「心に満つるより口は物言うなり」は真実?
聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。<ペテロの第一の手紙1:16>
1月12日(祝)に開催された「大分ブレッシング(テーマ 2015年の油注ぎ)」は、主の大いなる恵みの中で集った一人ひとりが打ち破られ、会場の中の主の霊の磁場がゆすぶり動かされたかのように一つの渦となってもえあがりました。
この様子のほんの一部をYouTubeにアップしました。
この動画を見れば、この場にいなかったことを後悔する人がいるのではないかと内心喜んでいます。同じ機会は二度とありません。毎日訪れる主の呼びかけを逃さないように心を聖霊様のお声にフォーカスする習慣を身に着けましょう。
今年の指標聖句を実行しようと心がけるならば、主が身につけさせてくださることでしょう。心がけるという自分の行いに対する意志がないことには、何事も成功するはずがないということです。信仰も、「求めよさらば与えられん」で、私のほうが一念発起しなければ主の働きに少し待ちぼうけを食らうということにもなりかねない、そのような気がします。
勿論、ある日突然望みもしないほどの幸運が飛び込んでくることもあるかもしれませんが、普通、自分の身に起こって来る事は、自分の思いの中にあるものがほとんどだと思います。
このことは私が牧師になったことにも云えることです。たとえ口では、「もう教会は嫌だ」「やめたほうがいいんだ」「とてもじゃないがやっていけない」と言っていたとしても、心の奥底では(牧師になるということは想像もしていなかったが)、「主のため何らかの形で働きたい」と思っていたことも確かだし、「用いられたい」と願っていたことも確かなのです。
「心に満つるより口は物言うなり」で、私の持っているものが主によって用いられ、願っているものが実現していくものなんだとだんだんわかってきます。中にあるものが外に出てくるのです。
だからこそ、私の中の本当の私を聖めていただきたいと願います。
かつてうさん臭いほどに首をかしげていた、私の父の「私は凡聖である!」と言い切った信仰が、今はうらやましいかぎりなのです。主を聖とする、その聖さによって私をも聖となれる、そのことを徹底して信じた父の信仰と同じ信仰を私も欲しいと願っています。
必ずいただけると確信し、また、すでに主の下に届いている私の願いが、外に現れてくる日を楽しみにしています。(た)