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No.170 ヨルダン川の溢れる水 2016.1.31

ヨルダン川の溢れる水

 ヨシュアはまた民に言った、「あなたがたは身を清めなさい。あす、主があなたがたのうちに不思議を行われるからである」。<ヨシュア3:5>
 
 神の約束を信じ、起こるであろう奇跡に向かって踏み出したヨシュアの強い信仰は、民と祭司たちをも動かしました。
 「もう少し待てば、ヨルダン川は渡れるほどの川になるのに、どうして今渡らないといけないのだろうか」と、文句の一つも言いたくなるところかもしれません。しかし、渡る時というのは、決して私にとっての都合の良い時ではありません。
 ヨシュア、祭司、民と、それぞれが、自分の感情によらず、神の御心に従いました。
 
 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 <ヘブル11:1>
 
 ヨシュアや民、また最初にヨルダン川の水に足を浸けた祭司たちは、何かを望んで確信し、そして確信は神の約束を実現にいたらせたのです。ヨシュアたちが望んだものは、そして私たちが望むのは、神ご自身の御心なのです。 
 では、神の御心を知るにはどうすればいいのでしょうか。
 ジョージ・ミューラーは「主のみこころがどこにあれ、私たちの心がそれに従う備えをするなら、困難の十分の九は克服されているのである。(「ジョージ・ミューラーの祈りの秘訣」参照)」といっています。
 また「私の感情によらず、またぼんやりとした自分の考えに委ねることなく、み言葉と聖霊による導きによって神の御心を知る。」とも言っています。
 
 神の御心を知るためには、ヨシュアたちが昼も夜も律法を口ずさんだように、私たちにとっては聖書のおことばと聖霊さまのお導き、そして祈り求めるということです。
    
 神への祈り、み言葉の学び、黙想を通して、自分の能力と知識を最大限に用いて、慎重な判断に到達する時、2、3度、神への嘆願を繰り返してもその判断がかわらず、平安を持ち続けているならば、初めてその判断に従って行動しなさい。(「ジョージ・ミューラーの祈りの秘訣」参照)
  
 祭司たちが、ヨルダン川の水に足を踏み入れ、水が足の裏に浸った瞬間、奇跡は起こったのです。
 奇跡をただ待ち続けるというよりも、信仰によって奇跡を実現していただき、約束のカナンの地を所有する者としていただきましょう。(た)
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by mitiru-takae | 2016-01-31 23:00 | 満ちる | Comments(2)

No.169 わたしはここにいる 2016.1.24

わたしはここにいる 

 わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。
 よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。<イザヤ65:1、2>
 
 今までイエス様を求めてこなかった人も、尋ねなかった者も、イエス様の名を読んだこともなかった人々に、愛を持って待ち続けてくださるイエス様の御腕の中に、今こそ飛び込む時です。
 主は、「なんとしても私を見つけてほしい」「ここだよ、ここだよ」と、不信仰な私たちに呼びかけてくださっているのです。
 
 また、「ひねもす(新改訳では一日中)手を伸べて招いた」とは、何という主のご恩寵でしょうか。
 しかし、この神の愛に反してたびたび神を怒らせ、悲しませてきたのがイスラエルの民であり、またわたしたちなのです。
 わたしたちが、この世で充実していると感じている時、それは、えてして、神を悲しませていることが多いものです。この世の楽しみを第一としているからです。
 私が若い時にもらった父の手紙の中にこのような一文がありました。

    成功が万物の尺度であり
    快楽が人生の充実であると
    豚やみみずがそう思うのなら良い
    人間にはもっと底に沈潜した生き方があろう(義人)

 底に徹した生き方、それはぶれない、ゆるがない、いわゆる「一本筋の通った生き方」ということになるのでしょう。父は、私にイエス・キリストという土台をしっかりもって生きてほしいと願ってくれていたのです。
 私たちをよきもので満たそうとしてくださっているイエス様を求め見つけたならば、迷いも勘違いもなく、「これが本物だ」とわかるはずですし、主と共にいる幸せは何者にもかえられないものだとわかります。
 
 彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。<イザヤ65:24>
 
 もし、私たちが主を呼び、求めるならば(まことに私の心が主を頼ろうと心を開くならば)、主は私の声よりも先に応えてくださいます。私たちの声が、かぼそかろうが、途切れ途切れであろうが、聞いてくださっています。
 「わたしはここにいる」と言ってくださるのです。(た)
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by mitiru-takae | 2016-01-28 01:34 | 満ちる | Comments(0)

No.168 蛇のように賢く 2015.1.17

蛇のように賢く

 わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。<マタイ10:16>
 
 この世は、病、痛み、悩み、貧困、飢えと、あらゆる悪魔の策略の危機にさらされています。「この策略に対して対抗できるのだ」という認識を持っているのは、クリスチャンだけです。
 
 37度から38.8度前後の熱と、悪寒の中で(一週間はかかったと思われるのですが)、私はとても闘った感があって、36度台の熱に戻った時、勝利感ではなくて、産みの苦しみの過ぎ去った時のような安堵を感じていたのです。
 実際に私の中に入り込んだ菌を殺すため戦ったのは、私ではありませんでした。というより、私が命令するまでもなく血液は、自らの命を投げ出して闘っていたのです。
 神によって造られた私という生命体が、神のプログラムしたとおりに動いているのです。では、私の何が、何と闘って安堵を得たのでしょうか。
 私の心(魂)は、励まされていました。
 
 わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。<ヨシュア1:9>
 
 私は、「心がくじけることなく希望を持ち続けることができる」、「心は忍耐することができる」「心は自分の心を励ますことができる」と、主の励ましによって支えられていました。私が病と対抗できるものは心しかなかったのです。
 主が共におられるゆえ、悪魔の策略に負けることなく過ごせたのです。
 
 主の命令は絶対です。「はい」と、はとのように素直に従えば、そのとおりになります。
 悪魔に対しては、だまされてはなりません。
 「このくらいの我慢もできないのか」「おまえはつまらない人間だ」「どうしてそんなに病気ばかりする」「おまえが不摂生なんだろう」
 などと、サタンは私たちをだまし、悪魔に対抗する力を根こそぎ取ってしまおうとします。決してだまされてはならないのです。サタンに対してはそれより聡いイエス様のように賢い心を持ちましょう。
 
 くりかえします。サタンにだまされてはなりません。勝利の主の励ましがあれば、私たちは安堵の日々を送れます。(た)
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by mitiru-takae | 2016-01-21 09:21 | 満ちる | Comments(0)

No.167 血のしるし 2016.1.10

血のしるし

 我々がここに攻め込むとき、我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい。またあなたの父母、兄弟、一族を一人残らず家に集めておきなさい。<ヨシュア2:18>
 
 ラハブは、「お言葉どおりにいたしましょう」と答えて、二人を送り出し、彼らが立ち去ると、真っ赤なひもを窓に結び付けた。<ヨシュア2:21>
 
 マタイによる福音書1章5節に「サルモンはラハブによるボアズの父」というイエス・キリストの系図の中の一節があります。
 このラハブは遊女でした。腐敗しきったエリコの町の城壁の中につくられた家で、遊女をしながら、家族を養っていたのでしょうか、彼女は客から多くの情報を得ていたとみえ、イスラエルの民のことも、エリコ内での兵士たちの情報などもよく知っていました。
 ラハブは、エリコに偵察に来たイスラエルの斥候の二人をかくまいました。これは、ラハブが神の側に就いたということですし、彼女は斥候のことばを信じることができているという、素晴らしい事実があるのです。イスラエルの神を信じることができなければ、斥候の二人のことばも信じられるはずがありません。
 
 わたしたちはそれを聞くと、心は消え、あなたがたのゆえに人々は全く勇気を失ってしまいました。あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです。<ヨシュア2:11>
 
 ラハブはイスラエルの神を信じる信仰をすでにもっていたようです。
 ラハブの告白には、「イスラエルの神」への畏敬の気持ちが現れています。
 「生死を分ける」とよく言いますが、ラハブの場合は、生死を分けたのみでなく、イエス・キリストの系図に載るという、すばらしい恵みをも受けることとなったのです。
 
 ここに、「この家の住人は殺してはいけない」という「過越し」とおなじ「しるし」がつけられました。
 「赤い紐」を家の城壁側の窓に結びつけたのです。
 
 私たちの救いは、「イエス・キリスト(子羊)の血」以外にありません。
 血の象徴である「赤い紐」を窓に結びつけたことによってラハブとその家族は救われたのです。
 イエス・キリストの血を通しての救いは「過越し」を知ることでよくわかります。
 私たちの心の窓に、「赤い紐」を結びつけ救いを確信しましょう。(た)
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by mitiru-takae | 2016-01-14 00:06 | 満ちる | Comments(0)

No.166 信仰の夜明け 2016.1.3 

信仰の夜明け

 わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。<ヨシュア1:9>
 
 新しい年を迎え心から主に感謝します。
  
 上掲のみことばを今年の指標聖句にいたしました。
 今年は、とくに会堂献堂40周年を迎えるということで、心を新たにされ、身が引き締まる思いをしています。
 過去40年間を思うと、父の信仰と希望がずしっと重く感じられます。この世で生きていける時間は限られています。だからこそ、精一杯生きるべきですね。
 父の信仰と会堂を、ここに集う皆で引き継いでいます。父(故釘宮義人牧師)を知らない人もいます。かつての「キリストの福音大分教会」を知らない人もいます。
 しかし、いまここで共に集う私たちは、この会堂を受け継いだ人たちであり、信仰を受け継いだ人たちです。なぜなら、父の中に生きていた信仰、希望、愛は今も変わらず、この教会とともにあるからです。それは、「イエス・キリストは昨日も今日も、とこしえに変わらない」ということと同じです。
   
 モーセの死後その後継者となったヨシュアに、主は「強く雄々しくあれ」と三度も言われました。そしてヨシュアは、ヨルダン川を渡ることを皆に伝えました。
 モーセがいない地、それも未知の地へと入って行くことは、いくらヨシュアが強く勇気ある人であったとしても、恐れがないはずはありません。
 しかしこのとき、主はヨシュアを勇気づけてくださいました。他のどんなことばよりも力強いおことばでした。いよいよイスラエルの民にとっても信仰の夜明けが始まります。
   
 あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。<ヨシュア1:3>
 
 わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。 <ヨシュア1:5b>
 
 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。
  <ヨシュア1:8> (た)
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by mitiru-takae | 2016-01-08 14:16 | 満ちる | Comments(0)