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No.230 神の奥義(おうぎ)/猫の耳 2017.3.26

神の奥義(おうぎ)

木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、その若枝は絶えることがない。<ヨブ記14:7>

 奥義(おうぎ)というと、究極の技という感じがして、凡人には巡り合う事がないもののように思えます。しかし神様がお創りになった私たちの世界を見渡してみると、天的な匠の業を見ることが出来るのです。

 神様が創られた自然の世界は、新しい命のために一つの命が死ぬという、死と命が神様の愛の帯でつながれた素晴らしい世界です。

 自然の中では死というのは決して、つらい苦しいものではありません。それは新しい命につながれていく過程の神様のなせる究極の業です。「死」という文字も、もともとは生きるものと死を結び併せたものらしいです。

 人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、すべての人に「死」が定まっていると聖書は言います。
 ですから人は罪によって「死」ぬ存在となってしまっているのです。

 このような死ぬ存在である私たちではありますが、実はイエス様を信じるだけで「死んでも生きる命」を永遠に持つことが出来るという、素晴らしい希望を持っているのです。

 イエス様は、「皆、私のところにきて命の水をのみなさい」といってくださっています。同じ何かをいただくなら、「死」さん(死は事象ではなく霊です)のところに行くよりも、イエス様のもとへ行って、永遠の命をいただいて生きたいですね。

罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。<ローマ6:23>

 私たちが絶望のどん底にあるときも、死んだほうがましだと思うときでさえも、 「死んでも生きる」ことを告げてくださるイエス様に望みを置くのです。 実に神の奥義は、私たちの魂を死から真の命に導く究極の業です。 


猫の耳

目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。<コロサイ4:2>

 私の目の前にあるカレンダーに猫の写真があります。眠りこけた地域猫の写真です。地域猫というのは、個人で飼っている猫たちとは違い特定の家があるわけでもなく、飼い主がいるわけでもないので、命の保証はどちらかというとありません。

 しかしその猫たちの眠りこけている様は見事にのんびりしています。猫はよく眠りこける動物だと思います(そんなところが大好きです)が、このカレンダーに書き込まれているジェーン・ポーリーという人の言葉がおもしろいのです。
 「眠りこけている猫を見ながら緊張感を抱ける人はいない」
 確かに、私はこの写真を見るたびに、心がほぐれるような気がしています。

 しかし、猫の耳を見ていると、眠っているはずの猫ですが、ダランとはしていないようです。まあ、そういう形状だと言えばそれまでなのですが、ちょっとでも物音がすると耳はその方向に動きます。
 猫はいつも仮眠状態で、熟睡はしないと聞いたことがありますが、果たしてそうなんでしょうか。長く猫と共に生活をしているとたまに、突っついても起きないことがあります。でもこれはほんとに「たまーに」ですね。
 猫の体は寝ていてだらーんとしていても、耳はいつもアンテナのように周りの状況を監視しています。そしていざとなるとすばやく行動することができるのです。 

 私たちも神様のお心にいつも敏感に過ごせるように、また、危険をいち早く察することが出来るように、聖霊様のアンテナを持たせていただきたいと思うのです。
 猫の耳ならぬ聖霊様のアンテナ(ちょっと猫と聖霊様とを一緒に並べては申し訳ないですが・・・笑)です。

 聖霊様は私が寝ているときでも、眼を覚まして働いてくださっています。満々感謝!(た)
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by mitiru-takae | 2017-03-29 13:53 | 満ちる | Comments(1)

No.229 重い荷物 2017.3.19

重い荷物

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。<マタイ11:28>

 重い荷物を抱えて坂道を歩いて登るのはとても大変です。
 それに比べて車に荷物を載せて、坂道を運転して登るのは簡単です。

 大分には吉四六(きっちょむ)ばなしという頓智(とんち)のきいた民話があります。この話の主人公の吉四六さんは大分県臼杵市の野津町に住んでいた人らしく、この町にお墓があるといわれています。もしかしたらキリシタンだったかもしれませんね。「吉四六さんの天登り」という話もあるくらいですから、きっとそうだと思います。大分市では、オペラ化もされましたし230にも上るたくさんのお話があるそうです。
 私の記憶は定かではないのですが、たしかこの吉四六さんの話だったかと思います。ほんとにバカバカしいような、「馬に乗る」という話です。
 簡単に話してみますとこうです。

 あるとき吉四六さんは重い薪の束を馬に乗せて坂を下っていました。途中で、重い荷物を背負ってヨタヨタしている馬がかわいそうになり、自分が薪を少し背負ってやることにしました。
 薪を背負った吉四六さんは、歩くのかと思いきや、その薪を背負ったまま馬にまたがりました。「どうだ、俺が薪を担いでいるぶん、馬よお前も少しは楽だろう」というわけです。

 いや、ほんとに吉四六さんの馬を思う気持ちはよくわかりますが、ちょっと、本気でわからないのか、わかって言っているのか?よくわからない話です。(笑)
 聖書の中で、イエス様が律法学者にこのように言っています。
 
また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。<マタイ23:4>

 吉四六さんは、せめて自分で荷物を担いでいるのですから、馬にしてみれば重さは変わらないでしょうが、馬を思う気持ちはあるのですね。

 どんなに幸せそうに見えていても、人は皆それぞれ、肉体的、精神的に、重荷と言えるものを持っています。
 この重荷は、大きさや中身の違いこそあれ、持ち主にとっては大変な荷物をしょっていると感じている方が多いものです。そして、その荷物は時々、もてないほどに重くなるものであったりもします。そのうえ、たちが悪いというか、どうもそれは人の荷物のような気がして、何故、自分がそれを持っているのかさえも分からず、腹が立つこともあります。

 さあ、いったいどうすれば、荷を軽くできて、腹もおさまるのでしょうか?疲れが癒されるのでしょうか?

 律法学者なら、すべてを人に負わせてしまうでしょう。
 吉四六さんなら、馬や奥さんに支えられたり、抱えられたりしてもらっているのにも気づかず、自分では「重い荷物やなあ」、「うん、俺は思いやりがある、人助けだ」などと思って、頑張っているのかもしれません。吉四六さんは基本良い人ですから。多分……。

 さてイエス様は、吉四六さんとも、律法学者とも違います。
 「私のところに来て休みなさい」
 重荷を持っていると気づかされた時、苦労で心が傷ついた時、イエス様は、私のところに来なさいと言ってくださいます。
 わたしに近づいてくるものは、律法学者のように、重荷を負わせに来る者かもしれません。あなたの重荷を背負わせてくださいと言ってくる者は吉四六さんの真似をしてあなたの荷物をもっと重くするのかもしれません。
 このようにサタンはいつも私たちの隙を伺い、私たちを重い鎖でつなごうとするかもしれません。しかし、私たちのイエス様は、「来なさい」と言われます。
他に目もくれず、耳も貸さず、ただ休ませてくださるイエス様のところに行かなければなりません。
 イエス様のところに行くのは簡単です。「イエス様、私の重荷を一緒に背負ってください、お任せします。」と祈ればよいのです。イエス様は最高の自動車ですね。 (た)
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by mitiru-takae | 2017-03-23 08:25 | 満ちる | Comments(0)

No.228 命の水が川々となって 2017.3.12

命の水が川々となって

しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。<ヨハネ4:14>

 今、私たちの教会でのトピックスは、主日礼拝や、その他の集会での兄弟姉妹方の祈りが、とても新鮮だということであろう。
 今まであまり人前で祈るのを見たことがない兄弟姉妹方の祈り、そしてもう一つは、メッセージ後の自発的に起こる祈りだ。

 この二つは、ここ何十年も、父が夢見ていた祈り(というと大げさに聞こえるが)ではないだろうかと思うほど、驚いてしまう。「メッセージ後に応答の祈りをしてほしい」とか、「賛美の中や、開会の祈りなど、司会者だけでなく誰か祈ってほしい」とか、牧師の側からお願いしたことは一度もない。しかるに、これがここ数か月実現しているということはほんとにびっくり、宮崎にある「なんじゃこら大福」を思い出してしまう。(笑)
 勿論、司会者の油注ぎによる知恵も大いにありで、感謝の一言である。

 生きた祈りは新鮮である。命の水が湧きあがり、吹き出すように流れ出て、私たちの心を癒してくれる聖霊様のエネルギーで満ち満ちている。
 いわば出来立てほやほや、主の臨在が見えるようで、「日々新しい証」を私たちに届けてくださる、聖霊様の御業が教会内で光っている、そのような今日この頃の教会だ。


 さて、3月7日から10日にかけて瀬戸内ローカルギャザリングが開かれたが、そのうち松山での二日間(7、8日)に行かせていただいた。この二日間の聖霊様のご臨在があまりにもすごくて、言葉では言い表せないくらいのものであった。

 一日目の第一セッションの時、橋本先生が四国松山についての預言の絵を披露し、証しをした。「神の統治」の宣言がなされた力強い預言だった。
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 実は、さる3月2日、瀬戸内ローカルギャザリングについての預言、幻をいただいた橋本守先生が、その絵を描いてほしいと下描きをした大きな画用紙を持っていらしたのだ。2枚の絵を早速描き上げたのだが、これを描かせていただいた私も恵みのおすそ分けをいただいて嬉しくて仕方がない。
 
 さらに、私にも与えられていた一つのビジョンが、このギャザリングの中で明らかになった。
 それは聖霊様による「癒しの流れの川」「井戸からあふれ出る命の水、それは人々の心を潤し、癒す」というものである。最近の私は、「ウィルスから病原菌に至るまで、宇宙のすべての被造物が癒されよ!」という宣言をするにいたっており、少し苦笑するくらいだ。

 「日本の大地よ!癒されよ!」と大声で叫びたい。
 それぞれの地域にある井戸から癒しの流れは、地を潤し、私たちの冷え切った心を潤し、癒し、解放して日本全土に広がっていく。そのような預言を与えられたのだ。これはまた、絵にできれば描きたいと思っている。

 とりあえず今回は、瀬戸内ギャザリングのために与えられた二枚の絵をここに載せる。(た)
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【四国について】右) 詩編95篇4節、イザヤ書2章2、3節
【広島、瀬戸内海について】左) ヨハネによる福音書19章34節、エゼキエル書47章9節
















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by mitiru-takae | 2017-03-17 09:01 | 満ちる | Comments(0)

No.227 種まく者に種を、食べる者にかてを/ 神が創られた全被造物のために 2017.3.5

種まく者に種を、食べる者にかてを

天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。<イザヤ55:10>

 ダビデの神殿建設のための準備は、すべて神からいただいたものをお返しすることから始まる。ダビデ王に倣ってイスラエルの民はこぞって捧げた。喜んで、自ら進んで捧げたのだ。
 私たちが、体も、心も、霊も、まことを尽くして神の前に出るとき、「もう何もない」と思いつつも、まだ捧げつくしていないと知る。いや、捧げるものはなくならないのだ。
 「はい、捧げます」といったとたん、天からの種は、とどまることなく私たちのうちに増え広がっていくのだ。
 しかし、ともすれば私たちは、「神からの答えがない」ように感じて、「はい」と言えなくなる。果たして神は本当に「沈黙」するのかと思ってしまうものだ。
 「舟の右側3月号」に高橋秀則先生の「沈黙」についての特別寄稿が載っていた。
 先生は、この文章の最後を「『沈黙』する神よりも『生ける神』の御業に期待しましょう」と結んでいた。(手島郁郎先生の門下生時代からの父の友人であった山本和萬先生は「活けるキリスト」という冊子を発行していた。私のうちに躍動する、生きて活き活きと働くキリストのことだ)
 確かに、私たちは「神が沈黙しているか、どこかに行ってしまっていないのか」と思うことがある。しかしそうではない。確かに私のうちに生きておられるイエス様が、私を宮として住んでくださっているのだ。
 がリラヤ湖における、あの嵐の船の中で、イエス様は確かに寝ておられた。しかし、恐怖におびえながらも、イエス様を起こす弟子たちの声を聴いて、すぐさま起きて風と波を叱ってくださった。
 「求めよ、さらば与えられん」は真理である。
 私たちも、私たちを宮としてくださる主のために準備をしていきたい。
 捧げつくしてもなお有り余る祝福をくださる主に、私たちは感謝して、神の宮建設のために自分が神より預かっているものを、お返ししていきたい。これは私たちの霊性における神の宮のことである。礼拝、賛美、祈り、奉仕すべてをおしまずお捧げしたい。
 次のみことばは、さすが神に愛されたダビデの言葉だ。素晴らしい。(た)
 しかしわれわれがこのように喜んでささげることができても、わたしは何者でしょう。わたしの民は何でしょう。すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです。 <歴代誌上29:14>
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神が創られた全被造物のために

 日曜日の朝、この日はインフルエンザに罹った兄弟姉妹方の礼拝欠席連絡が2、3件はいっていた。
 車を運転しながら、「主よ、人間に危害を加える、病原菌やウィルスをあなたはなぜお創りになったのですか?」とごく単純に思いながらお癒しを祈っていた。
 ところが、頭の中でガ~ンと、その思いを打ちのめすようなハンマーの音がした。
 「神が造られたものはすべて、はなはだ良かった」・・・・・・・・。
 私はいかに自己中心的な進化論に侵されていたのかと、ちょっとショックをうけた。
 ノアの箱舟の後、神は人間に食物として肉を食べることを許可してくださった。なのに私たちは、神の造られたものを、食べ、壊し、改造し、はたまた、地獄の扉からあってはならないものまで引き出し、その人間を犯す微生物や菌類、ウィルスまだまだ未知のものまでも、敵とみなして粛清する。そのような身勝手極まりない人間の姿に、わたしは気が付く。
 勿論、病気は癒してほしい、癒されたい。苦しみはいらない。それゆえ愛の神は、わたしたちに癒しをくださる。イエス様の名によって癒されるのだ。
 今、私たちが動物を殺して食べるように、被造物の中でもあるものにとっては人間を攻撃しなくてはならなくなったようだ。これはこの世に罪が入ってきた所以であろう。このような神の被造物にたいして、「人間だけが健康で病に侵されることなく楽しい人生をおくりたい」という身勝手な思いをほんのちょっとだけでも横に置いて祈りたい。
 たとえば癌細胞も、インフルエンザウィルスも細菌類も、すべての造られたものが本来生きる場所や、生きる世界に、また、生き方に戻れるように、彼らのエデンの園に解放されていくように・・・。
 「主よ、あなたの造られたものすべてが、うめきより解放され、平安に満たされるように、祝福で満ち溢れるように、まず私の罪をお赦しください」 アーメン! (た)









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by mitiru-takae | 2017-03-10 13:56 | 満ちる | Comments(0)