No.570 信仰の証言/神の創造六日目その1 2023.10.1

信仰の証言

では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。
<ローマ10:8>

 リモート祈祷会の時である。珍しくE兄がPCでなく、スマホでLINEに入って来ていた。どうしたのだろうと、聞いてみると、「PCの調子が悪い」のだそうだ。
 思わず「K姉にPCの癒しを祈っていただこう」と、皆に言う。すると即座に皆がうなずいた。

 以前K姉のタブレットが故障したことがあった。そこで姉妹はタブレットの癒しを祈ったのである。義人牧師の頃も、確か、機器や道具などのために癒しを祈った記憶がある。
 この時、姉妹のタブレットが奇跡的にも直ったという証しを聞くことが出来て、私たちは「癒された、治ったー」と喜んだのである。このことを知っている兄姉たちが、「本当だ、そうだ!」とうなずいたわけである。
 いや、この祈りはK姉のみならず、誰でも祈るべきであろう。
 タブレットなどに対して、「主によって癒されよ」というのも、「主にあって故障よなおれ」というのも同じだ。機器など身の回りの物のためにも告白し、癒しと解放を宣言しよう。

 私たちの祈りを聞いてくださる主に向かって、主のみことばを告白して祈る。人であれ、機器であれ、すべてのものを造られた主は、必ず癒してくださる、と信じて(たとえ信じられなくても)声を出して、私たちの口で「癒された」と告白するのである。

なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。<ローマ10:10>

 この時、なかなか信じられないので、告白できないという方もおられるが、そうではなく、口で告白することによって私たちは救われ義とされるのである。私の口で告白するならば、聖霊が信じる心を与えてくださるのだ。

 「癒された」と告白することは決して偽善者のそれでも、思い込みでもなく、「私は主であってあなたをいやすものである<出エジプト15:26>」という主のみことばに同意(アーメン)していることにほかならない。祈りも、自分の思いで求めてはいるが、私の思いではなく主のみことばが成るのである。

 つぎの週の祈祷会でE兄は、普通にPCを使っていた。皆で感謝して喜ぶ。主の言われることを自分の口で証言し、私たちの信仰を表そう。(た)

神の創造六日目 その1

神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。
<創世記1:25>

 創造の五日目は、水の中に生きる魚(神に救われた者の象徴)、獣、また空を飛ぶ鳥(神の癒し、力)であった。
六日目は命のある地の生き物を創造された。 
もちろん、人間もこの日に造られ、創造の冠にふさわしく神のかたちに似せて作られた。

 地の獣は種類に従い、地に這う物も種類に従って造られた。しかし、獣でもなく、地を這うものでもない「家畜」を神は種類に従い造られたのである。
 家畜は人間のすぐ近くにいて、人間のために、また人間と共に働く。ノアの洪水以降、人間はこの家畜を食料にもするようになったのである。
 
 六日目の創造の不思議は「家畜」である。ほかの生き物に比べ、家畜はやはり、人間と共に過ごす動物である。今のペットとは少し違う。
 それにしても「家畜」が特別なのにはわけがある。
 人間が神に礼拝するようになると、この家畜の中から、雄牛や雄羊を祭壇に捧げる犠牲として使ったのである。

 後にエバが産んだ双子の兄弟の弟アベルは自分が育てている羊のうち、最高の雄羊を神にささげた。
 祭壇を造り、礼拝するようになったのは、人間が罪を犯してからのことだ。
 この創造六日目の段階だが、神はイエス・キリストを私たちのために犠牲とすることをすでに計画していたことを心にとめておきたいと思う。(た)
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# by mitiru-takae | 2023-09-30 10:58 | 満ちる | Comments(0)