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No.347 喜びの声、楽しみの声 2019.6.23

喜びの声、楽しみの声

わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。<イザヤ61:10>
 
 6月9日(日)のペンテコステの主日に礼拝の中で行われました、井野さんご夫妻の結婚式から一週間後、アガペーチャペルでもう一組の新しいカップルが誕生しました。

 「ゴスペルクワイア―・グレイス」でディレクターをしていたアガペーチャペルのS姉妹と、6月15日に、陣内泰三さんとともにライブに来ていたギタリストの方との結婚式です。陣内泰三牧師の司式で、先週日曜日の午後行われました。
 
 私はこの二組のカップルを見て、本当に幸せな気持ちで、いっぱいになりました。
 
 S姉妹の花嫁姿は写真でしか見ていませんが、それでも6月15日の「陣内泰三と世界遺産」のライブの最後に、二人並んで前に立った時の姉妹の幸せそうなすがたを拝見出来ました。
 なんてしあわせそうなんでしょう。

 「自分が幸せだと、周りも幸せ?」

 これは当てはまらない場合のほうが多いかもしれません。
 幸せが本物でないと、周りも幸せ―――とはなりにくいものです。
 そこで、「本物の幸せとは」と考えてみますと、やはり、主イエスの愛による幸せが、本物で一番です。

 主イエスは、良いお方です。
 このお方の香りが私たちを包んでくださっていますと、私は幸せですし、周りも幸せになります。
 
 私たちが主の(本物の)幸せに包まれているとき、周りには主の愛が広がり、私たちを見ているだけで、嬉しくなり、ついて行きたくなるでしょう。

 まさにゼカリヤが言うとおりになるのです。
 このようなリバイバルが起こることを私は願っています。

万軍の主は、こう仰せられる、その日には、もろもろの国ことばの民の中から十人の者が、ひとりのユダヤ人の衣のすそをつかまえて、『あなたがたと一緒に行こう。神があなたがたと共にいますことを聞いたから』と言う」。<ゼカリヤ8:23>

 主の愛に導かれて、周りをどんどん幸せに変えていく、そのような私たちに変えられましょう。

 リバイバルの輪は広がっていき、私たちが必死になっても出来なかったことが、いとも簡単にできる収穫の日が、おしよせてくるでしょう。

 私たちが、喜び楽しんでいるとき、天の父はこれを見て、どれだけ喜び、楽しんでいることでしょうか。
 
またわたしは喜びの声、楽しみの声、花婿の声、花嫁の声、ひきうすの音、ともしびの光を彼らの中に絶えさせる。<エレミヤ25:10>

 と、言われる神はまた私たちに告げてくださいます。

再び喜びの声、楽しみの声、花婿の声、花嫁の声、および『万軍の主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみは、いつまでも絶えることがない』といって、感謝の供え物を主の宮に携えてくる者の声が聞える。それは、わたしがこの地を再び栄えさせて初めのようにするからであると主は言われる。<エレミヤ33:11>

 私たちの喜びを、一番首を長くして待っていてくださるのは主イエス様です。

 私たちもイエス様を喜び、その憐れみと慈しみとを感謝して過ごす日々を送りたいと願います。

 私の喜びは主の喜び、主の喜びは私の喜びですね。(た)
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# by mitiru-takae | 2019-06-25 22:35 | 満ちる | Comments(0)

No.346 捕囚の果てに希望がある 2019.6.16

捕囚の果てに希望がある

主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。<エレミヤ29:11>

 6月13日(木)の聖書学習会で、列王記下25章を終えました。
 列王記上・下を毎週一章ずつ、全部で22章+25章で47章、約一年かけて、読んできました。

 ソロモン王の死とともに、イスラエルは二つに分かれ、エリヤをはじめとする預言者の時代が始まっていきます。
 この書を学んでいくうちに、預言者たちが神の言葉を告げ知らせていく時の、神への従順と苦悩とを覚えて、今の私たちの信仰による生き方を、深く思い返す良い機会となって行きました。

 私たちは、今の私たちに対する神のご計画はわからないことが多いと思います。

 聖書は「神は陶器師であり、私たちは創られたものである」と言いますが、創(作)られたものは創(作)ったものに文句を言うことができないのです。創造(制作)の完成(もしくは完成のビジョン)を知るお方は、ただ一人、創造主(制作者)だけなのです。

 しかし、この捕囚のころのユダの人々は最悪極まりないと言って良いくらいひどい時代の中に生きています。
この最悪の状況も果たして神のご計画なのだろうかと疑いたくなります。

 私たちは、どん底と思える状況から、解放という希望を持つことができるでしょうか。

 南ユダ王朝の最後から2番目にあたるエホヤキンという王様がいます。
 この王様はたった3か月間の王でした。そしてバビロンに捕らえられていきます。

 この後、最後の王ゼデキヤ(この王様は全くバビロンの操り人形のような立場でしたが反抗したため、悲惨な結末となりました)の時に、エルサレムの神殿も、城壁も、ソロモンの宮殿も何もかも、壊されてしまいます。

 ユダの国の人々がバビロンに連れ去られ、すべてが根絶やしにされたようになってしまいました。

 しかし、神のご計画は、これで終わりではありません。

ユダの王エホヤキンが捕え移されて後三十七年の十二月二十七日、すなわちバビロンの王エビルメロダクの治世の第一年に、王はユダの王エホヤキンを獄屋から出してねんごろに彼を慰め、その位を彼と共にバビロンにいる王たちの位よりも高くした。
こうしてエホヤキンはその獄屋の衣を脱ぎ、一生の間、常に王の前で食事した。
彼は一生の間、たえず日々の分を王から賜わって、その食物とした。<列王記下26:27~30>

 これは全くの神のご計画であり、エホヤキンという王様は、神様に対して良いことをしたわけでもなく、立派な王であったというわけでもなく、ただただ、神のご計画に沿って憐れみを受け、御心の成就のために用いられたのです。

 そして、この王様の孫であるゼルバベルの代になってユダの人々はエルサレムに帰り、神殿や城壁を再建することになっていくのです。

 私たちは最後まで神を信じ続け、耐え忍ぶならば、大いなる希望を見ることができます。まさにヨブが言うように、木には望みがあります。
 死んだ種から新しい芽が噴き出すように、神の業は、私たちの思いをはるかに超えています。
 神のご計画によって歴史が違った方向に動き出します。

 今の時代も昔と同じように神の御手の中です。
 私たちにとって、新しい神の神殿(宮)は、聖霊様によって私たちの心の中に建設されています。(た)
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# by mitiru-takae | 2019-06-20 08:20 | 満ちる | Comments(0)

No.345 神は愛である/沖縄ギャザリング 2019.6.9

神は愛である

愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
愛さない者は、神を知らない。神は愛である。<第一ヨハネ4:7、8>

 かれこれ一年前の話になります。

 遠く阿蘇から礼拝に来てくださっているご夫妻が、おもむろに話し出しました。
 「結婚して10年くらいになりますが、この教会で挙式をしたいのですが、お願いします」

 突然のことに、少々びっくりの感もありましたが、それなりにお年を重ねたお二人が、あえて「結婚式を挙げよう」と思うのには、聖霊様のお導きによるものに違いないと心から感謝してお受けしたのでした。

 そして約一年後の今日、めでたく挙式の日を迎えました。
 お二人に心から「おめでとう」と、お祝いの言葉を申し上げます。

 「神は愛である」このお言葉に勝るものはないでしょう。
 すべてのことは神の愛から出ているのです。

 神が初めに私たちを愛してくださったので、私たちも人を愛することができます。
 特に夫婦の愛は、イエス・キリストと、私たち神の教会との関係そのものです。

 私たちはイエス・キリストの花嫁として、主を敬い、従い、主の契約のうちで安心して信仰生活を送ります。
 これは、イエス・キリストが、私たちの花婿(主)として、ご自身の命をも身代わりにするほど愛しとおし、すべての恵みを与えてくださり、命の保証をもしてくださる、そのようなお方だからです。

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。<第一ヨハネ4:9>

神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。<第一ヨハネ4:13>

 神の愛の中に生きている人は、神の愛を知っている人です。
 神は愛そのものです。(た)

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沖縄ギャザリング

 6月3、4日の二日間、教職者の先生方が集まり,沖縄ギャザリングが開かれていました。
 場所は「白い家フェローシップチャーチ」というステキな教会です。
 今回も、京都の時のようにライブ映像を見ることができました。送ってくださったダニエル先生に感謝です。

 橋本先生の報告によると、東京で開拓しているメンバーのところで京都ギャザリングの後、若者が導かれ倍増しているとの証があったようです。

 私たちも、あきらめず(笑)本当に求めていきたいな――と思っています。
 たとえ、高齢者の多い地方の教会であっても、おじいちゃん、おばあちゃんを求めてくれる若者たちが集まってくれるように、平安と憩いのある教会を目指したいですね。
 
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。<マルコ1:15>

 ちょうど、PCでライブ映像を開いたとき、有賀先生でしたか、このみ言葉を語っておられました。

 時は今から満ち始めるんじゃない、「まさに、時は満ちたのだ、神の国はもう目の前に飛び込んできているんだ」と、私は自分が京都ギャザリングで描いた絵を思い出しながら、大きくうなずいたことです。(た)


































































# by mitiru-takae | 2019-06-11 17:11 | 満ちる | Comments(0)

No.344 どちらも同じ 2019.6.2

どちらも同じ

イエスがベタニヤで、重い皮膚病の人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。
この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。
するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。<マルコ14:3~6>

 ヨハネの福音書によると、この女はマルタの妹マリヤと書かれています。

 マリヤはどちらかというと、人間的には姉のマルタほどに気も利かない、お料理もあまり上手ではない、そんな女性であったのかもしれません。
 
 しかし、いつもイエス様のお言葉に耳を傾けていました。
 何もできないマリヤにとっては、精一杯のおもてなしであったのかもしれません。
 多分普段はあまり目立たない女性であったかもしれませんが、イエス様のことを思う気持ちは、人一倍であったと思われます。
 そんなマリヤが、突然みんながアッと驚くようなことを始めたのです。

 マリヤは、彼女の嫁入り道具であったのかもしれない、高価なナルドの香油の石膏のツボを割り、惜しみもなく、イエス様に注いだのです。
 
あなたの宝のある所には、心もあるからである。<マタイ6:21>
 
 このみ言葉の通り、マリヤの心はすべてイエス様に向いていたのでしょう。

 どんなに高価な宝があったとしても、その宝のありかが、自分の欲望や、プライドを満たすためのものであれば、その人の心は神様のところにはありません。
 だからと言って、イエス様は300デナリもするナルドの香油を自分のために使ってくれたこと自体を褒めているわけではありません。

 イエス様はいつでも、私たちの心の中を探り知るお方です。
 この時のマリヤの心の動機が、イエス様の心を打ったのです。

 それはイエス様への深い愛から出たものでしょう。 
 今、この時にこれをしなければという、抑えきれない衝動がマリヤにあったのだと思います。
 この愛から出る行為をイエス様は見逃しません。
 
 私たちも同じです。
 愛する兄弟姉妹、神の家族のためには深い、愛の衝動が襲ってきます。

 もう一つのお話があります。
 5月12日の主日礼拝の聖書個所でした。

ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。
そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。<マルコ12:44>

 イエス様は貧しいやもめの献金を、その金額ではなく、やもめのすべてを惜しみなくささげる心として見ていました。

 今なら100円くらいの献金であったでしょう。しかしそのお金は彼女の全財産であったというのです。
 彼女は、自分が持っているものに、自分の心のすべてを託し、また、恥ずかしい気持ちも恐れず、人前で堂々と少ない金額をささげることができたのです。

 高価なナルドの香油も、レプタ2枚の献金も、共に、イエス様の目には、高価で貴いものであったに違いありません。(た)
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# by mitiru-takae | 2019-06-04 17:41 | 満ちる | Comments(0)

No.343 その日、その時 2019.5.26

その日、その時

その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。<マルコ13:32、33>

 時どき「終活」という言葉を耳にします。
 誰しもこの世に生まれてきた以上、例外なく死を迎えます。
 人生最後の一大イベントですが、若いときは想像もできません。

 イエス様がおっしゃった「その日、その時」は、人類の終末のことでしょう。
 しかし、私たちはこの世が滅ぶ前に、この地上での命を終わるかもしれません。
 
「わたしたちはこの人が『わたしは手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に手で造られない別の神殿を建てるのだ』と言うのを聞きました」。<マルコ14:58>

 ここで語られたイエス様の預言がエルサレムの滅亡、神殿の崩壊の予告のように受け取れます。

 確かにこの立派な神殿は壊されてしまいます。
 しかし、この神殿はイエス様ご自身のことでもあるのです。
 イエス様は、死んで3日目によみがえられました。

 また、神殿の崩壊は、私たちにとってはまさに古い皮袋の崩壊のようです。
 イエス様の新しい教えを入れることができる新しい皮袋、つまり私たちの魂が新しく作り変えられることです。

あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。<第一コリント3:16>
 
 世の終わりにイエス様が再臨されるときについては、天の父しか知るものはなく、私達にはわからないといいます。

 「では一体どのように準備すればいいのでしょうか」と思う方もいるかもしれません。
 弟子たちも気になったのでしょう。
 弟子の一人がイエス様に聞きました。

「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。<マルコ13:4>

 イエス様は世の終わりの前兆について語られました。
 私たちが今、世界中の不穏な動きや、天災等についてそれを世の終わりの前兆とみるわけですが、イエス様が語ってくださった出来事が、ことごとく起こるまでは、この時代はまだまだ滅びることがないといいます。

天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。<マルコ13:31>

 しかし、確実に天地は滅びに向かっているようです。
 私たちはどうやって「その日、その時」を迎えればいいでしょう。
 私の「死」であれ、この世の「終わり」であれ、私たちのすべきことはひとつです。

目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。<マルコ13:37>
 
 「目を覚ましている」ということは、いつもイエス様と共にいるということです。
 いつ何が起こってもいいように、私たちは眠っていないで、目を覚ましているべきなのですが、私一人では、居眠りをしてしまいそうです。

 また、賢い乙女たちのように、いつでも応えられるように、準備をしておくことが必要ですが、私たちは自分一人ではすべてを万端に整えることは不可能かもしれません。

 しかし、いつも主がともにいてくださることを信じて、毎日、イエス様の御心に帰っていくならば、必然的に、準備していけると思うのですがいかがでしょう。(た)
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# by mitiru-takae | 2019-05-28 19:12 | 満ちる | Comments(0)