No.301 十二使徒たち 2018.8.5

十二使徒たち

さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。<マルコ3:13~15>

 すぐに言えるようですぐに出てこない十二使徒の名前ですが、皆さんはいかがですか?

 学生の頃のようにテストでもあれば必死で覚えるでしょうが、大人になって、「いや、必要な時はいつだって言えるさ」などと思って、何もしないでおくとずーっと、そのままですね。

 一つには、4つの福音書にでてくる名前が同じでない弟子がいるということ。また、使徒なのか、執事なのか、はたまた、ただの弟子なのかと、同じ名前の弟子がいるのでわからないということもあります。
 こういうことが、覚えるのがめんどくさいという理由の一つでもあるのでしょう。

 今日は使徒と呼ばれる12人、いえ13人の名前を挙げてみたいと思います。

【シモン(ペテロ)】
 イエス様はシモンに「ペテロ(岩)」という意味の名を付けました。ペテロは「ペテロの手紙」を書いています。
【アンデレ】
 シモンの兄弟であり、二人は漁師です。二人ともバプテスマのヨハネの弟子でした。またシモン(ペテロ)をイエス様に紹介しました。

【ゼベダイの子ヨハネ】
 ペテロたちと同じ漁師であったヨハネはパトモス島にとらえられていました。しかし、そこで幻を与えられ、のちにヨハネ黙示録を書きます。他にヨハネによる福音書、手紙などを書いています。
【ヨハネの兄弟ヤコブ】
 このヤコブは大ヤコブと言われています。ヨハネとヤコブの二人はイエス様からボアネルゲ(雷の子)という名を付けられました。

【ピリポ】
 5000人の給食の奇跡の時「人々にどこからかパンを買ってきて食べさせようか」とイエス様に言われ信仰を試されたことがあります。
【バルトロマイ(ナタナエル)】
 ピリポがバルトロマイを連れてくる前に、イエス様は「あなたをイチジクの木の下で見た」と言っていました。

【トマス(デドモ)】
 イエス様の脇と手の傷を見ないとイエス様の復活を信じないと言った弟子です。
【取税人マタイ(レビ)】
 小ヤコブと兄弟、マタイによる福音書を書いたと言われています。

【アルパヨの子ヤコブ】
 大ヤコブと区別するために小ヤコブと呼ばれました。
【タダイ(ヤコブの子ユダ)】

【熱心党のシモン】
 熱心党とは反ローマ帝国の過激派組織です。
【イスカリオテのユダ】
 このユダがイエス様を裏切りました。
【マッテヤ】
 使徒行伝の時代に入ってユダの代わりに12人目の使徒となりました。

 ざっと書いてみましたが、聖書の中には、まだまだたくさんのエピソードがあります。
イエス様のもとに選ばれた弟子たちは、本当に様々な境遇、考え方、生き方仕事をしてきた人達です。
 
 この12人の使徒ではなくても、復活のイエス様により新生し、私は使徒であると断言できるパウロ。
 このパウロをアンテオケに連れてきたバルナバ。

 また、使徒と同じ名前ですが、聖霊のお導きによって、エチオピアの高官に福音を語り、洗礼を授けたピリポ。
 またパウロの見ている前で石を投げつけられて殉教したステパノ、またパウロの伝道旅行に従い、ペテロの通訳者でもあったマルコの福音書の筆者であるマルコなど、聖書を読んでいくと数多くの弟子たちが出てきます。

 イエス様が生きているときも、天に帰ってからも、今に至るまで、イエス様の弟子は増え続けています。
 私たちも使徒行伝28章に続き、今の時代(使徒行伝29章)の中で聖霊様と共に働くイエス様の弟子です。ハレルヤ! (た)
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# by mitiru-takae | 2018-08-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.300 力を奮い起こせ (満ちる第300回記念号) 2018.7.29

力を奮い起こせ
(満ちる第300回記念号)

しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた(ダビデはその神、主によって力を奮い起こした【新共同訳】)。<サムエル上30:6>

 いよいよ「満ちる」も、300回を迎え、よくやってきたなあと思う半面、まだまだこれからだなあとも思います。これからも、力を奮い起こして、主によって励んでいきたいと思います。

 牧師按手礼5周年記念礼拝も同じ時期に迎えることができ、とてもタイムリーでした。
 礼拝司会の妹が新生教会の5歳の誕生日だと言ってくれた時には、本当に感無量でした。
 ほんとだ、父帰天から約6年、なんかやっと父を安心させられることができるのかな?とも思ったりして、あらためて責任の重さを感じて、こころなしか、緊張しています(笑)。
 しかし、私ではなく、神の側にいつも立ち、主イエス様のお心によって、歩み続けるものでありたいと祈っています。

 毎日が幸せで、何事も問題がない時は、「奮い起こす」という心の状態は、さほど体験しません。
 ところがアブラハムの「望みえないのに望みつつ信じた」信仰に似て、再び起き上がることもできないくらいの苦しい、つらい状態の時「勇気などかけらもないのに、勇気が必要」ということが起こってくる時があります。

 ただ、これが「主によって」可能であるというところが、イエス様を知らない方々にはわからないところです。いわゆる世の中の精神の強い人たちが頑張って成し得るということとは、ちょっと違うものなのです。

 主イエス様は私に働きかけてくださって、「できない」を「できる」に変えてくださいます。
 こういうと、よく、「では神はどうして私に望む通りしてくれないのか、神は何にもしてくれない、何でもできるんだったら、これもやれ、あれもやってのけろ・・・・」等々、いやはや、人間の心の中は何んと身勝手で自己中心でしょうか。(笑)

 以前、このような交通標語を見て、なるほどと感心したことがあります。
「出せるスピード 出さない勇気」
 スピードを出すのが好きな人は、なかなかゆっくりは走れません。いつの間にか、気持ちよく好きなスピードで走ってしまっています。ちょっと気を付けてスピードを緩めると、突然の事態に対処することができるものです。
 スピードを出す人にいきなり「スピードを出すな!」と言っても反発しますが、スピードを出さないことを勇気としたのはなかなかです。勇気を必要とする心に語り掛けているのです。そうか、勇気がいるんだ!と思いました。
 
 勇気って、どこか自分の思いとは反対の方向に奮い立つことによって生まれてくるような気がします。それは自分の肉の思いを捨てることでもあるのでしょうか。捨てたとたんに私たちの心の中にイエス様の力が湧き起こってくるのでしょう。

 たとえ、私たちに悪い知らせが来ようと、できもしない無理難題が来ようと、突然の病で不安に襲われそうになっても、主にあって力を奮い起こしましょう!その時主イエス様の勝利がわたしにあることがわかります。

これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。<ヨハネ16:33>

 主イエス様によって、私は勝利します!
 「満ちる」が300回続いたことを心から感謝します。 またこれからも「満ちる」を書いていけることを感謝します。
 牧師として5年間、奉仕できましたことを心から感謝します。これからも教会と主の聖徒の皆様に仕えていけますことを感謝します。
 ことごとに勇気を出して、立ち上がっていく、決して逃げない、そんな底力をイエス様が私の魂の中で持ち続けてくださっていることを深く感謝いたします。
 すべての栄光を父なる神へお帰しいたします。アーメン! (た)
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# by mitiru-takae | 2018-07-31 23:05 | 満ちる | Comments(0)

No.299 泣き笑いの5年間でした 2018.7.22

泣き笑いの5年間でした

どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。<エペソ3:20、21>

 先週7月15日、牧師按手礼5周年記念礼拝を喜びのうちに終わることができました。ありがとうございます。
 この5年間は、ラブソナタ大分や、CGNtvの収録など、いろいろな行事もさることながら、2度の大病を経験いたしました。聖霊様のお導きがなければ、少し大げさですが、命を落とす危険性もなきにしもあらずでした。主イエス様に守られてきましたことを深く感謝しています。

 ひとえに主と、キリストの福音大分教会の聖徒の皆様のおかげです。ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

 さて、この「満ちる」は来週で300回を迎えます。
 父が帰天後、「日岡だより」にならって始めた小さな刷り物ですが、はじめは毎週書く自信もなく(笑)不定期に出すつもりでいました。
 ところが、病気をしようが、入院しようが、一度も休むことなく続けることができ、私自身もびっくりしています。

 父はもともと作家志望の人でありましたので、書くことは大好き、また素晴らしい文章を書きました。
 しかし私はというと、全く文章を書くなどということには機会を得ない人で、書くと言えば中学生のころから書いていた日記くらいなものでした。
 その私が何かを書こうというのですから、まあ、大変です。

 ちょうど父が召される一年くらい前に、私はパソコンデビューをしまして、事もあろうか、わけのわからぬブログというものを作り、見切り発車してしまったのです。
 しかし、そのおかげか、文章を書くことそれ自体がそんなにつらいことでもなく、楽しいとさえ思えるようになっていきました。
 パソコンのワードソフトを開くと不思議に書いて行けるのです(笑)から、びっくりです。

 その時のブログの2回目くらいに書いた記事を拾ってみました。

◆すてき!

「うちに咲いているお花を活けてます!」と言う
いつも教会堂にお花をかざってくださる姉妹がいるのですが
今日のお花もとてもすがすがしい
花屋さんで買ってきたお花もきれいで素敵なのですが
「負けてないよーっ」
「いいえ、それ以上かも!」
と思ってしまいます

栄華をきわめた時のソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった
              ー聖書ー
(2011.8.24・ブログ【しおんのゆめ】より)

 ワープロの前で、一日中書き物をしていた父を思い出しますが、昔は原稿用紙に、鉛筆やペンで書いていましたね。私にはとてもできません。
 しかし昔の文章を読んでいると、この父の字には、いまだに悩まされます。きちんと最後まできれいな字では書けない人でしたので、読めないところが多いのです。
 私が父の印刷会社でタイプを打っていたころは、この父の原稿をタイプできる人は私のほかにはいませんでした。校正も、母しかできませんでしたね。
 今は懐かしい思い出の中の光景の一つです。

 聖霊様の働く力は、私のうちで働いていました。
 この先、私の進むべき道を知って、私が思い求める以上のことを、いつも先取りして準備してくださいます。
 「満ちる」もそうでした。

 イエス様はわたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたですね。満々感謝! (た)
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# by mitiru-takae | 2018-07-31 23:03 | 満ちる | Comments(0)

No.298 イエス様の福音に押し出されて 2018.7.15

イエス様の福音に押し出されて

神の子イエス・キリストの福音のはじめ(口語訳)
「神の子」「イエス・キリストの福音」の源(岩波翻訳委員会訳)
イエス・キリストの福音はこうして始まった(塚本訳)
<マルコ1:1>

 私が牧師(実は父の後を代表者としてこの教会を存続していくか否かの切羽詰まったとき)となることの「神よりの召命」ともなったみことばですので、何度も何度も語ってきたことであり、少々恐縮の感ありです。

 しかし、私たちには、決して忘れることのできない「誰かの一言」が心の中にあります。
 学校の先生、先輩、友人など、家族以外の人からの言葉が多いかもしれません。家族は、なかなか自分の宝と気が付いていないところがあります。
 最近、「当たり前」という歌をラジオで聞きましたが、確かに当たり前のことへの気づきや感謝が私たちには足りないのです。

 私たちにはそれまでの人生が、一瞬にして裏から表また、表から裏へと返るように180度転回してしまうほどの影響力のある言葉・・・それは人生の中の体験として深く心に刻まれていきます。
 私にとっても、両親や家族の言葉によって、良し悪し関係なくたくさんの影響を受けています。
イエス様の愛がだんだんわかってくると、この良し悪しが、自己の判断や感覚だけで理解することなく、神様のご計画の中で与えられたものであると気が付いてきます。

 そうすると、私を導いてくださった言葉、いやこれは私を試されたお言葉など、私たちは自分の周りに起こってくる出来事の一つ一つを無駄にすることなく思い返すことができます。これこそが聖霊様の働きです。

私たちは多くの悔い改めをすることができ、多くの赦しをいただくことができ、多くのイエス様の愛をいただくことができるのですから、最高です。ハレルヤ!

 話を戻しますが、このイエス・キリストの福音が私たちを押し出し始めると、神のご計画に従って、私たちは前進させられます。
 父の「イエス・キリストの福音が、あなたを押し出して進んでいくんだから、大丈夫だよ!、簡単だよ!」という声が、わたしには、今も聞こえてくるようなのです。

 代表者から、牧師へと、イエス様は私を訓練していってくださいました。
 朝から晩まで、聖書と、ガイドブックと信仰書を読みあさって、意気揚々と主日礼拝のメッセージを始めましたが、実は3か月目に私は挫折したのです(笑)。
 なんでもそうですが、やってみなくてはわからないことが、私を挫折させます。しかし、そのおかげで私は、「そうではない」ということに気が付くわけです。
 
主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。<詩篇19:7>

 生前父が「イエス・キリスト様、アーメン!」という、聖名を呼ぶ信仰を推奨していたころがありました。アーメンはしかり。イエス様は完全なお方です。
そのお方に私たちは「完全肯定、アーメン、しかり」と、御前に進んでいきたいのです。

 私たちが「アーメン」といったその時、私への神様のご計画が動き出すのですね。万物が神によって更新され、全く新しい私たちの生きる場所が開き続けるのです。

 私たちはイエス・キリストご自身の持っておられる、権威、能力、知識など、多くのものを聖霊様によって知ることができます。そしてイエス様が直接私に顕わしてくださるご証しによって、心の中に確かなものとされていく(聖霊の証印)のです。

 ともあれ、牧師按手礼(2013・7・15)から5周年を迎えることができました。
ひとえにキリストの福音大分教会に集う聖徒の皆様、そしてこの教会に連なる大きなエクレシアのメンバーの皆様の応援とお祈りのおかげです。ありがとうございます。
 みなさん、これからも祈り、支えて
くださいますようにお願いいたします。満々感謝! (た)
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# by mitiru-takae | 2018-07-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.297 万事休す 2018.7.8

万事休す

 言葉の由来はというと、子供のころ甘やかされて育った王子に対して言った、王である父の言葉らしいですが【「宋史荊南高氏世家」より】万策尽き、もはやおしまいという意味です。この王子は、王になったとき、父が言った通り、どうにもならない悪い王になったそうです。

 そんなに頻繁にあってはならない、この万事休すの時ですが、人生の中ではどうにもならない土壇場に追いやられることもないとは言えません。
 自分のことであれば、出来てもできなくても自分の身から出た錆ということで、自分が頑張って山を踏み越えればいいわけです。しかし、難しいのは家族であったり、身近な、それも愛する友たちです。

 私たちはとかく、説教をしてみたり、叱ってみたりと、色々試みるわけですが、本人の心が動かねば、どうしようもないわけです。言えば言うほど心はくじけていき、周りの者は「万事休す」と思ってしまうのですね。

しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。<マルコ2:20>

 私たちの心の中で、「万事休す」というときが来たとき、まるでイエス様がとりさられたような虚しい力のない日を経験するとき、このような時こそ、断食をします。それは悔い改めであったり、希望を持つためであったり、とにかくイエス様と近くいるためです。
 そういう意味では断食は毎日してもいいですね。

 T兄弟とLINEでこのみ言葉を分かち合ったとき、兄弟はすかさず「木、金、土曜日の三日間断食します」と言ってきました。
 断食がすべての解決ではありませんが、実行しようとする自分の心に正直になれることはとても素晴らしいと思います。ハレルヤ!
  
 イエス様を知っているというだけで、私たちは土壇場に強くなれます。
 たとえ主が取り去られる時が来ても、私たちは手をとりあって、共に心を合わせ、希望を捨てることがないばかりか、新しい革袋として、聖霊によって全く新しい復活のイエス・キリストを見ることができるのです。

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。〔だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである〕」。<マルコ2:22>

このみ言葉のように、どんなに素晴らしい言葉であっても、受け入れる袋がたえられなくては、ついには張り裂けてしまいます。
 葡萄酒を入れる前に革袋を新しいものに取り換える必要があるのです。

 私たちの魂の革袋を新しくできるお方は、イエス・キリストの他にはありません。革袋が新しくなると、新しい葡萄酒を入れても、袋がはりさけることはないのです。
 新しく生まれた人には、主が新しい葡萄酒を入れてくださるのですね。
 この葡萄酒は、イエス様が私たちにくださった新しい契約によるお言葉そのものです。

 今日、もしあなたに、あなたの家族に、また友人、知人に、「万事休す」と言いたくなるようなことが起こったとき、イエス様を知らない人であったら、主の前にともに行ってあげるとよいでしょう。それはイエス様こそが私たちの救いですと知らせてあげることです。
 また、その人がすでにクリスチャンであれば、座って手を取り合い、ともに祈るとよいでしょう。

 私たちはとりなしのために、いつも自分自身を主にお捧げして、聖めていただいておく必要があります。(た)

七日間にわたって祭壇の贖いをし、それをきよめて使い始めなければならない。
この期間が終わり、八日目と、その後は、祭司たちが祭壇の上で、あなたがたの全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげなければならない。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れる。――神である主の御告げ。――」<エゼキエル43:26、27【新改訳】>
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# by mitiru-takae | 2018-07-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)