をよく思い出してくれた、良く帰ってきてくれた、死なずに元気で顔を見せてくれた、私の名を呼んですがって泣いてくれた・・・」弟を、喜ばずにはおれない、愛に溢れた父が見えてきます。
 半面、父に不平と不満を吐き出した兄にたいしては、父はなだめるばかりで、何も言えず、何もできません。
 もしあなたが、二人の父であったとしたら、どのような思いをするでしょうか。

 さらに私たちの崇高な父は、ご自分の計画のために、そのひとり子(イエス様)を、人間界で、さらし者にしようとしていました。
 絶対的な父の命令ではありますが、従うか否かは、ひとり子にかかっていました。
 私たちもそうです。父に従うか否かは、私たちの心にかかっているのです。
 ゲッセマネでのひとり子イエス様の祈りは、飲むに飲めない、ひどい杯を「あなたのみこころのままに」と飲み込むまでの葛藤を、ごく簡単に「イエス様なんだから、できるでしょう」と読み過ごしてしまいそうになります。
 
 イエス様が受けた苦しみは、二つありました。一つは人間としての痛み、一つはひとり子としての父なる神との断絶です。
 天においても地においても、残酷極まりない大刑罰であったでしょう。
 私たちの痛み、苦しみ、すべてをイエス様が知っておられるのは、ひどいあざけりも、いばらの刺さる傷も、鞭の肉をそぎ落とす痛みも、大きな釘で刺し通された手と足の痛みも、自分の体を打ち付けられた手と足でしか支えることのできない痛みも、すべて人間として経験しているからです。

 すべてのことが、父のお心を知るがゆえに飲み干すことができた杯だったのです。
 そのお心は「愛」でした。

 私たちへの愛のゆえに、十字架に向かって「立って行く」イエス様のように、私たちの父なる神に「父よ、あなたのみこころのままになさってください」と叫ぼうではありませんか。
 ペテロを励ましたように主は必ず私たちにも勇気と力を与えてくださいます。(た)
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by mitiru-takae | 2018-05-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)
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