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No.337 新元号「令和」にちなんで 2019.4.14

新元号「令和」にちなんで

 京都ギャザリングの後の大分ミニギャザリングも終わり、フェイスブックや、LINEを開いてみながら、ちょっと一息ついています。

 そんな朝、拡大宣教学院の永井信義先生からメッセンジャーで、「釘宮義人先生が献木された梅の花が今朝ほゞ満開です」という言葉とともに写真が送られてきました。
 
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 白梅ですね。
 「うわー、満開だーーー」と喜んで見ているうちに、新元号の「令和」を思い出しました。 
 
 「令和」の典拠、いわゆる出典は「万葉集」の梅花の歌、三十二首の序文にある「初春の令月(れいげつ)にして、気淑く(きよく)風和らぎ(やわらぎ)、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披き(ひらき)、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」から引用したものだそうです。

安倍晋三首相は会見で、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております」と述べています。
 ローマ字表記はどうなるのかというと、「国の公文書はヘボン式ローマ字で表記されます。そのため、ローマ字表記はREIWAと記します」ということのようです。

 「和」は誰でも意味がよくわかる文字で、平和の和であり、なごむ、優しい感じがします。日本人はどこか、周りの人を思いやり、キリスト教で言う隣人を愛する心を持っていると思います。

 初春の季節は、まさに今の東北の気候がそうであるように、大分でもそうですが、外に出て梅の花を見に行くと、心がキリっと引き締まるような、真冬の冷たさではないですが、うす寒さを感じます。

 私は、このキリっと引き締まる感じが梅の花をとても美しくしているような気がします。バラの花でもなく、菊の花でもなく、梅は清楚で、日本の武士道精神にも似た、引き締まる中にも、見る人々の心を和ませてくれる、そのような花だと思うのです。

 聖書にはこういうお言葉があります。

令名は大いなる富にまさり、恩恵は銀や金よりも良い。<箴言22:1>

 カルバリチャーチの橋本先生は「父が私たちに語っている祝福の言葉です。これで行きましょう」と喜びの声を上げています。

 弟はこのように言っていました。
 「『初春の令月にして、気よく風やわらぎ、』の直前に実は『時に、』があるのです。とても意味深い文言がついているんだと思いました。」

 この色々な方の感じ方、思い、を見てみても、「令和」という元号で表される、新しいシーズンが、日本にもたらされ、新しいことが始まる予感がするのです。

 皇室が変わり、政治経済が変わり、日本人本来の持つ素晴らしい国民性が現れる時が来たのだと、喜びの声を上げる、それが今なのだと、この特別な時を私たちの与えてくださった主へ感謝と畏敬の気持ちを表したいと思います。

 私たちは祈ります。
 日本の皇室のために、また日本のために、イスラエルのために、全世界に隠されたレムナントが現れるために、私たちが住む星、地球のために!(た)
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# by mitiru-takae | 2019-04-17 15:24 | 満ちる | Comments(0)

No.336 雨が降るその日まで 2019.4.7

雨が降るその日まで

『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。<列王紀上17:14>

 京都ギャザリングで、預言的アートというものを自分を含め、初めて身近に体験しました。

 2年ほど前になりますが、東京21世紀教会に行った時のことです。その時、聖会の講師として来てくださっていた先生が、前日の夜の礼拝後、出席していた全員の方々に預言をしてくださいました。
 そのとき私がいただいた預言は、次の通りです。

 「あなたは夢を見るでしょう。その夢を絵にしてください。しかし、その絵はシーズンが終わるまでは伏せておいてください。時が来ると、あなたはその絵を人々の前に見せることができます。」

 私自身、このお言葉がはっきりとはわかっていなかったようです。
 なぜなら、シーズンそのものがいつなのか、いつ終わるのか、いつ新しいシーズンが来るのかということが、この時はまだわからなかったからです。

 先走って、描いた絵の意味を解釈しても見ました。が、しかし、私の中では、何か決定的な真意に欠けるものでもありました。

 預言というものは不思議です。時が来ないと、主からの真意は理解できないものです。

 何十年も前にいただいた預言が、いつしか成長して、私の前にその姿を現してくれます。また、たった今の主からの預言を確かに受け取るという時もあります。
 いずれにしても、時が満ちなければ私の目の前には現れません。10年後か、10分後か、今なのか、わからないのです。
 花の種を植えるようなものですね。

 今教会の花壇に、チューリップの大きな花が色とりどりに咲いています。E姉妹が取り混ぜて持ってきてくださった球根を、わたしが適当に植えたものです。
 花が咲いたのを見て初めて、どれが赤か、ピンクか、黄色なのかがわかるのです。

 エリヤを通して神様が下さった「かめの粉や瓶の油」のように、神様が与えてくださったものが、私たちの心の中で尽きることのない恵みとして、時が来るまで在り続けます。
 預言も賜物も似ているなあと思います。
 神からの恵みの時が来るまで、わたしたちは預言のお言葉を持ち続けます。

 私は絵を4枚描きました。
 それぞれ、今回のギャザリングの中で、与えられた預言的なものでした。

 最後のセッションで、炎と剣の話があったようですが、その前に、この日、朝いちばんに橋本先生が来られ、剣を描いてほしいと言ってから席に戻られました。
 私の思いと一致していましたので、聖霊の炎と日本刀を描いたのです。

 ギャザリングのすべてのプログラムが終わり、橋本先生が「剣の絵はーーーー?」と言ってきました。
ところが、その時すでにその絵は私の手元にはありませんでした。
 台湾から来た方が譲ってほしいと言って3枚の絵を持っていかれた後でした。
 私も一瞬「なぜあの絵を渡してしまったのだろうか」と思いながら、またなぜか(台湾の方に渡すときに私が失念していたからです)一枚だけ残った絵を持ってきて、代わりにと橋本先生に差し上げました。

 後日、先生からメールが入りました。
 「7本の矢の絵によって、かつてヘンリー・グルーバー師よりいただいた預言が、『矢を放ちなさい』であったことを思い出しました」と。
 
 これは先生の心の中に「尽きぬ聖霊の油、命の糧としてのパン(まさにイエス・キリスト)」としての預言が、存在し続けていたのだと、深く感謝しました。
 そしてさらに聖霊による新しいシーズンが訪れ、預言は私達のうちで実存となるのです。ハレルヤ!(た)
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〔橋本先生にさしあげた7本の矢の絵〕









# by mitiru-takae | 2019-04-09 10:19 | 満ちる | Comments(0)

No.335 新しい歌を歌え 2019.3.31

新しい歌を歌え

<詩篇第149篇>
ハレルヤ。
新しい歌を主に向かって歌え。
主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。
イスラエルはその造り主によって喜び祝い
シオンの子らはその王によって喜び躍れ。
踊りをささげて御名を賛美し
太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。
主は御自分の民を喜び
貧しい人を救いの輝きで装われる。
主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み
伏していても喜びの声をあげる。
口には神をあがめる歌があり
手には両刃の剣を持つ。
国々に報復し
諸国の民を懲らしめ
王たちを鎖につなぎ
君侯に鉄の枷をはめ
定められた裁きをする。
これは、主の慈しみに生きる人の光栄。
ハレルヤ。   

 ハレルヤで始まり、ハレルヤで終わる詩篇です。
 口ずさみたい気分になります。

 口には賛美。手には両刃の剣。
 主を賛美しつつ、敵とその支配下にある国々に立ち向かうダビデたちのように、私たちも日々、主とともにあってサタンと、その支配下にある悪霊どもに勝利していきます。

 5節の言葉は衝撃的です。
 「伏していても喜びの声を上げる」
 病気で苦しんでいるときに、「無理だとしてもなお顔を上げて、ハレルヤといいなさい」と言っているわけではありません。
 主の慈しみを知っている人は、自分の苦しみの姿を隠すことなく、主のみ前にその醜態をもさらすことのできる人です。

また、御使いは言った。「この人の頭に清いかぶり物をかぶせなさい。」彼らはヨシュアの頭に清いかぶり物をかぶせ、晴れ着を着せた。主の御使いは立ち続けていた。<ゼカリヤ3:5>

 神の前に、燃えさしのような状態の大祭司ヨシュアと、その右に立って彼を訴えようとしているサタンがいるという光景です。(ゼカリヤ書3章参照)

 主はサタンの訴えを退き、ヨシュアに、晴れ着と、清い被り物を与えてくださいました。
 わたしたちは、人前で自分を取り繕い、よく見せようとします。しかし、ヨシュアのように、ありのままの姿で、神の前に立つならば、その様子がとてもひどいものであったにしても、神は表面に惑わされません。

 律法学者たちのようでなく、ただ神をよりどころとする者に対して、神は晴れ着と冠をくださいます。

 自分を義とする(正しいとする)のではなく、イエス・キリストの義をいただいて、偽善者のようではなく、神様の前に正しい人となることが信仰による義人です。

 この信仰こそイエス・キリストの信仰そのものです。
 くどいですが義=イエス・キリストです。

 イエス・キリストを着て、初めて、私たちは天国人と認められるのです。

 新しい歌、それはイエス様を心から喜ぶ私たちの口に授けられたものです。

 先週の日曜日はS姉妹の口に与えられた歌を賛美し礼拝しました。
 踊りました。
 楽器も、声も、私たちの体も、ともに主を賛美しました。

 主は私たちをとても喜んでくださり、心の貧しい私たちを、慈しみ、輝かせてくださいます。
 たとえ、病や困難で伏しているときでも、私の心に喜びをくださるお方です。(た)
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# by mitiru-takae | 2019-03-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.334 名前の由来 2019.3.24

名前の由来

 毎週木曜日に行われる「聖書学習会」は、もう約6年半続いています。
 義人牧師帰天後、今までの「木曜祈祷会」の名を変えて、みんなの学びの集会にしました。

 「学習会」と名があるので、みなさんお勉強会と思っているでしょう。確かに聖書の学びという点では「学習する会」に間違いありません。
 ただ、この「学習会」は、例えば牧師や教師一人が語るだけの集会ではないのです。

 集まった一人一人が、聖霊様と交わる集会といっていいと思います。集まった皆さんのみ言葉への向き合い方が、真剣そのものです。
 これは始まった時からそうだったと思います。

 「学習会」という名前は、「イエス様を真似る会、イエス様に倣う会」です。
 そのためにはいつも聖霊様に耳を傾けておかねばなりませんね。

神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。<創世記1:5>

 聖書に初めて出てくる名は「昼」と「夜」です。この二つの名前の関係は時間です。夕となり、朝となるのです。
 それから、陸と海、人間をお創りになると「男、女」と名づけられました。
 この人には特別な仕事が与えられました。名前を付けることです。
 
そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。<創世記2:19>

 さて人は神様からアダムと名づけられましたが、その妻の名はアダムがエバと名づけました。

さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。<創世記3:20>

 名前はその人、また物の存在を示すものです。

 先々週の学習会の中で、私の弟の「えりや」の名前について、本人の口から、初めて耳にする名前の由来を知りました。
 それは、もともと父がこの名前を付けるとき、漢字で「鋭利な矢」として「鋭利矢」とつけたかもしれないという話が出たのです。

 実はこの日の学習の聖書個所は、列王紀下13章でしたが、その中のみ言葉にこういう個所がありました。

エリシャはまた「射なさい」と言った。彼が射ると、エリシャは言った、「主の救の矢、スリヤに対する救の矢。あなたはアペクでスリヤびとを撃ち破り、彼らを滅ぼしつくすであろう」。<列王紀下13:17>

 このあと、イスラエルの王はなぜか、たった3度しか矢を射なかったのです。ですからスリヤを打ち破ることも3度だけだというのです。矢が少なかったのでしょうか。<列王紀下13:18、19参照>

 敵を打ち滅ぼす鋭利な「矢」を私たちはいつもたくさん用意しておくことであり、また自分自身が鋭利な「矢」としていつも霊的に研ぎ澄ませ、敵に向かって攻撃できる態勢を神の側にあって整えておくということだと思うのです。
 
このことをイザヤが言っています。

主はわが口を鋭利なつるぎとなし、わたしをみ手の陰にかくし、とぎすました矢となして、箙にわたしを隠された。<イザヤ書49:2>

 不思議なことに、この個所は私が学習会の前夜「矢」のことで調べているときに示されていたところでした。
 えりやという名前を、父が「鋭利な矢」と考えていたという証のみ言葉はここではなかったかと、この日の学習会に出席していた皆で、感慨深く思った次第です。

 私たちが生まれたその日つけられる名は、私という存在を神様が天地創造の時と同じように「素晴らしい」と喜んでくださるに違いない名なのです。(た)
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# by mitiru-takae | 2019-03-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.333 新しい歌をうたおう 2019.3.17

新しい歌をうたおう

主は新しい歌をわたしの口に授け、
われらの神にささげるさんびの歌を
わたしの口に授けられた。
多くの人はこれを見て恐れ、
かつ主に信頼するであろう。
       <詩篇40:3>

 わたしたちの教会に新しい賛美が生まれました。
 タイトルは「ハグしよう」です。

 今生きている教会、それはみんなの笑い声が響く教会、とりなしの祈りが絶えない教会、賛美の歌声に満ちている教会ですね。

 いえ、まだまだあります。
 悔い改めと、新しい啓示に涙して止まない教会、み言葉の告白と、証が止まない教会、挙げればきりがないほど、たくさんあるのです。

 しかし、これらがすべてあるのですから驚いてしまいます。

 なんと素晴らしい、われらの主イエスは。
 なんと素晴らしい、われらの教会は。

 そこで、新しい、「われらの賛美」のことを、少し話さずにはいられないというわけです。

 入院中のS姉妹を見舞った帰りの廊下で、姉妹に「愛してるよ」と声をかけて別れました。
 その時は何事もなくて、「愛してるよ」の私の一方通行のあいさつも、この時は別に気にもならず、気にもしていないという、そんな感じでした。

 ところが、夕方になって電話がかかってきました。
 「歌ができました」
 あまりにも唐突に思えたのですが、姉妹にとっては魂が解放された喜びの証しであったわけです。
 
 スマホの向こうで流れる歌は、とても楽しそうに聞こえました。
 「あなたにI love you ……照れずにハグしよう」
 「えー、待って待って、録音するから…」
 「まず採譜してみよう」
 「出来たら明日持っていくね」
 
 この日、一つの賛美が生まれました。

 これは後で聞いた話ですが、私が「愛してる」といったとき、「私も愛してる」とは、返せなかったそうです。

 日本人は特に、「愛してる」だの、「ハグ」することなど、本当に照れてダメなのですね。苦手なのです
 でも、そのあと素敵な歌が生まれてきたわけですから、姉妹はこの苦手を、克服したのでしょうか。

 神様の愛はなんと素晴らしいことでしょう。
 姉妹の魂が主のみ前に砕かれて、主が、解放と従順を歌として表現してくださったのでしょう。素晴らしい!
 S姉妹の喜びを、私の喜びとしています。満々感謝!

イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。<マタイ21:16>

 主は幼子の口に、心の中から湧き上がってくる賛美の歌を与えてくださいます。

 私たちが幼子のように、無力で、自分の力を知らず、ただ、親などにより頼むだけの小さなものとして、神のみ前に出るならば(イエス様自身、そのような状態でこの地上にお生まれになってくださいました)わたしたちは、新しい歌をいただくことができます。

 私たちは幼子のように声を張り上げて、主を賛美しつつ歌いたいですね。 (た)
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# by mitiru-takae | 2019-03-19 18:39 | 満ちる | Comments(0)