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No.259 秋の信徒一泊セミナー 2017.10.15

秋の信徒一泊セミナー

「正月の元日にあなたは会見の天幕なる幕屋を建てなければならない。
そして、その中にあかしの箱を置き、垂幕で、箱を隔て隠し、
また、机を携え入れ、それに並べるものを並べ、燭台を携え入れて、そのともしびをともさなければならない。
<出エジプト40:2~4>

 今年は父(故釘宮義人牧師)の召天(2012.10.5)第5周年記念日を迎えた。ということで、10月8日主日礼拝に永井明牧師(イエス・キリスト福音の群れ牧会長)を鳥栖より是非にとお招きした。
 永井明牧師は、父の記念日にはなくてはならぬ存在のお一人だ。

 父の葬儀の後、この年(2012年)は「秋の一泊セミナー」ができなかった。それどころではない、釘宮家の今後どころか目の前の方向も決まっていない、教会の進むべき道も見えていない状態であった。(だからと言って今見えているのかと言われると、言葉に窮すが・・・聖霊様のお導きの通りです、わっはっは!)

 ところが次の年の「春の信徒一泊セミナー」、そして「秋の信徒一泊セミナー」と、今回まで、休むことなく毎回、聖霊様に導かれている。
 そして、そのあるべき姿というか、セミナーの名が収まるところに導かれているような気がする。週一の聖書学習会、毎朝の早天祈祷会などが発展して、このセミナーに集約されて行っている感じである。
 そういう意味では、学びばかりではなく、祈祷会を週に一度はしたいなあというのも否めない(しかしマンネリ化するので、月に一度の祈り会をもっと充実させたい)。

 朝の礼拝には西宮市から前田ご夫妻がきてくださった。また礼拝から一泊してセミナーに残ってくださった東京からの滝澤伝道師、福岡からは渡辺姉妹と、それぞれ「あかし」をもってきてくださり感謝! 毎週の礼拝は離れていても、主にあって私たちはいつも一つの神の家族であり、なくてはならないキリストの肢体である。

 今回のテーマは「聖なる幕屋」であった。
 これは、今年8月に韓国から二人の牧師先生が「聖幕」の研修に来てくださった、その時の幕屋の写真が手元にあったので、この研修にでられなかった皆さんにも、見ていただきたいという気持ちからである。

 毎回思わせられることだが、プログラムの順序がいつも、聖霊様のお導きによって最適な形で与えられるということだ。つまり、賛美集会で何をテーマにするのか?、み言葉はどこを持ってくるのか?学習会形式にするとして、3回のセミナーの中の役割としての御言葉の箇所は?などなど・・・、まるで頭がごっちゃになりそうなのだが、いつもびっくりするほどのプログラムが与えられる。
 主は最高のプランナーである。

 今回教えられたことの一つに「あかし」ということばがある。
 まず幕屋を組み立て、あかしの箱を置き、それを守るかのように垂れ幕で隠した。
 ここで聖所と至聖所がしきられた。そして器具を配備し聖別する。幕屋は、移動式であるため、事細かに組み立て方の順序などが決められていたのであろう。勿論ここでも主は最高のプランナーであるから。
 「あかし」は普段「証し」として、聞くし、語ると思う。
 「『あかしの箱』を何で隠すのだろう」と渡辺姉が言った。「『あかし』」だから『明かされるもの』?」とせつこ姉、「だから普段は隠されている?」・・・
 「一人一人に明かされるものなんだ」、「沢山ある私たちに与えられた律法は神の言葉、しかし「あかしの箱」は、一人一人に明かされる主の特別なお言葉(レーマ)ではないか」つまりこれは奥義なんだ。旧約の時代は、大祭司だけが、この奥義を知ることができたのだ。今の私たちは・・・・なんと素晴らしい、私の心の中に、イエス様が隔てをなくしてくださった「幕屋」を持っている。(た)

そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。<出エジプト41:34>
あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
<Ⅰコリント3:16> 
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(釘宮義人牧師召天5年記念礼拝のようす)



















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by mitiru-takae | 2017-10-31 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.258 釘宮義人牧師 召天5周年 記念礼拝 2017.10.08

釘宮義人牧師 召天5周年 記念礼拝

 先日、「立木稠子・教会コンサート」に行くことができた。
 A姉妹が誘ってくださったおかげで、久しぶりに稠子先生にお会いすることができたのだが、つい昨日まで会っていた仲のように親しく接してくださり、とても嬉しく思った次第だ。

 立木稠子先生のお父様はかの立木元大分県知事である。
 戦後間もないころ、立木(元県知事)氏は、当時の福祉課の課長であったか、父の大分駅前の戦災孤児を集めての今でいうボランティアをとてもよく助けてくださったようだ。戦後の大分市の児童福祉は立木(元県知事)氏、そして父(釘宮義人師)らの手によって、ここから始まったといっても過言ではなかろう。
 
 今回の稠子先生のコンサートでは、グレゴリオ聖歌に加えて、み言葉の朗誦という、試みをやってのけてくださっていて、それも詩的な文章である詩編はともかくも、ヨハネによる福音書1章という、普通に聖書のお言葉を読むではなく歌うという、とても嬉しい珍しいものであった。

 おりしも会場となった日本キリスト教団別府野口教会は、明治のころにできた古い教会で、木造の建物の中で奏でるグレゴリオ聖歌や朗誦は、柱や壁の一つ一つが歌声に応えているかのような感じさえして良いものだ(ちょっと偉そうだが…稠子先生もそのようにおっしゃっていたようだ)。

 「幼児期、この近くに住んでいた父も、この教会に通っていたのだろうか…」と建造100年と言われる不老町教会などと並んで、別府市にある古い教会堂は、父の幼児期の姿を垣間見るかのようで、変に懐かしい。

 この父(釘宮義人師)が天に帰ってもう5年になる。
 永井明先生のおかげで、今もこの教会は日岡に立(建)っている。わたしが跡を継ぐ決心を促されたのも、永井明先生という、頼りになる強い後ろ盾があったればこそだ。

 それは、この世的な方法論だけでなく魂と、霊においての良き指導者として、先生が私の目の前にいてくださったので、ここまで進んでこれたのである。
 
 5年という一区切りの年を迎えて、これからの聖霊様のお導きと、方向付けを、きっちり聞き分けていきたいと願っている。

 無我夢中の一年間、さらに「勉強不足だ」と学びに明け暮れた二年目と言い、ここまで来るにはやはり、人並みに「大変」だったわけであるが、それにしても楽しかった。

 「ラブ・ソナタ」以来、入院、手術、薬漬け・・・と、体調不良が続き、それでも、楽しんできた。今は薬の副作用(主が処方する聖霊薬のみの日が早く実現するように祈る)か、声がよく出ないが、それでも楽しんでいる。
 なんだか、とても毎日が幸せなのだ。
 父の「わっはっは!」の声と顔が、いつも横にある。
 これが今の私の「元気の素」らしい・・・。

<詩編121篇1~8>
都もうでの歌
わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。
わが助けは、天と地を造られた主から来る。
主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。
見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。
主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。
昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。
主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。
主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。

 これからも主の山を仰ぎつつ、私の助け主を信じ前進していきたい。
 私のエネルギーのもとは父の「わっはっは」、そしてその大元は、イエス様ご自身の「わっはっは」と笑う、豪傑のような神の力強さだ。安心して行ける!

 父召天5周年を感謝!
ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ! (た)
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by mitiru-takae | 2017-10-31 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.257 信仰の成長/雨 2017.10.01

信仰の成長

 父(釘宮義人)が召天(2012.10.5)して5年目が来ようとしています。
 教会の昼食会で愛餐の時を過ごす時、フッと思い出します。皆の顔を見て「何の話をしてるのかな」という声、続いて「信仰の話をしてるかな?」と、割り込んでくる父の姿。
 すり足の、「ザーッ、ズーッ」という音に、「ああ、年を取ったなあ」と思っていました。しかし今考えてみると、本当に元気の良い老人でした。今の私たちの方が、よほど老いて感じられるくらいです。
 父は旅行などにでると、特に元気になり私たちを驚かせてくれました。
 私は?というと、まあ、頑張ってはいますが、一人になると、「ハッ~、フ~」ですね。
 同じ年齢に達せば、この私でも少しは親のことがわかってきます。
 しかし、子供のころはというと、大人の言動をあまり理解できません。私も親の言うことを自分の思いの中だけで判断し、自分にとって都合の良い善悪を規範の前提としてきたように感じます。

愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。<エペソ4:15>

 信仰も成長すれば、知るべきことが次第にはっきりしてきます。
 教会の頭はイエス・キリストです。いつもイエス様につながっているならば、わたしたちもイエス様と同じ実を実らせることができます。それは、決して自分の栄光ではなく、イエス様という幹に流れる命によって、イエス様の実と同じもの実らせることができるということです。これこそが、「真理の実」なるイエス様の「愛」です。

兄弟たちよ。わたしたちは、いつもあなたがたのことを神に感謝せずにはおられない。またそうするのが当然である。それは、あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたひとりびとりの愛が、お互の間に増し加わっているからである。 <第二テサロニケ1:3>

わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。 <第一コリント3:6>

父なる神の愛によって大切に育てられた私たちを、神は「愛する子」、「わたしの宝」と言ってくださいます。 私たちは、この父の心を知るものとなりたいのです。(た)



我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」 <ホセア6:3>
 
 「今日(9月27日)は三重町に行こう」と私は張り切っていたのですが、雨が降り出してきましたので、つい「ひどく降らねばいいが…」と思い少し運転のことを心配しました。
 清川町というところから、1時間もかけて毎週2回、教会に来てくださる姉妹がいます。
 弟もこの近くの三重町から毎週、よほどのことがない限り、主日礼拝、学習会と週に2回、来てくれています。
 一年に一度も行くかどうかという私が、少々の雨で気落ちするのは、今日はとても、申し訳ない気がしました。
 そこで「雨の訪れ」ということを喜ぼうと、この聖句の賛美を歌いました。
 「そうか、イエス様は私を訪れてくださるんだ」
 四季のある日本でも、春と秋の雨は季節の訪れを告げてくれる大切な雨です。
 一雨ごとに、温かくなったり、寒くなったりする、そして私たちは。だんだんと次の季節の暮らしや働きの心の準備を始められるのです。
 「そうか、雨は私に時を教えるため、訪れてくれているんだ」
 
恵みの業をもたらす種を蒔け愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて恵みの雨を注いでくださるように。 <ホセア10:12>

 「恵みの雨」は、私たちの心も体も潤してくださいます。
 それどころか今からイエス様に出会うかもしれない人々の心にも訪れてくださいます。
 どうか主よ、全世界の人々に恵みの雨が注がれますように。(た)
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by mitiru-takae | 2017-10-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)