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No.248 啐啄同時(そったくどうじ) 2017.7.30

啐啄同時(そったくどうじ) 

 弟子が、今まさに悟りを開こうとしているとき、期が熟したと感じた禅の師匠が、弟子に声をかけます。

 例えば、「お~い!桶だぞ!」  「・・・」
 ではなく、「お~い、桶だぞ」 「はい、桶です!」

 絶妙なタイミングで発した師匠の声によって、弟子の心がその声にピタッと合い、悟りを得るわけです。言葉の内容ではなく、その時の弟子が即、悟り、又は気づかねば、返答できないことなのでしょう。

 いまにも生まれそうな雛が、卵の中から殻をつつく音がします。これが「ソク」らしいですね。

 その時、親鳥はすかさず、外からも殻を破る手伝いをして殻をコツコツとつつくのですが、このことを「タク」と言うのだそうです。

 禅語の教本にはいろいろなことが書かれているのでしょうが、全体はわからずとも、一つ、私の心を揺さぶるのは、この「ソク」と「タク」が同時でないと、命も危ないという、まさに絶妙な命(悟り)の生まれる瞬間だということです。

 禅語で言われる「啐啄(そったく)同時」のことはよく父が言っていたのを、思い出しますが、このタイミングが合う合わないは、神様のなさる領域です。

生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 <伝道の書3:2>

神のなされることは皆その時にかなって美しい。<伝道の書3:11>

 聖霊様は、いつも絶妙なタイミングで、私たちに語り掛けてきます。

 この地上では、すべての命が生まれるのに神様の素晴らしいタイミングがあります。

 同じように、何かが起こるときも、大なり小なり、喜びも、悲しみも、苦しみでさえも、神様の息のかかってないことは何一つ起こらないということです。

 神様の「ことば」にわたしたちの「こころ」はすぐに「はい」と答えることができるでしょうか。

御霊がピリポに「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。<使徒8:29>

 ここに出てくるピリポは使徒ではなく、伝道者ピリポと言われる、ステパノと同じく執事として選ばれたピリポのことです。

 使徒であれ、執事であれ、弟子であれ、御霊に従うことが、神様のタイミングに合わせられる一番の条件です。

道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。<使徒8:36>

 真理を本当に求めていたエチオピアの国の宦官は、ピリポと引き合わせられることで、イエス様と出会い、また、バプテスマのための水まで用意していただきました。

 こうしてイエス様の福音は、この宦官によってエチオピアの国まで拡がっていったのでしょうね。 
 このお膳立ての良さはどうでしょう。

 神様のご計画には、「啐啄(そったく)同時」の業がいたる所にあり、その御業はいつも最高のタイミングなのです。

 私たちがいつも「イエス・キリスト (御国)」を求めるならば、最高のタイミングですべてのものが与えられると言う、こんな祝福がどこにあるでしょうか。

 イエス様を救い主と信じる者こそ、この祝福にあずかるものです。(た)
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by mitiru-takae | 2017-07-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.247 命の水を汲む 2017.7.23

命の水を汲む

 去る7月17日(月・祝日)、別府フルゴスペルチャーチにおいて、地方版大分ローカギャザリングが開かれました。
 まず、先日台湾での聖会に参加した橋本先生から(永野先生もご一緒でした)写真を見ながら台湾でのリバイバルの状態を話していただきました。
 日本でも、大分でも、燃え上がる炎を必ず見ると確信して祈りました。

 午後になってキリストの福音大分教会の賛美がはじまりました。今回はうちの教会からも10人の兄弟姉妹が参加してくださったのですから、嬉しくて叫び声が出てしまいそうでした。最近は他教会でのイベントの参加も増えてきています。

 G姉妹がリードする「パッパッパ パラダイス」の賛美に乗せて、E姉妹が飛び出して踊り始めると、次は会場中で手を振り、腰を振り、聖霊様リードの踊りが始まりました。

 なんとこの賛美は、延々と続き、 私たちは、いつものことで「これぞわが教会の賛美だ」という思いで賛美していましたが、なんと周りも結構本気で、会場内はパラダイスと化していました(笑)。
 笑いに包まれ、私たちの中にある天国を満喫し、素晴らしい賛美の時をすごしました。
 聖霊様は、私たちをどこまで喜ばせてくださるんだろう! ハレルヤ!

 「天国が私のところに来るというのがクリスチャンにとって一番の祝福」と語った、佐々木拓也先生を思い出しますが、本当に今のうちの教会にとってはタイムリーで、このパラダイスの賛美といい、私の中に生きてくださるイエス様に、心から「ありがとう」と感謝の思いに浸らせていただくこの頃が、とてもすばらしいのですね。

 もう一つ踊った賛美と言えば「マイムマイム」です。これはイスラエルの歌で「喜びをもって水を汲む」という意味ですが、よくフォークダンスをする曲です。
 7月に入ってこの地方版大分ローカルギャザリングのために与えられていたみ言葉がありました。

あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ。<イザヤ12:3>

 初めて、大分でローカルギャザリングが開かれたとき、いろいろな先生方から、大分や日本に関する預言や幻が語られました。
 このギャザリングは、ずっと前のことのように思っていましたが、つい昨年の確か9月のことです。

 この日、「天の窓が開き、そこから大きなドリルが降りてきて、大分にあるキリシタンの信仰の井戸を覆う重く硬い鋼鉄のようなふたを砕き、イエスキリストの血潮がドリルを伝ってこの地を聖め、波紋のように広がってこの地を潤し解放する」という預言を受け取っています。この預言にはまだ先があり、「この後、聖霊の油がドリルをつたって溢れ流れすべてを覆う」というのです。

 イエス様は私たちを呼んでいます。「乾く者はだれでも、私のところに来て飲むがよい」と。私たちは喜びの声を上げて、このイエス・キリストご自身である「救いの井戸」に、水を汲みに走って行きましょう。
 イエス様に立ち返り、イエス様と共にいるところ、この場所こそがパラダイス(天国)です!(た)
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by mitiru-takae | 2017-07-29 08:11 | 満ちる | Comments(0)

No.246 御国を求める/神の国の恵みと哀れみ 2017.7.16

御国を求める

だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
<マタイ6:9~14>

 「ワーシップセミナー」(於大分カルバリチャーチ)が7月7日夜開かれました。

 エレベートチャーチ牧師佐々木拓也、キース・バンクス(ワーシップドラマー)の両師が招かれました。
 ヨシュア世代と言われる若い牧師先生達の情熱的でかつスマートなメッセージには引き込まれてしまいます。
 キース先生の預言的なドラムを交えての賛美もさることながら、この夜の先生方のお話はとても新鮮でした。
 
 「クリスチャンにとって一番の祝福は何でしょうか?」

 「天国に行くことです」 

 「そうです、その通りです!」
 「でも一番ではありません」
 「一番は、神の国が私のところに来ることです」

 「あ、そうか」

 今、私たちの教会では「生きた内在の主」を「パッパッパ パラダイス」という賛美で告白しています。 「天国は私の心の中にある」ですね。
 
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 <マタイ6:33>

 私の心の中に神の国が来ますように!

 イエス様は主の祈りで、私たちが本当に求めなくてはならないことを教えてくださいました。

 御国を求めるとは、イエス・キリストを私のうちに求めることです。

 私の中に神の国が来るならば、私たちは必要なものも、癒しも、幸福もすべて添えて与えられるという素晴らしいプレゼントが付いているのですね。

 この地上のどんな付加価値にも勝るものです。(た)


神の国の恵みと哀れみ

自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。<マタイ20:14>

 朝から働いても1デナリ、終わりのころにやとわれても同じ1デナリ、「この賃金は不当ではないか」と、労働者は文句を言いました。

 仕事がすぐ見つかった人は、賃金をもらえることが決まっているので、早く仕事につけた人ほど早くから安心です。それに比べ一日中仕事がなくてあきらめていた人は、一日中不安であったに違いありません。

 神様は、労働者との1デナリの約束をそれぞれに守ったように、すべての人に神様との約束を守り実行します。

 そして、終わりになってやっと仕事をもらえた人には、時間がなくて何一つできなかったとしても、恵みと哀れみを1デナリの形にしてくださいます。(た)
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by mitiru-takae | 2017-07-22 08:43 | 満ちる | Comments(0)

No.245 辱められるに値する者/牢獄からの脱出 2017.7.9

辱められるに値する者

主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。 そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。<使徒4:29、30>

 使徒たちは「みことばを大胆に語らせてください」と祈りましたが、それだけではありません。
 「イエスの名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください」
と祈りました。そしてそれは見事に聞かれました。

 私たちは得てして、祈らず求めていないことが多いと思いますが、いかがでしょうか。

 「祈ったとたん、私は街に出て行って、語らないといけないのではないか・・・。また、街頭でしるしと奇跡のミニストリーをしないといけないのだろうか。それは信徒のすることではなく、偉い伝道者の先生や、牧師のすることではないか」と、不信仰に思いが先走り、心が引いてしまうのです。
 そうすると、祈ることすらできなくなります。

 不信仰の思いは「罪」です。
 吹き飛ばしましょう。
 誰も「やれ!」と言わないうちから、できないと恐れてしまっていては先に進みません。
 こそっとでよいですから(笑)祈ってみましょう。
 ここが進まないととても次の御言葉に到達しません。

使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた。<使徒5:41>

 「恥を加えられるに足る者とされた」はまだいいとして、そのことを喜んだのですから、使徒たちの信仰が、とことん本物であるとわかります。

 人々の前で、イエスの聖名によって語り、しるしと不思議を見せた同じ人物が、次は鞭うたれるわけですから、「この世の誉、また恥」に対して何の価値も、屈辱も持たず、ただ御名のために受けたものに対して喜び、価値あることを感謝できるのですね。
 
 わたしたちの誇りは主イエス様、私の恥はサタンに屈することです。(た)


牢獄からの脱出

 人間(罪人)の手では開けることのできない牢獄に入れられたくはありません。しかし、以前、キリストに出会うまでは、私たちの魂は、牢獄につながれていました。

ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った、「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」。 <使徒5:19、20>

わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。<ヨハネ黙示 3:8>

 私たちの魂も、イエス様によって、たびたび牢獄から助け出されています。
 それは私が偉かったからでなく、力もたいしたことはなかったにもかかわらず、ただ「神の言葉を守り、イエスの名を否まなかった」からです。
 
私の父(故釘宮義人牧師)は、戦争中、「出版言論集会結社取締令違反」という罪で福岡の刑務所にとらわれていました。

 父の肉体こそ刑務所の中にとらわれていましたが、サタンに立ち向かう、その小さな心の中に、聖霊様は「回心」という形で、魂に大いなる自由と解放を与えてくださったのです。

 獄の戸は父の目の前で見事に開かれたのです。(た) 

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by mitiru-takae | 2017-07-12 11:32 | 満ちる | Comments(0)

No.244 主の守りの中で喜び、楽しめ 2017.7.2

主の守りの中で喜び、楽しめ

ダビデのミクタムの歌
神よ、わたしをお守りください。わたしはあなたに寄り頼みます。
あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。<詩編16:1、11>

 30年くらい前になるでしょうか。過換気の発作に耐えながら(この時は割と軽かったのですが)、「今は喜びも楽しみもないわたしだけど、それでもあなたに寄り頼む以外に道がないのです」とぼやきました。心を集中させるために、よく作詞作曲をしていましたが、この時できたこのみ言葉の賛美があります。

 今朝の早天祈祷会で、このダビデのミクタムの歌を皆で音読したとき当時を懐かしく思い出しました。ミクタムという言葉の意味はよくわかりませんが、詩編の中で、いつもダビデのミクタムと出てきます。
 ダビデにとってこのミクタムという賛美はダビデのその時の心の状態に合わせて、琴の音や、リズムに変化を付けたりと、特別のものであったのかもしれません。
 特に、このダビデの「もろもろの楽しみ」ということばは、主の権威のもとでしか得られない最高の守りの中で、生かされている喜びの表現だと感じます。
 「楽しいっ!」は最高ですね。

「あなたの心に喜びがありますか?」
 最近聞いている松岡先生の賛美テープの中での先生の呼びかけです。
 楽しい時は、すぐ「はい」と答えられます。しかし心がふさいでいるときは、そういうわけにはいきません。うつむきたくなります。そして自分がどうしてそうあるのかということを、自分に向かって言い訳します。

 心がふさいだり、辛かったり、怒ったり、それ自体は私たちは何も言い訳する必要がありません。事実ですし、私とは元来そういうものなのです。
 そのことが実は自分のせいではなく、こうだから、ああだからと言い訳し、自分を正当化するところが、サタンの思惑にはまる危険なところなのですね。

 ヨブ記を見てみますと、サタンの巧妙な手口が見えてきます。
 サタンはヨブを打つために、神様を相手に言いがかりをつけます。

主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。<ヨブ1:8>

サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。<ヨブ記1:9>

あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。<ヨブ記1:10>

 「神様はいつもヨブの周りにくまなく天使を配置して、これを守らせ、ヨブを祝福されたので、反映しているのですよ。ヨブが素晴らしいからではなく、あなたがそうしてあげているからではないですか。」
 サタンの言っていることはよくわかります。その通りですから。
 「自分の今持っている恵みと祝福が、どうして自分のものとして存在しているのか」、それは簡単です。神様が私たちの周りをくまなく見守り、見張り、祝福してくださっているからです。

 そのヨブならぬ私たちを、サタンはここぞとだましに来ます。
 私たちは自分の思いや行動にではなく、神様の思い、御心に従って告白する必要があります。
 「あなたの心に喜びがありますか?」
 と問いかけられたら、即座に「あるよ!」「あります!」「喜びでいっぱいです!」と、神様のお心に沿って返事をしたいものです。日ごろから、神様のお心を告白する訓練を小さなことから始めていくといいと思います。

 とげのような小さい「いいえ、つらい、嬉しくない・・・」などという感情に、だまされないようにしましょう。これは罪のゆえにサタンを受け入れてしまいがちな私たちの過去の思いです。
 今は違います。「見よ、すべてが新しくなった」のですから、私たちの心の中はパラダイスです。(た)
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by mitiru-takae | 2017-07-05 09:40 | 満ちる | Comments(0)