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No.222 映画「沈黙」 2017.1.29

映画「沈黙」

だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。<Ⅱコリント12:9,10>

 いよいよ「沈黙―サイレンス―」の上映が始まった。
 大分でも今日(1月23日)から3か所で上映されるようだ。

 「沈黙」は過去にも映画化されていたようだし、「ほかにも映画化された遠藤周作の作品も色々とある中で、外国人監督での作品は、どう描かれているのかと楽しみでもある」と言われている。 

 といっても、私は観ることができるかなあと思っている。というのは、キリシタン迫害の拷問の様を見るのは、とても恐ろしく、怖いし、悲しいからだ。まして自分に降りかかってきたらば…と考えると、夜も眠れぬくらい恐ろしい。それほど私は小心者である。

いったい誰が棄教した司祭を責められるだろうか、いったい誰が裏切り者を責められるであろうか。わたしたちは。彼らと等しく、イエスを裏切り、罪を犯し続けてきたものだ。しかし思う、私たちが理解できようとできまいと、神のご計画は成就していくのだ。そして私たちを愛してくださる神の愛は永遠なのだ。たとえ神の声がまったく聞こえないような時でさえも、それは変わらない。

 自分を裏切るものでさえ愛し、期待し、日ごと足を洗い続けてくださる主イエスのとりなしを、私たちは知っている。しかし霊によらず肉に支配されている人間は違う。人間は自分の利害のためには、思いもよらぬ裏切りをするものだ。

 日本のキリシタンの素晴らしさは「殉教」において称賛されることが多いが、だからと言って「転んだ」信者は、苦しまなかったかというと嘘である。彼らがどれほど苦しみ、隠れて信仰を魂の中に持ち続けていったかという真実は、誰にも知られることがなく、又外から見てもわかるようなものでもなかったのであろう。これこそ隠れキリシタンである。

 この時代のキリシタンたちが、命を懸けて守り通した信仰、命を懸けて隠してきた信仰の歴史をこの日本に残してくださった神のご計画は素晴らしいものだと思う。彼らはイエスを信じる信仰のすさまじさを教えてくれる。それほど、この時代の人々は神の国と義に飢え渇き、求めたのだ。

 豊後の国では25パーセントの人々がキリシタンとなったという歴史を見ても、彼らの求めがすごかったとしか言いようがない。目覚めた彼らに対して、神は確かにそれに応えてくださったのだ。そして迫害の時を最も悲しんだのもイエスご自身であったろう。

 若い頃の私の父は、「寄り添うだけのイエスなんて…弱々しい」というくらい、じめじめしたことが嫌いで、武士のように潔く、苦しくても底に強さを感じさせるような日本人魂の持ち主が好みだったかと思う。苦しみをたたえた顔のイエス像は、嫌いというより真向から反対だったようだ。結構気性が激しかったのも確かであるが、晩年は自分を「凡聖」というくらい穏やかであった。

 「日本のクリスチャンよ、目覚めよ!」と、父がよく言っていたなあと思い出す。使徒行伝にある使徒はじめイエスの弟子たち、パウロの信仰、そして内村鑑三の信仰、釘宮徳太郎、釘宮太重、釘宮義人と世代を超えて強く迫り働き続けていくイエス・キリストの信仰を、父は今も変わらず私の魂に強く語りかけてくれている。パウロの言葉が私にも実現しているのだろう。

そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。 <Ⅰコリント15:8>

 色々なことを思い浮かべさせられる映画「沈黙」であるが、怖いと言いながらも、せっかくだから見たいとは思っている(個人的にはキチジローに扮する窪塚洋介に期待している…笑)。 

 私は今回初めて知ったのだが、皆さんこの「沈黙」というタイトル、遠藤周作は初め「日向の匂い」とつけていたというのをご存知であろうか。遠藤周作が表現したかったのかもしれないイエスの臨在が見えてくるのかと思うのだが・・・。「ひなたのにおい」・・・! (た)
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by mitiru-takae | 2017-01-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.221 癒し主なるイエス・キリスト 2017.1.22

癒し主なるイエス・キリスト

わたしは主であって、あなたをいやすものである」。 <出エジプト15:26下>

 癒しとは、私たち人間にとって永遠の願いでありましょう。
 「死」は受け入れたくないものですが、生まれたからにはかならず迎えなければならないものです。これに打ち勝つことが出来たのはイエス様のみです。

 この世はまるで不公平のように、病気になる人、「叩いても死なない」と言われるほどに健康な人とに分けられます。「元気に、健康に過ごしたい」と誰もが思っていることでしょう。

 しかしよく考えてみると、病気が怖いというより、病気がもたらす、不安、不幸、痛み、苦しみ、死に至ること・・・が、私たちをがんじがらめにすることがこわいのです。「病気」といったとたんに私たちはこれらの恐怖を心の中に引き込んでしまいます。
 この時の心の中の状態こそが「闇」です。光がまったくないのです。
 そして起こってくることは「疑い」です。「疑い」こそが「不信仰」なのです。

 私たちの心の闇を一瞬に光と変えることが出来るお方こそがイエス様です。イエス様は光そのものです。死も恐怖も痛みも逃げ去ります。
 イエス様は私たちの希望であり、信仰の基です。

 今回ヒーリングスクールのため(2017年1月13、14日)21世紀教会にこられたクリス・ゴア師(ベテルチャーチ癒しのミニストリーディレクター)はこのように言っていました。

 「奇跡は日常的におこります!」
 「私たちの体験に、イエス様(み言葉)を合わせないでください」
 「イエス様(み言葉)の方にいつも私たちの思い、行動を合わせてください」
 「たとえ祈りが聞かれないようであっても、イエス様は聞いておられます」
 「祈り続けてください、宣言し続けてください」
 「私たちが告白し、宣言していく言葉は、イエス様のもとにすでにある『答え』でなければなりません」

わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。 そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。<第一ヨハネ5:14、15>

 みことばは、私たちが神に抱くべき確信が「答え」であるのだと教えてくださいます。「答え」はいつも神の側にあるのです。私の思いではありません。
 そして神の御心は、「私たちを癒す」ことです。

 目の前の現実に心が折れそうなときも、真実なるイエス様の信仰(イエス様ご自身)を求め続けて行きたいと心から願います。
 まさに倦まず、たゆまずの信仰です。

 この信仰を持ち続けることが出来るのは、私のうちに生きて働くイエス様ご自身の持っておられる信仰と、私たちに持ってくださっている希望によって、励まされ、勇気づけられ、押し出されるからにほかなりません。

 勇気を出しましょう。翼があります。飛び続けることが出来ます。
 たとえ瞬時に病が癒されなかったとしても、私たちは主に望みを置き、信じ、待ち続けます。
 
わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。
わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。<詩編130:4、5>

 イエス様を救い主、癒し主と信じる者の手には御国の力(権威)が搭載されています。この手を置いて祈ります。聖霊様のお導きによって、みことばをなお一層体験していくものとなりましょう。(た)
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by mitiru-takae | 2017-01-24 16:26 | 満ちる | Comments(0)

No.220 鉄の斧/続・大分ローカルギャザリング開催 2017.1.15

鉄の斧

ひとりが材木を切り倒しているとき、おのの頭が水の中に落ちたので、彼は叫んで言った。「ああ、わが主よ。これは借りたものです」。 神の人は言った、「それはどこに落ちたのか」。彼がその場所を知らせると、エリシャは一本の枝を切り落し、そこに投げ入れて、そのおのの頭を浮ばせ、 「それを取りあげよ」と言ったので、その人は手を伸べてそれを取った。 <列王記6:5~7>

 ある日の早天祈祷会の中で聖書を開いてここを読んだ時、私は思わず吹き出してしまったのです。いや、何度読んでもおかしいでしょう?と言いたくなります。
 斧の頭はもちろん鉄でできているのですが、「それが抜けて水の中に落ちる」というのは、それだけでも「おい、おい」と言いたくなります。しかしよくあることでしょうか、危険極まりない出来事です。
 しかもその斧は「借り物」でしたから、なくせば弁償しなければなりません。「落としました」だけだはすまされないことです。思わず叫んでしまいます。「あー、それは借りものです!」と。
 この窮地にエリシャがいたことも素晴らしいことです。彼らにとってそれは神の助けそのものですから。もちろんエリシャが自分たちと一緒に来てほしいと頼んだ預言者のともがらも、聖霊様のお導きに敏感であったのかもしれません。
 とにかく「神のお働きの現場に居合わせる」ことは最大の祝福です。
 大切なのは落としたところをしっかり見据えているところでしょうか。神の人が「どこに落としたのか?」と聞くとき、私たちも「主よ、ここです」また「主よ、このことです」と失態の現状を告げることが出来るか否かは、奇跡を見るか、否かというほどの違いがあると思えます。
 主の前に的確に「これです」と告白しましょう。すると神はそこに「一本の枝」を切り落とし、投げ入れてくださいます。すると問題の浮くはずもない「鉄の斧の頭」が、浮いてくるのです。そして「取り上げよ」といいます。私たちは自分の手で取り上げることが出来るのです。なんと、なんと素晴らしいことでしょうか。
 イエス・キリストの十字架は、私たちのために丘の上に建てられました。皆の眼が注目する中、私たちのとらわれた魂が解放されるためです。イエス・キリストのもとに「鉄の斧の頭」があります。失ったはずのものです。
 手を伸ばしていただきましょう!
 主がともにいるならば、奇跡はいつも私たちの目の前にあります。満々感謝!


続・大分ローカルギャザリング開催

 さる1月9日、グローバルギャザリングとは違い小さな大分の片田舎(笑)で、小さくとも盛大に開催されました。なにより聖霊様充満のなか、喜びと、恵みを心身共にいただくことが出来たと思います。
 三教会により行われていた「大分ブレッシング」を、ギャザリングに変えての聖会です。昨年、日本で始まった「ローカルギャザリング」はまず大分から始まりました。その後、奥の細道ギャザリング(仙台、福島、栃木)が開かれ、ことし2月には、広島、松山で開催予定です。
 大分でのローカルギャザリングをこのまま終わらせるのはもったいないと、今までの続きとして「大分ローカルギャザリング」を地域のメンバーで行っていくことに三教会の先生方で話し合い決定しました。
 かつて豊後の地に信仰の花を開かせた、当時人口の25パーセントを誇ったキリシタン達の迫害の歴史を知ることより始まった大分ギャザリングですが、「この地は癒された」と解放の預言をいただき、今後日本全国の霊的解放のため、サタンによる呪いの打ち砕き、地では井戸の上、空中では空を覆う鉄の岩盤をドリルで打ち砕くという祈りの戦い、霊の戦いを広げていくことを誓っています。

 今回、三教会の先生方、教会メンバーの方々に加え、広田先生ご夫妻が来てくださり、み言葉によるメッセージ、お証をいただくことが出来ました。
 余談ではありますが、参加していた乳飲み子、幼児たちに金粉が粉のように吹き出し、この私にも当日夜遅くまで、手のひらの金粉と、封筒から出したお札の上に一粒の金粉という、主の恵みの喜びが満ち溢れた日となりました。

 「信仰さえあれば…、今時、『奇跡や金粉』、まして、『天の窓が開いた』などと、なんかキリスト教じゃないようだ」と思われる方もあるかもしれません。しかし、子供のように喜び、主を拝し感謝するとき、神様のほうが私たち以上に喜んでくださっていることの証、また見せてくださる「しるし」なのです。喜んで見せていただきたいと思っています。ハレルヤ!(た)
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by mitiru-takae | 2017-01-17 10:45 | 満ちる | Comments(0)

No.219 恐れるな小さい群れよ/霊の思いで生きる 2017.1.8

恐れるな小さい群れよ

恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。 <ルカ12:32>

 神様がイスラエルの民を選んでくださったのは、「あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。」<申命記7:7>と聖書が語っています。この民は、最も数の少ないものであったというのです。
 昔、父が集会の中でよくこのみ言葉を語っていたのを思い出します。確かに人数の少ない小さな群れでありました。しかし今、この群れは人数こそ多くはありませんが、父の残した信仰の花を咲かせ、身を実らせる時が来ているのです。

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。<ヨハネ16:16>

 天の父の御心によれば、私たちは父の大家族ですし、イエス様の名によってすべてを与えられています。かつて旧約の時代の小さき民も、イエス・キリストの十字架と復活によってすでに大いなる民とされているのです。
 「己を小さいと評価しているものよ、あなたは決して小さくはない。神の小ささはあなた方の最も大きいものよりも大きい」
 イエス様はこのように語っているようです。
 「あなた方はすでに大きな群れだ」と。

 モーセやヨシュアの時代、信仰によって戦い取っていった国々は、たとえどんなに大きな国であったとしても、イスラエルほどに神が近く共にいてくださる国は一つもありませんでした。イスラエルの民の戦いは神が味方してくださることで、初めて勝利を得ることができていたと言えます。
 そのような選びは、本当に不思議で、人間の持っている価値では到底計り得るものではありません。

しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。<使徒9:15>

 使徒たちの時代に続いて「神に選ばれたイエスの弟子の皆さん」、イエス様の名を伝えるものとして大いに用いられましょう。
 翼も、上昇気流も全てが神の計画によって既に備えられています。
 精一杯翼を張って舞い上がってみましょう。(た)
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霊の思いで生きる

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。 <ヤコブ4:8>

なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 <ローマ8:5、6>

 キリストが私たちの内におられるならば、体は罪の支配の中に生きるとしても、私たちの心は霊につくものです。イエス・キリストの霊によって生かされているのです。
 肉体はこの世で朽ち果ててしまいますが、肉の心は、そのままでは地獄です。
 神の霊の中にいるならば、私たちの心も、霊とともに天国にいます。ですから、この世の罪の思いを避け、神の霊に近づこうではありませんか。それどころか、神の霊の中で生きるのです。それは、肉の思いを殺し、霊の思いで生きるということです。

 これこそが「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである<ガラテヤ2:20>」ということなのです。イエスを信じる信仰こそがこれを可能にするのです。(た)c0265111_11060274.jpg





















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by mitiru-takae | 2017-01-14 11:06 | 満ちる | Comments(0)

No.218 新年のお慶びを申し上げます 2017.1.1

新年のお慶びを申し上げます


しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。<イザヤ40:31>

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ハレルヤ!

新年を主に感謝いたします。

 昨年東京に行く飛行機の中から、最高の富士山を見せていただきました。そのとき、あまりに美しいので写真を撮ったのです。そのうちの一枚は、下部に飛行機の翼、中間に富士山、そしてその上の空には大きく羽ばたく羽を広げた鷲のような形をした雲がありました。

 心が弾んできて子供のようにはしゃいだのを覚えていますが、何とも主は、私を喜ばしてくださるお方でしょうか。このような富士山を見ることも、写真をとることも、なかなか条件がそろわないとできないことですね。ハレルヤ!

 大分に帰ってから、メッセージの準備でイザヤ書を読んでいました。その中で主は来年の指標聖句を与えてくださいました。冒頭にあげた今日のみ言葉です。


 1) 「主を待ち望む者」とは、待って待って待っても来ない主をただひたすらじっと待っている状態を言っているのではありません。

 「来るべき主」を確実に知り信じているもののことばであり、「来るべき主」はいつもわたしたちの心の中で、今もともに生き、働いているお方なのです。主は時間を超越するお方です。

 主が来てくれるかどうかを試すというのではなく、主が私たちの信仰を見て喜びたいと思ってくださっているのです。私たちが、もっと深く主を知り、日々、新しい力と、疲れない、弱らない翼をいただくためです。ですから疲れないのです。弱らないのです。 

 確かに、私たちは年を取ると、足、腰が弱って、長くは歩けないし、立っていることもなかなかむずかしくなってきます。そればかりか、神経痛や腰痛で痛みに耐えなければならないことさえあります。

 しかし、主は言われます「のぼれるんだよ、疲れないんだよ、弱ったりしないんだ」。

 痛くても、つらくても、私たちには主を待ち望むという信仰が与えられています。「元気なことにしておく」ということではなく、信じて「私は元気だ」と告白するとき、すでに私は元気にされています。ちょっと肉体は闇の支配の中で遅れているかもしれませんが()、このような時、あきらめず求め続けること、信じ続けることこそが、翼を張らせていただくことであり、思いを天に上らせることになるのではないでしょうか。


 2) 今年は主のなさることを、楽しみに待ち望む年にしたいと思います。

 「今日、イエス様はどんな形で私の前に現れてくださるんだろうか。今日わたしがイエス様を喜ばすために何かを考えることを、イエス様は見て喜んでくださるだろうか」。

 私たちの考えること、行動すること、実はこのすべてをワクワクして待っていてくださるのは、私よりも、イエス様のほうなのですね。

 昨年から、色々と見させていただいたり、体験させていただいた奇跡を、ただ「不思議だなあ、本当かなあ」と思うのではなく、私たちを慰め、力づけ、何より喜ばしてくださる主に、心から感謝して、なお一層信じぬく力強い信仰をいただきたいと思います。

 主の栄光を見るものとなしてください。

 主の喜びを受け取れるものとなしてください。

 主の聖さに触れることが出来るものと創り変えてください。

 主のくびきを共に負わせてください。

 万能の主の熱心がこれらのことをなしてくださいます。アーメン(た)

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by mitiru-takae | 2017-01-01 19:22 | 満ちる | Comments(0)