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No.161 すべての人の主がお生まれになった 2015.11.29

すべての人の主がお生まれになった

 割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。<使徒10:45>
 
 私たちの心は既成概念や先入観といったものに支配されています。なかなか思い代えはきかないものです。
 ペテロたちも例外ではなく、ユダヤ人たちが忌み嫌う異邦人に対して、語ったり、食事をしたり、共にすごすと言うことは、彼らの持っている既成概念(律法)からの解放なくしてはありえないことでした。ですから、たとえイエス様の使徒や弟子であっても、ユダヤ人である彼らは異邦人に対して決して寛容とはいえない人々であったのです。
 ところが、そのようなペテロたちが見ている目の前で、異邦人たちに聖霊が降ったのです。
 その上、自分たちと同じように「聖霊の賜物をいただいている」と言う事実が起こったのですから、これはもうペテロたちにとっても、驚きと共に今まで抱えていた異邦人への偏見が打ち砕かれたことでしょう。
 
 それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。そこで、ペテロが言い出した、
 「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。 <使徒10:46、47>
 
 ペテロが異邦人たちに対して嫉妬したかどうかは別として、他者に嫉妬するほどの素晴らしい出来事が起こると、自分の中にある自我が打ち砕かれますね(かつて、大伝道者に嫉妬するほどの思いを持って「同じように福音宣教のため生きたい」と願った若かりし頃の私の父のように)。
 そして更に主を求めることに餓え渇いていきます。信じ求めるものには誰にでも同じように聖霊が降るのです。
 この出来事は、ペテロが事前に知らされた幻による神様からの啓示を、初めて理解した一瞬であり、始まりでもあったのです。
 
 すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。<使徒10:15>
 
 世界中のどのような人も、どこに住む人たちも、みんな同じように愛されています。それはイエス・キリストの愛によってです。また、受ける賜物(プレゼント)も同じです。
 
 今日からアドベントに入りました。すべての人の主がすべての人のためにお生まれになったのです。神様からのすばらしいプレゼントです。(た)
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by mitiru-takae | 2015-11-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.160 イエス様は最高の師 2015.11.22

イエス様は最高の師

 弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう。<ルカ6:4>
 
 「弟子はその師が成すところまでは到達できる」と解釈すると、「それ以上にはなれないのか」とちょっと不満に思う人もいるでしょうね。
 もし、「子がその子の親以上にはなれない」としたら、世の中の人間はだんだん、能力も体力もないものになってしまうような、そんな感じです。
 でも、もし私の師がイエス様ならばどうでしょうか。私の親が天の父であったならばどうでしょうか。
 私たちの到達すべき成功の尺度はすごく高いものとなります。果たしてイエス様に似る者となり得るのでしょうか。修業を積むことは可能なのでしょうか。
 
 ペテロはみんなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。それから死体の方に向いて、「タビタよ、起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起きなおった。<使徒9:40>
  
 ペテロは、イエス様と「同じことを言い(告白)」ました。ペテロは、修行を積んだのでしょうか。それでイエス様と同じことが出来たのでしょうか。
  
 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。 <ヨハネ13:15>
 わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。 <Ⅰコリント11:1>
 
 私たちが行うことができる修行があるとすれば、パウロが言う「ならう者になれ」ということです。そして「ならう者になる」ためには、ペテロやヨハネ、パウロのようにイエス様と同じことばで告白をしていくことです。
 「私はイエス様にならう者となる」と主の御前で宣言しましょう。
 私たちが、みことばによって前進していく時、必ずイエス様の似姿へと変えられていきます。イエス様以上の者は存在しません。ですからイエス様の似姿になることが私たちの完成です。
 
 「そんな、イエス様のようになるなんて無理」、「そこまでならなくても」、「今のままでいい、めんどうくさい」
 などと人は思いがちです。しかし、イエス様をまねようと生き方を方向転換するだけで、どんな偉い修行僧よりも素晴らしい人になります。イエス様は私たちの最高の師(先生)だからです。(た)
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by mitiru-takae | 2015-11-24 19:56 | 満ちる | Comments(0)

No.159 主にある自由(解放)人 2015.11.15

主にある自由(解放)人

わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。<コリント9:1>

 コリントの教会では、パウロへの批判が相当強かったのでしょうか、パウロの口調が強く伝わってきます。
 パウロは自分が使徒であると言うしるしは「あなた方だ」といっています。他の教会の人たちがパウロの使徒職を批判し、認めなかったとしても、御霊様によってできる「実」は否定できません。
 パウロの宣教は、復活のイエス様を告げることであり、聖霊様のお働きによるものです。ですからパウロの回心自体がそうであるように、始から終わりまで、人や自分の考えからではなく、神の選びと、啓示による恵みそのものなのです。
 直接イエス様のお言葉をいただいた者は、他人がなんと言おうと心揺るがすことなく、イエス様から離れることもありません。

 現在の私たちの教会の兄弟姉妹のお顔を見るとき、また、先日の在天者祈念礼拝で先に天に帰っていった兄弟姉妹方のお写真を見るとき、父(故釘宮義人師)もパウロと同じように素晴らしい「実」を主によって残してきたんだと心の中で拍手しています。
 私たちは、イエス・キリストによって創られた「実」なのです。私をイエス様に会わせてくださった人の「実」であり、また教会の「実」なのです。
 そして、この「実」が死ぬならば、また多くの「実」を結ぶことが出来るのですね。多くの種を作ることができるのは、イエス様の十字架と共に「死んだもの(実)」だけです。

 また、神様のご支配は枠でかこんだようなものではなく、広くて深い自由そのものです。
 地上での心は、どうしても罪という枠(身体)で狭められていますが、これを解放してくださるのがイエス様の十字架による贖いです。そして贖いを完成に至らしめてくださるのもイエス様です。
 父が遺した「自由なクリスチャンになりたい」という日記の一文を思い出しますが、父は地上を蹴飛ばして、天に昇りたかったに違いありません。信仰の完成を願っていたのです。
 イエス様による自由は、地上の枠に収まりきれないものかもしれませんね。鷲のように飛びたちたくなるのでしょう。 

 この自由は、イエス・キリストが持つ「すべてを治める偉大な権威」の下にあるもので、わたしたちを本物のクリスチャンとして完成してくださるものです。
 イエス・キリストを自分の心の中に持つ自由人こそ、真の「実」を結ぶことが出来る人でしょう。(た)
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by mitiru-takae | 2015-11-19 08:54 | 満ちる | Comments(0)

No.158 希望 2015.11.8.

希 望

 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。<使徒9:3>
 
 この時、光はサウロをめぐり照らしました。
 この青年はイエス様を信じる当時の「この道のもの」にとっては、自分たちを迫害する憎い、恐るべき者であったのです。
 最悪と見える状態の中で、神様は、その最悪の真上に光を当ててくださいました。
 自分や家族の病気であったり、人間関係、また今日必要な糧(お金)などで悩み苦しむ時、その真っ只中にイエス様の光は電光のように輝き狙い撃ちしてくださいます。
 その光に照らされると、自分の中にあるあらゆる罪を知らされます。光に照らされながら、反対に心のうちはサウロのごとく暗夜のようになるのです。しかし、暗夜は朝が来るしるしです。
 
 夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。<ローマ13:12>
 
 今回の「ラブ・ソナタ大分」のテーマは「明日への希望」でした。
 父(故釘宮義人)は最後のメッセージで「信仰、希望、愛(コリント13:12参照)、この三つのうち私たちが持てる大切なものは希望だ。」と言ってくださいました。
 しかし、この希望でさえも私たちには持てないほどの苦しみがやってくることがあります。そのような時にも私たちは希望を持ち続けることが出来るでしょうか。
 実はこの希望はイエス様自身が私たちに持ってくださっているものでもあります。
 サウロに希望を持ってそれを完成に至らしめたイエス様ご自身の「信仰と希望と愛」の成す業が、私の中に起こる希望なのです。
 今回も「ラブ・ソナタ大分」祝福のために、キリシタン殉教の地としての大分が「サタンによるのろい」から解放されるようにとも祈ってまいりました。
 しかし、殉教した当の「キリシタン」たちの信仰は、新しい主の日の到来を夢見て、希望を持って死んでいったに違いありません。
 
 11月2日、佐藤圭介兄が、主に贖われたものとして天に凱旋されました。夫人である佐藤初音姉の夢と希望が叶えられたのです。
 私たちは姉妹のように希望を待ち続けたいと思います。主が必ず叶えてくださいます。
 
 最高の夢と希望を持ち続けましょう。たとえ、どのように夢も希望も持てない状況であっても、イエス様には出来ないことはありません。なぜなら神は何でもできるからです。(た)
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by mitiru-takae | 2015-11-11 18:05 | 満ちる | Comments(0)

No.157 大笑いで終えた歓迎礼拝 2015.11.1

大笑いで終えた歓迎礼拝

 10月30日(金)午前10時半から「ヤンジェ勸士会」42名の方々が教会にお越しくださいました。篤いお祈りを頂き、本当に感謝でした。その時のメッセージを掲載いたします。
*      *      *
 教会堂の後方上部の壁に内村鑑三先生と賀川豊彦先生のそれぞれの直筆の書を飾ってあります。父(故釘宮義人牧師)の信仰は、この二人にとても影響されたといっても過言ではありません。賀川豊彦先生の頑固なまでの聖貧と内村鑑三先生のはっきりした回心体験を持つということです。
 これは、私の父の伯父(釘宮徳太郎)が亡くなったときに家族から遺品としていただいたものです。父にとっては、奇跡的な体験を通してクリスチャンとなった父親と、その影響を受けた伯父の信仰がいつも心にあったと思います。
 戦時中、私の父は戦争に反対していました。教会の牧師先生たちにも「神はただお一人です。天皇は神ではありません」と言っていたそうです。徴兵も拒否していました。結果、「兵役法と出版言論集会結社取締令違反」の罪を問われ、刑務所に入れられたのです。このような日本人が当時も居たことを覚えてほしいのです。
 いつ命をとられてもおかしくない、独房の中で、父は自分を救ってくださったイエス様にお会いすることが出来たのです。どん底で、内村鑑三のいうコンバーションを体験しました。
 ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 <Ⅱコリント5:14b>
 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。<Ⅱコリント5:17>
 父は生涯、「十字架の贖いによる義認の信仰」と「活けるキリストの内在」を語り続けました。
 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。<ガラテヤ2:20a>
 この信仰は、今も私たちの心の中に燃え続けています。
 父は、3年前に大きな口をあけて笑いながら天に帰りました。ER(救急病棟)のベッドの上で大笑いをしながら天に帰っていった父の「笑いの神学」の基になったともいえる御言葉をもって、終わりたいと思います。
 主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。 <詩篇37:4>
*       *       *
 この後、みんなで「大笑い」をしました。突然のことでしたが「ヤンジェ勸士会」のみなさんが何の躊躇もなしに共に大笑いしてくださいました。「魂が真に祝福されているならば、私たちもいつも笑えるはずです。愛が満ち溢れた教会です。」と、女性牧師先生が最後におっしゃってくださいました。恵みに満ちた礼拝の時でした。感謝!(た)
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by mitiru-takae | 2015-11-03 20:36 | 満ちる | Comments(0)