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No.457 いつくしみ深き 2021.8.1

いつくしみ深き

自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。<マタイ20:14~16>

 朝から働いた者も、途中から来た者も、一日が終わるころに来て働く時間もほとんどなかったような者も、賃金は等しく1デナリであった。
 私たちには、わがままな雇い主にしか見えないような話だ。

 朝早くから、今日の仕事をいただいて、一生懸命働き、報酬をもらって家路につく。
 この人にとっては幸せに過ごせた一日だと思う。

 その幸せであった心が微塵にも打ち砕かれたのは、最後に来たものから順に、皆同じ報酬を受け取ったことを見ていたからである。

 嫉妬は人間の心から愛を追い出し、その人を支配する。
 真面目な働き人であるが弟を嫉妬した、放蕩息子の兄の話(ルカ15:11~32)を彷彿とさせる。

 「この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。」という言葉は、最後のものにとっては最高に恵みである。
 人生最後の瞬間、それも、散々悪いことをしてきた強盗が、十字架の上で、救われる話がある。

イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。<ルカ23:42、43>

 人生半ばで、イエス様に赦していただいた者と等しく、彼は十字架の上でイエス様からパラダイスに入れる約束をいただいたのである。

 この場合パラダイスは天国と同義と思ってよいと思う。
 イエス様と共にいるところはどこでも天国だ。

 雇い主である家の主人は、神のことである。
 神の主権は、だれも変えることができない。

神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。
ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。<ローマ9:15、16>

 父がよく言っていた言葉を思い出す。
 「神の前でよい子にならずともよい。私たちは神に愛される子になろう」

 失敗も、裏切りも、はたまた逃亡も、帰るところがあることを思い出せば、神は私たちのように、裏切りも逃亡もしない。

 慈しみ深い神は、いつも私たちを覚えてくださっている。
 「もう遅い、間に合わない」ということはないのだ。

讃美歌312番
いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう
  こころの嘆きを 包まず述べて
  などかは下ろさぬ 負える重荷を

いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ
  悩みかなしみに 沈めるときも
  祈りにこたえて 慰めたもう

いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう
  世の友われらを 棄て去るときも
  祈りにこたえて 労りたまわん       
(た)
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# by mitiru-takae | 2021-08-01 15:29 | 満ちる | Comments(0)

No.456 汝なお一つを欠く 2021.7.25

汝なお一つを欠く

この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。<マタイ19:20~22>

 「…ほかに何が足りないのでしょう」。と、言いたいときもある。
 自分が頑張っていると自負しているときは、他人に大丈夫?と聞かれると、つい「はい」と返事しながらも心の中では腹を立てている、ということもある。

 自信があるというのと高慢とは、表面上は実によく似ている。
 私たちにとって自信を持つことは、成功につながる。
 高慢は自分を堕落させる。
 前者は社会に貢献できるが、後者は周囲を傷つける。

 この青年は、大富豪の中でも珍しいくらい堅実で、両親にも愛されていた、素晴らしいユダヤ人であっただろう。
 彼は律法を一生懸命守り、人々の模範になるように日々を過ごしていたに違いない。
 善い行いは彼を永遠の命に導いてくれるはずであったし、これを聞いたイエス様からお褒めの言葉をいただくことも、多分望んでいたはずだ。

 しかし、世界中をどんなに探しても、神のほかには彼を完全にしてくださるお方はいないのである。
 神の愛がなければ守れるはずもない律法のすべてを、守っていると自認しているだけでは、神の国は遠すぎるのである。
 幼な子にも到達できないほど遠いのである。

 「ラクダが針の穴を通るよりも難しい(マタイ19:24参照)」ことを青年は聞きに来たのだ。

 しかし、神の完全は簡単である。
 神のおきては完全であって心を喜ばせ(詩篇19参照)とあるように、神のおきては全てのことを完全にする力があるのだ。

イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。<マタイ19:26>

 わたしたちはこの青年を笑うことはできない。
 彼は完全になるためになすことはただ一つ。
 
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。<マタイ19:21>

 さて私たちは、この青年のかけらほども出来てないようだ。
 私たちはではなく、「私にはできていない」が本当である。
 しかし、高慢になれるほどのものもない、自負できるほどの力も精神力もないこの私を、救ってくださった確かな事実を、私は知っている。

 マルコによる福音書では、イエス様はこの青年に「あなたに足りないことが一つある」と答えている。釘宮義人牧師はここを文語訳で「汝なお一つを欠く」と、よく口にしていた。
 聞くたびに、「私にはたくさんの欠けたものがあるのだけれど」 と、この青年をうらやましくさえ思っていた。
 この人は、ただ、イエス様について行けばよい。
 一切のものには目もくれず、イエス様だけを見てついていけば、天国は彼のものであるのだ。

 私は毎日祈る。
 神の家族の執り成しのために。
 毎日聖書を読む。
 み言葉から離れないために。
 毎晩、今日一日の悔い改めと、明日の希望をもって瞑想して祈り、感謝をもって眠りにつく。

 たとえ私が、これらのことを毎日守り続けていたとしても、何ら自負には値しない。
 かえって、「汝なお一つを欠く」のである。
 いつも最後には、これをイエス様に埋めていただく必要があるのだ。(た)
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# by mitiru-takae | 2021-07-25 15:00 | 満ちる | Comments(0)

No.455 天国の結婚式 2021.7.18

天国の結婚式

よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。<マタイ18:18>

 イエス様は地上で多くの癒し、奇跡をなさった。
 同時に罪の赦し、解放をもたらしてくださった。

 イエス様の地上の働きは、この地上だけではなく、天に繋がっていた。
 同時に、父の御心も、地において、イエス様によって成し遂げられていた。
 イエス様が天に帰られても、その権威を弟子たちに受け継がせて下さったのである。

 イエスの墓が日本にある、などという話を聞くことがある。いわく、十字架にかかって死んだのはイエスの弟だった、いわく、イエスは結婚して日本に住んでいた、云々・・・。
 こういう言説が流れるのは、イエス様を神としたくないサタンのたくらみだ。神にとって代わりたいのも、サタンである。
 サタンは私たちを惑わし、神から遠ざけようとする。

 イエス様から目を離さないでいよう。
 惑わされることがないように、聖書をよく読もう、よく祈ろう。

 イエス様と結婚するのは神の教会(エクレシア)であり、私たちは皆、神の教会そのものである。
 教会の頭はイエス様であり、私たちはその器官であるからだ。
 イエス様と一体となる奥義である。
 
 この世で、イエス様を受け入れ、信じ、花嫁となる約束をいただいた私たちとの神の契約は揺るがない。
 地でイエス・キリストと繋がれると、天においても繋がれる。
 繋がれるということは結ばれることだ。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。<ヨハネ15:5>

 実を結ぶ枝になろう。
 イエス様に繋がっていよう。

 ところが、自分でつながっているようであるが、枝は幹から伸びるのである。
 枝から幹が生まれるはずがない。
 もともと私たちを生かしてくださっているのはイエス様ご自身である。

 教会(エクレシア)であるわたしとイエス様の結婚は、天において完成する。
 この結婚は永遠に離れることはない。
 神が離さないからだ。
 こんなに愛されていいのだろうかと、地上では経験できないほどの愛と、喜びが天にはある。

わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。<ヨハネ14:2、3>

 「父の家には住まいがたくさんある。しかし、あなたのために必要な場所を私は用意するために天に帰る。そして用意ができたら、迎えにこよう。」とイエス様は言った。
 私に必要な場所とは、どこだろう。

 ユダヤの結婚式は、新郎が幕屋を建て、その下で行うそうだ。
 イエス様が天に帰って用意する場所、それはイエス様との結婚式の会場なのだ。
 天では、盛大に、宴会が開かれるのである。ハレルヤ!(た)
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# by mitiru-takae | 2021-07-18 15:47 | 満ちる | Comments(0)

No.454 あなたは高価で尊い/天の国の領事館 2021.7.11

あなたは高価で尊い

もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。<マタイ18:13、14>

 99匹と、1匹、あなたはどちらだろうか。
 1匹は、迷い出た羊の事である。
 羊飼いからしてみれば、財産を失ったか、家族を失ったと思うほど、大切なものだ。
 99匹は、とりあえず牧舎か、囲いの保護下にある。
 彼らに問題が一つもないとは思えないが、99匹が共にいることは心強い。

 この囲いを教会と考えてみよう。
 イエス様が牧者である教会は、聖霊の聖い交わりがある。
 イエス様が一匹を求める間、実は教会はイエス様が留守なわけでは無く、かえって聖徒たちはイエス様とともに心を合わせて執り成しの働きをしているのである。
 99匹はいつも主と共にあるからだ。
 主から離れた一匹を探すのは、このキリストにある共同体の務めである。

 聖霊による交わりは教会を強くし、愛で満たす。
 私たちはイエス様と共同の働きをする選ばれたものなのだ。

 さて、自分の命をも守ることができない迷った一匹の羊は、どこで自分の愚かさ、犯した罪に気付くのであろうか。
 崖っぷちからさらに下へと、何かを求めていくとき、動きが取れなくなってしまう。

 右にも左にも、進むことも、後ずさりもできなくなった時、立ち止まる者は幸いだ。
 その時、イエス様が自分を探している声を聞くからだ。

 イエス様にとっては、自分とともに喜んでくれる99匹がとてもうれしいはずである。
 そして見つけた一匹を、99匹とともに喜ぶとき、この喜びは最高潮になるはずである。

 喜びの中でイエス様は言うであろう、罪に気付いて立ち止まったこの私に。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。<イザヤ:43:4【新改訳】>
(た)


天の国の領事館

また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。<マタイ18:19、20>

 二人、または三人が集まるところは、地上のあちこちにあって、常に祈り、天国人のために働いている天の国の領事館のようなものだ。

 そこにはイエス様の臨在がある。
 ここは治外法権で、サタンの律法は入ってくる余地がないのだ。
 天の国の支配がイエス・キリストの証人である二人、または三人を覆い、天国人を守る祈りを日々続けている。

 助けを求める人があれば、心を合わせ、祈る。
 その問題は天において承諾され、天でつながれることは地においてもて繋がれる。

 イエス様は何時でも私たちの味方であり、ご自身の民のために日夜、まどろむことも眠ることもなく天の父にとりなしてくださっているのである。
 さあ、駆け込もう、天の国の領事館に常駐してくださっているイエス様のところへ。(た)
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# by mitiru-takae | 2021-07-11 19:25 | 満ちる | Comments(0)

No.453 平和の福音/小さな小鳥を養われる神 2021.7.4

平和の福音

あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。<使徒10:34、37>
 
 「ナザレのイエスがこの地上でなさったこと、人々が十字架にかけて殺したこと、しかし、神は三日目にこのお方を復活させたこと、私たちは、このイエス・キリストの証人である。」と語るペテロにとって、イエス様は、地上で生きていた時も、復活してからも、聖霊によって自分のうちに生きてくださる存在になっても、同じ、愛する主なのである。
 
 ペテロにとってイエス様は、この世の父親のようでもあり、注視できないくらい神々しい、見てはいけないと思えるほどの神そのものであったのだ。
 そのお方からの幻は、軽視することさえできない、ペテロ一世一代の転換期を迎える神からの準備であった。

すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。
その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。
そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。<使徒10:11~13>

 コルネリオからの使いが来た時、ペテロは即承諾し、次の日、早速カイザリヤを訪ねたのである。
 神の準備がなければ、ペテロとコルネリオの出会いは難しかったかもしれない。

さあ、立って下に降り、ためらわないで、彼らと一緒に出かけるがよい。わたしが彼らをよこしたのである」。<使徒10:20>

 全ての時を支配してくださるのは神である。

神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。 <使徒10:35>

 ふたつのものを一つにすることが出来るのは平和の福音、すなわち、イエス・キリストの福音である。(た)


小さな小鳥を養われる神

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。<マタイ6:26>

 先日、車を降りようとしたとき、一羽の雀が目の前に飛んできた。
 開けかかったドアから手を放し、そっとスマホのカメラを起動した。

 見ていると、自分の頭ほどもありそうな(少し大げさ)ブルーベリーの実のようなものをくわえている。
 スズメのくちばしが実をつつくと果汁がほとばしって周りに飛び散った。新鮮そのものである。

 おいしそうに食べていたその時、飛んできた小雀が横から大胆にも、この実を横取りしようとしたのである。
 それは失敗して実をくわえて雀は飛び去った。
 もう少しブルーベリーを食べているところを見ていたかった私は、ちょっと残念だった。

 しばらくしてあの横からちょっかいを出した小雀が戻ってきた。
 この辺だったと思ってか、しばらく走り回っている。
 地面を走り回って探す小雀の姿を見ているうちに少しかわいそうになり、目を離せなくなった。
 ところがなんと、ブルーベリーの実がちぎれて残っていたらしく、それを見つけついばみ始めた。よく場所を覚えているものだ。
 小雀はしばらく至福の時を過ごしたようである。
 その間私は車から降りられず、じっと見守っていたという次第だ。
 自然の営みは素晴らしい。
 創造主、神様って素晴らしい。(た)
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# by mitiru-takae | 2021-07-04 19:29 | 満ちる | Comments(0)