No.287 告白の力 2018.4.29

告白の力

 キリストの福音大分教会献堂40周年記念に出版した父の遺筆「告白の力」は、父釘宮義人が常々言う信仰の実践です。
 「笑い」も含めて、自分ができるとか、だめだとか、信じられないとか、そんなことは一切関係なく、神の力が働くとき「わたしはなんでもできる」と言い切ってしまうということです。
 「いや言った後でできないと恥ずかしいから…」と、これもなしです。

 出来る出来ないは神の御心です。確かに私の目には、愚かな出来ない自分が映るということはたまらないことかもしれません。しかし、神の計画はその私に見えている範囲の向こうにあります。
 真実は、いつも主のみ手の中にあります。私の掌の上にはないのです。

 聖書を見ると、主のお言葉は必ず成就します。
 私たちはそのお方のお言葉を告白するとき、そのお言葉を現実にいただいているのです。

御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。<ヤコブ1:21>

 「告白の力」の表紙を開くと、まず「言葉には力がある」という表題が目に入ります。
良い言葉には良い力が、悪い言葉には悪い力があります。
 私たちは神から頂いた、神の言葉を告白しなければなりません。
 つまり私たちの告白は、ただ人が口から出す言葉ではなく、みことばを告白するとき、そこに働くのは神の力だということなのです。

 いつも神の言葉を告白できる人は、神のお言葉がうちに宿っている人です。 そして神を賛美するのです。神をことばでほめたたえ、メロディーでほめたたえ、真の礼拝をささげることです。

キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。<コロサイ3:16>

 心の目が開けると、真実のものが見えてきます。
 「肉の目からさめよ」と言わんばかりのイエス様の「すがるな」のお言葉に、たぶんマグダラのマリヤも、まことのイエス様が見えるようになったのだと思います。
 クレオパも、パンを裂くイエス様を見た瞬間、私たちの救いのためにご自身の体をムチや釘で裂いてくださったイエス様を見ることができたのでしょう。
 ところが、トマスに至っては、目が開くどころか、現実に「傷口に指を差し入れてみないと決して信じない」というのですから、彼は「信じない人」なのです。
 しかし、トマスはイエス様の「信じる者になりなさい」のお言葉に、応えました。

トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。<ヨハネ福音書20:28>

 私たちはなかなか信じられません。
 信じようとすればするほど、信じられなくなります。
 それは私たちが「信じない人」だからです。信仰告白によって「信じる者」になることです。

 ただ、「信じられてから告白します」ではどうかすると一生信じられません。イエス様はトマスの告白の後に彼に向かって言っています。

イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。<ヨハネ福音書20:29>

 トマスは偉いなあと思うのです。なぜかというと、イエス様のお言葉によると、トマスは目で見たことで信じたのです。
 私たちの目はあやふやですし、どうかすると真実かどうかもわからない時があります。トマスは自分に言い聞かせるようにきっぱりと言いました。「私の主・・・」。

 真似をしましょう。
 信じているのか信じていないのか、あやふやな時でも、「確実にその通りになる」と、神のお言葉を告白するのです。
 そのとたん、きっと信じさせられると思いますね。(た)
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by mitiru-takae | 2018-04-30 23:02 | 満ちる | Comments(0)
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