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No.156 民族(言語)、国境の壁を越えて 2015.10.25

民族(言語)、国境の壁を越えて

 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。<使徒8:1>
 さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。
 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べはじめた。<使徒8:4、5>
 
 いよいよ、「ラブ・ソナタ大分」が今週の29日(木)と迫ってきました。
 昨年、実行委員会が立ち上げられ、色々な意見と、祈りを積み重ねてきましたし、毎月大分県下の教会持ち回りで、合同祈り会を開いてきました。
 今年に入りしばらくすると、霊の戦いがいやおうなしに降りかかってきました。「サタンの攻撃などと思いたくもない」と思うほど、日々、「平安」と感じていた私の心も少々揺さぶられる時がありました。病や、心のわずらいを訴える事態が様々な形でやって来たのです。私にとっては、主の訓練の場でもありました。
 しかし、イエス様はその一つひとつを癒し、解放してくださり、起こってきた事柄をすべて益としてくださいました。
 このことに対する勝利は、今まさに勝利の行進として進行し続けています。
 そして、「ラブ・ソナタ大分」の決戦の時がきました。
 私たちは、サタンの城壁を打ち破ります。「オーッ!」(勝ちどきの声)
 
 ステパノの殉教の後、エルサレムの教会は大迫害にあったと記述されています。パウロの凄まじいクリスチャンへの迫害は、パウロと共に旅をしてきた使徒行伝の筆者ルカにとっては、特記すべき大きな事柄であったでしょう。
 この迫害は、国外へ離散していかねばならなかった弟子たちにとっては、かえって福音を異邦人へと伝える契機となりました。
 「伝道者ピリポ」は、かつてイエス様が「渇くことがない活ける水」を説いた、サマリヤの町に行きました。ここで、しるしと不思議、ピリポの語ることばに、人々は喜んだのです。
 またピリポは、国へ帰る途中であった、エチオピアの宦官の馬車へと、聖霊によって導かれ、御言葉を解き明かし、宦官にバプテスマを授けました。
 まさに、エルサレム教会の海外宣教の始まりです。
 
 イエス様の弟子たちは、言葉や国境を越えて、散らされていった先で福音を伝えました。私たちは心の国境を越えて、家庭や職場、ご近所の間で、イエス様の福音を伝えるものとなりましょう。
 私たちの「異邦の地」はすぐ近くにもあるのです。(た)
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by mitiru-takae | 2015-10-26 14:11 | 満ちる | Comments(0)

No.155 リベルテンの誇りを砕く死 2015.10.18

リベルテンの誇りを砕く死

 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。<使徒7:56~58>
 
 とても敬虔な、律法を重んじる人々は、逆に言うと頑固で意地っ張りです。自分の信じているものは絶対に確かなものであるし、律法がすべてなのです。ステパノはリベルテンの人々を弾劾します。
 ステパノが告発したのは、イスラエルの人々がイエス・キリストを十字架にかけた血の責任です。彼らの狂気と殺気は、イスラエルの罪の歴史のメッセージを聞いた時から頂点に達していました。
 その上、「神が見える」というのですから、イエス様の時と同様、怒り心頭です。憤慨は収まるものではありません。
 
 この時ステパノは天にいますイエス様を見ていますが、彼らには見えていません。それは「我々でさえ本当の神を見たことがない」という思い、また「こんな馬鹿なことを言って、我々をだますのか」という思い、いずれにしても相当の歯がゆい思いをしたことに間違いないでしょう。
 
 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。 <使徒7:59~60>
 
 パウロがそこにいたということだけで、なんの裁判も手続きもなしに、狂気の石打の刑は始まったわけです(多分そうだろうと思います)。
 ステパノの殉教する有様は、このことに賛同したパウロの目にもしっかりと焼きついたはずです。
 パウロ自身、後に復活のイエス様に出会うまでは、律法を神としていたのでしょうし、どれほど学び、優秀であったとしても、真の神を見たことはなかったでしょう。
 そしてここにパウロがいたことも、イエス様の目にはしっかりとまっていたのです。
 
 私たちの目には、ひどい事件にしか見えない事態ではあるのですが、ステパノの「血による罪の赦し」という「とりなし」は、今の私たちにも与えられた、イエス様の勝利のメッセージですね。(た)
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by mitiru-takae | 2015-10-21 22:04 | 満ちる | Comments(0)

No.154 優先順位 2015.10.11

優先順位

 そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。
 そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」。 <使徒6:2~4>
 
 私たちは、新年を迎える前から次の年の計画を立てたりします。
 ところが、毎日その日の行事の時間割を書き留めたり、いちいち手帳に記入したりするのはとかく面倒くさいものです。でも、私などは物忘れがひどくなって、仕方なく手帳(或いはスマホ)にメモするようになってきました。
 どんなに大きな企業でも、街角のケーキ屋さんでも、個人であっても、利益を上げたり、成績を伸ばしたり、効率を良くするためには、無駄をなくし、より合理的に動けるように計画を立てておかなければなりません。しかしそればかりではなく、心にゆとりを持つこと、つまり道草や、遊びなども、人生の充実の為に必要だともいわれています。ところが人生に心のゆとりを求めるあまり、本当にすべきことを後回しにしたり、放り投げたりしてしまうと、一体何のために生きているのかわからなくなります。
 そこで私たちクリスチャンが神の子として生きる為に、神様が与えてくださっている優先順位を、使徒たちに学んでみます。
 ペテロたちが、「祈りと御言葉」に専念することを第一に挙げたのは、それがペテロたちが、神様に一番求められていたことだったからでしょう。
 だとすると、選ばれた執事たちにとっては、日々の食事のことが一番だったのでしょうか。そうではありません。選ばれたのは「御霊と知恵に満ちて、人々に評判の良い人たち」でした。
 選ばれた執事たちにとっても、まず求めるのは、神の言葉であったでしょうし、一日の始まりは、祈りからであったと思います。それによって、執事たちはより素晴らしい食卓の仕事が出来たに違いありません。
 ペテロたちも、まず第一に「神の国と義」を求めることで「祈りと御言葉」の奉仕に専念することが出来たはずです。
 神様による優先順位を守ることによって、初代教会の人々は聖霊様による「しるしと不思議」を行い、また見ることが出来たのでしょう。そして、使徒やステパノのように殉教することが出来る人と変えられるほどの、素晴らしい奇跡が起こっていったのです。
 
 私たちも、目覚めたら、まずイエス様をほめ称え、感謝しましょう。
 祝福された素晴らしい一日をすごせるように祈りましょう。
 こうして、今日という日の最初の時間をイエス様にお奉げしましょう。
 すると、あなたにとって一番最善な一日の計画が、聖霊様によって導かれていくのです。(た)
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by mitiru-takae | 2015-10-13 18:15 | 満ちる | Comments(0)

No.153 この命の言葉を漏れなく伝えよ 2015.10.4

この命の言葉を漏れなく伝えよ

 「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」。 <使徒5:20>
 
 私たちがぐずぐずしている時、イエス様はどのようなお顔で私たちを見ているのでしょうか。怒ったお顔でしょうか、それともじっと耐えているお顔でしょうか。
 神様のご計画は確かで、時が来れば、即刻始まります。その時私たちのいる場所が獄の中であろうと、平和なベッドの中であろうと、それは変わりなく、また私たちの気づかない時、知らない所でも、始まっているのです。
 根拠のない言葉は、何度聴いても信頼できませんね。しかし、私たちに今、現実となっている「イエス様のお言葉」は人の心を変えることができるのです。それは私たちの中に聖霊様により裏打ちされた、生きた命の言葉だからです。 
 
 「立て、さあ、ここから出かけて行こう。」<ヨハネ14:31b>
 
 イエス様がおっしゃったように、天使はペテロに「さあ、いきなさい」と言いました。
 イエス様の生きたお言葉があれば、立ち上がれます。出かけていけます。語ることが出来ます。
 
 御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。
 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。<ヤコブ 1:21b~22>
 
 全能の神を信頼して立つという、難しそうだけれど簡単な信仰に頼るほか、私たちが出かけていく方法はありません。しかし、人はなかなか、神様の全能を信じることが出来ないのです。神様を侮っています。この不信仰をサタンが喜ぶのです。おのれを欺くのは、サタンにだまされているからです。
 出て行く先が、病であれ、不和であれ、どうにもならない、いやな所であればあるほど、「御言葉によって勝利する」を心に握り締めて歩んでいくとき、私たちは、御言葉を行うものとなっていきます。
 
 「ラブソナタ大分」という素晴らしい機会をいただいています。
 イエス様を信じて、ちょっとだけ勇気を出して、出かけましょう。あなたが来るのを楽しみに、心待ちにしている方がいるはずです。
 一人でも多くの笑顔を見せていただきましょう。何よりもあなたの笑顔が神様にとって、また私たちにとっての大収穫です。(た)
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by mitiru-takae | 2015-10-07 20:33 | 満ちる | Comments(0)