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No.274 主のみこころのままに(新改訳) 2018.1.28

 主のみこころのままに(新改訳)

わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ」。
こうして、パウロが勧告を聞きいれてくれないので、わたしたちは「主のみこころが行われますように」と言っただけで、それ以上、何も言わなかった。<使途21:13、14>

 ここだけを読むと、なんだかパウロが意固地のような感じがしないわけでもありませんね。
 しかし、キリストの福音を伝えたい一心のパウロにとっては、宣教のため前に進む以外に自分の命をささげることのできるところはないのです。
 
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。<ピリピ1:21>
わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。<ローマ14:8>

 ここまで言えるパウロもすごいですが、このパウロに従っていた弟子たちの必死の声も、すさまじかっただろうなと推測できます。私たちも、この時の弟子たちであったならば、やはり、「パウロ先生には生きてほしい」と思ったに違いないのです。そして自分たちの安全も考えたに違いありません。

 ところがどうにもこうにも、パウロの心を変えることはできないわけです。イエス様の道に一途ということはわかりますが、自分の命さえ惜しまない姿は強靭な意志を持っているというより「心がイエス様に燃えている!」そんな感じです。

 父(故釘宮義人牧師)が戦後大分駅の前で戦災孤児をお世話していたころの、当時福祉課長であった元大分県知事立木勝氏の日記が娘さんの立木稠子氏(前大分芸術館官長)の手元にありました。それを「山河在り」という書籍として出版したものを、古くからの父の弟子である姉妹からいただきました。
 それを見ると、パウロのごとき父の「誰の前でも自分の信念を曲げない」気質がみてとれる文言がありました。
 多分、当時の立木福祉課長も釘宮青年を見て「こいつはちょっと違うぞ!」と、一線を画したにちがいないとさえ感じました(笑)。
 
 「釘宮君が来て「わかば園」に送った子供たちのことを案じて色々と意見を具申する。……仝君にしてみれば自分の信念に反する事態は見ておれず……少し我執の点も……よく説き聞かせてそのままわかば園に向かう。【立木勝戦後日記 「山河在り」より抜粋】

 なるほど、心が一直線に向かって燃えているときは、周りの人たちからは我執に見えるものだと思う。性格といえばそうかもしれない。若い純粋な熱心さは、時として周りの人たちをがっかりも、あきれさせたりもします。

 パウロに対して弟子たちは口々に身を案じての進言をしましたが、最後には自分たちの命をも覚悟させられたのかもしれませんし、これ以上パウロを説き伏せる言葉も見つけられず「みこころのままに」と聖霊によって言わせられたのでしょうか、あきらめたのでしょうか(笑)。 
 さあ、私たちは主のために周りの心配してくださる方々の前で果たして、主のためには死さえも辞さないと言えるのでしょうか。はっきり言いますが、今の日本のような平和な国で、平和な時にそんなことはなかなか言えませんね。

 しかし、もし弱い私たちにも、「いざという時」が来たならば、心から主に「みこころのままに」と言えると、あえて断言できるということです。いざという時が、今なのか、今日なのか、明日なのか、はたまた10年後なのかはわかりませんが。
 パウロはキリストの福音は単なる学説ではなく「神の力」だと言っています。

「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である<ローマ1:16>」

 神の力は私たちのうちに働いて、私を強め、頑固なまでに主の道を歩ませることができるものです。
 その時が来たならば、何の心配の必要もなく、私たちは皆こぞって「主のために生き、主のために死ぬ」と言えるのです。(た) 
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by mitiru-takae | 2018-01-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.273 素晴らしい主のご褒美を! 2018.1.21

素晴らしい主のご褒美を!
(友永英樹兄弟を天に送る)

「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。<黙示録22:12>

 元旦礼拝が始まろうとするその時、私たちの教会の友永英樹兄弟が天に召されたことを知らされました。(後になって調べましたら病院で亡くなったそうです。)

 そういえば12月17日から礼拝に出席していませんでしたし、毎年欠かさないクリスマス礼拝にも来ていませんでした。ですが、どうしたんだろうくらいにしか思っていませんでした。

 兄弟は、腎臓の病気を患い、かなり重症の皮膚病を患い、「心も体も主のくびきがなければ一歩も前に進めない」という状況でした。

 その中で、ぜいたくには暮らせないが、好きな映画やDVDを鑑賞し、人の悪口は決して言わない、いつもニコニコして、何キロかある自宅アパートから歩いて、毎週礼拝に来るという、とても謙虚な方でした。

 どんなに貧しくても、私たちに何かを求めたりしたこともないですし、大好きな趣味を手放してしまうということもないほど、心に少しの余裕をもつことのできる方だったのかなといつも感じていました。
それどころか、私自身、いろいろな質問や、メッセージの感想など、時々ぽつっと言ってくれたりして、とても信仰において信頼深い方であったと思っています。

 そんな兄弟でしたから、笑顔の裏に、寂しさと、死への不安があったとしても、私たちには、わからなかったし、あえて病状を聞くのも、兄弟に対して悪いような気さえしていたのが事実です。

 ときどき、礼拝のメッセージの中で私が「知りたい、気になっている」ことなどに関連したDVDなどを自分が持っていると、それを貸してくれていました。
 いま最後に貸してくれていた2本のDVDが手元にありますが、友永兄弟の遺品となってしまいました。

 そんな兄弟に12月お誕生メッセージのはがきを送っていましたが、その返事が、メールできていました。

 まったく同じメールが、12月5日、6日の二日にわたって二度入ってきました。今になってそのメールを読み直すと、私はもういたたまれなくなりました。兄弟の心からの願いが、もう叶えられたことに、おどろき、涙が止まりませんでした。
 そのメールをここに紹介します。

 ハガキありがとうございました!
 体はピカピカにならなくても良いです、その代わり魂ピカピカに、イエス様にしてもらいたいです。
 大患難の前に、肉体を離れて、天の神殿の一番後ろで良いので、神様の神殿に行きたいです。
 その時は、教会の皆さんと握手するのが夢です。
 千年王国もイエス様も天の神殿で見たいです(笑の絵文字)

 友永兄弟は、病気によって掌がべたべたして、みんなと握手するのが嫌だったようです。献金の時、私と握手するのも嫌で、なかなか礼拝にも来れなかった時期がありました。しかし、それもある程度乗り越えて、私にも握手してくれるようになっていたのです。

 私からの兄弟への返事はこうでした。

 【そうですね!私たちは天国で再び会えますね!ハレルヤ!共に新しいエルサレムを見ましょう!永遠の地上のエデンの園にすみましょう!たのしみです!】

 前夜式も告別式も出来ませんでしたが、今、友永兄弟が天の神殿で、イエス様と共にいる姿が、目に見えるようです。この地上では、苦しいことの多かったであろう兄弟ですが、主が迎えに来てくださって、今最高に幸せで、私たちを待っていてくれるんだと思います。

 イエス様のみ手に友永英樹兄弟の魂をお委ねして、兄弟への地上での告別の辞といたします。共に御国でまた会い、握手しましょう。(た) 
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by mitiru-takae | 2018-01-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.272 地方版新春大分ギャザリング/「備える!」 2018.1.14

地方版 新春大分ギャザリング

 2018年1月8日(月・祝日)大分カルバリチャーチを会場として、今年初めての大分ローカルギャザリングが開催されました。
 地方で行われる小規模なローカルギャザリング(日本)は昨年、名古屋少年自然の家にてファミリーギャザリングとして開催され、一応終わりました。

 日本で始まったローカルギャザリングの最初の開催地は確か札幌でした。
 次に2016年9月に大分で「大分ローカルギャザリング」が開かれました。この時の大分でのギャザリングは今でも当時参加した方々の間で語り草となっているほど、すばらしいものでした。それ以来、大分では、「大分ブレッシング」を「地方版大分ギャザリング」と名称を変え、3~5教会の先生たち、教会のメンバーたちで続けています。
 次回からはセッションを4つに分けようという提案がなされています。参加教会の先生方、メンバーが増えているからです。聖霊様のお導きによる素晴らしい聖会が行われることを毎回楽しみにしていますが、これからはもっと楽しみです。どうか大分の地から、日本中に広がっていきますように!

 昨年12月にはエジプトでグローバルギャザリングがひらかれ、FGイエス・キリスト別府教会の永野先生が参加され、聖会や、現地のコプト正教の洞窟教会などの写真を見せてくださり、証しをしてくださいました。
 洞窟と言ってもものすごい広さで、びっくりです。聖会中には会場の上に虹のようなドーム状の大きな雲が出ていまして、写真を見て、これまたびっくりでした。
 また、昨年11月キリストの福音大分教会でのギャザリングで集まった、「皆様の献金600ドルを、無事エジプトギャザリングへ届けることができました」と、報告があり、私たちも聖会に直接参加は出来なかったけれども、エジプトへ祈りと思いを届けられたようでこれについても心から感謝しました。

 今年2月(だったと思います)には韓国済州島でギャザリングが開かれます。
 たとえ、済州島へ直接行けなくとも、皆で心を一つにし、イエス・キリストネットワークで済州島のギャザリングとつながりましょう。
 今年の大分ギャザリングの次回の予定日時は「7月16日(月・祝)」です。お祈りください。(た)

  
「備える!」

 今回のギャザリングのテーマは「備える!」でしたが、各先生方の聖霊様のお導きによる、それぞれ自教会の今年の指標聖句を通しての素晴らしいメッセージを聞くことができました。

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
<ガラテヤ2:20>

 その中でも、FGイエス・キリスト別府教会の永野先生のお話が心に残りました。「自分はキングジェームス訳を見るのですが、それは訳が違うというより、もともとの訳すべき写本が違うのです。今奥山実先生が進めている現改訳も、キングジェームス訳で使っているのと同じ写本を使っているのです。」

 そうだそうだと言わんばかりに聞いていたのですが、「それによると、神の御子を信じる信仰、これは私たちの信仰ですね。しかし違うのです。ここは「神の子の信仰」と訳されているのです。そうです。私たちの信仰ではなく、イエス様自身の信仰なのです。」・・・と。

 私は、なんだかとても嬉しくなりました。
 父が昔から言っていた、「イエス・キリストを信じる信仰ではない。イエス・キリスト信仰です」や、「『キリスト福音大分教会』です。がないといけません。」などの言葉を本当に誇らしく思いました。

 生けるイエス・キリストの信仰が、イキイキと私の魂の中で、生き動き存在しているのです。
 イエス様が私たちのうちに生きている事こそ、すべてのことへの準備につながるのではないでしょうか。アーメン! (た) 
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by mitiru-takae | 2018-01-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.271 <主の年2018年>新年を感謝します 2018.1.7

<主の年2018年>新年を感謝します

主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。<詩篇37:4>

 あけましておめでとうございます。
 父が天に召されて6回目のお正月を迎えます。

 無謀にも「父がやっていたことはすべてやりたい」と思い、まるで自分の首を絞めるようにして(笑)、慣例になっていたすべての集会を早天祈祷会だけを残してやってきました。
 ところがもう3年目になるでしょうか、早天祈祷会まで、高砂教会の手束先生のお言葉に信徒の皆さんが触発されはじまったのです。

 それまでは自分の意志で「頑張ろう!」の気持ちが強かったことは否めませんでしたが、この早天祈祷会だけは私の思いが付いていったような形となりました。
 祈祷会と名がついていますので、もちろん朝の祈りなのですが、私の思いは、少し違っていました。祈祷会だけれどもその中で、「礼拝をしたい」と思っていたのです。

 多分それで、朝の集会は、「祈祷会なのか、礼拝なのか」何と呼んでいいかわからないという方もいたと思います。
 全体は早天祈祷会です。しかしその中で、み言葉、賛美、祈り、時間をささげるという、「主のみ前に心静まって座る礼拝の時」を大切にしたいと思ったわけです。

 というわけで、天の神なる父と私たちの教会の父は、今の教会を見て、喜んでくださっているでしょうか、笑っているでしょうか。とにかくここまでこれたことは、それだけで、私には奇跡のように思えます。

 新しい年を迎えて、心新たに、主と共に歩みたいと思います。

 上のみ言葉は、今年の【指標聖句】です。
 今年は父の小冊子「心の強化法」と「笑えば必ず幸福になる」の根元から学びなおし、学ねていきたいと思っています。

 「笑い」は時、場所によっては顰蹙(ひんしゅく)を買うこともありますが、所かまわず、笑い転げるということでもないのです。
 私の魂に向かって、私自身が喜べと口を開くことができるか否かが重要です。

 「私の魂よ!喜べ」と言えないほどの苦しみのなかにいる時に、笑うことなど、心の中でもできないと思うとき、このような時こそ、テストしてほしいと思います。

「私の魂よ、主によって喜びをなせ」
「私の心の願いを知ってくださる主よ、感謝します。今この時こそ、私に喜びをください」

 いろいろと理屈を言う前に、口角を指で突き上げてでも、笑うしぐさをして喜べばいいのです。信仰とは楽しくて、単純です。
 実は難しい人には、神様は難問題を出すのです。(笑)
 単純な人になりたいですね。
  この時、私の願いは必ずかなうというのですから。
 
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。<ピリピ 2:13>

 主は私たちのうちに願いを起こしてくださるお方です。
 つらい時は何もしたくありません。
 痛いときは祈ることさえできません。
 聖書も信仰もほうり投げたいほど打ちのめされて心が怒りでみちている。
 怒りも求めもなくなってしまった。心が動かない。

 こんな時私たちが自分の心に向かって「孝枝よ、起きて床を取り上げて歩きなさい」「喜びなさい」「笑いなさい」と、言わせてくださるのは聖霊様です。
 「聖霊様のお言葉に果たして従えるか」にかかっています。

 さあ、子供に帰って笑いましょう。主の喜びが付いてきますよ。(た)
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by mitiru-takae | 2018-01-23 14:22 | 満ちる | Comments(0)