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No.213 待降節(アドベント)に思う 2016.11.27

待降節(アドベント)に思う

彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
<マタイ1:21>

 お母さんのおなかの中にいる時から胎児の姿を見ることが出来るようになって、今私たちが文明の中で当たり前に思っていること自体が、まるで奇跡のようです。
 主のなさることは、わたしたちにはまだ隠されていて、それはまるでクリスマスプレゼントのひもを解いて箱を開けるときのように、魂がワクワク、ドキドキとさせられるとても嬉しいものです。
 この喜びをもたらしてくださる私たちの主イエス様は生きておられます。
 クリスマスの奇跡の一つとして、「彼女は男の子を産む」というおことばが現実起こったということがあります。処女降誕は昔から人間にとってはありえないこと、信じがたいことでした。しかし神様は、私たちにとって、ありえないと思われること、信じられないことを、ごく普通にやってのけるお方なのですね(実感笑授)。

 イエス様のこの世における両親として選ばれたマリヤやヨセフにとっては、奇跡というより、起こってはならないことを受け入れるという、非常事態が起こったのだと思います。
 「神様、私たちにはこのようなことはとても受け入れることはできません」
 もしマリヤとヨセフがこのように答えたとしたら、神様はどうなさったでしょうか。

 神様はお二人のためにご計画をもって準備をなさっているし、マリヤとヨセフだったから神様の言葉を信じ受け入れられたのでしょう・・・と思うかもしれません。実は、神様は、私たちにも同じように、日々語りかけてくださっているのです。しかし二人のようにではなく、私たちは毎日こういうふうに言ったり思ったりしています。
 「イエス様が直接言ってくだされば、たぶんいわれるとおりにするはずです」
 また、「時が来れば、主のお心に従えます」
 そして、み言葉によって歩むと言いながら、「あの方にはできても、わたしにはできません。神様は、できないことは言わないでしょう」・・・等。
 こうして私たちはいつも神様の声から逃げています。
 都合の悪いことは聞かない、聞こえないふりをするのです。
 預言者サムエルのようにいつも主の声を聴き従う用意をしておきたいものです。

主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。
<サムエル記上3:10>

 マリヤとヨセフの二人に訪れた神の独り子イエス様は神様のなさる奇跡のなかで一番凄い、素晴らしいものです。
 どうして二人は神様のお言葉を受け入れることができたのでしょうか。
 人間の罪は、「神のようになりたい」という、分不相応な欲望から起きました。私たちの、耳をふさぐものは、私たちの貪欲です。高慢です。
 信心、敬虔などといわれる、私たちの心の行動がいつも主に向けられているならば、私たちはマリヤとヨセフのように奇跡を呼び込むことが出来る従順な魂を持つことができるでしょう。従順は神の奇跡を見ることができる一つの条件かもしれません。

 奇跡をいただくことに、もう一つ条件があるとすれば、めげることのない神様の側の熱心があるからだと思えます。
 神様は、サムエルを何度呼んだでしょうか。祭司エリの信仰的アドバイスがあったからでもあるでしょうが、4度目でやっとサムエルは主に答えることが出来ました。 マリヤとヨセフを選んでくださった神様は、私たちをも選んで、語ってくださいます。
 そして、4度ならずも、5度6度、7度と、呼びかけてくださいます。これによって私たちは、やっと御声に気付くことが出来るのです。「万軍の主の熱心」に満々感謝です。

そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。  <イザヤ9:7>

 アドベントに入りました。イエス様のお誕生を待つ、クリスマスまでのすてきな期間です。心を全面イエス様に向けなおして毎日奇跡の日々をいただきましょう。(た)
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by mitiru-takae | 2016-11-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.212 天の窓が開く 2016.11.20

天の窓が開く

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しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。<使徒7:55、56>

 私たちの主は生きておられる。
 ステパノが見た時と同じようにイエス様が天を開き、私たちに恵みと平安を満たしてくださる。み言葉をその通り信じているとはいいながら、私自身はまさか本当に天が開くとは思っていなかった。しかし、聖書の御言葉は真実だ。無理やりこじつける変な意訳は必要ないのだと、この写真を見てよくわかった。今、私は「求める者には、見せてくださるんだ」という喜びで満ちている。

 冒頭に載せた写真のことを少しばかり説明する。11月の4、5日にかけて、私は、弟、妹と三人で、四国鳴門にある大塚国際美術館に行ってきた。大分恵みキリスト教会牧師岡山敦彦先生の「信仰の眼で読み解く絵画」ツアーに参加しての一泊二日の旅であった。

 佐賀関から、私の車(はじめは軽自動車で大丈夫かなあと、少し不安は隠せなかったが・・・)でフェリーに乗船、四国の三崎で降りて佐賀関から続く国道197号線を走り、八幡浜から大洲のインターに入り松山自動車道を行く。あと、徳島自動車道にそのまま入り鳴門北で高速を降り、美術館駐車場までというコースだ。途中サービスエリア2か所に立ち寄り休憩しながら、三崎から大塚国際美術館まで約5時間の道のりであった。

 フェリーに乗ってしばらくすると佐田岬が見え始め、そのうち風車が見えてきた。そこでスマホで写真を撮ったのだ。その後、この写真をfacebookに乗せたところ、「雲の一部に玉のような白いものがある。」という投稿があった。そこで目を凝らしてみたところ、これは何だろうと不思議に思い、拡大してみたのが上の写真である。

 普通に半島の風景写真を続けざまに3枚撮ったので、雲が特別光っているのだろうというくらいにしか、考えていなかったのであるが、今見るとそのままの大きさの写真でも、空のど真ん中にぽかっと穴が開いているようにしか見えない。
 だれかが、「イエス様がはっきり見える」とfacebookの写真の欄に投稿してきたので、わたしも引き延ばした写真をよくよく目を皿のようにこらして見てみたのである。すると、大きな白い四角の建物のようなものの前に黒い人影のようなものが見える。左右には、透き通ったような四角い壁が何枚も重なって並んでいる。
 上部には雲のようなものがあり、楕円形の枠は、果たして雲とは言えないほどはっきりとした縁である。まるで大分ギャザリングで語られた幻の、「天の穴からドリルが降りてきて…」という、そして「その中に青空が見えた」という穴のようだ。(詳しくは次回この預言を絵に描いたものを載せてみたいと思う)

 私たちは信仰によって、この日本の上空に覆われたベールを剥がしていく、そのような義人の祈りと求めを聖霊様を通して神に申し上げ、まことの自由と解放を勝ち得ていく、そのような預言をいただいたようである。
 ヨシュアのように、神のみを畏れ徹底して従いゆく従順な神の戦士として働く時が、今、来ている。神は「今までもそうだった、そうして働いてきた」などという言葉は私たちには言わせない。今、神が新しい私たちを創造してくださったからである。

これらの事はいま創造されたので、いにしえからあったのではない。この日以前には、あなたはこれを聞かなかった。そうでなければ、あなたは言うだろう、『見よ、わたしはこれを知っていた』と。<イザヤ48:7>

 このみ言葉は、大分ローカルギャザリングの始まる前に聖霊様のお導きによっていただいていたものである。(た)
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by mitiru-takae | 2016-11-29 14:24 | 満ちる | Comments(0)

No.211 満々感謝!①② 2016.11.13

満々感謝!①

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
御霊を消してはいけない。
預言を軽んじてはならない。
すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。
<Ⅰテサロニケ5:16~22>

 10月16日(日)、別府フルゴスペル教会に来られた 張学秀姉妹(コンサンニム)の集会に出席させていただいた。
 「何の飾りもなく、ただ、主の御前に立つ」という感じの老婦人で、前に立つとすぐ、証しが始まった。謙虚な方で、講壇には決して立たない。しかしその証しの内容は驚くことばかりである。日本語は決して流暢ではないが、「あのね~」ではじまることばに親しみを覚えた。

 ある時、雷のような大きな声で「張学秀~~」と呼ぶ神様の声を聴いたり、呼ばれても起きれなかった時には、顔ほどもある大きな手で顔を覆われたなど、話はとても面白い。また、皆が静かに祈っているとき、一人だけ気が狂ったかと思えるほどの大きな声で叫びまわるので自分でも訳が分からず、「これは何?」と聞いたところ、なんと異言をいただいていただとか。

 お嫁さんが肺病になって入院した時、聖霊様が按手しなさいというので、「イエスの御名によって肺病の霊よ出て行け」と祈った。ところが聖霊様が三度祈れというので、三度祈ったらしい。帰ってから夢で、お嫁さんに巻き付いている大きな蛇が死んだのを見た。その時お嫁さんの肺病は癒されていた。など(少し正確ではないかもしれない)張姉妹のお証しは、驚くほどの多さと内容である。
 とにかく、単純に聖霊様のお言葉に従っているのだ。すると、癒しが起こる、奇跡が与えられる。今までイエス様を知らなかった人が信じるようになるのである。まさに、幼子のような信仰だ。

 集会の終わりに「とにかく感謝してください。満々感謝です!満々感謝!満々感謝!」と言って閉めてくださった。

 私たちは、主が与えて下さるものを過小評価してはいけない。どんな小さなことでもだ。小さなからし種以下程の信仰でも大切にしよう。
 主は良いお方だ。主がわたしたちに下さる良いものを感謝して受け取り、守ろうではないか。満々感謝!



満々感謝!②

われらは感謝をもって、み前に行き、主にむかい、さんびの歌をもって、喜ばしい声をあげよう。<詩篇95:2>

 「賛美と感謝!これで癒された!」そういってにっこり笑うG姉妹の顔。両手を広げ、「私は癒された。サーッと霧が晴れるように癒されたのよ」と言う。

 先日セミナーの賛美集会が始まった時「私は癒された」のメールを送ってくれたG姉妹が10月23日(日)の礼拝に来てくださったのである。約一年半ぶりであった。教会の玄関で、姉妹を迎えた時の皆の顔は驚きと喜びで、笑うわ、泣くわ、ハグするわで、まさに天国的状態だった。

 この時わたしはハッと思い出して畏れた。この日の朝、起きてすぐ祈っていた時のことだ。心の中にフッと「今日はG姉妹が来るよ」という声が聞こえたのである。私はしばらく祈りながら、聖霊様の言葉を思い巡らせていたのだが、教会に来たときには、すっかり忘れてしまっていた。
 
 私は、心から主を畏れ感謝した。主は生きておられる。聖霊様は確かに、確かに働いてくださる。キリスト教界の中では、今も素晴らしい多くの奇跡が起こり、私たちもよく耳にする。しかし、私の中で、また、私たちの教会の中で起こった小さな奇跡は、他の山が移るほどの奇跡にもまして、素晴らしいものであった。満々感謝! (た)
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by mitiru-takae | 2016-11-19 11:02 | 満ちる | Comments(0)

No.210 聖霊様と共に(完) 2016.11.6

聖霊様と共に(完)

 今回の「秋の信徒一泊セミナー」は、聖会に参加した皆が、聖霊様の導かれるままに過ごすことが出来たと感じられた。

 大きな声で祈ったり、賛美したりというと、ともすれば計画だけに頼り、頑張るのも確かだが、しかし、そのような人の計画だけによらず、騒がしかろうと、静かであろうと、底に流れる聖霊様の水の流れを、また時に吹き上げる聖霊様の息吹きを、各セッションできっとみんなが感じていたであろうと推測できる素晴らしい聖霊のお導きによる聖会であった。

 牧師の話より、皆がそれぞれ戴いたみ言葉による啓示がすごかった。これは、いわゆるオカルトチックなものでなく、まことに健康的な聖霊様による「気づき」として与えられたものである。
 その中で特に心に残っているものをひとつ紹介したい。

人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。 僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。 主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。 彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。 収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。 <マタイ13:25~30>

「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」。 <マタイ13:35>

 今回の聖会のテーマは「神の国を知ろう」であった。
 イエス様の話されるたとえは、実は世の初めから隠されていたことであった。私たちは天国人であり、国籍は天にある。天国人には奥義を知ることが許されているのだ。イエス様は、私たちにはたとえでなく、聖霊様を通して天の国の奥義を直接語ってくださるのである。

 ここで皆の口から出た言葉は「どうして神様は、毒麦がまかれるのを許すのか」ということだ。
 すると、一人の姉妹が「『神様はどうして自由意志を持たせて人間をお創りになったのか』と同じ質問ですね。」という。
 「もしかすると、毒麦も私たちにとって必要なものではないでしょうか」

 確かに毒麦とともに成長するということは、試練というより、切磋琢磨という、私たちにとっては益ともなるものではないかというのだ。あえてサタンの行為を許すヨブ記での神様に見る有様である。
 この毒麦については、「わかったか」に対して「はい、わかりました」と答えるみことばの告白に続き、「私たちの心の中にまかれる毒麦の存在」として私たちの信仰の鍵ともなったようだ。

 妻の介護のかたわら、農業をしている弟の話では、「麦が大きくなってきて初めて悪い麦の黒いのが見えてくる」らしい。私たちの心の奥に潜んでいるサタンらの蒔いた毒麦の種というのは、私たちにはなかなか見つけられないもののようである。
 しかし、父なる神を信頼し、イエス・キリストにつながっているならば、必ず悪いものだけが抜かれ、火の燃える炉に放り込まれるであろう。私たちにできることは、たとえ毒麦を持ったままでも、イエス・キリストから離れないことだ。
 
 今回の聖会で、一人ひとりがいただいた小さな種が、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ木となることを信じて喜び感謝する。これこそ私たちの嗣業として与えられた神の国の力の実証である。

 「信徒一泊聖会」を心から聖霊様と神の家族の皆様に満々感謝する。(た)
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by mitiru-takae | 2016-11-17 09:13 | 満ちる | Comments(0)