(熊本地震で心身ともに被災されている方々へのとりなしの祈りを捧げましょう。)
神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。
このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。<詩篇46:1~3>
イエス・キリストの系図
アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。<マタイ1:1>
新約聖書のページをめくると、まず目に入るのがイエス・キリストの系図です。
初めて聖書を開く方には、なんとも読みにくいところですが、その原因はカタカナで続く人の名前と、○○の父という言い方でしょうか。
新約聖書にはもう一箇所、ルカの福音書にイエス・キリストの系図がでてきます。
ここでは、始まりの人の名がアブラハムではなく、アダムです。そしてまず、イエス様の母マリヤの父の名が出てきます。
それぞれに、強調して伝えたいことがあるのでしょうが、マタイの福音書に出てくる系図の名はとても特徴的です。
まず、アブラハムとイサクは自分の命の危機を免れるために自分の妻を妹と言って王や人々を欺きました。
ヤコブは父イサクと兄エサウをだましました。
ユダの子供はタマルという息子の嫁との間にできた子供です。
次に出てくるラハブは、エリコの遊女でありました。
また、モアブの女性であるルツによってダビデにつながるオベデが生まれました。
極めつけはソロモンの母です。ダビデの姦淫とウリヤ殺害の罪の結果、彼女は、ソロモンの母となりましたが、系図のなかでは「バテ・シェバ」と名では呼ばれず、「ウリヤの妻」と呼ばれ続けています。
このように、人の目でみると、外国の女性や、遊女、殺人や人をだますなど、まるで「聖典にはふさわしくない」としか言いようのない人々が、マタイの福音書ではイエス・キリストの系図にドカッと記されています。
数の少ない、他に比して優れているどころか、人目を避けたいような小さな者を、あえて選び、愛し、強く雄々しく用いてくださるイエス様を、「私たちの人生の基盤とし、誇りとして生きたい」と切に願います。
イエス・キリストの系図は、不完全な者を通して救いを完成してくださった神様の愛の証です。(た)