No.280 昔も今も永遠に 2018.3.11

昔も今も永遠に

しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
<イザヤ53:10>

 供え物というと、日本人は仏壇の上に置く、お菓子や果物を思い浮かべる。神道では地鎮祭の時などよく見かける、米や野菜である。
 いかに平和に見えることか。それにつけてもユダヤ教の生贄は、牛や、羊、鳥の切り裂いた血、肉である。

 遠く、インカやマヤの敗戦国の人質の心臓をささげるなど、残酷にしかみえない生贄などは、日本人から見ればとても野蛮で、見るにも聞くにも堪えられない、そのような感じだ。

 そうしてみるとキリスト教はとても平和な穏やかな人道的宗教のように見えるが、実は旧約聖書を見る限り、そのようには思えないのである。
 ただ、イエス・キリストがその残酷な生贄を一手に引き受けてくださったので、私たちは平安でいられるというわけだ。

 私たちはこの生きた生贄を捧げることが一番の残酷と思っているが、何よりもひどいのは創造主である神と断絶しているという現実だ。
 何故って、神との平和がありさえすれば、一切の生贄は必要ないものであるし、自分の子供を奴隷として売ったり、捧げたりする必要がないのだ。一番つらいのは、人間がサタンの奴隷となって生きていることだ。

われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
<イザヤ53:6>

 私たちは自分の罪をイエス様の上に置き、私の身代わりとしたのだ。以前聖幕の学びをしたとき、生贄の動物を伴ってとばりに入り、犯した罪をすべてその動物に移し、屠って捧げるということを学んだ。
 この屠られた動物こそ、私の罪の身代わりのイエス様であった。
 このように、モーセの時代も、イザヤの時代も、いえ、世界が作られる前から私たちのために救い主が来られることが決まっていた。

これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。(新共同訳)
<テトス1:2>

エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。(新共同訳)<ミカ5:1>

 イスラエルの希望であった約束のメシヤは、今や私たち人類すべての統治者、救い主として、私の希望となっている。

このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。(新共同訳)<使徒3:21>

 手に鎖をかけられたままのパウロが、自分を永遠の命に入れてくださった救い主イエス・キリストをユダヤ人の希望、異邦人の希望と認め、そのお方が、甦っただけでなく、私のうちに生きているということを証ししている。

 パウロが伝えたかったイエス様は、今生きているイエス様であって、過去にいただけのものではない。ましてや十字架で死んでしまったままのイエス様ではない。
 私たちの心の中に、十字架にかかったままのイエス様をいつまでも見るのではなく、私の罪と共に一度死に、死と黄泉に打ち勝ち、甦り、私もともに携えて永遠におられる方である勝利者であること、このことを心に刻み信じ続けていきたいと思う。

 昔いまし、今いまし、やがて来られるお方、王の王、主の主、イエス様を心から喜び、叫ぼう!
 ハレルヤ! (た) 
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by mitiru-takae | 2018-03-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)
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