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No.187 悔い改めは神の恵み 2016.5.29

悔い改めは神の恵み

 このタイトルは、今回ラブ・ソナタ岡山で買って帰ったイ・ジェフン先生の書籍のタイトルです。
 私たちが悔い改めるというとき、改めるどころか、悔いたり、泣いたりと、ただ神様の御前で小さく固まってしまうような印象を持たれるかもしれません。しかし、聖霊様のお導きによって起こる悔い改めは、私たちの魂を解放します。私たちの魂は固まるどころか、かえって自由になるのです。

 新約聖書の中に、放蕩息子の話があります。もらった財産の全てを使い果たし、飢えたあげくの果て、悔い改めて父のもとに帰って来るというお話です。
 この息子が戻ってくるのを父はまだ遠くから見つけ、外に出て待っていてくれますが、神様はそれ以上に、息子が家を出て行ったその時から、息子を愛し、赦し、帰ってくるのを待っているお方です。
 つまり、神様は、私たちの悔い改めを待って救ってくださるのではなく、十字架にあってすでに赦してくださっているのです。それに気付かせてくださるのが聖霊様です。
 ですから、イ・ジェフン先生のおっしゃるように、悔い改めそのものが、神様の恵みであり、贈り物なのですね。【イ・ジェフン先生のゼカリヤ書講解説教集「悔い改めは神の恵み」をお読みください】

 しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。<マタイ3:15>

 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。<マタイ3:17>

 イエス様が人の形をとってこの世にきてくださり、罪のないお方がバプテスマのヨハネのところに赴き、水のバプテスマをお受けになりました。
 ヨハネは自分の名声を誇ることなく、自分をイエス様の前に低いものとしました。このヨハネの、イエスの御前にある謙遜、またイエスのお言葉に従いバプテスマを施す従順も、ヨハネ自身が神からいただいている悔い改めがあったからに違いありません。
 イエス様は、ヨハネに「我々にふさわしい・・・」といわれました。神の子として最もふさわしいのは、権勢、能力ではなく、悔いた従順な魂です。
 私たちの指標は、父なる神に十字架まで従順であったイエス様です。本物の悔い改めは、イエス様からいただいた信仰を通して与えられる恵みでありプレゼントです。(た)
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by mitiru-takae | 2016-05-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.186 主の働き人として 2016.5.22

主の働き人として

 旧約聖書出エジプト記に出てくる過ぎ越しの話は、神様が御子イエス様を聖い生贄として十字架につけてほふり、その血潮によって私たちの命を救ってくださったことの予型です。
 出エジプトの時、イスラエルの人々を救い出すために神様のなされた過ぎ越しの業を思い出すため、ユダヤの人々は今でも過ぎ越しの祭りを行います。この過ぎ越しの日が終わった後の初穂の祭りの日から数えて50日経った日が、ペンテコステ(五旬節)の日です。

 ユダヤでは、この五旬節を迎えると本格的な収穫が始まるといいます。小麦、大麦など、たくさんの収穫が終わると仮庵の祭りがやってきます。収穫の喜びを祝い、出エジプトのころ住まいした仮庵を思い出し、神に感謝して捧げ物をする祭りです。
 イエス様の十字架の贖いは、復活による新しい命と、聖霊による新しい力とによって、私たちの心の中に実現します。そして私たちは、大いなる主の収穫のための働き人として生まれ変わります。

 ペンテコステの日に集まっていた人々は、突然使徒たちの上に聖霊が降臨するという神の力と証を見せられました。

 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。 <使徒2:2~4>

 私たちは、聖霊は目に見えないと思っています。しかし、み言葉を見ると、その場にいて見ていた人々には舌のようなものに見えたようです。たしかに目に見えるものが、一人ひとりの上にとどまったのです。
 そのとたんに、一同は聖霊に満たされました。そして他国の言葉で語り始めたのです。一人ひとりに必要且つもっとも大切なみ言葉がペテロたちの口を通して語られたのです。しかも、聞いた人がその意味を理解できたのです。
 その結果、「彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。<使徒2:41>」と、聖書に書いてあるとおりになりました。びっくりですね。

 集まった人たちの中には、あざ笑う人々も多くいたでしょうが、この日、聞いて悟った人たちは、素晴らしい聖霊充満の祝福の中に入れられました。
 私たちも聖霊の満ち溢れる神様の恵みの中にいることを心から感謝し、主の働き人として創りかえられ、用いられることを喜びとしたいのです。(た)
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by mitiru-takae | 2016-05-25 15:12 | 満ちる | Comments(0)

No.185 斧はすでに木の根元に 2016.5.15

斧はすでに木の根元に

「悔い改めよ、天国は近づいた」。 <マタイ3:2>

 イエス様がナザレの町から出て、福音を伝えるために立ち上がったとき、バプテスマのヨハネは、すでに声を上げて人々に語っていました。
 「天国が近づいた」
 「すごいお方がやってくるのだ」
 「私は水でバプテスマを授けているが、そのお方は、聖霊と火とでバプテスマを授ける力あるお方だぞ!」
 ヨハネは人々に悔い改めるよう叫びながら、今か今かとイエス様の現れるのを待っていたことでしょう。

 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。<マタイ3:10>

 ヨハネは、火で焼き滅ばされる時が今にもやって来るという、強い危機感をもっていたのでしょう。律法学者たちや、権威ある王に対してもその言葉は、他の人となんら変わりません。真剣に悔い改めを迫っていたのです。
 このヨハネのところに、たくさんの人々が集まって来ました。もちろんバプテスマを受けに、また話を聞くためにでしょうが、それほどにこのころのユダヤの人々は、救い主を期待し、到来を待っていたのだとも思えます。

 楽しく暮らしているように見えていても、心はいつも暗闇のようであったのでしょうか。今も昔も、心を本当に解放してくださるお方は、イエス様以外にありません。
 まだイエス様を知らない人たちであれば、「今のままでは、私は天国どころか、地獄行きかも知れない」と言ってみたり、心にもない「私は地獄に行くよ」と言う言葉さえ吐きかねないのです。簡単に、「死にたい」などと口走ってしまいます。そしてそれが、まことにそのとおりになるのだと言うことも、信じていないのです。
 しかし誰でも、イエス様に目をむけると思いが変わります。

 冒頭のみ言葉にもどりましょう。斧は木の根元に用意されているのです。神様が何時、この木を切り倒すのかは、誰にもわかりません。ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」といっています。
 天国が近づいています。信じない人々には、裁きの日が近づいています。
 ヨハネがイエス様の来る道筋を備えたように、私たちもやがて来られるイエス様をお迎えするにふさわしい実をたくさん実らせましょう。(た)
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by mitiru-takae | 2016-05-20 09:52 | 満ちる | Comments(0)

No.184 切り倒されてもなお希望がある 2016.5.8

切り倒されてもなお希望がある

木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、その若枝は絶えることがない。
たといその根が地の中に老い、その幹が土の中に枯れても、
なお水の潤いにあえば芽をふき、若木のように枝を出す。 <ヨブ14:7~9>

 バジレア・シュリンク著「災害―神の警告」という小冊子があります。
 この中で、著者は「私は無に等しい。それでも神の子」と言い、また「どのように災害の増加している現代であっても、最善の道を計らってくださった主を畏れ、主を賛美し、礼拝するのです」と言及しています。
 災害が起こるたびに、神様は、私たちにいったい何を伝えたいのだろうか? あるいは神も仏もあるものかと、絶望を感じたりもするものです。
 災害の真っ只中では、本当に無に等しいような、まるで虫けらのように小さく見える私たちです。
 そのような私たちに聖書は希望を与えてくださいます。ヨブの愚痴のような言葉が続く中に、ダイヤのように光るお言葉をくださっています。

 イエス様がおよそ30歳になるまで住まれた町の名はナザレです。
 とても小さな町であったようですが、私たちの希望である救い主がこの小さな町の出身となりました。

 そして夢でみ告げを受けたので、ガリラヤの地方に退き、 ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。 <マタイ2:22、23>

 スチーブンス・栄子先生のシャロームイスラエルと言うCGNtvの番組の中で、このナザレという町の名は、エッサイ(ダビデ王の父)の出身であるネツェル氏族の名をつけたものだと話していました。ちなみにマリヤの夫ヨセフはダビデ家の出身です。
 このナザレという町は、イエス様の母マリヤが住んでいた小さな町であり、受胎告知を受けた町でもありました。

 エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。<イザヤ11:1、2>
 この若枝こそ私たちの希望イエス・キリストです。私たちの苦しい時の助け、知恵と悟りです。
 土と雑草に埋もれた切り株から新芽が出てくる今の季節ですが、神様の息吹を見せ付けられるようです。ハレルヤ!(た)
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by mitiru-takae | 2016-05-13 09:20 | 満ちる | Comments(0)

No.183 からの器を満たしていただく 2016.5.1

からの器を満たしていただく

 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。<マタイ2:9~11>

 彼ら(東方の博士たち)は、ある星に気づきました。救い主に出会うことが出来る導きの星です。
 この星は、彼らを幼な子のいる所まで行き、その上にとどまりました。これを見て、博士たちは非常な喜びにあふれたと聖書は書いています。

 イエス様がそうであったように、神様は、ご自身が創られたものにお命じになることが出来ます。神様による超常現象は理屈では説明できません。何故って神様のなさることだからです。
 しかし、私たちには想像が出来ます。
 もし、私を救い主の御前に導こうとするならば、聖霊様はあらゆる手段を使って、私に知らせてくださいます。博士たちが見た星のようにです。

 次に博士たちのプレゼントを見てみます。
 博士たちはとても偉い学者たちで、資産もあって、それでとても高価なプレゼントを主に捧げることができたのかもしれません。
 でも、もし博士たちが、全財産をプレゼントに換え、一年や二年もかかってらくだに乗って旅をしてきたとするならば、その費用は相当なものであったと思われます。
 今ならば飛行機や、新幹線のように早い乗り物がありますが、イエス様のころにはいくら早くても、馬くらいであったでしょう。

 レプタ2枚を献金した婦人をイエス様が「彼女は全財産を入れたのだ」とお褒めになったことがありました。
 もしかすると、この博士たちのプレゼント、旅行費用は彼らの全財産であったかもしれません。
 主を礼拝し、捧げた彼らにとっては、他に持っているものは帰りの費用以外何も残っていなかったかもしれないのです。
 
 私たちがもし、黄金、乳香、没薬なんて考えられないからっぽの土の器だとしても、レプタ2枚を捧げるということは、からの器そのものを御前に置くことです。私のからっぽの心は、何より貴いイエス様の愛で満たされることでしょう。
 すると、たとえ捧げる物が何もなかったとしても、主の前にある空っぽの心ほど高価なものはないかもしれません。(た)
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by mitiru-takae | 2016-05-05 09:53 | 満ちる | Comments(0)