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No.174 「なんとしても生きる」ための策略 2016.2.28

「なんとしても生きる」ための策略

 ヨシュアは彼らを呼び寄せて言った、「あなたがたは、われわれのうちに住みながら、なぜ『われわれはあなたがたからは遠く離れている』と言って、われわれをだましたのか。<ヨシュア9:22>

 ギベオンの人々は、イスラエルの神が味方しているヨシュアたちが、次々とカナンの地を征服していくのを見聞きしました。そして「命が危いと、われわれは非常に恐れた」(ヨシュア9:24参照)のです。
 そこで考えたことは、まるで遠くから来た者のように変装し、イスラエルの人々をだますことでした。
 騙されたイスラエルの人々は神の前で、彼らの命の保証をするのです。
 ギベオンの人々にとっては、自分たちの部族全員の命がかかっているわけですから、イスラエルの人々のために奴隷のように働くことくらいなんということはありません。策略は成功しましたし、なにより皆の命が守られたのです。
 ギベオンの人々は、イスラエルの民の中で共に生きるものとなりました。

 後に、このギベオンではダビデがモーセの幕屋を再現し(モーセが荒野で造った主の幕屋と燔祭の祭壇とは、その時ギベオンの高き所にあったからである。<歴代志上21:29>)、礼拝を行ったところです。
 ソロモンにいたってはここに一千の犠牲を捧げた(歴代志3:4参照)ともあります。
 カナンの地の中でも唯一聖絶されなかった民であり、この地において神の幕屋が建てられるということは、「神と人とが共に住む」というおことばをさえ思い出します。
 また申命記12:5では「あなたがた全部族のうちから選ばれる場所、すなわち主の住まいをたずねて」とあります。確かにギベオンは「主が選ばれる場所」(ヨシュア9:27)となったのです。

 それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。 <エペソ3:6>

 今日わたしたちは、イエス・キリストの福音によって、選ばれた地として、神の宮を宿す者とされました。そして共にキリストに在る一つのからだとなり、イエス・キリストの約束に預かる者とされています。
 からだとは教会です。またわたしたち一人ひとりの心です。これによってイエス様の福音を世に知らせるという使命をいただいているのです。(た)
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by mitiru-takae | 2016-02-29 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.173 戦いの祈り 2016.2.21

戦いの祈り

 主はヨシュアに言われた、「恐れてはならない、おののいてはならない。いくさびとを皆、率い、立って、アイに攻め上りなさい。わたしはアイの王とその民、その町、その地をあなたの手に授ける。<ヨシュア8:1>

 アイとの戦いは、アカンの犯した罪のため、36人もの犠牲者を出して惨敗しました。しかし、神はヨシュアたちを再度アイ攻撃へと立たせます。
 罪を抱えたままのイスラエルの民は、戦うことも勝つこともできなかったのですが、罪を根絶やしにし、神の御心に従う時、次の道が開かれました。

 その時、主はヨシュアに言われた、「あなたの手にあるなげやりを、アイの方にさし伸べなさい。わたしはその町をあなたの手に与えるであろう」。<ヨシュア8:18>

 モーセがアマレクと戦った時のことです。
 疲れてモーセの手が下がると、アマレクが勝つので、下がるモーセの手をアロンとホルが支えたとあります(出エジプト17:11、12参照)。
 ヨシュアも、なげやりをさし伸べた手を引っ込めませんでした。

 ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。<ヨシュア8:26>

 わたしたちの祈りも、時には戦いです。
 問題の解決や病の癒しなど、必死で祈っている時は、寝ている時でも祈り続けているようです。
 また、意識の中でも油断なく戦い続けるというように、祈りという槍を「敵に向けてさし伸べ勝利するまでは引っ込めない」というヨシュアやモーセの状況にもそっくりです。
 これは、「告白」による祈りなどで特に体験します。
 そばにいる家族、兄弟姉妹、教会の先生方また遠くにいる兄弟姉妹など、応援やとりなしの祈祷は、モーセのうでを支えたアロンとホルのようです。
 教会などで皆と共に祈る時などは「勝利、平安、癒された、主は全能者、王の王、救い主、慰めぬし・・・」と、短くても力強い告白の祈りをしていきたいですね。
 そしてそのおことばが必ずわたしたちの上に成就することを宣言していくのです。
 このような戦いの祈りの中で、疲れて下がってしまうわたしたちの手を、支え励ましてくださるために、いつも共にいてくださるイエス様が、実は、わたしたちの一番の助け手です。(た)
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by mitiru-takae | 2016-02-26 20:49 | 満ちる | Comments(0)

No.172 沈黙 2016.2.14

沈黙 

 さてエリコは、イスラエルの人々のゆえに、かたく閉ざして、出入りするものがなかった。
 主はヨシュアに言われた、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている。 <ヨシュア6:1、2>

 エリコの城はかたく閉ざされ、誰も出入りすることができないほどの厳戒態勢でした。
しかし、神様にとってはもうすでに、このセキュリティは破られたも同然です。すでに「わたしている」というのですからびっくりです。イスラエルの神にできないことはありません。私たちの神は全能です。
 あとは、この約束のものを自分の所有物としなければなりません。その方法も、戦い方も普通の戦争とは違っていました。

 しかし、ヨシュアは民に命じて言った、「あなたがたは呼ばわってはならない。あなたがたの声を聞えさせてはならない。また口から言葉を出してはならない。ただ、わたしが呼ばわれと命じる日に、あなたがたは呼ばわらなければならない」。<ヨシュア6:10>

 エリコの城の周りを行進する間、沈黙せよというのです。
 2年くらい前にヘンリー・グルーバー先生が、「教会に問題が生じた時、2人(私と妹のこと)で話し合ってはいけません。そのまま問題を神の前に投げなさい」といわれたことを思い出します。沈黙は神様がその時を与えてくださるまでの間です。

 だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。<Ⅰペテロ5:6>

 とかく、自らを誇り、自分の思いや、考えを押し通そうと口を開く時、神の時はいつまで待っても満ちることができず、何も解決も出来ないような時があります。
 ヨシュアたちの戦いも完全に信仰の戦いでした。剣を研ぐよりも、神のことばに従う心を研ぎ澄ませなくてはなりませんでした。それは、「神の御手の下に、自らを低くする」ことです。

 主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。<イザヤ30:15>

 「沈黙は金」とも言いますが、だからといって沈黙がすべていつでも良いわけではありません。神が「叫べっ!」という時に渾身の力を出して叫ぶことができるように、心をいつも主に向け、力を蓄えて準備していましょう。(た)
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by mitiru-takae | 2016-02-18 08:33 | 満ちる | Comments(0)

No.171 イエス様のみことばと御手 2016.2.7 

イエス様のみことばと御手 

 彼は言った、「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。 <ヨシュア5:14>
 すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である」。ヨシュアはそのようにした。 <ヨシュア5:15>

 先週ある兄弟が脳外科手術をしたのですが、その前日二人で電話にてお祈りすることができました。「主と共に山頂に一人立つ」、そのような気持ちでしたでしょう。
 病院の医師をはじめとするスタッフ、医療器具、薬剤、そのすべてを通して主の御手が働いて下さることを確信して祈りました。また、私たちの病の中で働き祝福してくださる主に感謝しました。

 いつでも、どこでも私たちを励まし続けてくださる主は、私たちの心がくじけないように、また、忍耐できる勇気と力を与えてくださり、希望と平安を満たしてくださるお方です。
 兄弟が、祈りの最後に「主が私のうちにいてくださる、そして私も主の中に生きています」と言っていました。
 本当にそうです。私たちがいつも主とともにいることができるのは、私たちのうちに生きていてくださる主によってであり、また私たち自身も主の中で、生き動き存在させていただいているからです。
 
 ヨシュアの前に立ちはだかった「主」は抜き身の剣をもっていました。
 ヨシュアがひれ伏して拝したのでこのお方は「主」であるとわかりますが、主はヨシュアを聖所に立たせ、今からの戦いは聖なるものであり、神によって勝利するものであることを教えて下さったのです。
 私たちの闘いも、イエス様の権威のバックアップがなければ、小さな子悪魔にだってだまされ、負けてしまいます。また弱い心は、すぐに折れてしまいがちです。

 抜き身の剣、すなわち即戦力となるのは、主のみことばです。
 悪魔のもたらす不安などに対しては勝利のためですし、特に私の心にかけてくださるイエス様のおことばは格別です。
 そして横で手をつないでいてくださるイエス様の愛は、みことばの証です。(た)

 主が私の手をとってくださいます
 どうして怖がったり逃げたりするでしょう
 やさしい主の手にすべてをまかせて
 旅ができるとはなんたる恵みでしょう 
   【「主がわたしの手を」聖歌 651番】
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by mitiru-takae | 2016-02-10 22:21 | 満ちる | Comments(0)