人気ブログランキング | 話題のタグを見る

No.504 永遠の神の記憶 2022.6.26

《歴史は動き、世界は変わるとも、神の記憶は永遠に変わることがない》
永遠の神の記憶

はじめに神は天と地とを創造された。<創世記1:1>

 今回経験した、一過性全健忘という「新しい記憶の積み重ねが出来ない」病気によって神と私との二人だけの記憶の世界の理解が深まった。

 私に新しい記憶が創られていなくても(本人にとっては全く記憶がないのだが)、主の側にある記億によって歩むことが出来ていることの体験は、一言では言い表せないほどの感激がある。

 これは私の世界と、周りの人の世界との接点が神によって創られていることの証しでもある。
 冒頭のみ言葉は、聖書によって伝えられた神と人との共有財産(神の記憶)である。

 父釘宮義人は倉田百三の言葉に唸った。
「もしピストルの弾があなたの頭に打ち込まれ、あなたが意識を全然なくしてしまったとする。その時、それまで信じていた、あなたの信仰はどこに行くだろうか。信仰していたことも、信じていた内容も、みんな記憶を失ってしまう。その時、あなたは天国に行けるという、その確信をもてるでしょうか。」

 これは記憶を失い、自分の意志では思いかえすことも出来ない状態になったときのことであるが、救いの確信が、人間の自分の側だけにあると思っている人にとっては、このような時の自分の信仰は無きに等しい。
 そして全く信仰のない行いを人前にさらすという危険性のある怖いことでもある。

 しかし、過去の私の信仰の記憶は全て、神の側に残っているのである。これこそが聖霊の保証するところの私の信仰である。
 神の記憶(神と私の共有する記憶)は私たちの天の宝として、御国に存在しているのである。
 これが私たちの天の宝(天の宝は有形のものではない)である。

 人間としての私の認識を超えた神の記憶が存在している。
 しかも、神は私と共にこの記憶という財産を創ってくださっている。
 動物たちの本能とは違う、積み重ねていける、残していけるものが私たちの記憶である。
 それは、私が新しく記憶を構築できなかった時間があったとしても、神の側に残された記憶により、守られ支えられ、続けていけるものなのだ。

 釘宮義人の、「信仰の確かさ」という小冊子の中にある「3,信仰は記憶である」、また「4,救いの確かさについて」の項目に改めて目をうばわれた。
「まさしく消えることのない『記憶』」これこそが、救いの確かさであり、神の側の記憶なのである。

 父の言う「7、信仰とは神と人との協力作用」と、私の体験した「私と神と二人だけで創る記憶(天の宝)」のこと、これがまさしく「信仰」なのだ。
 項目7については、今回の私の体験の一番の宝であり、またやっと父の言うことが分かった記念すべき項目である。
 また、協力作用であるということは私も神と共に体験するということである。

 確かにみ言葉にこう書いている。

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。<ローマ10:9、10>

 「『救いの確かさ』とは神の側における確かさです。」
 「誰も、この十字架のみわざを無効にすることが出来ません」(小冊子「信仰の確かさ」より)
 このイエス・キリストによるすべての救いの御業は、私のためになされた、私の世界の神と二人きりの間の出来事であり、他が介入することは出来ない神聖なものである。

 信仰とは他人事ではない、神と私との間に交わされた聖霊の保証する確実なものである。
 まことにこの信仰こそ、イエス・キリストの所有する信仰のことであり、神の記憶は永遠に変わることがなく、朽ちることもない、私と神との関係を保証するものなのである。(た)
No.504 永遠の神の記憶 2022.6.26_c0265111_21244526.jpg









# by mitiru-takae | 2022-06-25 21:27 | 満ちる | Comments(0)

No.503 二人だけの記憶 2022.6.19

二人だけの記憶

「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主はあなたがたのために安息の場所を備え、この地をあなたがたに賜わるであろう』と言った言葉を記憶しなさい。<ヨシュア1:13>

 「新しい記憶を構築していけない、重ねていけない」一過性全健忘という症状を経験して、私たちの記憶なるものの不思議さを、改めて考えさせられた。
 私たちが色々なことを認識できるのは、一瞬一瞬新しいことを記憶していっているからだ。それは編み物の目のように、積み重ねられていき、私の思い出を作り上げていく。

 時に忘れることもある。
 「古いことは忘れていかなければ、脳はスペースが少なくなって、新しいことを覚えていけないよ」と子供のころ聞いたことがある。
 人間の脳はそんなキャパの小さいものではない、いくらでも詰め込んでいけるものだよ。との反論も聞いた。

 とにかく一旦覚えたものを、思い出す、とか、忘れる、とかの話は理解できるし、可笑しいがよく経験することである。
 ところが今回の体験は、本当に不思議であった。
 皆さんはパラレルワールドという言葉を聞いたことがあるだろうか。

パラレルワールド(Parallel universe, Parallel world)とは、ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)を指す。並行世界、並行宇宙、並行時空とも言われている。 ―以下略― (ウィキペディアより)

 私自身、新しい記憶を重ねていけないので、その間は、私にとっては記憶どころか、時間も存在もないのである。
 ところが、おなじ時に私には何も無いのに、一緒に居た、妹や他の人々の目には私は普通に存在しているのである。
 まさにこれはパラレルワールドで、私の世界とは違う他の人たちの世界が存在するのだと肌で感じた。

 私には私の世界が存在し、その他の一人一人にも世界が存在している。
 接触して同じ時間を共有しているようだが、今回の私のように、自分の存在がない時空間が生まれると、やはり別々なんだな、と思わされる。

 この自分一人の世界に、ある時、もう一人いらっしゃるのがわかるのである。
 イエス様だ。
 私の記憶は、イエス様と二人で構築して重ねていく記憶なのである。
 私がたまに忘れてもイエス様のほうには残っていて、イエス様が思い出してくださるので安心である。
 私の生きている世界では一瞬一瞬イエス様と二人だけの宝の記憶が積みあげられていく。
 これが天の宝だ。祝福だ。
 なぜなら倉庫は天の国にあるからだ。イエス様が創ってくださった、天の住まいには、イエス様と私が作り上げた 「記憶」という宝が、山のようにあるのだ。
 素晴らしい―――。

 父が「信仰とは記憶だ」と言及したところが日岡だよりにある。
 
 『勿論、クリスマスとは――中略――私たちが、それぞれ個人的確信として私たちの内にイエス様の誕生を記憶しているか、どうかということです。
 こんなことを言い出すと驚かれるでしょうが、ある意味で信仰とは記憶であります。あなたは、イエス様をあなたの救い主として受け入れた時のことを記憶していますか、この記憶がなければ、あなたには信仰が無いということになります。』(【日岡だより・釘宮義人 №364】より抜粋)

 なるほど、記憶がないのは、無に等しい。
 忘れた・・・・のではなくて、新しく創られたものがない状態である。

 またしても父は、2、30年も前から、すごいこと言うんだなと、敬服した。
 1994年の週報や、小冊子「信仰の確かさ」の中でも言及しているので、お持ちのかたは読んでほしい。

 さあ、私たちは毎日を無駄には出来ない。何故って、存在も時間も無くなるのは嫌だから、しっかり、イエス様との記憶の更新をしていかないといけない。
 それは神の言葉によって記憶する。
 イエス様と二人だけの新しい記憶を、今日も作って重ねていこう。(た)

No.503 二人だけの記憶 2022.6.19_c0265111_23421539.jpg










# by mitiru-takae | 2022-06-18 23:45 | 満ちる | Comments(0)

No.502 H兄を天に送った日 2022.6.12

H兄を天に送った日

あなたには、やみも暗くはなく、
夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません。<詩篇139:12>

 H兄を自宅に見舞ってから1週間もたってない今週の月曜日、「Hさんが今日明け方に召されました」の知らせに驚いてしまった。
 この月曜日にはアルメイダ病院の緩和ケア病棟に入院予定であったし、まだまだ、水も一人で飲めていたくらいだし、もう歩いての移動は難しかったとはいえ、移動したい欲求はあったわけだし…。
 それなのに、「えっ?」と言う感じであった。

 まだまだ、元気に生きられる80歳であるのに、なんだか、急いで天に駆け上った感じさえする。
 M子奥様の遺言ともいうべき「必ずバプテスマを受けてね」の言葉を守り、病気はすでに進んでいたであろうに、重い体を動かし、教会を訪ねてくださった。
 そして、2か月前の主日礼拝の中でバプテスマを受けられたのだ。

 頑張り通してきたH兄の人生は尊い。
 2人の息子さんたちに会社を譲り、素晴らしい後継者を準備できたH兄は、帽子の似合うダンディな方でもあった。

 キリスト教式で葬儀を終え、感無量である。
 今頃天の国でH兄は、M子奥様と、釘宮牧師たちに会っているだろうか、心の中で「よろしく」と天を仰いで声をかける。

 私たちにとってまるで夜の闇のような人の死も、神にとっては闇ではなく、夜も昼のように輝くのだ。
 神が創られた私たちの魂も、何が起ころうと主によって、いつも輝いているのである。

 心からH兄を天国へ送り出すお手伝いが出来たと喜んでいたその日の私であった。
 実はここでちょっとビックリ事件が起きたのである。

 私はまさしく闇が来たと思ったほどである。
 と言うのも、前夜式の全てが終わって妹と、教会に戻ったとき、私はとても気になっていたことを妹に告げた。

 私 「前夜式の終わりに、私は讃美歌312番を歌わなかったようなんだけど、わるかったね」
 妹 「いいえ、歌ったよ」
 私 「え、私は歌った記憶がないのだけど」
 妹 「なんだか様子が変だな、と思ったので、急いで控室に帰ったのだけど・・・・」

 次の日の朝、M子奥様の妹さんであるT姉に、「(前夜式のため久しぶりに帰ってきた長男の)M兄に挨拶もしていないし、会えなくて残念だった」と、LINEでメッセージを送ったところ、返って来た言葉に唖然とした。

 T姉 「終わってから、控室にみんなで行ったよ~、話はあまりできんかったけど」
 私は全く記憶がなかったので、いったいどうなっているのだろうと、我ながら狐につままれた気分であった。

 どうも調べてみると(妹が検索して調べてくれた)「一過性全健忘」という、一過性の記憶障害(この状態を自分自身で確認するのは難しい)ではないかということで、召天式が終わってから妹と二人で脳外科に行ってみようということになったのである。

 神様は闇も照らしてくださるお方。
 闇も光も神にとっては異なることがないという、不思議なお言葉が、私の心の中に響いてきた。
 「ゴンゴン、ゴーン、ゴン」
 MRIの音がうるさく鳴り響く中、機械の中に入る前までの不安が消え、感謝と平安で満たされる。

 終わった後の診察での先生の言葉に笑いがこみ上げた。
 「きれいな脳と血管ですね。悪いところがないですよ。この頸動脈、うつくしいですね。」

 健生病院に入院している中野兄も、そろそろ退院後の受け入れ先を探すところまで回復してきているそうだ。
 健生病院の先生方や、看護師の方々に感謝する。
 今日は良い日だ。主は素晴らしい。(た)
No.502 H兄を天に送った日 2022.6.12_c0265111_22060168.jpg










# by mitiru-takae | 2022-06-11 22:09 | 満ちる | Comments(0)

No.501 睡蓮とメダカ(ペンテコステ礼拝) 2022.6.5

〔ペンテコステ礼拝〕
睡蓮とメダカ

だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。<ローマ2:1>
 
 もう6年くらい前になるだろうか。私の一番下の妹が「母の日のお祝い」に毎年シャクヤクを送ってくれるのだが、この年は睡蓮を植えるための鉢セットを別に送ってくれた。
 鉢にメダカも入れ、後に肥料を入れなおし植え替えたりもし、毎年、花を楽しませてもらったものだ。
 ところが昨年ごろから小さな葉が出るくらいで、花は咲かなくなってしまった。今年は、メダカもいなくなってしまった。

 睡蓮とメダカの共存する鉢の中は、小さな世界であるが、彼らにとっては自分たちの生きる場所で互いにいい環境であったのだと思う。
 
 この鉢の中で、メダカが「睡蓮さんは所せましと葉を広げているが、私たちの泳ぐ場所が少ないよ」とか言ったりしたとする。
 すると睡蓮はきれいな花を咲かせていたが、少しずつ葉が枯れ始めてきた。とうとう花も枯れて、葉の枯れてしまった鉢の中の水は、もうメダカが棲めないほどに濁ってしまった。
 また、夏の暑い日差しをよけるところもなくなってしまった。
 睡蓮はメダカの言ったことに自分が悪かったんだと思い込んだのか、生きる望みを失ったのかもしれない。
 睡蓮を裁いたメダカはというと、自分の住む場所をなくしてしまったのだ。

 こんな話をするとメダカを悪者にしてしまったようでかわいそうにも思えるが、私たちもこのメダカのように、身勝手な思いから人を傷つけてしまうことがある。

ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。<ローマ2:3~4>

 私たちが犯してしまう罪が深ければ深いほど、神の愛はより深くなるのだろうか。
 果たして神の裁きは、私たちがその慈愛と忍耐と寛容を受けるためにあるのか。
 いや、そんなことは決してない。
 神の愛を受けるために罪を重ねるのは愚の骨頂だし、神の導きを受けるために、神の御心を軽んじるのも、神を恐れない者のすることだ。

 しおれた花と、メダカをすくい上げて、他の鉢に肥料を入れて睡蓮を植え替え、メダカをそっと水の中に移してやる。
 メダカには、そんなことは分からないかもしれないが、手間暇をかけて、忍耐と寛容をもって、全てをもとの良い環境に戻すというのは大変なことである。

 しかし、私たちの神は、メダカが睡蓮を裁いた時も、両方共が死にそうになった時も、助ける機会を待っていた。まさに神のなさる事には時がある。
 そのように、罪を犯した私たちを救いに導くため神は、イエス・キリストをこの世に送ってくださった。忍耐と寛容をもってだ。

 神は、私たちが神を信じ委ねて生きることを願ってくださっている。
 放蕩息子の父が、彼が家を出ていったときも、帰って来た時も、変わらぬ愛をもって彼を迎えるのと同じように、神の愛は初めから終わりまで変わることがない。

 律法主義者のように、心がかたくなになってしまっている放蕩息子の兄に対しても、父の(神の)慈愛は変わらない。
 兄は自分の律法によって自らを裁いてしまっているのである。
 弟と同じように、父は忍耐と寛容をもって、兄が自分の愛に目覚めてくれるのを待っている。
 その時は、またまた大宴会が開かれること間違いなしである。

 私たちも、メダカたちのように、自分で作った世界に生きているわけではない。
 全てのことを管理して、備えてくださっている創造者がいることを覚え、心から感謝しよう。

 今日はペンテコステの記念礼拝だ。
 世界を私たちのために備えてくださっただけでなく、私たちの心の中に住んでくださる主をほめたたえて、全身全霊、聖霊に満たされ祈ろう。(た)
No.501 睡蓮とメダカ(ペンテコステ礼拝) 2022.6.5_c0265111_22053779.png











# by mitiru-takae | 2022-06-04 22:07 | 満ちる | Comments(0)

No.500 凡聖の継続 2022.5.29

〔満ちる500回記念号〕

凡聖の継続

われらは主の聖なるみ名に信頼するがゆえに、
われらの心は主にあって喜ぶ。<詩篇33:21>

 平凡な聖徒は信仰によって継続できるものだ。
 私はまだ聖人の域には達していない。だから平凡な聖徒である。(父の凡聖は平凡な聖人である)
 しかし、私の中にある信仰はイエス・キリストのものなので、聖人の信仰と変わらない、はずである。
 感謝と感激をもって主の聖なるみ名をほめたたえよう。

 いよいよ「満ちる」は発行500回を迎えることが出来た。
 回数もさることながら、初回から今日まで、一度も休むことなく発行できたことは、我ながら驚きを隠せない。

 この間、腸捻転、胆のう(胆石によって炎症を起こし、通常の人の2倍ほど、腫れ上がっていた)全摘、腎盂腎炎で、三度の入院をした。
 にもかかわらず、満ちるを書くことが出来てきたのである。これは感謝と驚きしかない。
 教会で会う聖徒の皆さん、日本各地にいる、神の家族の皆さんに、週報と共にお渡し(郵送)してきた。
 最近は月報になったので、教会では毎週の配布は、外部からの発刊物等を除けば「満ちる」だけとなっている。

 初めは、父に倣って、まねごとをしようと思って始めたのである。
 父釘宮義人は、暇があればワープロにむかい、朝昼晩とにかく書くことが好きであった。
 本来は、自分で字を書くのももどかしく、頭に思い浮かんだことを即、文字にするのがとても追いつかなくて、書くのが辛そうであった原稿書きが、ワープロが普及してからは、いとも簡単に書けて、印刷まですぐできるようになった。
 であるから、父の目の前にワープロさえあれば、原稿書きは頭に思い浮かぶのと同じ速さで出来るのである。

 実はもう始末してしまったワープロで打ったファイルの中に、未読の原稿がかなり残っていたはず、何とも凄まじいほどの物書きであったと思う。
 パウロの手紙も、当時の教会の人々も目を見張るほど、感激するものであったであろうと想像する。

 娘の私が言うのも少し面はゆい感があるが、父の残した文章も、熱情はパウロに負けず劣らず、量、質共に素晴らしいものであると思うが、言い過ぎであろうか(笑)。

 わたしと言えば、そこまで書くことが得意なわけではない。
 何しろ、使える語彙が貧弱である。
 たとえ「良くできた」と思っても、読み返すと臭い、恥ずかしくて書き直すこともたびたび!

 しかし、そこは信仰で(時には本当によく言えば聖霊様にお任せで)何とかなるものだ、確かにやってこられた。これは感謝するしかない。
 聖書のお言葉が、私の背中を押してくださり、私は何とか、書いてこられたのである。

 わたしにとって「満ちる」は、信仰の証しである。
 最近はローマ書の講解メッセージに移ったが、実に、私の上におこる良きことと言えるものの全ては「信仰によって生きる」がバックボーンなのである。

 書くこともさることながら、「満ちる」を通して信仰を証ししていくこと自体が、「父の物まね」なのである。
 父曰く、「信仰とはイエス・キリストの信仰を学ぶ(まねび・まねをする)ことである」。

 まことに「信仰によって生きている」のはイエス・キリストそのものであり、イエス・キリストの「私が父の名においてあなたを救う」との信仰が私の中に生きて働いていることを知るとき、はじめてイエス様が本物の義人であると気付くのである。

 イエス様の信仰とは、父なる神を信頼しきって、私たちの罪の身代わりとして喜んで死んでいったことにある。
 この信仰こそ、永遠の命によって生きることが出来る、私たちへの最高のプレゼントとなったのである。
 この凡人に「満ちる」を500回連続発行させてくださった神に感謝する。(た)
No.500 凡聖の継続 2022.5.29_c0265111_19320328.png









# by mitiru-takae | 2022-05-28 19:33 | 満ちる | Comments(0)