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No.256 ファミリーギャザリングin美浜(少年自然の家) 2017.9.24

ファミリーギャザリングin美浜(少年自然の家)

台風タリム

 タリムという名の台風が日本列島を縦断しようとしているその時、日本中に散らされている神の家族がまさに日本の中部に集まった(会場の美浜少年自然の家は、知多半島の中部国際空港より南へ1時間)。

 タリムという名は、フィリピンでつけられたそうだが、台風の名としては、珍しいものだそうだ。普通人々に災害をもたらす台風には、ちょっと小馬鹿にしたような弱そうな名をつけるのが一般的であるのに対し、このタリムというのは「鋭い剣」という強そうな意味だそうで、びっくり!した。
 沖縄から来たとりなし隊の皆さんは聖会の前日から来ていたそうなので、台風を乗り越えて名古屋にフライトしたかたちだ。 しかしそのあと来た先生方は二日目の午後にしか来ることができなかった。
 私たち大分勢も、飛行機が55分遅れた。しかし、このことを前夜に知った私たち二人は、ゆっくり出発することができて、とても感謝だった。おまけにお詫びに「ミール券」がわりの「現金1000円」をいただいたのだ。
 なにかと、私たちに災いをもたらす台風ではあるが、今回のギャザリングに対しては、なかなか意味のあるものであったようだ。

 今回はファミリーギャザリングとして互いに「おかえりなさい」の挨拶をかわし、始まった。
 もともと外科医であったデミアン先生はこのように言った。
 「私たちの中部にある心臓にはメスが入れられねばならない。そのための剣という名の台風は象徴的だ。剣は両刃が立たなければならない。この両刃とは、公義(審判)と愛(救い)だ。」
 特に、「家族の役割の回復」が起こる。その象徴として、今回の剣の名を持つ台風は、まるで、約束の地(カナン)に入る前のイスラエルの民の割礼のための剣の様でもある。今日を限りに、もう一度主と結ばれるための再献身であるとも語られた。


悔い改めと一致の時

あなたは立ってシオンをあわれまれるでしょう。これはシオンを恵まれる時であり、定まった時が来たからです。<詩編102:13>

 今回のギャザリングは「日本基督教会名古屋華人之家」の大きな支えによって実現したといってよいと思う。私たちは、いつもお客様でいるのが申し訳ないところだが、実際何もできないので、参加する事に精いっぱい気持ちを押し込めている。
 その影響であろう、中国人の皆さんが結構多かった。中国、韓国、日本、そして、白人系の宣教師の先生方や兄弟姉妹などが、言葉も習慣も入り混じり、国際色豊かな聖会である。
 ハワイからいつも来てくださるディーン先生が今回奥様同伴で来られた。またデミアン先生はアラブ人で、今カナダに住んでおられる。
 韓国人の先生方などは家族がそろって、日本のため働いている方が多い。日本の村上先生に似た気性の韓国の牧師先生も又、教会メンバーとともに日本に来てくださった。
 賛美もプロと変わらないくらいの素晴らしい技術を持った方々、企画面も優秀な能力を持った方たち、通訳、祈り・とりなし隊…などなど、そして、参加することに意味を持つ我々(笑)…なんとすごい渦のような神の家族が一つとなる。
 これこそがギャザリングであろう。そしてこの渦の中心が、聖霊様である。

 賛美の中で皆が悔い改めの時を余儀なくされる。そこからまた立ち上がる。
 「今」、「今でなくていつなんだ」という主の時が満ちて、悔い改めた聖徒たちの祈りも満ち、新しいユダヤの年5778年を迎える。
 日本時間で9月19日(ティシュリ第1日目)の日没からだ。聖書的には天地創造から5778年目に入る。(捕囚期間250年は含まれていないらしい、実際は6028年ということですかね)
 この日、夜はキャンプファイヤー、そしてそこで聖餐式が行われた。総勢約400人以上の聖餐式。このようなことは、この先もないだろうというくらいの大規模な聖餐式であった。
 なんと素晴らしい家族だろう。神の兄弟姉妹が一つとなるのはなんと素晴らしいのだろう。(た)
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by mitiru-takae | 2017-09-30 23:02 | 満ちる | Comments(0)

No.255 信仰 2017.9.17

信 仰

ひとたびは死にし身も  讃美歌532番

1.一度(ひとたび)は死にし身も 主によりて今生きぬ
 御栄(みさか)えの輝きに 罪の雲 消えにけり
 (折り返し) 
  昼となく、夜となく、主の愛に守られて
  いつか主に結ばれつ 世にはなき交わりよ

2.主の受けぬ試みも 主の知らぬ悲しみも
 現世(うつしよ)にあらじかし
  いずこにも御跡(みあと)見ゆ

3.昼となく、夜となく、主はともにましませば
 癒(いや)されぬ病(やまい)なく
 幸(さち)ならぬ禍(まが)もなし

 父(釘宮義人牧師)はこの讃美歌がとても好きでした。
 母が入院中、また施設にあずかってもらっていた時、よく父は、母のそばで、この讃美歌をうたっていました。

 何時だったか、母が入院していた時、二人で病室のベッドの横で讃美歌をうたった時のことです。 
 ぽつんと「孝枝、禍(まが)も幸なんだね」といいました。何度か聞いたことがあることばでした。

 この讃美歌の歌詞については、何度も何度も聞いたと思うのです。
 目と目で見つめ合うことくらいしかできない、ベッドの上の母を前に、私たちには何も言わないが、父の心は少し寂しかったのかな?と思いました。

 しかし違うのです。
 「幸なんだよ」
 「禍(不幸を起こす原因、災難、悪い事柄)は幸なんだよ」
 というのです。
 
 父は、「今幸せだ」と言って母に向き合いながら「わっはっは」と笑いました。

 「主が私と共にいてくださるということが、最高の幸せなんだ。禍(まが)だろうと、幸だろうと、天地が崩れ落ちようと、幸いなんだよ」
(もちろん反論はあります。具合の悪いのは自分ではないので…笑・・・しかし多分、父自身が病で倒れていても、同じことを言ったと思います)
 
 まるで禅宗のお坊さんかと思わせるような、父の「ことば」は不思議にストンと心に落ちます。この時私は「父の信仰は本物なんだわ」と再度思わせられるのです。

わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 <マタイ5:11>

耳から入ってくる「ことば」を、心の食べ物だとします。
 迫害のうわさや、さまざまな悪口という食べ物は、私たちの心を病気にします。

 しかし、それは私たちがそう思っているだけで、聖書は「幸い」と言っています。 この時、実はこの「幸い」は条件付きなのです。

 「私(イエス様)のために」、「義のために」、迫害を受けたり、悪口を言われたりしたときという条件です。つまり、イエス様が共にいなければ、「禍」はやはり「禍」です。「毒」は「毒」のままなのです。

 悪を善に変え、罪を義に変える、また毒を薬に変えるのは、私たちを愛してくださる全能の父なる神のなさる業です。

 このお方に従うならば、この試練の多い世の中でも、幸せに生きることができるのです。「悪いおとずれ」が来ても、恐れず、「良きおとずれ」を、見出すことができるのです。

 イエス様を信じぬくと、イエス様の信仰を通して働くものを見ることになります。
 私の座っていた場所でなく、イエス様が座っておられる場所に、気が付くと、移動しているのです。視座そのものが変えられているのです。
 父はそこに座っていたのですね。びっくり!(た)
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by mitiru-takae | 2017-09-30 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.254 わき腹をつついて 2017.9.10

わき腹をつついて

すると、突然、主の使がそばに立ち、光が獄内を照した。そして御使はペテロのわき腹をつついて起し、「早く起きあがりなさい」と言った。すると鎖が彼の両手から、はずれ落ちた。<使徒12:7>

 ヘロデ王は、ユダヤ人たちに取り入ろうと、ユダヤ人たちが嫌うペテロを獄に入れ、厳重に鎖でつなぎ、見張りを付けていました。

 ところが、大変な事件が起こってしまいました。
 朝起きてみると、あんなに厳重に鎖を付け見張っていたペテロがいません。逃げられるはずもない牢獄から、ペテロの姿は影も形もなくなっていたのです。
 それどころか、いくら探してもどこにもいません、見つけられないのです。

 面子丸つぶれのヘロデ王は、カンカンに起こって、見張りの兵隊たちを皆、殺してしまいました。
 最後には、このヘロデ王は、あまりに民の前で威張りすぎ、神様の怒りをかってしまいます。
 そしてついに毒虫にかまれて死んでしまうと言うのです。

 子供が喜びそうなお話です。
 ペテロが逃げるところなどは胸がスーッとします。

 しかし、この記事を読んでいくと、「なんてリアルな話なんだろう」と感じます。
 ペテロは、何度もこのことをみんなに話して聞かせたでしょう。
 この記事を書いたルカも、この話をペテロから直接聞き、また、ほかのお弟子さんや、 姉妹たちに「あの時はな~…」と、何度も聞いたり話したりしたのだろうと想像します。

  「わき腹をつついて…」
  「すると鎖が彼の両手から、外れ落ち…」
  「帯を締め…靴をはき…」
  「上着を着て、ついてきなさい」

 これらの言葉は牢獄の中で、み使いが言い、そこで起こっていることですから、まるでお話のようです。ペテロでさえ、「幻」と思うほどの不思議なことが起きているのです。

 しかしこの話は、幻とは思えないほど、起ったことをはっきりとかいています。

 聖書の中には多くの信じられないような奇跡の記事がたくさん出てきますが、おかしいと疑われたり、笑われたり、たとえ信じてもらえなくても、当事者にとっては、疑いようがない事実なのです。
 
すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」。<ヨハネ9:25>

 この不思議な出来事も、私たちの日ごとに起こる、信仰的な状況として見てみると、いろいろなことがわかってきます。

 この三重の苦しみの中でも、神様は私たちを助け出すために、イエス様を遣わして下さいます。

 私をがんじがらめに縛っていた鎖は両方の手から外れ落ち、いつも私たちを横から攻めてくる悪しき者の間を難なく離れ、獄の戸の門は地上のカギではなく、イエス・キリストの持つすべてをあけることのできるカギで開かれ、私たちが見ればまるで、ひとりでに開いたように見える門を通って、解放に至るのです。

 最後に私たちを励ますイエス様の「今も生きているお言葉」です。
 「イエス様から頂く上着」を着ると、「さあ、でかけよう!」というイエス様の掛け声に押し出され、私たちは助けられました。

 次は助けるお手伝いをしましょう。
 私たちの教会は生きています。イエス様のお言葉が生きている教会だからです。
 奇跡を信じ期待し、イエス・キリストの福音を伝えに出ていきます。
 今日も出かけていきます。アーメン! (た)
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by mitiru-takae | 2017-09-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.253 主の大庭に入れ 2017.9.3

主の大庭に入れ

聖歌隊の指揮者によってギテトのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌
万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。
わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。 <詩編84:1、2>

 日本の一戸建ての家では、なかなか大きな、広い庭は、望めません。
 よく見るのは、家の玄関先に植わった小さな花たち。
 またプランターを押し広げるようにして、咲き誇る花たち。
 鉢に植わった観葉植物が並んだ庭。

 神様の庭はどんな庭なのでしょう。
 この賛美を、ソロモンの神殿の前で歌うとします。それはそれは素晴らしい、美しく大きな神殿です。

 「とても麗しい。
 私の魂が喜び慕うほどの、素晴らしい、大庭。」

 と、歌詞通りの大庭を、自分たちの目で見て、美しさによいしれるかもしれませんね。 

 しかし、考えてみると神様がお創りになった大庭は、この地球、全宇宙の中に満ちています。

 大庭と書かれた素晴らしい場所を、私たちは神様の無限の世界と考えてみますと、私たちにとっての神の大庭は、恋い慕うばかりではなく、今、すでに私が立っているところであることを知ることが大切かと思います。

 慕っても慕っても手に入らない馬の目の前にぶら下がったニンジンのようであっては、嬉しくはありません。食べてこそ本当の力がみなぎり、走ることができます。
 
 私たちの心は既に、「神様の大庭に入っている」のであるし、また、私たちの魂の中の無限の場所では、「神様の素晴らしい大庭が広がっている」ということでもあるのです。
 だから、嬉しいのです。全身全霊が、喜んでいるのですね。

 いま立っているところで、主をほめたたえましょう。
 神の大庭に入るということは、「私の罪があがなわれ、清められ、神の前に立つことができる」ということです。

 先日の聖なる幕屋のお話の中で、旧約の時代は、「とばり」を入って動物に自分の罪を移してしまうところまでは、だれでもはいれます。しかしその向こうにある洗盤を通って聖所、至聖所にまでいけるのは祭司長のみですと言っていました。

 ところが今では、イエス・キリストが大祭司の役目を、十字架の上でたった一度で、終わらせてくださいました。

 私たちにとって、聖所、至聖所のある幕屋は、本当に素晴らしい、神の大庭になっています。まるでエデンの園ですね。

 イエス・キリストを信じ、新しく生まれ変わったものは、毎日、「神の大庭」で過ごすことができるのです。

あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。 <詩編84:10>

 この詩編の詩の作者は、このような素晴らしいところに居ながらも、謙遜を忘れません。実はこの門守という言葉ですが、原語ではただの「門に立つ」という意味だそうです。

 門守は偉い人ですが、門の前に立つだけの番人ならば、卑しいものです。
 天国で一番卑しい者は(天国で卑しいなどという順位があるとは思えませんが…笑い・・・)地上で一番偉い人よりも、えらい人でしょう!わっはっは!

 今日も、私の心の中にあるイエス様の大庭に、大輪の花を咲かせたいと思います。
 そして、また多くの実を結び、イエス様と共に、大喜びしたいものです。(た)
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by mitiru-takae | 2017-09-27 10:35 | 満ちる | Comments(0)