No.306 天国のはなし(2) 2018.9.9

天国のはなし(2)

イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。<使徒1:10、11>

 弟子たちと共に上空を見上げてイエス様のお姿をいつまでも見送っていたのは、私たちの姿でもありましょう。

 イエス様は上空に消えたのではなく、私たちと永遠に共に住むために、天に帰られたのですから、「なぜ天を仰いで・・・」と言われても仕方がありません。

 神様の愛を知りました。
 イエス様の十字架の贖いのわけもわかりました。
 でもどうしても、完全な救いは死んで天国に帰ってからだったり、新しい天国における霊の体で生きて初めて全てのことわかるように思えたりします。

 しかし本当に、完全な天国の命と体は死ななければ与えられないのでしょうか。
 今は肉体をもって生きていますが、実は魂の奥底(霊)で、私たちは既に死なない命を実現していただいているのです。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。<Ⅱコリント5:17>

 このみ言葉は神様が啓示してくださった奥義です。

 私が生まれてからずっと持っている霊は、イエス様を知った時から、新しく天国人としての霊に変えられているはずです。
 この世の人と同じではありません。み言葉が確かに「全てが新しくなった」と言っているからです。
 この地上を離れるとき、私たちは何の抵抗もなく、天に帰ることができるのはそのためだと思います。

わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。 <ヨハネ14:2~3>
 
 イエス様が天にお帰りになるわけは、この場所を創るためです。
 そしてこの場所は、イエス様が私たちと共にいる場所(住まい)です。

また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。<ルカ17:21>

 私たちはこの世に生きていても、死んでも、すでに天国人です。
実は、私たちは、イエス様を信じて新しく作り変えられた時、魂の中に天国を持つものとなったのです。イエス様が共に住んでくださる場所を、一人一人が持っているのです。

 私たちはいつも心の中に天国を持っています。それはいつも父なる神の場所とつながっています。
 なぜなら、イエス様が神様と私たちをつなぐ道(架け橋)であるからです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。<ヨハネ14:6>

 「天国ってどんなところ?」と聞かれたら、何と答えればいいでしょうか。

 私はこう答えます。「イエス様が私と共にいてくださる場所です」。
 天に帰っても地上においても同じです。アーメン! (た)
c0265111_22105998.jpg









[PR]
# by mitiru-takae | 2018-09-30 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.305 天国のはなし(1) 2018.9.2

天国のはなし(1)
 
 木曜日の学習会で、「天国にいったら父ちゃんに会えるんやなあ」というE姉妹の切実な言葉から、天国の話になりました。

 大好きだった人、愛する子供、妻、夫・・・というように、みんなと天国で会うのを楽しみにしていますという方は多いのではないでしょうか。

 そこで思い出すのがグレイスチャペル安曇野の須佐二三子先生の天国に行った話です。

 天国は、全世界のどんなところよりも素晴らしいところで・・・金色に光り輝き・・・クリスタルガラスのような虹・・・・ダイヤモンドのように色々な色に輝く水のような・・・【「突然の死に遭遇し、天国を見、生かされた」より】

 先生は第3版くらいまでこの本を出していると思いますが、天国の中のどこにも、知っている人にあったということは書いていません。様々な色の、それも赤ちゃんの頭ほどもあるような宝石がたくさん輝いているところのようでした。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。<イザヤ43:4>【新改訳】

 私たち一人一人が天国で光り輝いていた宝石のように、神様がとても大事にしてくださっている素晴らしい「宝物」なのですね。
 そして、神様にとっては私たちは、天国にいるときも地上にいるときも、同じように素晴らしい価値ある尊いものなのです。

 グレイスチャペルの須佐先生のお話に戻りますが、先生の冊子「天国では」の中で、気になることを言っていました。

 よくこういう事を言われたり質問されます。
「天国で、会いましょう」、「天国で、先祖(両親)が見守っている」、「天国で、だれと会われましたか?」(須佐二三子著【天国では】参照)

 しかし、先生は天国では誰とも会っていませんでした。
 ただ三位一体なる主の真ん中で、愛に包まれていた思いだったそうです。

 これを聞くと、今の私たちは「そんな寂しいことを」とか、「えー、会いたいですよね」とか思ってしまうのです。しかし、須佐先生はそんな懐かしい人たちには会っていないのですね。天国では必要のないことなのでしょう。

イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。 <ルカ20:34,35>

 果たして天国には人間がだれもいないのでしょうか?両親はいないのでしょうか。「あのお世話になった方に会いたかったのに」という願いは聞かれないのでしょうか?天国では私たちの想像を絶する御霊の体がありそうです。

すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。<Ⅰコリント15:49>

 さあ、そこで私たちの霊の母国である「天国」はどこにあるの?という疑問も浮かんでくると思います。
 わたしたちが臨死体験でもしないかぎり、生きたままでは天国を見ることは不可能なのでしょうか。

 イエス様は天国の話をたくさんしてくださいましたが、殆どがたとえ話です。
 しかし、そのお話の中で天国の場所について、イエス様は核心的なことを言って下さっています。

また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。<ルカ17:21>
ーつづくー(た)
c0265111_22082173.jpg
















[PR]
# by mitiru-takae | 2018-09-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.304 イエスに神の権威を見る 2018.8.26

イエスに神の権威を見る

イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。<マルコ4:40、41>

 「イエス様が共にいるので『あなたたちは怖がらなくてもいいのです。怖がる必要がないのです。信じてくださいね』」といくら口を酸っぱくして、自分の周りにいる人から言われたとしても、また私が講壇から言ったとしても、実際にはどうでしょう。
 人間には命の危険を知らせる「痛みや不安」という感覚があります。
 ですからこの不安がいらないと言っているわけではありませんね。
 
 ただ、この不安の真っただ中にいるとき、痛みで耐えかねるほどの苦しみにあっているときなど、まさに「その時」の中心にいるあなたに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とイエス様が言ってくださるのです。

 嵐が起こるであろうガリラヤ湖の只中に、あえて漕ぎ出したイエス様のお心は、ここにあると思います。
 漁師であるペテロたちにとっては、来るべき嵐は予測できるものです。
 しかしお言葉ですから、イエス様と共に漕ぎ出しました。
 逆に言えば、イエス様と一緒にいるので漕ぎ出せたわけです。
 イエス様があとから来ようと、舟の中で寝ていようと、「わたしを捨てず、離れない」事実を、漕ぎ出す時に知ることができるのです。

 しかし、イエス様の奇跡や、恵みの業は、漕ぎ出した時に体験できるものかもしれませんが、それを見るまではどうしてもつぶやいてしまいます。

「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」<マルコ4:38抜粋>

 この不信仰な言葉を吐く弟子たちですが、いわばイエス様に甘えているという心の様子が伺えてしまいます。
 駄々っ子の言葉ですね(笑)
 自分では解決のできない出来事に直面したとき、周りの頼りになる人に「助けてください」と言っていくものです。
 しかし弟子たちは、低姿勢で「助けてください」ではなく、「おぼれてもかまわないのですか」ですから、この弟子たちも強いというか、このお方に命を預けているのだから、救ってくれて当然という、ちょっと言いすぎかもしれませんが「素晴らしい信仰を持っている」ようにも見えます。

 ここでイエス様が「信じてほしい」と弟子たちに願っていたことは、まことにどうにもならない「大自然の驚異」をも難なく従わせることができるお方のことなんだと思うのです。
 
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。<マルコ4:41>

 ここの弟子たちの恐れは、「全能の神、すべてを従わせることができる神」に対しての畏れであり、このことを通してイエス・キリストの背後に全能の神の権威を垣間見たのでありましょう。

 普段は、イエス様がまるで沈黙しているように見える、眠っているようにも見える、そんな信仰の薄い私たちでも、嵐に直面したときすぐにイエス様を起こせるように、日ごろの魂をイエス様に直結させていたいですね。そのためにこの証を紹介したいと思います。(た)
   
日岡だよりNo.598より抜粋
最近、やや心境の乱れあり。しかし朝祷のあと、中野君に「なんで君この頃調子いいのか」ときくと、「山室軍平先生の本で教えられました。聖書を学ぶこと、祈ること、この二つを実行しはじめてからすっかり変りました。最近は、少々心が暗くなるような事がおこっても、神様!と言って帰ると何でもなくなります。」大いに感謝した。
【「神の息よ吹け」1974年7月号(「心に満つるより」改題・通巻第10号)「日々新生」より】
c0265111_22033119.jpg











[PR]
# by mitiru-takae | 2018-08-31 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.303 種まきが種をまく時(神の国の奥義) 2018.8.19

種まきが種をまく時(神の国の奥義)

そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。
それは
『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』
ためである」。また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。種まきは御言をまくのである。<マルコ4:11~14>

 イエス様はよくたとえ話をしました。
 ところが弟子たちにはその意味がよくわかりませんでした。ですからイエス様は弟子たちに説明しました。種まきのたとえもそうです。
 「種がどのようなところに落ちたのか、そしてみことばの種は、どのようになっていったのか」がよくわかります。
 また、種が落ちた地がもし私たちに置き換えればどういう人、また、どういう心の状態であるかなどもよくわかります。

 神の御言葉を受け取った人々とは<マルコ4:14~20参照>
【道ばた】・・・自分自身の今までの経験や、地域の伝統、習慣などに心がとらわれるので、サタンに機会を狙われやすい人。
【石地】…みことばを簡単に受け入れはするが、感情にとらわれやすく、自分の意志で、み言葉を持ち続けることができない人。
【いばら】・・・霊(心や魂の深いところ)的にも、肉(この世にかかわるところ)的にも情欲の多い人。多くの悩みを持っている人ともいえます。
【良い地】・・・砕かれた(耕された)神に従順な魂を持つ人。「イエス様という一粒の種が地に落ち死ぬことによって、自分たちは多くの実を実らせることができる」ということを信じる人たち。

 こうしてみると実にいろいろな地があります。
 自分はどれにあてはまるだろうと、考える方はまだよいですが全く他人ごとの人もいるわけです。

 しかし神様が下さる種は皆同じ種です。
 神様がまいたみことばは、私たち一人一人がそれを聞いた時、実はとても怖いことですが、すでに裁かれているのです。
 種を受け取ったときすでに結果が出てしまっています。
 道ばたも石地もいばらの中も、種がうまく育つのはとても無理な場所です。

 受け取ったとたんに、私の罪が暴露される怖い、神様の種まきですから、良い機会です。わたしがどのような地であるのか知っておきたいですね。
 このことは私たちが「神に立ち帰る良い機会」でもあります。
 私たちは日ごとにみ言葉にふれ、事ごとに、私の地が今どういう状態であるのか、いつも見せられます。しかし、み言葉にふれねば、それもわかりません。
 毎日みことば(聖書、また祈りによって直接イエス様に)にふれましょう。

 また、わたしたちは神から頂いた種をもって、種まきにでかけます。
 果たして良い地を選んで種をまくなどということができるでしょうか。
多分出来ないのではないでしょうか。
 なぜならこの地に種をまいてどうなるかは、奥義です。隠されていることなのです。
 ですから私たちが種まきをするときは聖霊様にお任せして、私が選ぶのではなく、聖霊様に選んでいただくのです。それは具体的にどうすればいいのでしょうか。感情や好き嫌いは後回しにして、はっきり言って、思い付きでもいいのです(こういうとちょっと極端ですが…)。言い訳をせず、とにかくみことばを運ぶものとなりましょう。

 隠された奥義は、明かり(イエス・キリスト)によって明らかにされます。
 奥義が顕れ、照らし出される時は、最後の審判で神の前に立つ時そのものです。
 私たちはみ言葉によって既に自分の罪を知らされ、また知っています。
 わたしの罪を担い、神の前で「この人には罪が一つもありません」と言ってくださるイエス様を、誰もが信じぬいていきたいと願うでしょう。必ず信じさせてくださるのもイエス様です。アーメン! (た)
c0265111_22022230.jpg










[PR]
# by mitiru-takae | 2018-08-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.302 ごらんなさい ~イエスが共に住む人たち~ 2018.8.12

ごらんなさい
~イエスが共に住む人たち~

すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。
そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。<マルコ3:33~35>

 今日、私たちの教会に、イエス様が入ってこられて、会堂はぎっしりと埋め尽くされ、皆が癒しと解放の期待に瞬きもせずに息を殺している…と、そんな状況であったならば、どうでしょう。

 想像してみるだけで、なんと素晴らしい光景だろうかと、ワクワクしてきます。

 イエス様の周りはいつも、期待に満ちた人々で埋め尽くされていたに違いありません。そして、その一人一人には、それぞれの家族や、大切な人々がいたに違いないですね。

 イエス様にもこの地上においての家族がいました。
 父ヨセフは早く召されたかもしれませんが、母のマリヤ、そしてイエス様の兄弟たちです。
 ついこの間まで、共に暮らしていたのでしょうが、突然イエス様は家を出て、バプテスマのヨハネのところに行き、バプテスマを受けると、そのまま家に帰らず、荒野へと行ってしまわれたのです。
 このあと、イエス様がマリヤたちのところへ帰ったならば、まあ、問題はないわけです。しかし「神の子イエス」にとっては、帰るべきところはマリヤたちがいる家ではありません。
 
 イエス様は、この地上に「私には枕するところがない」と言われました。
 イエス様がこの地上で本当に枕したところは、十字架の上でした。

ではイエス様の住まわれる家とは、いったいどこでしょうか。

ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが…<マルコ3:32前半>

 このイエス様を取り囲んでいる人々を見まわしました。
 そして「ごらんなさい」と言われたのです。
 群衆と書いていますから、とにかく大人数でしょう。
 家の中に入りきれないほどの人々もいたのかもしれませんが、イエス様に一番近いところに、イエス様を囲んで座っている人々を見回していいました。「神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」

 神のみこころを行う者は誰でも、イエス様の母、兄弟といいますが、果たして、私たちは神の御心を行うものであるでしょうか。
 イエス様は、私たちを見まわして、「ごらんなさい」と言ってくださるでしょうか。

 私たちが優秀な人であるのでイエス様は「私の母、兄弟」と呼んでくれるのではありません。ただ、何もわからずとも、ただイエス様に期待しているだけです。

 また、希望をもってイエス様の周りに集まっています。
 どこまでもついて行き、イエス様から離れないでいると「必ず癒される、罪より解放される」と信じ続けることができるようになります。

 イエス様のそばにいるということが一番大切なことでしょうか。それが真の家族だと思うのです。
 たとえイエス様を知らない人たちであっても、家族は互いに助け合い、愛し合うのですから、神の家族はなおさらです。

 イエス様が住まわれる家、それは、私たちの魂のど真ん中です。

あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。<Ⅰコリント3:16>

 神の家族、それはいつもイエス様が共に住む人たちのことですね。
 「ごらんなさい」とイエス様はあなたを指して言われます。(た)
c0265111_21501845.jpg











[PR]
# by mitiru-takae | 2018-08-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)