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No.182 あなたはどこまで信じるか 2016.4.24

あなたはどこまで信じるか 

 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。
 ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。
 しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。 <マタイ1:23~25>

 メシヤなるイエス様の名付け親となったヨセフにとっての大変な決断の時でした。
 ユダの家系に生まれ、敬虔なユダヤ教徒であったヨセフにしてみれば、メシヤが地上にお生まれになることは預言書でよく知っていたことだと思います。しかし、まさか、自分の身の上にこのようなことが起こるとは夢にも思っていなかったに違いありません。
 ヨセフは、マリヤをどうすれば守れるのかと一生懸命考えたことでしょう。
 しかし、ヨセフの肉的決断を下す前に、神様は、ご自身のご計画をヨセフに啓示し、御心を実行する器として用いてくださいました。
 その結果、ヨセフはみ言葉にあるとおりマリヤを妻に迎え、神の御子にイエスと名づけることができたのです。
 もしかすると、ある人々は「いやあ、天使が来て、お告げを聞かせてくだされば、誰でも聞くでしょう」、「み言葉の掲示があれば、誰でも従えるでしょう」と、言うかもしれません。
 イエス様はあるとき、たとえ話の中でこのように語ったことがあります。

 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。<ルカ16:31>

 このお言葉のように、神様を信じないものはアブラハムの言葉も、預言者の言葉(聖書のお言葉)も、たとえ死人が生き返って何かを語ったとしても信じられないものなのです。
 ヨセフとマリヤのお二人の信仰は真似たいくらい素晴らしいものです。しかし、私たちは、モーセに逆らったイスラエルの民のように、自分の高慢から自らを義とし神様を地に落としかねない愚かなものです。
 小さいことから、主のお言葉に従う訓練を勝利していきましょう。
 日々の歩みの中、患難、苦しみ、憤り、寂しい時、あなたはどこまでイエス様を信じて祈ることができるでしょうか。
 「主よ!助けてください」と、とことん叫び祈り続けましょう。
 私たちが限界を知り、自分の弱さを知るときも、主は私たちから離れることなく祈りを聞いてくださり、励まし続け、力づけてくださいます。(た)
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by mitiru-takae | 2016-04-29 10:14 | 満ちる | Comments(0)

No.181 イエス・キリストの系図 2016.4.17

(熊本地震で心身ともに被災されている方々へのとりなしの祈りを捧げましょう。)
 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。
 このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
 たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。<詩篇46:1~3>


イエス・キリストの系図

 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。<マタイ1:1>

 新約聖書のページをめくると、まず目に入るのがイエス・キリストの系図です。
 初めて聖書を開く方には、なんとも読みにくいところですが、その原因はカタカナで続く人の名前と、○○の父という言い方でしょうか。
 新約聖書にはもう一箇所、ルカの福音書にイエス・キリストの系図がでてきます。
ここでは、始まりの人の名がアブラハムではなく、アダムです。そしてまず、イエス様の母マリヤの父の名が出てきます。
 それぞれに、強調して伝えたいことがあるのでしょうが、マタイの福音書に出てくる系図の名はとても特徴的です。

 まず、アブラハムとイサクは自分の命の危機を免れるために自分の妻を妹と言って王や人々を欺きました。
 ヤコブは父イサクと兄エサウをだましました。
 ユダの子供はタマルという息子の嫁との間にできた子供です。 
 次に出てくるラハブは、エリコの遊女でありました。
 また、モアブの女性であるルツによってダビデにつながるオベデが生まれました。
 極めつけはソロモンの母です。ダビデの姦淫とウリヤ殺害の罪の結果、彼女は、ソロモンの母となりましたが、系図のなかでは「バテ・シェバ」と名では呼ばれず、「ウリヤの妻」と呼ばれ続けています。 
 このように、人の目でみると、外国の女性や、遊女、殺人や人をだますなど、まるで「聖典にはふさわしくない」としか言いようのない人々が、マタイの福音書ではイエス・キリストの系図にドカッと記されています。

 数の少ない、他に比して優れているどころか、人目を避けたいような小さな者を、あえて選び、愛し、強く雄々しく用いてくださるイエス様を、「私たちの人生の基盤とし、誇りとして生きたい」と切に願います。
 イエス・キリストの系図は、不完全な者を通して救いを完成してくださった神様の愛の証です。(た)
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by mitiru-takae | 2016-04-21 21:51 | 満ちる | Comments(0)

No.180 イエス様の説きあかし 2016.4.10

イエス様の説きあかし 

 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。<マタイ5:17>

 キリスト教の聖書は旧約聖書、新約聖書と二つに分かれています。
 旧約聖書には天地の創造、神様のご計画と約束、選ばれた民の歩む道などを示しています。新約聖書にはイエス様について、またイエス様がお生まれになってから世の終わりにいたるまでのことが書かれています。イエス様を信じる私たちにとっては、両方があってひとつの聖書です。
 私たちは、ユダヤ人ではありませんから、ユダヤの国の習慣やユダヤ人の考え方など、よく知りません。しかし、旧約聖書を読んでいくと、新約聖書だけを見ても意味がわからなかったことなどが、次第に納得出来るようになってきます。
 イエス様が復活したお体でエマオ途上の二人の弟子にあって話されたとき、このように語りました。

 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。<ルカ24:26,27>

 復活のイエス様が、二人の弟子と共に歩むとき、聖書全体にわたって説きあかしをしてくださったというのですが、この聖書とは、もちろん旧約聖書のことです。「これを聞いた時、心がうちに燃えたではないか」と二人は後で言っています。
 今また、同じように、イエス様ご自身の説きあかしを、私たちも聞くことが出来ます。
 それは、イエス様がいつも私たちと共にいてくださるからです。復活したイエス様は、さらに全ての人に、いつでもどこでも、顔と顔をあわせて会ってくださるお方となってくださいました。イエス様が「天に昇り、父なる神の右に座した」ことで、私たちに助け主聖霊様を送ってくださったからです。
 私たちの罪の贖いのための十字架、復活、昇天は、私たちにとって事実であり、真実なのです。その証(証拠)は、私の心のうちに押された聖霊の証印です。

 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 <マタイ28:20>

 世の終わりまで、いつも私と共にいてくださる主は、私の命、私の力です。この世に生きることは、苦しみ、悲しみ、辛さを抱えて生きなければならないことも多いのです。しかし、私たちのイエス様はいつも共にいてくださる、まことに頼りになる真実なお方です。(た)
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by mitiru-takae | 2016-04-14 09:03 | 満ちる | Comments(0)

No.179 完全なる犠牲 2016.4.3

完全なる犠牲

 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 <Ⅰヨハネ4:9>

 天地を創られた神様は、私をも創ってくださったお方です。私を愛し、私の人生を良き物で満たしてくださる、そのような素晴らしいお方です。
 ただ、私の罪を見過ごしにすることはありません。神様のときに従って、思いもよらぬ私の罪を示し、悔い改めと、従順とを迫られます。

 神様が私の罪を指摘して、「あなた自身で償いなさい。この罪は、十字架刑に値するものです。」といったならば、神様は厳しく、怖いおかたでしかありません。
 また、愛と義とを兼ね備えている神様に、わたしたちが罪にまみれたままで近寄ることも、できないのです。

 ここで問題は、自分を「罪びと」と認識できているか否かです。この自分に示された罪の自覚で、神様の愛の深さ、広さ、高さを知ることができます。
 罪を罪と知らせてくださるのも神様(聖霊様)ならば、この罪を一切引き受けて御自身が十字架刑を受けるのも神様(イエス・キリスト)です。
 たとえどんな宗教をもってしても、イエス・キリストの十字架のほかには、救いも贖いも、この世には存在しないのです。
 まことの救い主なるイエス様は、私(あなた)のためにこの世に来てくださいました。

 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。<Ⅰヨハネ4:10>  

 こうしてみると、「私たちはなんて幸せ者でしょう」と感じます。なぜなら、わたしたちは赤ちゃんのように何もできない、何もわからない状態なのに、すべてのお膳立ては、神様がしてくださるからです。

 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。<Ⅰコリント1:30>

 私の身代わりとして死んでくださったイエス様は、完全な人でした。傷もしみもない、完全ないけにえの小羊として捧げられました。神自らが、私たちの義となり、聖となり、贖いとなられたのです。このような愛は外にありません。(た)
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by mitiru-takae | 2016-04-07 13:28 | 満ちる | Comments(0)