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No.226 無邪気に主を喜ぶ/義認と祝福 2017.2.26

無邪気に主を喜ぶ

また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。<使徒2:19>

 今は確かに終わりの時代、主の霊が注がれ、私たちはしるしと奇跡とを見せられる・・・そのような時に生きているということは凄いことだ。これから、ますます私たちは、神の声を聞かされ、聖霊の働きを、目の前に見せつけられるのであろう。畏れか、はたまた、恐れか、ワクワクか。
 このような心の動きは、とかくマンネリ化した信仰生活にくさびを打ってくれるものだ。
 毎日信心深く心地よい生活をして問題もなく、他人から嫌われもせず、自分も他人を攻撃することもない。適宜に聖書を読んで、素晴らしいと感動して、教会では進んで捧げ、奉仕をする。とても素晴らしい、クリスチャン生活である。
 わたしも、問題の多かった時分は、こういったクリスチャン生活がうらやましく、毎日温泉につかっているような平和な信仰生活をどれほど夢見たことか(笑)。しかし、私たちの平和主義の思いとは別に、主はとんでもないことをしてくださる。知らないふりが出来ないのだ。

 最近は小さな(いや決して小さくはないが)奇跡を見たり聞いたりする。
 「これは嘘だ!」、「今時、こんなことがあるわけがない」、「それは何かの見まちがい?」、「信仰とは関係がないでしょう」「なんとオカルトチックな」というような、声も無きにしも非ずで、クリスチャンであろうとなかろうと、あまりふれては回れないものだ。ふれて回るものでもないのであろうが・・・。
 とかく、不思議というものに対して人はあまり近寄りたくはないのであろうか、これは一種の恐れであろう。「信じていないにもかかわらず、幽霊は怖い」という恐怖心である。知らないものに対しては、やはり人間はおくてなのだ。
 
 最近私は本気で「自分は無邪気な人だなあ」と感心?している。
 どちらかというと、もう少し人を疑ってみたり、詮索したりして、他人様に対してもの言う時くらいは、もう少し気を付けた方がいいのかと思ってみたりもする。
 それでも、神の前では、喜び転げて踊りまくり、自分の妻に眉をひそめられるほどのダビデのように、やはり無邪気でいたいと思う。奇跡を喜びたいと思う。主を喜ぶことが、私たちに働く主の力そのものなのだ。(た)


義認と祝福

このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。 <ガラテヤ3:6>

聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。<ガラテヤ3:8>

 律法によらず、信仰によって私たち(異邦人)が神に義と認められる、ということを、初めから知っているお方は神だ。認めてくださる張本人だからである。凄いことはそのあとの言葉だ。「あなたによって、すべての国民は祝福される」この約束を、信仰によって私たちもいただけるということだ。
 「義」だとか「義と認められる」だとか、「義とされる」というと、とても難しい言葉に聞こえたりもする。
 父(釘宮義人)の「義」に対して持っていた信仰はすごかった。
 よく、「大きな声では言えないが(偉い先生方に叱られるかもしれないから)」といって、大声で言った(笑)「たとえ、たった今殺人を犯して、血の付いた包丁をもって立っている人がいたとしても、その人が悔い改めてイエス・キリストを信じるならば、即刻その罪は許される。神は悔いた魂をご自身の十字架の血潮で洗い清め、彼を義とみとめるのだ」と。
 確かに、この人の犯した罪は、この世では律法によって裁かれるであろう、死刑に処せられるかもしれない。しかし救われた魂は、天国なのである。
 この人は聖い魂をもって死刑を受け入れるであろう。今のISなどを見たりしていると、私たちは「そんなことは許せない、あってもならない」とさえ思う。しかしイエス様は違う。これは究極の赦しと祝福だ。(た)
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by mitiru-takae | 2017-02-28 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.225 神の創造と進化論 2017.2.19

神の創造と進化論

そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。<創世記2:19>

 日本では、カトリック系の学校でも進化論を教えているのかな?と思うが、キリスト教国家であるアメリカでは、たぶんある時から公立の学校で進化論を教えることを禁じたようである。がしかし、最近では、教師に教えるか否かの選択を任せているということを耳にしたことがある。
 人間の新発見や発明、科学どれをとっても目覚ましい、いや最近はめまぐるしく進んできている。
 ずいぶん昔から聖書については「古臭い、お話、ただの物語に過ぎない、こんなの信じるなんて、なんて古臭くて非科学的なんだ・・・」と、いわれたりもする。
 しかし考えてみよう。古代の人々にDNAだ、原子だ、またブラックホールや銀河系のような宇宙の話など、わかるはずもない。要は、聖書は人々のわかる範囲で示している。これは奥義をたとえで話してくださったイエス様のような霊と魂についての言葉とは違い、実際に人々の生活の中で、知られていることばによって、わかる形で書かれているのだ。

 そう考えてみると、聖書は凄い。
 詩編19篇では、「語らないのに響きは全地にあまねく」だとか、「その言葉は世界の果てにまで及ぶ」などと歌っている。今ならありうるであろうことを昔から告げて言うのだ。
 もちろん、目に見える現象、事象のことだけを言っているわけではないだろう。小宇宙でもある私の心の中に、魂の中に、神の言葉は隅から隅まで響き渡るのである。

 そんな聖書を見てみると、人間は、初めから人間で、神によって創られ、命を与えられたものであると、はっきり書いてある。何で作られたのかというと、当時最小と思われていたチリである。
 今は色々なことがわかってきているが、最小の物質が原子であろうがチリという呼び方であろうが、人体そのものでさえも、わたしたちにとってはわからないところだらけだ。
 つまり、どのように科学が発達し、大きな発見があったとしても、結局私たちには見ることが出来ない、知ることが出来ないものがある。このわからないものを突き詰めていくと、眼には見えない神の熱心、創造における神のエネルギーを思わざるを得ないところに到達するのである。
 科学、また哲学や宗教であっても、神は私たちにそういったモノを思う心を与えてくださっている。探求心をくださっている。それはアダムが世界のすべてのものに名をつけていったように、私たちもその名付け親の性質をいただいて、生まれてきている。

 ちょっときつい言い方かもしれないが、進化論は人に差別をもたらしたと言っても過言ではないと思う。これは、頂点に立ちたがる人たちによって優劣を付けることに利用されてきたに違いないと思うからだ。
 神は創ったものに優劣はつけなかった。全てのものが「はなはだ良かった」のである。
 ただ人間には、霊と命をくださった。これは神の愛によって人が特別な存在として造られた証拠であり、イエス・キリストの似姿そのものであった。他の被造物にもまして愛を持つものとして造られたのである。

 弱肉強食に真っ向から反対するならば、この世で一番強い神が、動物の中では一番力もないような弱い私たちのために死なれたということに行き着く。私の父の言うように強者は弱者のためにその命を捧げ得る。
 一方、弱者なる人間は動物の牙や、鋭い爪、猛毒、はたまた、地上におこる悪環境から逃れる知恵を与えられた。神の力はダビデ(少年)の石つぶてによってゴリアテ(巨人)をも打ち破ったのだ。これは弱いものに働く神のご計画の一例である。進化論では説明できない(と言っても私は学者の知識は持ち合わせていないが・・・)はずだ。神の世界はいつも逆説的だ。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 <創世記1:26>

 人間は男と女に造られた。互いに助け合うために造られた。この世が完全なものばかりで創られているとしたら、遊びのないハンドルのように世界は悲鳴を上げて亀裂を生じるであろう。(た)
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by mitiru-takae | 2017-02-22 15:27 | 満ちる | Comments(0)

No.224 私たちを愛するために来られた/人はどこからきてどこへ行くのか/二・二六事件の記事で父(くぎみやよしと)を思う 2017.2.12

私たちを愛するために来られた

そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。 すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 <マルコ1:10、11>

 イエス様が洗礼者ヨハネからバプテスマをお受けになり、ヨルダン川の水から上がるとすぐ、聖霊がイエス様めがけ下ってきた。それはあたかも放ったハトが自分のところへ戻ってくるように、目標を一寸も間違うことなく天から下ってきたのだ。
 その時イエス様は天の父なる神の声を聞いた。
 私たちは、イエス様と同じ体験をさせていただける。いやそれ以上のことを体験する。なぜなら、私たちの罪を、すべて背負って死んでくださったお方のお約束だからだ。
 それは、私たちの出来が良いわけではなく、神の子イエス様の死に値するほどの素晴らしいものでもない愚かな私たちであるが、ただ、「愛する子、心にかなう者」の条件にあてはまるものだからである。何と凄いことであろうか。このような私につくり変えてくださったのは、神である私たちの天の父の愛のゆえである。キリストと共同の相続人として、神にとりあつかわれているのだ。満々感謝!(た)


人はどこからきてどこへ行くのか

万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。 <ローマ11:36>

 2月7日、田畑里子姉の訃報が届いた。娘さんご夫妻が転勤により大分に戻ってきていたのに合わせて、姉妹も帰ってきていたらしい。
 姉妹は2003年の4月20日(イースター)の日に洗礼をお受けになっている。
 ご夫妻はクリスチャンではないが、お母さんの信仰に沿ってキリスト教式でお葬儀をしたいという申し出であった。小さな家族葬であるが、イエス様の愛に満たされた、何百、何千人の集うお葬儀もかなわないほどの静寂の永遠を思う至福の時となった。

 人の死を身近に迎えるとき、どうしても心に起こってくる思いがある。それは「その方がどのようにして死を迎えたか」ということだ。姉妹のようにほんのり笑顔を浮かべて横たわっている姿を見ると、そばにいる私たちでさえホットした気持ちになり、ついこちらも笑顔になってしまう。平安が伝わってくるのだ。
 それにしても、同じように起こってくる疑問は「私たちは、何処からきてどこに帰っていくのか・・・」という魂の行方だろう。
 その答えは実に、聖書の中にはっきりと書いてある。万物は、神からいで神に帰るのだ。わたしたちの肉体も心も霊も、すべてが神によって成り立っているのだから、神を知っているものと、知らぬものとでは、命のありかが全く違う。
 イエス様を信じる者の命は永遠で、天の国籍を持つ、「天国人」なのだ。
 先日「天国の人」の著者ブラザー・ユン師が、「ドイツの市民権を得た!」と喜びの声を上げていた。私たちを支配できる権威が、サタンのものか、神のものかは、文字通り天国と、地獄の差である。(た)


 二・二六事件の記事で父(くぎみやよしと)を思う

 父はこの日が来るとよく事件についての報道のことを語っていたが、私たちは「今の私たちに言われてもなあ」という具合にしか聞いていなかった。何といっても1936年のことであるから…。
 日本国民のホンネとタテマエの落差について、またこういった真実を覆った報道の在り方を糾弾する父の強い意見は、戦時中の生き方にさもありなんと納得する。
 しかし、小さなことでも考えてみると、私たちも口では「それは悪いこと…」と言いながら、心の中では「よくやってくれた!」などとほめそやす気分の時もある。
 国民のこの隠れた感情を、報道は取り上げない。父は言う、「この二・二六事件を契機として、日本はとうとう覇権主義国家になっていく。この事件は近代日本史において目を覆うことはできない分岐点的大事件である。・・・・・最近の新聞は一行も書かない・・・・・・もっと新聞を信じたい・・・・・」 
 新聞好きの父の心はさぞかし憂いていたのであろう。 (週報「キリストの福音」1999.2.28号参照) (た)
参照http://oitachurch.jp/yoshito/page2.htm「かの二・二六事件」


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by mitiru-takae | 2017-02-14 15:23 | 満ちる | Comments(0)

No.223 私(神)は今あなたに聞かせる 2017.2.5

私(神)は今あなたに聞かせる

あなたがたはこれを宣べ伝えないのか。わたしは今から新しい事、あなたがまだ知らない隠れた事をあなたに聞かせよう。 <イザヤ48:6>

 私たちは初めてイエス様の愛を知ったときのことを覚えているだろうか。初めて、私の主イエス様のお言葉を聞いた時のことを覚えているであろうか。それがたとえ昨日であっても10年前、いや50年前のことであったとしても、心に浮かび気づいたその時こそが、主が教えてくださる「今」である。たった今私が受け取った「新しい心」である。コンバーションというものは古びることがない。

 2月が来ると思いだす、母釘宮トミは2010年2月21日の朝、皆が目覚める前に天に帰った。
 下の記事は母が帰天した次の年「釘宮トミ召天一周年記念礼拝」の時に「日岡だより」に載せた母トミについての思い出と回心についての私の証である。少し編集して抜粋する。


喜び喜べ

「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」<ピリピ人への手紙4章4節>
                               
 40年ほど前のこと、当時、父(釘宮義人)の経営していた印刷会社でタイピストとして働き出して、3、4年目くらいのことだろうか。
 社内での仕事のほとんどは、母がマネージメントしていた。実際、企画力と押しの強さは社長以上で、皆をたばね、能率的に仕事をさせるのがとにかくうまい、まさに天下一品の母であった。
 私はというと、なかなか母とうまくいかず、辛いことも多かった。しかし、おかしなことに、母は信仰についての良き指導者であり、よき手本であって、相談相手でもあったのだ。

 このころ私に迫ってきた職場での大問題があった。結局、答えを出せない私は、専務役の母に相談をもちかけたのだ。
 「ねえ、母ちゃん!」・・・。
 考えてみれば、本当に自分勝手で、母はこんなの相手にしていられないと思ったかもしれない。
 しかし、母は私にこう言ったのだ。
 「孝枝ちゃん、祈ってみよ。イエス様が答えてくれるまで祈らんと」

 イエス様から答えがあるまで自分で祈れというのか、これはまたどうしたもんだろう。果たして祈って答えが出るのだろうか。
 わたしは声も出なくなってすごすごと帰った。そんな祈りはしたことがなかったからだ。
 仕方がないのでその日からとにかく祈ることにした。これが私のいいところで、みょうに素直である。

 3日もたっただろうか。朝、職場に来て何も変わってないし、別にいいことがあったわけでもない。でもなんか嬉しくて、やたら口のあたりがにやけてくる。お昼ごろ私は気がついた。昨夜、ピリピ人への手紙4章を読んで祈っていた時、以前聞いた父のメッセージを思い出していたことを。
 
 「『喜び喜べ』これはイエス様のご命令です。命令なのですから『はい』と聞けばよいのですよ。どんなにつらくても、苦しいときでも、悲しいときでも、イエス様が『喜べ』とおっしゃるのですから『喜ぶ』んです。そうすると、本当に心から喜びがわいてきますよ。主の喜びがね。」
 
 「そうか、わかった」
 「イエス様が喜びをくださったので、わたしはとても嬉しくて、仕事も楽しいし、会社の誰にも腹がたたないし、なんか心の中から喜びが沸いてくるんだ」・・・ウキウキ、ワクワクが止まらない。

 悩みの結論は出たも同然。神の側の答えは明瞭だ。全く違う世界が広がる。急いで母に告げにいった。
 「祈りがきかれたよ」
 「私は心が変えられたみたい」
 「祈りってすごいのね」
 母は即座に答えた。
 「そうよー!」
 いつもの母の口調に、2人で笑った。もしかするとこれが私の回心かもしれない。いや勿論そうであろう。(【日岡だよりNo.476】参照)(た)
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by mitiru-takae | 2017-02-08 12:59 | 満ちる | Comments(0)